古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
カテゴリー「TV(ドラマ)」の記事一覧
- 2025.04.09
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- 2005.03.02
ドキュメンタリーとドラマの相性
- 2005.02.03
「華岡青洲の妻」に夢中です
- 2005.01.13
「みんな昔は子供だった」の初回報告
ドキュメンタリーとドラマの相性
今日は、ものすごーく久しぶりに電車に乗って外出しましたが、呼吸機能の低下は予想以上でした。
家から駅まで歩いただけで息があがってしまい、地下鉄の階段では心臓が破れそうに……。やはり軽いとはいえ、喘息の影響は侮れませんね。
変な話、呼吸機能が低下すると、食べるのも疲れるんですよ。
食欲はあるんですけど、勢いがつかないっていうか、途中で息が切れたりして休み休み食べるので時間がかかる(←ま、これはちょっと大げさですが)。
息もつかずにものすごいスピードでガツガツ食べ物をたいらげる人を見ると、つくづく「食べるのにも体力いるよな」と実感します。
それはさておき。
夜にウーマンズ・ビートドラマスペシャル「溺れる人」(日本TV)を見ました。
「第3回ウーマンズ・ビート大賞」を受賞したドキュメンタリー作品をドラマ化したもので、アルコール依存症の苦しみから立ち直ろうとする女性を篠原涼子が演じています。
まず、びっくりしたのは、篠原涼子を溺愛する母親役の栗原小巻の演技。
栗原小巻自体が見かけるのが久しぶりで驚いたのですが、そのおそろしく新劇チックなあざとい芝居っぷりに呆然。
最近は舞台出身の役者さんでもTVでは自然な演技をするのが普通なので、ここまで大げさな演技にはなかなかお目にかかれません。
明らかに一人だけ浮いていましたが、本人は「皆。パッションが低いわよ。ちゃんと私についてきてよ!」とかイライラしていたのかも。
まあ、それはいいんですけど、「アルコール依存症」。こわいです。
こわいとしかいいようがないです。
私自身はほとんどお酒は飲めないので、正直他人事として見ていられたのですが、「お酒はわりと好き」という自覚のある人は、きっとこれ見たらこわくて途中で消しちゃうんじゃないでしょうか。
アルコール依存になるきっかけは本当に些細なことで、「飲むのが好き」と「アルコール依存」の境目は非常に曖昧なので、自分が「アルコール依存症」だと自覚するまでがまず大変らしいです。
そりゃあ誰だってギリギリまで認めたくないですからね、自分が依存症だなんて。
しかも、アルコール依存になる人にはプライドが高く、「完全か無か」どちらかしか選択肢がない完璧主義の人が多いとか。
なので、いったん「自分はダメな最低な人間だ」という認識に入ってしまうと、すべてが悪循環になってしまうのだそうです。
このドラマの主人公は女性ですが、見ていて「これ、男だったらもっとずっと大変だろうな」と思いました。
もちろん、飲酒への欲望と戦う姿は壮絶だし、「飲むためならなんでもする」というところまで追いつめられたら男も女もないとは思うんですが、それでもなんだかんだいって女という「性」にはギリギリのところで「自分の体を守ろうとする防衛本能」が宿っているように思えるのです。
見ているあいだじゅう、「この妻が夫で、助けようとする夫が妻だったら」とシチュエーションを置き換えて想像してみたんですが、もし男が依存症だったら、自分が依存症だと認めて病院へ行くまでがもっと大変だと思うし、助けようとする家族に対する拒絶ももっと激しいと思うんですよ。
男は、元来、立ち直るエネルギーよりも破滅へ向かうエネルギーのほうが強いのかもしれません。それに対して、女は「100%の自己否定=破滅」を受け入れきれないなにかが先天的に備わっているような気がします。
だから、悲惨な内容にもかかわらず、不思議とやりきれない気分にはなりませんでした。本人がどんなに「弱さ」を露呈し、「もうダメ」と体中で訴えても、本人の意思や性格とは無関係に体の奥底からわきあがってくる「立ち直りたい」という生への根元的な執着がひしひしと伝わってきたので。
というようなことを感じつつ、実際に一番強烈に感じたのはじつは「アルコール依存症」とは全然べつのことでした。
今回のドラマは、ドキュメンタリーの受賞作品をプロのシナリオライターが「ドラマにした」わけですが、見ていて「これはものすごくやりにくい仕事だろうな」と思ったのです。
もちろん、原作者はドラマに関しては素人なわけだし、ドラマ化にあたってあれこれ口を出したとは思えません。
「プロの方にお任せします。自由にドラマにしてください」と、素直にドラマ化を楽しみにしていたと思います。
でも、脚色者の立場になって考えてみると、やっぱり本人の書いたドキュメンタリーをドラマ化するのは作者に対する遠慮が出てかなりやりにくいと思うんですよ。
