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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

カテゴリー「映画」の記事一覧

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イランのちびまる子ちゃん

 私は「語学が苦手」というのがコンプレックスなのですが、まわりの友人には語学力に長けた人がたくさんいます。
 中でも「翻訳家」という職業についている人が多い。
 そのうちの1人、マルちゃんは、中学・高校・大学を同じ場所で過ごした友人です(正確に言うと、高校の1年間はフランスに留学していましたが)。
 そういうとすごくつきあいの深い友人のように思われるかもしれませんが、実際はクラスや学科がほとんど別々だったためか、それほど親しくつきあっていたわけではありませんでした。
 卒業して随分たってから、「マルちゃんは今、フランス語の字幕翻訳の仕事をしているらしい。『仕立屋の恋』とかもマルちゃんが翻訳したらしいよ」という噂を聞き、なにかのきっかけで再会したときに「私もねー、翻訳家の養成機関で働いてたことがあるんだよ。運営するほうのスタッフだから語学はできないんだけどね。あはは」みたいな話をして、それからなんとなく連絡をとりあうようになりました。
 とはいうものの、普段から映画というもの自体をあまり見ない私は、「今度こういうのやったんだー」と言われても、「そうなんだー。行けたら見にいくね」と言っているうちに終わってしまう…という連続で、今まで映画館でちゃんと彼女の作品を観たことがありませんでした。マルちゃん、ごめんね。

 そんな私が、最近ようやくマルちゃん翻訳作品デビューしました。
 「これなんだけどー。もし興味があったら見にきて」
 と彼女から渡されたチラシは『ペルセポリス』というアニメーション映画。
 監督はマルジャン・サトラピというフランス在住のイラン人女性で、自分の自伝を自ら映画化したそうです。
 内容は、マルちゃんいわく「えーとね、イランの『ちびまる子ちゃん』みたいな感じ」。
 イランの『ちびまる子ちゃん』!
 マルちゃん、うまいぞ。つかみがうますぎる。
 そのフレーズきいただけで「どんなんだよ、それ」と興味がわくじゃありませんか。
 それだけじゃありません。
 主人公の少女は当然作者なんですが、愛称はなんと「マルジ」というそうです。
 マルちゃんが翻訳した作品が「イランのちびまる子ちゃん」で、主人公の名前は「マルジ」って「まるまる尽くし」じゃん。チョー受ける。
 これはもう見るしかない。絶対見る!

 と決意した私ですが、ここではたと誰を誘って行こうかと考えました。
 べつに一人で行ってもいいんですが、一人ってのは「いつでも行ける」と思ってしまうため、逆になかなか行かないものなんですよね。
 で、こーいう映画に興味ありげな人をダーーーッと思い浮かべてみたんですが、急にふっと今までは浮かばなかったような人の名前が浮かびました。

 その人とは……有名な方なので、皆さん、ご存じの方も多いかもしれませんが、翻訳家の河野万里子さんです。
 河野さんとの出会いはかれこれ20年近く前になります。
 駆け出しのライターだった私が、新人翻訳家として賞をとって売り出し中だった彼女を取材したのがなれそめでした。
 じつはそのときに1回お会いしただけで、その後一度も会ったことがないんですが、そのインタビューがとても楽しくて盛り上がったことと、年賀状などのやりとりがマメに続いていたこともあって、心理的にはすっかり「お友達モード」だったんです。

 私は昔から、自分の知り合いの中で「この人とこの人を会わせたら楽しいだろうな」という夢の(?)カードを作っては実際にひきあわせるという「お見合いおばさん」みたいなことをする趣味があって、このときも「フランス語翻訳つながりでマルちゃんと河野さんを会わせる」というカードを思いついて勝手に盛り上がりました。
 語学はできないけれど、翻訳の話をきくのは大好きなので、この2人を会わせたら、字幕と出版、両方の話が聞き放題ですごく楽しそうだと思ったのです。
 で、さっそく双方に打診してみたところ、お2人ともかなり乗り気だったため、計画を遂行することになりました。

