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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

カテゴリー「TV(ドラマ)」の記事一覧

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今期最高傑作の「結婚できない男」

 今までずっと「書きたい、書きたい」と思いつつ今日までひっぱってきたネタです。
 なぜひっぱってきたのかというと、現在ドラマ評を書いている「TVステーション」で、今度このドラマについて書くことになったからです。
 そのコラムはせいぜい800字程度のスペースしかないので、このドラマについて語れるのは語りたいことのほんの一部でしかありません。
 なので、そこで書けなかった部分をブログに書こうと思ったのですが、コラムに書くことが決まらないとここで書くことも決まらないので、コラムの締め切り日を待ってここまでひっぱってしまったという次第です。

 さてこのドラマ、皆さんのまわりでどのくらい盛り上がっているのかわかりませんが、私のまわりではかなり話題になっています。
 ドラマ好きはもちろんのこと、普段あまりドラマを見ないような人も、このドラマはおもしろい!と楽しんでいる人が多いようです。
 視聴率はそれほど高いわけじゃないんですが(低いとも言えない微妙な数字)、そのわりには世論(?)は盛り上がってますね。

 まず「結婚できない男」というネーミングの心憎さ。
 噂によると、最初は「結婚しない男」だったんだけど、阿部ちゃんが「結婚できない男」のほうがおもしろいんじゃないかと提案し、それが通ったとか。
 ……すごいです。
 いや、おっしゃる通り「できない男」のほうが比較にならないほどインパクトがあるし、視聴者の食いつきがいいことも明らかなんですが、阿部ちゃんといえば「ルックスもいいし、女にもてまくりだろうに、なぜか40すぎても独身」という、このドラマの主人公・信介と限りなくイコールに近いイメージが世間に浸透しているだけに、「結婚できない男」ではあまりにもそのまますぎて痛すぎるのではないかと凡人は思うわけです。
 作者も「ほんとは『できない』にしたいけど、それじゃ阿部ちゃんに失礼だし…」と気を遣ったのかもしれません。
 なのに自ら「できない」案を提出するとは……おそるべし、阿部ちゃんの自己プロデュース能力。

 たしかに「結婚しない男」では、なんとなく「できるけどしないんだよ、きみたち庶民とは違って」みたいな、一人だけ高みにたったいやみな感じだけが伝わってくるのに対し、「結婚できない男」というタイトルは、主人公を「なんだよ。いろいろ言ってるけど、結局おまえできないんじゃん!」というレベルに一気にひきずり降ろし、見る人をつっこみ気分満々にさせるパワーを秘めています。
 が、このドラマのタイトルのうまさは、タイトル単体だけの問題ではないんですね。

 信介はドラマの中で再三「俺は結婚できないんじゃない、しないんだ」と主張しますが、実際、信介のルックスは「結婚しない男」のほうがしっくりくるくらいのレベルにあるので、そこだけ見ると「負け犬の遠吠え」のようには聞こえない説得力があります。
 しかし、信介の周囲の人間の評価は逆で、彼のマイペースぶりや頑なっぷりに辟易し、「あれはしないんじゃなく、できないんだ!」と主張します。
 つまり、「結婚しない男」というタイトルにすると信介の意識に沿ったものになり、「結婚できない男」にすると信介を見るまわりの人間の意識に沿ったものになるわけですが、もし前者のタイトルにした場合、見た目のまんまということでひっかかるものがありません。一方、信介のルックスで前者を匂わせておいてタイトルは後者を採用した場合、そのギャップに視聴者はおおいにひっかかりを感じて食いついてきます。
 逆説的にいえば、「結婚できない男」というタイトルは、見栄えがいまいちの主人公ではデリケートすぎて成立しにくいともいえます。
 阿部ちゃんだからこそ「結婚できない」ことにおかしみがあり、安心して「だからできないんだよ」とつっこめるわけ。ここ大きなポイントです。
 二枚目は視聴者を優位にたたせるためのしかけがいろいろ必要なのですね。