作者本人だけじゃなく、作者の家族への配慮はもっとあるでしょうし。
もしこれが「アルコール依存症の主婦を主人公にしたドラマを作ろう」という出発点から始まった企画だったら、取材で得たいろいろな体験談をミックスして自由にフィクションをくわえることができたと思います。
「やっぱこの主婦にはなんかトラウマがほしいよね。母親の抑圧が原因で自己否定が強くなるっていう設定にしようか。息苦しい抑圧を感じさせるために母親はこういうキャラにしよう。とすると父親はこういう設定がいいかな」などなど、ドラマをおもしろくするためのフィクションを自由にふくらませることができたでしょう。
でも今回は固定のモデルによる固定したエピソードなわけですから。
実際作者のご両親も実在してドラマができあがるのを楽しみに待っているわけですから。
そりゃあ書くほうだって気を使うし、緊張もしますよね。
「これはドラマだから」と言っても書かれたほうはいい気しないと思うし。
「じゃあなに。私の育て方が悪かったってこと?」とかムッとしちゃうかもしれない。
ムッとしちゃうくらいならいいけど、下手すると傷つけることにもなるし。
そういうこと考えると、ゼロからフィクションを書くときに比べて何倍も描写に「手加減」が入ってしまうことはしかたのないことで、書き手の葛藤は察して余りあるところですが、見るほうとしてはやはり「ドラマとしてはつっこみが足りないな」という不消化感が残ってしまうのです。
私がドキュメンタリーのドラマ化にあまり期待しないのは以上のような理由からです。
実際に起こった事実だけが持つ「力」というものはもちろんあると思いますが、ドラマだけがもつ「力」というものもあり、両者は意外に相性が悪いのです。
なので、ドキュメンタリーはドキュメンタリーで、ドラマはドラマとして見たいというのが本音なのですが、最近はドキュメンタリー風のドラマやドラマ風のドキュメンタリーが増えてきており、どっちの「力」も感じさせないパターンが目立っています。
これってどっちにとってもやばい状況なんじゃないでしょうか?
家から駅まで歩いただけで息があがってしまい、地下鉄の階段では心臓が破れそうに……。やはり軽いとはいえ、喘息の影響は侮れませんね。
変な話、呼吸機能が低下すると、食べるのも疲れるんですよ。
食欲はあるんですけど、勢いがつかないっていうか、途中で息が切れたりして休み休み食べるので時間がかかる(←ま、これはちょっと大げさですが)。
息もつかずにものすごいスピードでガツガツ食べ物をたいらげる人を見ると、つくづく「食べるのにも体力いるよな」と実感します。
それはさておき。
夜にウーマンズ・ビートドラマスペシャル「溺れる人」(日本TV)を見ました。
「第3回ウーマンズ・ビート大賞」を受賞したドキュメンタリー作品をドラマ化したもので、アルコール依存症の苦しみから立ち直ろうとする女性を篠原涼子が演じています。
まず、びっくりしたのは、篠原涼子を溺愛する母親役の栗原小巻の演技。
栗原小巻自体が見かけるのが久しぶりで驚いたのですが、そのおそろしく新劇チックなあざとい芝居っぷりに呆然。
最近は舞台出身の役者さんでもTVでは自然な演技をするのが普通なので、ここまで大げさな演技にはなかなかお目にかかれません。
明らかに一人だけ浮いていましたが、本人は「皆。パッションが低いわよ。ちゃんと私についてきてよ!」とかイライラしていたのかも。
まあ、それはいいんですけど、「アルコール依存症」。こわいです。
こわいとしかいいようがないです。
私自身はほとんどお酒は飲めないので、正直他人事として見ていられたのですが、「お酒はわりと好き」という自覚のある人は、きっとこれ見たらこわくて途中で消しちゃうんじゃないでしょうか。
アルコール依存になるきっかけは本当に些細なことで、「飲むのが好き」と「アルコール依存」の境目は非常に曖昧なので、自分が「アルコール依存症」だと自覚するまでがまず大変らしいです。
そりゃあ誰だってギリギリまで認めたくないですからね、自分が依存症だなんて。
しかも、アルコール依存になる人にはプライドが高く、「完全か無か」どちらかしか選択肢がない完璧主義の人が多いとか。
なので、いったん「自分はダメな最低な人間だ」という認識に入ってしまうと、すべてが悪循環になってしまうのだそうです。
このドラマの主人公は女性ですが、見ていて「これ、男だったらもっとずっと大変だろうな」と思いました。
もちろん、飲酒への欲望と戦う姿は壮絶だし、「飲むためならなんでもする」というところまで追いつめられたら男も女もないとは思うんですが、それでもなんだかんだいって女という「性」にはギリギリのところで「自分の体を守ろうとする防衛本能」が宿っているように思えるのです。
見ているあいだじゅう、「この妻が夫で、助けようとする夫が妻だったら」とシチュエーションを置き換えて想像してみたんですが、もし男が依存症だったら、自分が依存症だと認めて病院へ行くまでがもっと大変だと思うし、助けようとする家族に対する拒絶ももっと激しいと思うんですよ。