 まず、河野さんと『ペルセポリス』を見て、その後近くのお店でマルちゃんと待ち合わせて3人でご飯を食べながら映画についておしゃべりをする。場合によっては裏話なども聞けるかもしれない。
 ……と、ここまででも充分楽しい計画だったんですが、話を進めるうちにさらに楽しい偶然が発覚しました。
 『ペルセポリス』は渋谷のシネマライズという小屋での単館上映だったんですが、なんと『ペルセポリス』のあとに上映される『潜水服は蝶の夢を見る』は、河野さんが10年前に原作を翻訳したものだというのです。
 というわけで、計画はさらに「マルちゃんと『潜水服は蝶の夢を見る』を見て、その後近くのお店で河野さんと待ち合わせて3人でご飯を食べながら映画についておしゃべりをする」という続編がつけくわえられることになりました。

 で、まずは行ってきました。『ペルセポリス』。
 いやー、びっくりしました。いろいろな意味で。
 まず、視覚的なことから言うと、モノクロアニメへのこだわりに圧倒されました。
 作者いわく、「ハリウッドから『実写で映画化したい』という申し出もあったが、リアルにエキゾチックな顔立ちの俳優が演じると、『どこか関係ない国の人の話』という距離感をもたれてしまうので、これは絶対アニメーションでしかやるつもりはなかった」とのこと。
 アニメーションというと、日本は今や「先進国」なので、正直なところ、見るまでは「フランスのアニメーションってどの程度のものなの?」というようなお手並み拝見的な“上から目線”がありました。
 が、見てみてわかりました。これは比べても意味がないです。まったく違うものとして認識するのが正しい。
 宮崎アニメにしても、ディズニーアニメにしても、最近は技術も進化していて、実写に近い繊細な動きがどんどん表現できるようになっていますが、グラフィック・アニメーションと呼ばれるこの『ペルセポリス』は、逆に無駄なものをそぎおとしてどんどん抽象化している感じでした。限りなく記号に近くなってるっていうのかな。
 絵も動きも平面的で一見稚拙に見えるんだけど、黒と白だけでなく、中間調(グレー)の取り入れ方への執念が半端じゃなく、「こんなにシンプルな絵なのに、こんなに微妙な階調まできっちり表現するのってすげー」と感服しました。
 しかも、写実的じゃないからこそ、デフォルメした表現も違和感なく受け入れられるし、生々しさがない分、普遍的な部分のみがうまく伝わってくるし、なるほど、作者が実写をいやがった意味はわかるわと思いましたね。

 ストーリーを簡単に紹介しますと……。
 1978年、テヘランで大きな革命が起きます。
 この革命がどういうものなのか、説明するのはなかなか難しいです。
 なぜなら、日本人はあまりにもイスラムの歴史になじみがなさすぎるので。
 実際、原作本(グラフィックノベルと呼ばれる絵で表現するエッセイみたいな感じ)を読むとかなり詳しく政治的な背景がかかれているんですが、私にはついていけませんでした。
 わかったのは、一口にイスラム圏といっても、国によってかなりカラーが違うこと、私たちにとっては(少なくとも私にとっては)イランもイラクも同じカテゴリーの中に入っていて明確な違いを説明するのは難しいんですが、当人たちにしてみるとお互いが「全然違う国」なわけです。そんなの当たり前といえば当たり前なんですけど、あらためて「そうか。違うんだな」と思いました。 
 「だからその違いを説明しろよ」とつっこまないでください。「思った」だけで、「説明」できるほど「わかった」わけではないので。
 まあ、あえて言うならば、イランのルーツがもともとササン朝ペルシャという帝国にあり(タイトルのペルセポリスは「ペルシャの都」という意味)、そこの宗教はゾロアスター教で、イスラムの支配を受けたのはずっとあとだという話は目ウロコでした(←世界史とってた者の発言とは思えません)。