 タイトルの話だけで長くなりました。
 私がこのドラマを見て感じたのは、「最近は結婚できない男が増えている。だからそういう社会現象をネタにして風俗劇を作ろう」というコンセプト主導で作られたドラマにしては、あまりコンセプトに流れていないなということです。
 普通、そういうコンセプト主導でドラマを作る場合、形から入ることが多いんですよね。
 たとえば、「結婚できない男を描くわけだから、まずいろいろなタイプの結婚できない男を3人くらい登場させよう。タイプはなるべくバラバラのほうがいい」「彼らは女っ気がなくて、いつも結婚できない者同士でうだうだつるんでいる」「そこにやっぱり結婚できない女3人が登場し、反発したり、くっついたりを繰り返し、3人の関係も少しずつ変わっていく」「対照として1人くらい結婚している男をまぜても変化が出るかも」……などなど、古いところでは「男女7人夏物語」のような感じで進んでいくパターンが予測できます。
 こういう群像劇スタイルは、コンセプトの一つひとつを具現するキャラを登場させるためにテーマを説明しやすく、コンセプト主導型ドラマでは定番ともいえますが、いろいろな立場をまんべんなく描かなくてはならない制約から、一歩間違えるとどのキャラも浅く広くという感じで類型に流れがちになる危険があります。
 もし今回そういうスタイルで作っていたとしたら、信介は間違いなく3人の「結婚できない男たち」のうちの1人に格下げされ、しかも色モノっぽいサブキャラになってしまう可能性大です(メインはもう少し普通っぽい男性が据えられ、3人目は見るからに結婚できなさそうな男ってところでしょうか)。
 しかし、それでは信介はただの変人キャラという類型にとどまってしまい、彼の生活スタイルや、美意識や、複雑な感情表現その他については充分描ききれなかったことでしょう。
 今回のドラマがここまで見応えのあるものになった勝因は、コンセプト主導ドラマの定石に頼らず、あえてひとつのキャラをピンで据えてその世界観を細部まで徹底して描いてみせたことにあると思います。

 信介を見ていると、「男って女に比べて変化が嫌いな動物なんだな」としみじみ思ってしまいます。
 信介は一人暮らしだし、お金にも不自由していないし、仕事も自営なので比較的自由度の高い職場だし、やろうと思えばなんでもできる身軽な身の上なのですが、彼の行動はひたすら規則に忠実です。まるでなにかの儀式のように。
 同じコンビニで同じ食料を同じつかみ方(?)でカゴに入れ、同じビデオ屋で同じ棚の前をウロウロし、同じ行きつけの店で同じ席に座り、同じバーでバーテンに必ず嫌味をいい、橋を渡るときは必ず欄干を触っていかないと気が済まない。
 もちろん、女にもそういう習慣やなじみのコースがないとは言いませんが、女の場合、本質的に変化を求める気質があるので、定着しながらも「このままじゃダメだ」とか「なんかもっと他にいいことがあるんじゃないか」といった焦燥感がにじんでくることが多いのではないでしょうか。まあ、もっとも女の求める変化は常にプチリニューアルであり、あくまでも安定ベースは前提なんですが。
 男の場合、徹底的に殻にとじこもって自分の美学を追求するか、さもなくば徹底的に自分を壊すか、どちらかにいくのが本質なんじゃないかって気がします。
 もちろん、たいていの男性は女性に手綱をとられることで実際はそんな極端な本質を露呈させることなく一生を終えるわけですが…。
 そういう意味では、信介は「結婚できない男」を選んだことで、思う存分固まることができたケースだと言えるでしょう。
 それが異様な姿に見えるとしたら、「信介が女のコントロールの及ばないところで生きている」からにほかなりません。
 「結婚できない男」支持者には(というか信介支持者には)男性が目立つというのもそう考えるとよくわかります。

 男も女も、そういう特有の本質が開花する前に結婚しておくものだ。そのタイミングを逃すと、本質の違いがますます強烈になっていき、どんどん結婚は難しくなる。
 ……という真理をこのドラマから見いだすのは簡単です。
 でも「42歳まで『結婚できない男』だった」という作者(尾崎将也氏)は、そういう難易度の高い状況だからこそ結婚するラストを描きたかったのではないでしょうか。
 ファンの間では「信介、最後まで結婚しないで」という声も根強いようですが、オープニングの主題歌が「住宅模型の壁をとりはらう信介」の姿で終わっていることを見ても、信介が最後に「心の壁」を自らとりはらうことは間違いないでしょう。
 「男と女ってほんとにとことん違うよね」という「呆れの境地」からスタートする結婚というのも、“晩婚”の醍醐味なのかもしれません。