男は、元来、立ち直るエネルギーよりも破滅へ向かうエネルギーのほうが強いのかもしれません。それに対して、女は「100%の自己否定=破滅」を受け入れきれないなにかが先天的に備わっているような気がします。
だから、悲惨な内容にもかかわらず、不思議とやりきれない気分にはなりませんでした。本人がどんなに「弱さ」を露呈し、「もうダメ」と体中で訴えても、本人の意思や性格とは無関係に体の奥底からわきあがってくる「立ち直りたい」という生への根元的な執着がひしひしと伝わってきたので。
というようなことを感じつつ、実際に一番強烈に感じたのはじつは「アルコール依存症」とは全然べつのことでした。
今回のドラマは、ドキュメンタリーの受賞作品をプロのシナリオライターが「ドラマにした」わけですが、見ていて「これはものすごくやりにくい仕事だろうな」と思ったのです。
もちろん、原作者はドラマに関しては素人なわけだし、ドラマ化にあたってあれこれ口を出したとは思えません。
「プロの方にお任せします。自由にドラマにしてください」と、素直にドラマ化を楽しみにしていたと思います。
でも、脚色者の立場になって考えてみると、やっぱり本人の書いたドキュメンタリーをドラマ化するのは作者に対する遠慮が出てかなりやりにくいと思うんですよ。
作者本人だけじゃなく、作者の家族への配慮はもっとあるでしょうし。
もしこれが「アルコール依存症の主婦を主人公にしたドラマを作ろう」という出発点から始まった企画だったら、取材で得たいろいろな体験談をミックスして自由にフィクションをくわえることができたと思います。
「やっぱこの主婦にはなんかトラウマがほしいよね。母親の抑圧が原因で自己否定が強くなるっていう設定にしようか。息苦しい抑圧を感じさせるために母親はこういうキャラにしよう。とすると父親はこういう設定がいいかな」などなど、ドラマをおもしろくするためのフィクションを自由にふくらませることができたでしょう。
でも今回は固定のモデルによる固定したエピソードなわけですから。
実際作者のご両親も実在してドラマができあがるのを楽しみに待っているわけですから。
そりゃあ書くほうだって気を使うし、緊張もしますよね。
「これはドラマだから」と言っても書かれたほうはいい気しないと思うし。
「じゃあなに。私の育て方が悪かったってこと?」とかムッとしちゃうかもしれない。
ムッとしちゃうくらいならいいけど、下手すると傷つけることにもなるし。
そういうこと考えると、ゼロからフィクションを書くときに比べて何倍も描写に「手加減」が入ってしまうことはしかたのないことで、書き手の葛藤は察して余りあるところですが、見るほうとしてはやはり「ドラマとしてはつっこみが足りないな」という不消化感が残ってしまうのです。
私がドキュメンタリーのドラマ化にあまり期待しないのは以上のような理由からです。
実際に起こった事実だけが持つ「力」というものはもちろんあると思いますが、ドラマだけがもつ「力」というものもあり、両者は意外に相性が悪いのです。
なので、ドキュメンタリーはドキュメンタリーで、ドラマはドラマとして見たいというのが本音なのですが、最近はドキュメンタリー風のドラマやドラマ風のドキュメンタリーが増えてきており、どっちの「力」も感じさせないパターンが目立っています。
これってどっちにとってもやばい状況なんじゃないでしょうか?
「溺れる人」(本)
カネボウ・スペシャル21「第3回Woman’sBeat大賞」受賞作。
大賞受賞作以外にも4編を収録。
カネボウ・スペシャル21「第3回Woman’sBeat大賞」受賞作。
大賞受賞作以外にも4編を収録。
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「華岡青洲の妻」に夢中です
冬クールのドラマが始まって1ヶ月たちますが、私が一番ハマッているのは「華岡青洲の妻」(NHK総合/毎週金曜21:15〜22:00)です。
原作は有吉佐和子で、今までにも何度も映画化、舞台化、ドラマ化されている名作です。
私も過去に2回ほどTV版を見ましたが(1回は十朱幸代が主演。もう1回は小泉今日子が主演でした)、いずれもドキドキハラハラしたまま釘付けになってしまいました。
このTV版はいずれもスペシャル枠(おそらくお正月)の単発ドラマでしたが、今回は45分×6回の連続もの。心理描写や周囲の人間関係もより濃厚にじっくり描きだされ、これはこれでまた釘付けになります。
華岡青洲は、江戸時代に和歌山で活躍した外科医(1760〜1835)。世界で初めて全身麻酔による外科手術に成功したこと、その陰には青洲の経済的な支えとなった妹たち、自ら麻酔薬の実験台になった妻と母など、家族の死にもの狂いの献身があったことが知られています。