 ただ、作者が映画を通して語りたかったのは、あくまでも「ひとりの少女の人間的成長」という普遍的な部分で、政治的な問題はそれほど詳しく説明する気はなかったように見えました。
 というのも、原作の「政治状況についての説明部分」が、映画では最小限にカットされていたので。
 最初はあまりにも説明が少ないので、「原作読めばもっとわかるのかな」と思ったんですが、実際は読んでもよくわからなかったし、その情報がわからなくても映画を楽しむ支障にはならないと思います。

 とにかく、その革命の様子は中国の「文化大革命」を想像していただければ近いかと思います。
 「自由思想」「西洋かぶれ」「ブルジョワ」は激しく糾弾され、紅衛兵みたいな風紀取り締まり委員が常に市民の生活を監視しているという感じ。
 主人公のマルジは、そういう意味でいうとかなり「危険視」されるような家庭環境で育った子供で、そのせいか危ない目に何度も遭うんですね。
 このままではいけない。この子には自由に行動できる環境で教育を受け、好きなことを思い切りやってほしい。
 そう思った両親は、わずか13歳のマルジを一人でウィーンに留学させます。

 ところが、イランでは先進的思想を持ったはみ出し者だったマルジが、ウィーンにくると今度は「イスラム圏からきた子」としてさまざまな偏見をもたれてしまいます。
 最初は背伸びしてみんなに合わせようとしたマルジですが、そうすればするほど自分のアイデンティティがどこにあるのかわからなくなり、最後には心身ともにボロボロになって故郷に帰ります。
 故郷に帰れば帰ったで、イランから一歩も外に出たことのない人たちとの間に距離感を感じ、やっぱり自分の居場所がどこなのかわからなくなるんですが、その後紆余曲折あって今度は自らの意思でフランスに旅立ちます。

 原作ではこれらのエピソードが時系列でダーッと並んでいるだけなんですが、映画では、「現在のマルジ」が、パリの空港を訪れ、「テヘラン行きの便」の表示を見ながらぼんやりと今までの自分を回想し、最後はまたパリの空港の場面に戻り、空港からタクシーに乗る場面で終わるんですよ。
 で、運転手に「お客さん、どちらから?」と聞かれて「イラン」と答える。そのセリフでEND。
 要するに、「彼女は今でも時々故郷に帰りたくなって空港に行ってしまうんだけど、最後はやっぱり飛行機には乗らずに家に帰る」という行為を繰り返しているという設定なんだと思いますが、最後のやりとりに「アイデンティティをみつけたマルジ」の姿が表れていて、とてもしゃれた構成になっていると思います。

 マルジは決して「いい子」ではなく、どちらかというと「弱さ」とか「ずるさ」とか欠点もいっぱいあるんですが、そういうトホホな部分も正直に書いているところが好感もてます。
 中でも最高におもしろかったのは、失恋シーン。
 つきあっていたマルクスくんという恋人に裏切られ、最初はメソメソ落ち込むんですが、そのうちに「今になって冷静に考えてみれば、あの男は最初からひどいやつだったのかもしれない…」と思い直し、あらためて頭の中で今までの彼の言動をリプレイしていくんですが、思い返しているうちに「そういえばあんなこともあった」「こんなこともあった」といやだった面がどんどん出てきて、それにつれて「妄想」の中のマルクスくんの端正な顔がどんどん崩れていって、最後はバケモノのようになっちゃうの(笑)。
 恋愛中は「甘い思い出」だったことが、妄想の中で身も蓋もない「醜い現実」に変換されていき、それに対する嫌悪と憤りでパワーをとりもどす。
 こういうのって女はあるよなーと思って大笑いしました。だいたい男は「いいこと」しか思い出さないからいつまでもひきずるんだけど、女は現実的だから、自分の都合で簡単に視点を変えられるんだよね。