 まだまだ語りたいことはあるんですが、皆さんの意見も聞きたいのでこのへんで。
 とにかく原作もののドラマや続編ばかりでウンザリしている昨今、「結婚できない男」は「おもしろいオリジナルドラマを見たい」という気持ちに久々にガッツリ応えてくれた傑作です。
 9月5日、12日、19日と残り3回になりましたが、未見の方は今からでもぜひチェックしてみてください。
 阿部ちゃんの鬼気迫る(?)役作りだけでなく、トウのたった男女の奥の深いユーモアの応酬と人情の機微、リアルな独身ライフなど、みどころ満載です。
 ちなみに、「TVステーション」に書いたコラムは13日に発売になります。

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愛のクドカン劇場

 NZ紀行が「クライストチャーチ編」まで終わり、一段落したので、このへんで閑話休題ということでドラマの話題をひとつ。
 5/22からTVS系で新しい昼ドラ「我が輩は主婦である」が始まりました。
 「池袋ウェストゲートパーク」や「木更津キャッツアイ」で人気がブレイクした宮藤官九郎の初昼ドラということで話題になっています。
 「池袋〜」や「木更津〜」はどちらかというと若者向けの尖ったタイプのドラマで、正直私はおもしろさがわからないんですが(ファンの人、ごめんなさい)、もうちょっと上の世代もゾーンに入る「マンハッタン・ラブストーリー」とかは大好きです。
 今回も昼ドラだし、「愛の劇場」だし、ということで、テイストは「マンハッタン〜」系といえるでしょう。

 クドカンのドラマの魅力は、まず第1に“濃いキャラ”、そして“芸の細かいギャグ”にあります。
 そもそも劇団の座付き作家なので、役者の当て書きは得意分野。その能力を存分に生かして、他の作家なら絶対に「この人にこんな役はやらせない」という意外性のある役を当て、役者の新たな魅力を引き出してきました。
 ギャグに関しては、かなり才気走ったセリフを書く人なので、ものによってはついていけない人も多いでしょう。一部には熱狂的なファンを持ちながら、「受け付けない」という人もけっこういて、そのへんが人気のわりにいつまでもマイナー感をひきずっている理由でもあります。

 たとえば、林真理子は今では直木賞作家として大御所的ポジションにいますが、最初のうちは露悪的なエッセイの印象が浸透しすぎて「正統的な小説を書く作家」としてなかなか認識されないという不運が続きました。まあ、そういう人はだいたい読まないでそういうこと言うわけですが。
 クドカンに関しても、林真理子ほど極端ではないにしても、明らかに作風の変容はあるのですが、最初に登場したときのインパクトが強烈なだけに、いつまでもアレルギーをもたれているきらいはありますね。
 舞台は完璧なファンだけが行くのでいいんですが、もっと間口を広くしなければならないTVではちょっと損してるかも。
 前置きはこのくらいにして今回のドラマです。

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・・・つづきはこちら

「愛と死をみつめて」40年ぶりのリメイク

 ちょっと古い話になりますが、広末涼子・草ナギ剛コンビで往年の大ヒット作「愛と死をみつめて」がリメイクされ、3月末にTV朝日で放送されました。
 その関連なのでしょう。同局ではその直後に吉永小百合・浜田光夫コンビによる映画版(1964年)も放送されていたため、見比べる良い機会だと思い、すべてを録画。春クールの連ドラ消化の合間を縫って、このたびようやく見終わりました。