……と、ここまでは史実に描かれる美談の部分。
「華岡青洲の妻」は、この史実を青洲の妻・加恵の視点から描いたドラマで、競いあうように実験台になろうとする嫁と姑の壮絶な確執が生々しく表現されています。
すでに6回のうち2回がオンエア済みで、明日(2/4)に3回目が放送されるので、今からご覧になる皆様のために簡単に今までのストーリーの紹介を…。
<第1回>
江戸後期の紀州・名手。富裕な庄屋の娘・加恵(和久井映見)は、幼い頃より華岡家の於継(田中好子)の美しさに憧れ続けていた。
その於継が、ある日加恵を息子の雲平(のちの青洲/谷原章介)の嫁にもらいたいと言ってきた。
華岡家は代々医者をつとめる家柄だが、医者を育てるには大変なお金が必要なので、当然ながら家計は火の車。おまけに雲平は現在京都に遊学中で、3年たたないと戻ってこないという。
「娘が苦労することは目にみえている」と両親は縁談に消極的だったが、加恵は憧れの於継に望まれたことに舞い上がり、自らの意志で華岡家に嫁ぐ。
華岡家に入った加恵を於継はじつの娘のようにかわいがり、加恵も於継に認めてもらいたくてはりきって働く。
雲平の遊学費用は、妹の於勝(中島ひろ子)と小陸(小田茜)が機織りで稼いでいたが、加恵もそれに加わることで家族としての一体感と自分の居場所を手に入れるのだった。
しかし、そんな幸せな日々も、雲平の帰郷によって一変する。
<第2回>
初めて対面する夫に胸を躍らせる加恵だったが、雲平の足を拭こうとして手を払いのけられた瞬間から、於継の視線が急に冷たくなったことに気づいて慄然とする。
秀才の雲平は一家の希望の星であり、雲平を中心に家族はがっちりと結束を固める。そこに加恵の居場所はなかった。
当時の外科手術は麻酔なしで行われており、手術に伴う患者の苦痛は並大抵ではなかったし、外科医にできる治療も限られていた。
雲平は麻酔薬を完成させることが医学の大きな発展につながると信じ、動物を使って実験を繰り返した。
しかし、麻酔薬は猛毒をもっているため、調合の微妙な加減で命とりになってしまう。多くの動物が犠牲になったが、雲平は諦めずに実験を繰り返す。
於継の豹変ぶりに傷ついた加恵は、はっきりと於継を敵とみなすようになる。雲平の実験の手伝いをすることであらたな自分の居場所をみつける加恵。
そんな加恵に注がれる於継の視線には憎悪すら漂うようになってくる。
やがて加恵は妊娠する。「夫にとりあげてもらいたい」と希望する加恵に、「実家で産むように」と言う於継。
実家に戻された加恵は、「お義母さんはおそろしい人。私のことを、家計を支える道具としか思っていない。身重になって働けなくなったから、食い扶持を減らそうと実家に帰したのだ」と母・豊(根岸季衣)に泣きながら悔しさを訴えるが、豊は「嫁姑とはそういうもの」ととりあわない。
女の子を出産した加恵は、「雲平さんの子供を産めるのは私だけなのだ」と勝利の感覚に酔い、さらに於継への対抗心を燃やしていく。
以上がだいたいのストーリーの流れです。
実験に使われた犬猫のお墓の数がどんどん増えていく中、今週はいよいよ麻酔薬の実験が人間で行われることに。
「実験には私を使って」と火花を散らしあう於継と加恵。
はたして雲平のとった行動は?
これからが佳境です。皆さん、お見逃しなく!
「華岡〜」を見るのは3回目ですが、今回は一番「現代人」から見ても入り込みやすいドラマになっていると思います。
それぞれの人間性が色濃くにじみでていて感情移入しやすいというか。
まず、於継が加恵の「憧れの人」だったという設定ですが、今まで見た「華岡〜」では於継はかなりベテランの女優さんの役どころだったため、「少女が憧れる美しい女性」というにはややトウがたちすぎている印象がありました。
でも、今回の田中好子はかなり若々しく、また「美しさと賢さ」を強調しているので、加恵が憧れて「この人にほめられたい」「この人みたいになりたい」と一生懸命になるのがわかるし、雲平をはさんでの争いも、「嫁と姑」というよりも「同じ女同士」という側面が強調されてより業が深い感じがしました。
また、加恵の於継に対する感情も、最初からうまくいかなかったわけではなく、むしろ「思慕」からスタートしただけに「かわいさ余って憎さ100倍」になったというあたりが説得力あります。母親が言うように「嫁と姑なんてそんなものなんだから諦めなさい」というふうに割り切れないのは最初の「期待値」が高かったからで、こうなると「期待」をしてしまった自分にも腹が立ってくるのかもしれません。
「思慕」からスタートした「憎しみ」は、ただの「憎しみ」と比べて複雑ですから、パッションも強いけど、相手を否定しきることも無視することもできないので、なにかのきっかけで揺れ動くと、予想もつかない感情が生まれたりするんですよね。
そのあたりが今後のみどころでしょうか…。