 声の出演がかなり豪華で、マルジのお母さんはカトリーヌ・ドヌーヴ、マルジはドヌーヴの娘のキアラ・マストロヤンニ、マルジの祖母はドヌーヴの母親役を何度もやっているダニエル・ダリュー……という布陣。
 どの人も声の存在感ありすぎという気もしないではなかったけど。
 関係ないけど、マルちゃんが「吹き替えならもっと情報がたくさん入れられるから、できれば日本の吹き替えヴァージョンを作ってもらってもっと多くの人に見てもらいたいな」と言っていたので、勝手にやってもらいたい人を考えてみました。
 そっちがドヌーヴとキアラでくるなら……うーん、こっちは富司純子と寺島しのぶでどうでしょう。祖母は佐々木すみ江で。いや、単にダニエル・ダリューの声が佐々木すみ江と似ているのが気になっただけなんですけど(お陰で祖母のセリフは私の脳内でいちいち薩摩弁に自動変換されてました)。

 『潜水服は蝶の夢を見る』の話についてはまたあらためてお送りします。

 

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「蕨野行」で語られた姥捨ての意味

 ドラマチェックがまだ終わってませんが、ここでちょっとべつの作品の話を書きたいと思います。
 先ほどまで、東京では珍しい雪が降っていましたが、雪景色が印象的な映画をBS(NHK)で見ました。

 恩地日出夫監督の「蕨野行(わらびのこう)」(2003年製作)。
 芥川賞作家・村田喜代子作品の映画化です。
 じつは原作をこれから読もうと思っているので、読んでから書こうかどうしようか迷ったのですが、こういうものは延ばすとどんどんきっかけを失っていくので、「あくまでも映画を見て思ったこと」ということにして、思い切って今書きます。

 この作品を知ったのは、先日の一葉会公演がきっかけでした。
 東風堂さんの「楽園」は、この作品(原作の小説のほう)にインスパイアされて書かれたものだという話をきいたのです。
 なんでも東風堂さんはこの小説がものすごくお気に入りで、講座時代にもこの作品の脚色を手がけたのだとか。
 東風堂さんによれば、この物語の内容は「姥捨て後日談」であるらしい。
 たしかに、「姥捨て山」の話というと、「年寄りを山に捨てる」という部分がクライマックスになり、そのあと捨てられた年寄りがどうなったかという部分はあまり積極的には語られてこなかったような気がします。ていうか、あまりふれたくないというか、考えたくないというのが正直なところなのかもしれません。

 考えてみれば、雪山に捨てるならともかく、あるいはもう動けなくなった年寄りならともかく、普通はただ山においてきただけでは人間そんなに簡単には死にません。
 そう思うと、「捨てられたあとの年寄りたちがどう生きて、死んでいったのか」という部分を描くというのは、意外にありそうでなかった視点なのかもしれない、と興味をもちました。
 興味をもったんならさっさと原作を読めばいいものを、なんだかんだできっかけを逸してそのまま月日がたってしまったのですが、ある日たまたま映画化された「蕨野行」がTVで放送されることを知り、録画して見ることにしました。
 以下、簡単なストーリーです。

 ときは江戸時代。
 場所は東北の山あいにある架空の貧しい村。
 気候の厳しいその村では、数年に一度、大凶作に見舞われることが避けられないため、口べらしの犠牲として、「赤ん坊」「臨月の女性」「老人」などがターゲットになってきた。
 若くして庄屋に嫁いできたヌイは、姑のレンを母のように慕っていたが、春が近づくにつれて、レンとまわりの家族の様子がおかしくなる。何があるのかきいてもみんな口をつぐむばかり。
 やがてその秘密があきらかになる。

 60歳の年まで生き延びたジジとババは、春になると村を出て「蕨野」に行かなければならないというしきたりがあるのだという。
 蕨野とは、山の中腹にある何もない原野で、村から半里ほど離れた場所にある。
 蕨野で畑を作ることは許されない。
 そこへ入ったジジババたちは、毎日里までおりていって農作業を手伝い、その日1日のみの食料を得て帰っていく。
 そのとき、家族に会っても決して口をきいてはいけない。
 彼らは名前を奪われ、「ワラビ」と呼ばれ、「生きてはいるがすでに死んだ者」として扱われる。
 得られる食料は1日分だけなので、天候が悪くて農作業ができない日は飢えなければならない。足が萎えて山を下りることができなくなったワラビも同様だ。
 残酷な風習にショックを受けるヌイだが、レンは「秋まで生き延びれば戻ってこられることになってるから」と告げて家を出ていく。
 その言葉に希望をもつヌイだが、それはヌイを思いやっての嘘であり、ワラビは二度と里へは戻れないのが掟だった。