 「愛と死をみつめて」は、言うまでもなく“純愛ブーム”のさきがけともいうべき伝説的なドラマです。
 軟骨肉腫という難病に冒され、左眼球と顔半分を切り取られる過酷な手術を受けながらも必死に生き抜こうとするヒロインと、彼女を一途に愛し、支えようとする恋人…。
 皆さん、細かいストーリーは知らなくても、「顔の左半分をガーゼで覆った若い吉永小百合のスチール写真」や「♪まこ、甘えてばかりでごめんね。みこはとっても幸せなの」というスペシャルヒット曲はどこかで目や耳にしたことがあるはず(余談ですが、この歌の出だし、なんか既聴感があるなーと思っていたのですが先日気づきました。「♪あ〜い、それは甘く〜」に激似。騙されたと思って歌ってみてください)。

 この話がこれほどヒットした理由──それは、これが実話に基づいている点にあります。
 みことまこのモデルであるみち子さんと実さんは、今で言う遠距離恋愛であったため、400通におよぶ手紙をかわしています。その書簡集と、みち子さんの手記から材を得て「愛と死をみつめて」はできあがりました。
 たしかに実話であることの重みは、それだけでドラマに力を与えます。
 が、同時に当事者(実さんは私の親と同世代くらいだと思います)がまだ実在しているということが、ドラマ化にあたってさまざまな不自由さを生んでいることも事実です。
 これはこのドラマに限らず、実話をドラマ化するときに必ずつきまとう問題なのですが。
 それでも、映画のほうは書簡集が出版された直後という旬の時期に制作されたものであるのに対し、今回は40年以上経過してからの制作であるため、かなり客観性が生まれていると感じました。
 もちろん、そうでなければリメイクの意味はないのですが…。

 私が興味深かったのは、「病気」に対するスタンスの描き方です。
 映画版は、かなり感傷過多で、いくら若いとはいえ、妙に老成した雰囲気の吉永小百合が自らを「みこ」と呼んでしまうむずがゆさもどうかなと思ったし、「かわいそうでしょ。ほらほら泣いて、泣いて」という匂いにもちょっとひいてしまったんですが、TV版(TV化は今までにも何回かされていますが、今回は昔と今の比較で語っていきたいので、TV版=広末・草ナギ版とお考えください)ではみち子の描き方がまったく異なっていたのが印象的でした。
 一言でいうと、みち子と実の関係性が、「映画版=実がイニシアチブをとり、みち子は実に依存している」であるのに対し、「TV版=みち子がイニシアチブをとり、実はみち子に支配されている」という印象を受けたのです。
 正確に言うと、みち子が手術を受ける決意をするまでは、まだ実がリードしていく部分もあったのですが、手術を受けてからは完全にみち子が精神的に上にたってしまうのです。

 みち子@吉永は、実しか目に入らないし、実にすがりながら必死に生きようともがいている感じですが、みち子@広末は、実を愛しながらも「完全に同じ世界を共有することはできない」という悲しみも知っているように見えます。
 病気の進行とともに、みち子は孤高の存在となっていき、実は「すぐそばにいるのに手が届かない存在となりつつあるみち子」に焦りや不安や気後れを感じていく……そういう描写が非常に新鮮でした。
 なぜなら、これほど過酷な病を背負った人間なら、こうなるのは当然の帰結だと思うからです。

 みち子を前にして何も言えずにただ立ちつくすしかないのは、実だけではありません。みち子の両親も、兄弟も、友人も、同室の患者も、医師・看護師も、みち子を前にして安易な慰めや同情や説教などできないのです。
 「どんな言葉も虚しい」と思ってしまうほど、病と向き合うみち子の姿は壮絶です。みち子と何かを分かち合おうなんておこがましいとすら思えてしまう。ただ逃げずにそこにいるだけで精一杯。自分の無力さに打ちのめされつつ、敬虔な気持ちで付き添うことしかできない。
 TV版では、実をはじめとする周囲の人間のそんなやりきれない思いが無言のまま溢れており、みち子だけがその重苦しい空気に突破口を与えることができる存在のように見えました。