あと、過去2作は、雲平の陰が薄くて、なんとなく「研究にしか興味がない冷たいエリート然とした男」という印象しかなかったんですが、今回は雲平のキャラも人間的に描かれているのがいいです。
3年ぶりに京都から雲平が帰ってくるシーンは、まさに「スター登場」という感じで、家族全員が雲平に依存していること、雲平に命をかけていることが、全員の興奮ぶりから明確に伝わってきて、その喜びっぷりが激しければ激しいほど取り残された加恵の孤独が鮮明になります。
雲平がただの二枚目キャラではなく、太陽のような絶対的なカリスマとおおらかな明るさを備えているという設定になっているのが新鮮でした。
冬クールはどれもいまひとつで、「次週が待てない!」というほどの魅力あるドラマはなかなかないのですが、唯一「次週が待てない」ドラマが、すでにストーリーを知っているこのドラマというのはなんとも問題ですね。
原作は有吉佐和子で、今までにも何度も映画化、舞台化、ドラマ化されている名作です。
私も過去に2回ほどTV版を見ましたが(1回は十朱幸代が主演。もう1回は小泉今日子が主演でした)、いずれもドキドキハラハラしたまま釘付けになってしまいました。
このTV版はいずれもスペシャル枠(おそらくお正月)の単発ドラマでしたが、今回は45分×6回の連続もの。心理描写や周囲の人間関係もより濃厚にじっくり描きだされ、これはこれでまた釘付けになります。
華岡青洲は、江戸時代に和歌山で活躍した外科医(1760〜1835)。世界で初めて全身麻酔による外科手術に成功したこと、その陰には青洲の経済的な支えとなった妹たち、自ら麻酔薬の実験台になった妻と母など、家族の死にもの狂いの献身があったことが知られています。
……と、ここまでは史実に描かれる美談の部分。
「華岡青洲の妻」は、この史実を青洲の妻・加恵の視点から描いたドラマで、競いあうように実験台になろうとする嫁と姑の壮絶な確執が生々しく表現されています。
すでに6回のうち2回がオンエア済みで、明日(2/4)に3回目が放送されるので、今からご覧になる皆様のために簡単に今までのストーリーの紹介を…。
<第1回>
江戸後期の紀州・名手。富裕な庄屋の娘・加恵(和久井映見)は、幼い頃より華岡家の於継(田中好子)の美しさに憧れ続けていた。
その於継が、ある日加恵を息子の雲平(のちの青洲/谷原章介)の嫁にもらいたいと言ってきた。
華岡家は代々医者をつとめる家柄だが、医者を育てるには大変なお金が必要なので、当然ながら家計は火の車。おまけに雲平は現在京都に遊学中で、3年たたないと戻ってこないという。
「娘が苦労することは目にみえている」と両親は縁談に消極的だったが、加恵は憧れの於継に望まれたことに舞い上がり、自らの意志で華岡家に嫁ぐ。
華岡家に入った加恵を於継はじつの娘のようにかわいがり、加恵も於継に認めてもらいたくてはりきって働く。
雲平の遊学費用は、妹の於勝(中島ひろ子)と小陸(小田茜)が機織りで稼いでいたが、加恵もそれに加わることで家族としての一体感と自分の居場所を手に入れるのだった。
しかし、そんな幸せな日々も、雲平の帰郷によって一変する。
<第2回>
初めて対面する夫に胸を躍らせる加恵だったが、雲平の足を拭こうとして手を払いのけられた瞬間から、於継の視線が急に冷たくなったことに気づいて慄然とする。
秀才の雲平は一家の希望の星であり、雲平を中心に家族はがっちりと結束を固める。そこに加恵の居場所はなかった。
当時の外科手術は麻酔なしで行われており、手術に伴う患者の苦痛は並大抵ではなかったし、外科医にできる治療も限られていた。
雲平は麻酔薬を完成させることが医学の大きな発展につながると信じ、動物を使って実験を繰り返した。
しかし、麻酔薬は猛毒をもっているため、調合の微妙な加減で命とりになってしまう。多くの動物が犠牲になったが、雲平は諦めずに実験を繰り返す。
於継の豹変ぶりに傷ついた加恵は、はっきりと於継を敵とみなすようになる。雲平の実験の手伝いをすることであらたな自分の居場所をみつける加恵。
そんな加恵に注がれる於継の視線には憎悪すら漂うようになってくる。
やがて加恵は妊娠する。「夫にとりあげてもらいたい」と希望する加恵に、「実家で産むように」と言う於継。
実家に戻された加恵は、「お義母さんはおそろしい人。私のことを、家計を支える道具としか思っていない。身重になって働けなくなったから、食い扶持を減らそうと実家に帰したのだ」と母・豊(根岸季衣)に泣きながら悔しさを訴えるが、豊は「嫁姑とはそういうもの」ととりあわない。
女の子を出産した加恵は、「雲平さんの子供を産めるのは私だけなのだ」と勝利の感覚に酔い、さらに於継への対抗心を燃やしていく。
以上がだいたいのストーリーの流れです。
実験に使われた犬猫のお墓の数がどんどん増えていく中、今週はいよいよ麻酔薬の実験が人間で行われることに。
「実験には私を使って」と火花を散らしあう於継と加恵。
はたして雲平のとった行動は?
これからが佳境です。皆さん、お見逃しなく!