 その年、蕨野入りしたジジババはレンを含めて8名。
 村にいたときはさまざまな立場だった8人だが、蕨野に入れば娑婆のしがらみは消えてなくなる。
 8人のワラビたちは、里から食料を調達し、火をおこし、水を汲み、細々と、しかし精一杯力と知恵をふりしぼって生きていく。
 ワラビにとって運命の日は「仕事納め」と呼ばれる日だ。
 年によって違うが、それは遅かれ早かれやってくる。
 「仕事納め」→「もうワラビに手伝ってもらう仕事はないと言われる日」→すなわち里からの食料が断たれる日である。
 その年は例年よりも早く、夏の終わりにそれはやってきた。
 食を断たれたワラビたちは、不浄と言われていた山の獣や川の魚をとって食し、生きられる限り、生きようとする。
 8人いたワラビの数も徐々に減っていき、ボケ始める者も出てくる。
 そうして秋を生き抜いたワラビたちを待っていたのは何もかもを凍らせてしまう厳しい冬だった。
 蓄えができないワラビにとって、冬の到来は100%の死を意味する。
 最後に残ったレンを含む3人のワラビは、吹雪に埋まった小屋の中で静かに最後のときを待つ……。

 ストーリー読んだだけだとめちゃくちゃ悲惨に感じると思いますが、見てもやっぱり悲惨です(笑)。
 悲惨さや生々しさを強調しすぎないようなしかけもあるんですけど(「〜なり」「〜なるよ」という書き言葉のようなちょっと不自然な言葉遣いをすることで、おとぎ話っぽい抑制された雰囲気をかもしだしていることとか)、話のもつ意味が「重い」ので、直接的に悲惨なシーンが出てこなくても、かなり気が重くなります。
 特に、「日々の糧を得るためにいちいち里までおりていく」「定期的に糧を得られる畑は所有できない」というワラビのシステムが、「これってまさにフリーで働いてる人間のシステムじゃないか」と身につまされすぎて正視できない部分があり…。
 「里に下りられなくなったらおしまい」「仕事ないよと言われたら干されてしまう」「本体が危うくなったらまず最初に切られる」というあたり、まさにそのまんまです。
 どの共同体もそうやって帳尻を合わせてるんですよね。
 まあ、「フリーは好んで共同体からはぐれてんだろうが」と言われたらそれまでなのですが。 

 私がすごく気になったのは、「年寄りを捨てて、そのまま放置する」のではなく、しばらくの間はそうやって「最低限生き延びるための糧を与えている」という部分です。
 今までの「姥捨て」のイメージだと、「母ちゃん、ごめん!」と叫んで山に捨ててダーッと戻ってくる。みたいな感じで、捨てたあとも中途半端に面倒をみる(しかも「情を切る」ような奇妙な決まり事の中で)というのがすごく不思議に感じたんです。
 なぜそんなことをするんだろうか。
 「そりゃあそのまま放置じゃかわいそうだから、面倒みられる限りはみてあげようという人道的な処置なんでしょう」と言われるかもしれませんが、どうやらそんな単純なことではないようなのです。
 なぜそう思ったかというと、もう一人、べつの道を選んだ年寄り(シカ)が物語に登場するからです。

 シカはレンの妹で、若い頃、凶作時に臨月になったことで「働かずの嫁」として家を出された。
 シカはそのまま山の中に入って山姥となり、何十年も生きていく。
 そのシカとレンが再会するシーンがあります。
 シカは喜び、「蕨野にとどまれば冬には確実に死ぬ。自分は山を越えたところで生活しているが、そこまでいけば雪も少ないし、生きていける程度の糧も手に入れることができる。そこに来て一緒に暮らさないか」とレンを誘う。
 しかし、レンは断り、あくまでも蕨野で生き続ける道を選ぶのです。