 みち子は、同情をはねつけるように、しばしば実や担当医にサディスティックなからかいの言葉を投げつけ、その反応を見て楽しそうに笑ったりします。
 みち子にいじめられるたびに、周囲の人間は戸惑い半分、安堵半分といった表情になるのですが、みち子の苦しみの吐け口になっていると思えることが彼らに救いを与えていることもたしかだし、それをわかってわざとみち子がそういう態度をとっているという部分もあるのではないでしょうか。
 「広末のみち子は実にえらそうに命令しすぎるのに違和感がある。ちょっと現代的すぎるのではないか」というような感想を耳にしましたが、私はそうは思いません。
 「えらそうに命令する」という表面的な事象だけをとらえてそれを云々するのは無意味です。みち子がどんな思いでそういう態度に出て、実がどんな思いでそれを受け止めているのかを考えなければ2人の関係は読み解けません。

 死を前にしたみち子は、容易に心の内を周囲に見せようとはしません。そんなものを丸ごとうけとめてくれる人間がいるとは思えないからです。
 でもみち子だって人間ですから、誰かに受け止めてほしいと痛切に思う瞬間もあるわけで、その2つの気持ちの間で揺れ続けるのがみち子という役の作りどころです。
 みち子@広末は、「情に溺れない」という一貫したアプローチでこの役を作り上げており、従来の「お涙頂戴モード」とは一味違うドラマになっていたと思います。

 内容からはちょっとずれますが、映画版を観ていてギョッとした箇所がいくつかありました。
 中でも一番驚いたのは「医者がすごく威張っていること」です。
 若い女性が顔を切り取られるという事実に対するデリカシーとか逡巡とか葛藤などは微塵もないし、病室に回診に来るシーンでは、どっかりと腰をおろし(勤務中に座るなよ!)、なんとやにわにタバコをとりだし、患者の目の前でプカプカ喫煙しながら病状説明をするんですよ。思わず画面の中に入っていって殴り倒してやろうかと思っちゃいましたよ。
 しかも、「経済的に大変だから個室から大部屋に移る」という話も、「きみのお父さんは中小企業で経済的に苦しいだろうから」とか病人の前で平気で言っちゃうんですよ。そういうことは「まわりは言わないけど、本人が察して自分から移る」とかそういう運びにすべきでしょう。
 この当時はこういう医者も「特に変だと思わない」くらい普通だったんでしょうかね。

 逡巡といいましたが、映画版は「お涙頂戴モード」のわりには、意外に逡巡の描写が薄くて展開が淡々としています。
 手術を決意するまでもすごくあっさりしているし、手術後の大変な回復期の描写もなく、切り取られた顔についてもすぐに受け入れちゃうんです。
 TV版ではそのへんかなり丁寧に描かれていて、「気管切開されてしばらく声が出ない」とか、「傷がふさがるまで、発音もうまくできなくなる」とか、「トイレでこっそり手術したほうの顔を見てしまい、取り乱す」とか、かなりリアルなんですけど。
 まあ、TV版は映画版の倍の時間を割いているから同列には語れないんですけど、そういうディテールの積み重ねがあるからこそ、みち子の変化も周囲の変化も理解できるようになるんだと思うんですよね。

 このドラマは「純愛もの」であるのと同時に「闘病もの」でもあるわけですが、この40年で病院をとりまく環境は一変したし、「闘病ドラマ」のノウハウも進化しました。2作を見比べて思ったのはその「差」でした。


「愛と死をみつめて」(DVD2006年版)
2006年に放送されたTVドラマのDVD。
出演は草ナギ剛、広末涼子他。
監督は犬童一心。



「愛と死をみつめて」(DVD1964年版)
1964年に放送された映画のDVD。
出演は 浜田光夫、吉永小百合他。
監督は斉藤武市。



「愛と死をみつめて ポケット版」(本)
映画化・ドラマ化のソースとなったミコとマコの書簡集。
ポケット版になって文庫サイズに。



「若きいのちの日記—『愛と死をみつめて』の記録」(本)
みち子さんが亡くなる間際まで書きつづっていた日記。
こちらは手紙には書けなかった自分だけの秘めた思いなどが綴られており、
書簡集とセットで読むとみち子さんの気持ちが立体的に浮かび上がってくる。



「『愛と死をみつめて』終章」(本)
60代になった実さんが、
今、2人のことをあらためて書き起こしたドキュメンタリー。

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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