「華岡〜」を見るのは3回目ですが、今回は一番「現代人」から見ても入り込みやすいドラマになっていると思います。
それぞれの人間性が色濃くにじみでていて感情移入しやすいというか。
まず、於継が加恵の「憧れの人」だったという設定ですが、今まで見た「華岡〜」では於継はかなりベテランの女優さんの役どころだったため、「少女が憧れる美しい女性」というにはややトウがたちすぎている印象がありました。
でも、今回の田中好子はかなり若々しく、また「美しさと賢さ」を強調しているので、加恵が憧れて「この人にほめられたい」「この人みたいになりたい」と一生懸命になるのがわかるし、雲平をはさんでの争いも、「嫁と姑」というよりも「同じ女同士」という側面が強調されてより業が深い感じがしました。
また、加恵の於継に対する感情も、最初からうまくいかなかったわけではなく、むしろ「思慕」からスタートしただけに「かわいさ余って憎さ100倍」になったというあたりが説得力あります。母親が言うように「嫁と姑なんてそんなものなんだから諦めなさい」というふうに割り切れないのは最初の「期待値」が高かったからで、こうなると「期待」をしてしまった自分にも腹が立ってくるのかもしれません。
「思慕」からスタートした「憎しみ」は、ただの「憎しみ」と比べて複雑ですから、パッションも強いけど、相手を否定しきることも無視することもできないので、なにかのきっかけで揺れ動くと、予想もつかない感情が生まれたりするんですよね。
そのあたりが今後のみどころでしょうか…。
あと、過去2作は、雲平の陰が薄くて、なんとなく「研究にしか興味がない冷たいエリート然とした男」という印象しかなかったんですが、今回は雲平のキャラも人間的に描かれているのがいいです。
3年ぶりに京都から雲平が帰ってくるシーンは、まさに「スター登場」という感じで、家族全員が雲平に依存していること、雲平に命をかけていることが、全員の興奮ぶりから明確に伝わってきて、その喜びっぷりが激しければ激しいほど取り残された加恵の孤独が鮮明になります。
雲平がただの二枚目キャラではなく、太陽のような絶対的なカリスマとおおらかな明るさを備えているという設定になっているのが新鮮でした。
冬クールはどれもいまひとつで、「次週が待てない!」というほどの魅力あるドラマはなかなかないのですが、唯一「次週が待てない」ドラマが、すでにストーリーを知っているこのドラマというのはなんとも問題ですね。
「華岡青洲の妻」(DVD)
2005年放送分(全6回)を収録したDVD
2005年放送分(全6回)を収録したDVD
「華岡青洲の妻」(小説)
有吉佐和子による原作本。
有吉佐和子による原作本。
「みんな昔は子供だった」の初回報告
冬の連ドラがぼちぼちスタートしましたね。
初回はとりあえずチェックするつもりなので、ビデオにとりためて現在少しずつ見ているところです。
まず最初に見たのは「みんな昔は子供だった」(火10時/フジ)。
舞台は、山の小さな分校。
生徒は小学校4年生の龍平のみ。先生はある事情があって東京からこっちに移住してきたアイ子先生(国仲涼子)。
2人は、大自然に囲まれながら、毎日まったりと分校ライフを楽しんでいる。
そんなある日、彼らの平和な日常が壊される出来事が起こる。
廃校の危機を迎えている分校を存続させるため、校長が都会から子供たちを体験入学させる「山村留学」を受け入れることに決めたのだ。
東京からやってきた子供たちは、小学校3〜5年の男の子3名プラス女の子2名。それぞれワケありの様子で、ついてきた親も問題を抱えていそうなタマばかり。
「こんな塾もないような山村でまともな勉強ができるのか?」とさっそく文句をつけてくる親あり。「若い女の先生は困る」とケチをつける親あり。
中でも最悪なのが、山村留学を利用して「子捨て」にきた父親。
父親が子供を置き去りにしたことに気づいた学校関係者は、子供を施設にひきわたそうとするが、アイ子はどうしてもそれを放置できず、その子に山村留学を続けさせようとする。
地味な話だし、シチュエーションとしてはオーソドックスともいえる設定ですが、初回からひきつける手腕はさすがでした。
脚本の水橋文美江は、フジのヤングシナリオ賞の最終選考に残ったことをきっかけにデビューした作家さんですが、個人的にいつも楽しみにしている人です。
構成、人間の描き方、泣かせるツボ、セリフなど、どれをとっても弱いところがなく、しっかりまとめてくる手堅さがあることに加えて、なんともいえない柔らかな叙情性のようなものが漂うのが魅力です。
ご主人の中江功氏(フジTVの演出家)と組むと、特にその叙情性がきわだちます(医療ミスに高校生が挑んでいく「太陽は沈まない」も、シリアスなテーマながら叙情性と温かさが感じられ、非常に質の高いドラマでした)。
「ビギナー」みたいな都会の職業ものを書くこともありますが、本領を発揮するのは、やはり幻の酒造りに青春をかける「夏子の酒」とか、今回の話のように田舎を舞台にしたすっきりした清潔感のあるドラマでしょう。
今回も水橋さんらしいやさしい描写がいくつもあって、ドラマづくりの勉強になる部分が多々ありました。
一番「うまいな」と印象に残ったシーンをあげてみますと…。
まず、冒頭。
龍平が九九を暗誦するシーンから物語は始まります。
龍平は、小3になるのにいまだに最後までスラスラと九九が言えません。
アイ子先生は「あなたはやればできるはず」と励まし、「どうして途中でとまっちゃうかな」と残念そうに言うのですが、龍平は黙っているだけ。
そのあと、ドラマは山村留学のエピソードになり、都会から子供たちを迎えるものの、そのうちの一人が親に捨てられた子供であることが判明します。
アイ子は、事情があって出直すために東京を出てここに来たわけですが、村の人たちは「そうは言っても一生ここに住む覚悟はないだろう。いずれはここを出ていく人」という認識を捨てられない。
そう言われるとアイ子も「そんなことない。私はここに骨を埋める覚悟だ」とは言い返せず、「村の問題に首をつっこんでえらそうに意見する資格なんて、こんな中途半端な立場の自分にはない」と多少引き気味になるわけです。
なので、捨てられた子供が車で警察へ連れていかれるときも、「なんとかしたい」という歯がゆい思いを抱きながらも、黙って見送るしかなかった。
が、その瞬間、一緒に並んで見送っていた龍平が、いきなり九九を暗誦し始めるんですよ。しかも大声で。
一度もつかえることなく、初めて最後まで九九を言い切った龍平を驚いてみつめるアイ子──。
さて、皆さんなら、ここでアイ子にどんなセリフを言わせますか?