 てことはですよ、村を追い出された人たちが全員死ぬわけじゃないってことです。
 あくまでも村のシステムに組み込まれた形で生をまっとうしようと思うから冬までしか生きられないわけで、「畑作禁止? そんなこと知るか。もう村とは関係ないんだからどこでどう生きていこうがこっちの勝手だっつの」と開き直り、このシカ婆さんのようになれば、生き抜けないわけではないんです。
 じゃあ、なぜレンはその道を選ばなかったんでしょうか。

 ここで年寄りたちを蕨野に送った側の心理を考えてみます。
 彼らを「年寄りを粗末にしてひどいことをするやつらだ」と非難するのは簡単です。
 「姥捨て伝説」から「年寄りを大切にしましょう」という教訓を導き出すのもたやすいことです。
 でも、誰だって好きこのんで自分の親を捨てるわけではありません。
 年寄りたちは、自分たちを助けるために犠牲になってくれたわけですから、捨てたほうはおそらく毎日心の中で手を合わせる気持ちで罪悪感に耐えていたのではないでしょうか(少なくとも、「蕨野行」の世界ではそう思えました)。
 でも、もし本当に追い出した年寄りを確実に生かそうと思うなら、「蕨野」は必要ないと思うのです。
 全員、シカのようにどこか遠くの未知の土地にいって、また新しい共同体を自由に作ればいい。実際、シカはそうやって生き延びてきたわけだし、「他にも私みたいにして暮らしている人たちはいっぱいいる」と言っているのですから。
 じゃあなぜそうやって年寄りたちを解放してやらないのか。

 私は「蕨野」が里から意外に近いということがひとつのキーポイントのように思いました。
 ヌイが「すぐそばにいるのに声をかけることもできないなんて」ともどかしそうにいう場面がありますが、村の人たちは「ワラビの存在を常に身近に感じること」をひとつの試練として自分たちに課しているのではないでしょうか。
 もう二度と会えないような遠い場所に捨てたり、シカのように山の中に追いやったりすれば、その瞬間は心が痛むかもしれませんが、目の前から消えてしまうことで痛みは年月とともに風化してしまいます。
 人間は都合の悪いこと、思い出すとつらくなることは「忘れられる」ようにできているからです。
 シカとレンに違いがあるとすれば、シカは「忘れられたババ」で、レンは「忘れられないババ」ということです。
 毎日、ワラビが里へおりてくるたびに村の人間は自分たちがしたことを思い出さなくてはならないし、その人数が減れば「ああ、あの人はもうダメなんだな」と知らされることになる。
 要するに、山へ追いやられたシカは、その瞬間から「共同体」のメンバーではなくなるけれど、レンは最後まで「共同体」のメンバーとして存在しているということです。
 レンがシカの誘いを断ったのは、最後まで共同体の一部でいたかった、今までの先祖がそうであったように、自分も村のしきたりの中で一生をまっとうしたかったということなんだと思います。

 村の人々に自分たちの生と死を見せることは、次に蕨野へ行く年寄りへの道しるべにもなります。例外をつくればしきたりは崩れ、共同体のシステムは崩壊してしまいます。
 それを表す強烈なエピソードは、最初にレンが蕨野に着いたとき、小屋の中で「水の入った桶」を発見するシーンです。
 木の桶は、水を入れずに長い間放置しておくと、乾燥で隙間ができてしまい、水漏れを起こすようになってしまいます。
 レンは「水の入った桶」を見たとたん、「前の年にここへ来たワラビが、次に来るワラビのために水を入れておいてくれたんだな」と悟ります。
 心遣いといえば心遣いなんですが、新入りのワラビにとっては衝撃的な物件です。
 蕨野入りする春はまだ気候もいいので、外ではジジババたちが「いやー、どんなにおそろしい“あの世”かと思ったら景色もいいし、なかなかいいところじゃないか」などとのんきに言っています。
 これから自分たちが直面する過酷な現実からはなるべく目を背けたい。できれば楽観的に考えたい。ここに送られてきて死んだ人のことなど考えたくない。それは人情として当然です。
 でもレンは小屋の中で「水の入った桶」をみつけてしまう。
 それはまぎれもなくここに「人」が生きていたという痕跡です。
 そんなものがなければ、もう少しの間、目の前のきれいな景色を楽しみ、笑うことができたかもしれないのに、桶は容赦なく現実をワラビたちにつきつけます。
 「私たちを忘れないで」と。