まあ、普通にさらっと考えたら、「龍平くん。すごいじゃない。やったね。だから先生言ったでしょ。龍平くん、やればできるって」と言いながら嬉しそうに龍平に抱きつく……とか、そんな感じでしょうか。アイ子先生はいつもやさしくマイペースなので。
ところが、水橋さんの本ではそうこないんですね。
アイ子は、九九を言い終わった龍平をしばらくみつめ、次の瞬間、怒ったように「やればできるのに、なんでやらないのよ!」と叫び、そのまま車の走り去った方向に向かってダーーーーッと走っていくんです。
アイ子がきつい言葉で急に怒ったときは、無意識に想像していた反応と違ったので「え?」と思ったんですが、次に車のあとを夢中で追っていくアイ子の姿を見て納得しました。
そうか。この言葉は自分に向けて投げつけたものだったんだ、と。
やればできるはずなのに、気持ちのほんの少しの弱さからその壁をなかなか越えられなかった龍平に対するもどかしさと、同じようにいろいろな理由をつけて壁をつくっていた自分へのいらだちがリンクした瞬間、「やればできる」という自分自身が発していたキーワードで自分の呪縛を解いたわけです。
「やればできるのに、なんでやらないのよ!」という言葉は、龍平に対するものであると同時に自分への言葉であり、冒頭の九九のシーンは、二人だけの分校生活の空気感を表すための描写であるのと同時に後のシーンの伏線にもなっている。
こういうふうに、ひとつのセリフ、ひとつのエピソードを、その場の意味を伝えるためだけに使うのではなく、複数の役割を背負わせることによって、行間が生まれ、ドラマが立体的になっていくんですね。
当たり前のようだけど、書く側になるとこれがなかなか難しい。
ついつい、説明のためだけのセリフをダラダラと重ねてしまい、平面的な本になってしまうんですよ。
今後は、東京でアイ子が経験した出来事とはなんなのか…という過去への興味と、龍平と東京からきた子供たちの間でどんな問題が起こるのか…という未来への興味が、ドラマを織りなす縦糸と横糸になっていくことでしょう。
国仲涼子は、まさにイメージ通りのキャスティングで、明るい中にも一抹の「影」を感じさせるさじ加減が絶妙。
達者な子役陣にも期待大。
特に都会からきたモモという女の子を演じている伊藤沙莉は、たしか以前「14ヶ月」で、「中身は35歳だけど外見は10歳」というとんでもない難役を余裕で演じていた早熟の子役なので、今回はどんな芝居を見せてくれるのか楽しみです。
龍平役の子は、一人だけ「田舎の子」という役回りにふさわしい面構え。誰かに似てるなーと思ったんだけど、時任三郎にちょっと似てる。
父親役が時任三郎だったら笑えるけど、残念ながら全然似てない陣内孝則でした。
陣内は、ちょっと前までものすごい中年太りしていてびっくりしたんですが、今回は逆に頬とか首とか骨が浮き出るくらい痩せちゃっててさらにびっくり。
そんなに頻繁に伸縮して大丈夫なのか?
初回はとりあえずチェックするつもりなので、ビデオにとりためて現在少しずつ見ているところです。
まず最初に見たのは「みんな昔は子供だった」(火10時/フジ)。
舞台は、山の小さな分校。
生徒は小学校4年生の龍平のみ。先生はある事情があって東京からこっちに移住してきたアイ子先生(国仲涼子)。
2人は、大自然に囲まれながら、毎日まったりと分校ライフを楽しんでいる。
そんなある日、彼らの平和な日常が壊される出来事が起こる。
廃校の危機を迎えている分校を存続させるため、校長が都会から子供たちを体験入学させる「山村留学」を受け入れることに決めたのだ。
東京からやってきた子供たちは、小学校3〜5年の男の子3名プラス女の子2名。それぞれワケありの様子で、ついてきた親も問題を抱えていそうなタマばかり。
「こんな塾もないような山村でまともな勉強ができるのか?」とさっそく文句をつけてくる親あり。「若い女の先生は困る」とケチをつける親あり。
中でも最悪なのが、山村留学を利用して「子捨て」にきた父親。
父親が子供を置き去りにしたことに気づいた学校関係者は、子供を施設にひきわたそうとするが、アイ子はどうしてもそれを放置できず、その子に山村留学を続けさせようとする。
地味な話だし、シチュエーションとしてはオーソドックスともいえる設定ですが、初回からひきつける手腕はさすがでした。
脚本の水橋文美江は、フジのヤングシナリオ賞の最終選考に残ったことをきっかけにデビューした作家さんですが、個人的にいつも楽しみにしている人です。
構成、人間の描き方、泣かせるツボ、セリフなど、どれをとっても弱いところがなく、しっかりまとめてくる手堅さがあることに加えて、なんともいえない柔らかな叙情性のようなものが漂うのが魅力です。
ご主人の中江功氏(フジTVの演出家)と組むと、特にその叙情性がきわだちます(医療ミスに高校生が挑んでいく「太陽は沈まない」も、シリアスなテーマながら叙情性と温かさが感じられ、非常に質の高いドラマでした)。
「ビギナー」みたいな都会の職業ものを書くこともありますが、本領を発揮するのは、やはり幻の酒造りに青春をかける「夏子の酒」とか、今回の話のように田舎を舞台にしたすっきりした清潔感のあるドラマでしょう。
今回も水橋さんらしいやさしい描写がいくつもあって、ドラマづくりの勉強になる部分が多々ありました。
一番「うまいな」と印象に残ったシーンをあげてみますと…。
まず、冒頭。
龍平が九九を暗誦するシーンから物語は始まります。
龍平は、小3になるのにいまだに最後までスラスラと九九が言えません。
アイ子先生は「あなたはやればできるはず」と励まし、「どうして途中でとまっちゃうかな」と残念そうに言うのですが、龍平は黙っているだけ。
そのあと、ドラマは山村留学のエピソードになり、都会から子供たちを迎えるものの、そのうちの一人が親に捨てられた子供であることが判明します。
アイ子は、事情があって出直すために東京を出てここに来たわけですが、村の人たちは「そうは言っても一生ここに住む覚悟はないだろう。いずれはここを出ていく人」という認識を捨てられない。
そう言われるとアイ子も「そんなことない。私はここに骨を埋める覚悟だ」とは言い返せず、「村の問題に首をつっこんでえらそうに意見する資格なんて、こんな中途半端な立場の自分にはない」と多少引き気味になるわけです。
なので、捨てられた子供が車で警察へ連れていかれるときも、「なんとかしたい」という歯がゆい思いを抱きながらも、黙って見送るしかなかった。
が、その瞬間、一緒に並んで見送っていた龍平が、いきなり九九を暗誦し始めるんですよ。しかも大声で。
一度もつかえることなく、初めて最後まで九九を言い切った龍平を驚いてみつめるアイ子──。
さて、皆さんなら、ここでアイ子にどんなセリフを言わせますか?
まあ、普通にさらっと考えたら、「龍平くん。すごいじゃない。やったね。だから先生言ったでしょ。龍平くん、やればできるって」と言いながら嬉しそうに龍平に抱きつく……とか、そんな感じでしょうか。アイ子先生はいつもやさしくマイペースなので。
ところが、水橋さんの本ではそうこないんですね。
アイ子は、九九を言い終わった龍平をしばらくみつめ、次の瞬間、怒ったように「やればできるのに、なんでやらないのよ!」と叫び、そのまま車の走り去った方向に向かってダーーーーッと走っていくんです。
アイ子がきつい言葉で急に怒ったときは、無意識に想像していた反応と違ったので「え?」と思ったんですが、次に車のあとを夢中で追っていくアイ子の姿を見て納得しました。
そうか。この言葉は自分に向けて投げつけたものだったんだ、と。
やればできるはずなのに、気持ちのほんの少しの弱さからその壁をなかなか越えられなかった龍平に対するもどかしさと、同じようにいろいろな理由をつけて壁をつくっていた自分へのいらだちがリンクした瞬間、「やればできる」という自分自身が発していたキーワードで自分の呪縛を解いたわけです。
「やればできるのに、なんでやらないのよ!」という言葉は、龍平に対するものであると同時に自分への言葉であり、冒頭の九九のシーンは、二人だけの分校生活の空気感を表すための描写であるのと同時に後のシーンの伏線にもなっている。
こういうふうに、ひとつのセリフ、ひとつのエピソードを、その場の意味を伝えるためだけに使うのではなく、複数の役割を背負わせることによって、行間が生まれ、ドラマが立体的になっていくんですね。
当たり前のようだけど、書く側になるとこれがなかなか難しい。
ついつい、説明のためだけのセリフをダラダラと重ねてしまい、平面的な本になってしまうんですよ。
今後は、東京でアイ子が経験した出来事とはなんなのか…という過去への興味と、龍平と東京からきた子供たちの間でどんな問題が起こるのか…という未来への興味が、ドラマを織りなす縦糸と横糸になっていくことでしょう。
国仲涼子は、まさにイメージ通りのキャスティングで、明るい中にも一抹の「影」を感じさせるさじ加減が絶妙。
達者な子役陣にも期待大。
特に都会からきたモモという女の子を演じている伊藤沙莉は、たしか以前「14ヶ月」で、「中身は35歳だけど外見は10歳」というとんでもない難役を余裕で演じていた早熟の子役なので、今回はどんな芝居を見せてくれるのか楽しみです。
龍平役の子は、一人だけ「田舎の子」という役回りにふさわしい面構え。誰かに似てるなーと思ったんだけど、時任三郎にちょっと似てる。
父親役が時任三郎だったら笑えるけど、残念ながら全然似てない陣内孝則でした。
陣内は、ちょっと前までものすごい中年太りしていてびっくりしたんですが、今回は逆に頬とか首とか骨が浮き出るくらい痩せちゃっててさらにびっくり。
そんなに頻繁に伸縮して大丈夫なのか?
「みんな昔は子供だった」(DVD)
出演は国仲涼子他。
脚本は水橋文美江、永田優子。
出演は国仲涼子他。
脚本は水橋文美江、永田優子。
「みんな昔は子供だった」(原作ノベライズ版)
シナリオを小説化したもの。
シナリオを小説化したもの。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
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