 「水の入った桶」は、ワラビたちに「自分たちの運命」を実感させ、里におりてくるワラビは村の人間に「自分たちもやがてはたどる道」を実感させる。
 それに伴う痛みや恐怖や悲しみに耐えることが、彼らにとって「生きる」ということなのです。
 そのために「蕨野」は必要なんですね。
 その「痛み」がなければ、人はどこまでも利己的になり、自分のために誰かが犠牲になることも当たり前だと思ってしまうからです。

 「蕨野」のシステムは「ゆるやかな死」を老人たちに与えます。
 その「ゆるやか」という部分に、いろいろな意味あいや効果が含まれているんでしょうね。
 考えてみれば、年金暮らしの老人が、保険料の負担増で「病気になっても病院にもかかれない」というシステムは、「蕨野」とどう違うんでしょう。
 システムとしては同じでも、「蕨野」に送られた人の存在を無視する、いないことにする、忘れようとする点では現代はもっと残酷です。
 見えない「蕨野」に突然送られたとき、はたして私たちは「ゆるやかな死」を受け入れることができるのでしょうか。


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「フラガール」を観ました


 日頃、観劇に追われてなかなか映画まで手がまわらないんですが、今年は「私にしては」よく映画を観ています。ただし、邦画ばっかりなんですけどね。
 観たいと思うものがたまたま邦画だということもあるし、字幕が年とともにうざくなってきたというババくさい理由もあります。

 そんなわけで、つい最近は「リピーター続出!」という評判の良さに惹かれて「フラガール」を観てきました。
 いやー、よかったです。まじで。観てよかった。
 「明るい青春もの」や「コメディっぽさ」や「軽いノリ」を期待していくとちょっと戸惑うかもしれませんが、かといって「押しつけがましい人情もの」「重苦しくシリアスな社会派」というわけでもなく、きわめてバランスよくニュートラルに作られたまっとうな映画でした。

 「フラガール」は配給会社も大手じゃないし(だから宣伝もそれほどされていなかった)、上映館もわりと限られているし、どちらかというと低予算で地味に作られた映画だと思うのですが、観た人の口コミの力でじわじわと客を呼び、異例ともいうべきロングランを続けているらしいです。
 「ゆれる」もそんな感じのパターンですが、観た人の支持で作品が育っていくというのは(滅多にないことですが)作り手にとっては本当に嬉しいことです。
 作った当人たちはもちろんのこと、他の作り手たちにも「自分も頑張っていいものを作ろう」という勇気と希望を与えてくれますからね。

 で、さっそくその感想をアップしようと思ったんですが、じっくり語りたいため、ホームページのレビューに載せることにしましたので、よろしければお立ち寄りください。
 HPにはコメントする場所がないので、「フラガール」に関してコメントしたい方はこの記事のコメント欄にお願いします。

 あとどのくらい公開が続くのかわかりませんが、フラダンスの迫力もさることながら、美術スタッフもかなり頑張っているので(炭坑長屋のリアリティは特筆もの!)、観るならばぜひ劇場で!とお勧めします。
 泣くつもりなくても勝手に泣いてしまうので、観るなら一人がいいかも。あと腫れた目を隠すための季節はずれのサングラスも必要かも(笑)。

 そうそう。フラダンスもすごいんだけど、個人的には蒼井優の福島弁がうますぎて驚きましたよ。
 東北出身じゃないのにいい雰囲気出しすぎです!

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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