古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
カテゴリー「舞台」の記事一覧
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「ライト・イン・ザ・ピアッツァ」観たけど…
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「ウーマン・イン・ホワイト」を観ました
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6人目のトートが“近すぎる”件について
「ライト・イン・ザ・ピアッツァ」観たけど…
2005年度のトニー賞6部門を受賞したという作品で、「すごく感動的」という前評判をあちこちで聞いていたので、かなり期待して行きました。
正直に書きます。
私には期待はずれでした。
歌も(難曲なのはわかるけど)「もうちょっとしっかり歌ってよ」と思いましたし、なによりも脚本が……納得できないことだらけで気持ちがどんどんひいていきました。
舞台は、1953年のフィレンツェ。
アメリカ人の母娘が観光旅行を楽しんでいる。
娘のクララ(新妻聖子)は、現地のイタリア人の男の子ファブリツィオ(小西遼生)と出会い、2人は一目で恋に落ちる。
ファブリツィオはなんとかクララを誘おうとするが、そのたびに母のマーガレット(島田歌穂)が邪魔をする。
それでも母はクララを説得することができず、2人はファブリツィオの家へ。
ファブリツィオの両親、兄夫婦は、母娘を歓迎。クララとファブリツィオを結婚させようという話がトントン拍子に進む。
マーガレットは何回も「クララについての重大な秘密」を家族にうち明けようとするが、どうしても言い出せず、悩み、葛藤する。
とうとうクララを連れてフィレンツェを出るという強硬手段に出るマーガレットだが、クララの強い意志を感じ、彼女を手元から飛び立たせることを決意する。
簡単に言うとこんなストーリーです。
このストーリーだけではよくわからないと思うのですが、要するにクララには精神的な障害があるんですね(あまりに無邪気なので10代に見えるがじつは26歳)。
でもそれはパッと見てすぐにわかるものではなく、特にファブリツィオ一家は外国人なので、細かいニュアンスもよくわからないという設定です。
精神障害という新たな設定はあるものの、基本的な設定は映画の「旅情」を思わせます。
アメリカ人のハイミス(←死語!)とイタリア人の中年男(じつは妻子もち)がヴェネツィアで出会って恋に落ちるというもので、不器用な大人の恋って感じが見事に描き出されている秀作でした。くちなしの花など、小道具の使い方もしゃれていて、結局別れが待っていて泣けるんだけど後味が凛としてさわやかで、主人公2人の魅力の描き方も秀逸で、じつにすばらしい映画でした。
しかし、今回は設定が似ているだけに、「『旅情』よりもさらに障害が大きい設定なのに描き方は薄っぺらいな」という印象が否めませんでした。
これがあちこちで「深い」「感動的」と絶賛されるのが私にはどうしてもわかりません。
疑問その1。
クララの「障害」っていうのが結局どういう障害なのかわからない。
「12歳のとき、ポニーと遊んでいて頭を蹴られて大怪我をした」「以来、心の成長が止まってしまっている」という程度の情報しかないので、クララがどの程度「普通でない」のかがわからないんですよね。
前提としてそこがはっきりしないと、マーガレットの心配にも共感しにくい。ひらたく言うと、「本当はそれほどひどいものではないが、娘を神経質に心配するあまりに過保護になりすぎている母親の話」ととらえたらいいのか、本当に自立させるのがかなり困難な病状なのかが判断できない。できないと最後のマーガレットの決断の重さ(=無謀さ)もどう受け止めていいのかわからないし。
医者のコメントとか、ある程度客観的な視点が入っていればそれがよすがになるんだけど、終始母親の視点でしか書かれてなくて、しかも情報が断片的なので、そのへんがイライラさせられるんでずよ。
「12歳でとまってる」というのも微妙。3歳とか5歳とかならともかく、12歳ってけっこうすでに人格も固まってるし、理解力だってあるし、そういう意味では充分大人ですよね。
最初は「性的な視線に対して無防備」という意味なのかなと思ったんだけど、だとしたら「男の子に声をかけられると、次にどうなるのか想像できずにホイホイついていってしまう→その気があると判断した相手が男として迫ってくるとびっくりしてパニックになる」というような展開があるのかなと思いますよね。
でも、ラブシーンではむしろクララのほうが積極的だったりしたので、そこも「???」でした。
クララの成長を見せるためにも、たとえば「最初は何を見ても怯えていて、自分から行動しようとしない状態」だったのが、ファブリツィオと出会ってから見違えるように積極的になったとか、もっとわかりやすい変化を出してほしいのですが、見ていてあまり変化しているように見えなかったため、マーガレットが急に考えを変える根拠も希薄に感じられました。
疑問その2。
とにかく展開が遅すぎます。
そしてなによりも「ファブリツィオ一家にクララの病気のことを話さないまま結婚させてしまうマーガレット」に非常に疑問を感じました。
だってそこが一番ドラマのキモでしょう。
相手が病気のことを知ってどんな反応をするのか。
一度は諦めるかもしれない。
応援してくれる人、反対する人、それぞれの立場で葛藤が生まれ、クララもつらい思いをするかもしれない。
でもそれを乗り越えて2人が結ばれる強さを見せたとき、初めてマーガレットも「娘から卒業」でき、クララもファブリツィオも精神的に真の成長を遂げることができるのではないでしょうか。
そこを描かないなら、「障害をもつヒロイン」なんて設定を使わないでほしいです。
2幕構成なら、少なくとも1幕の終わりくらいでクララの病気のことが明るみに出てしまい、2人のピンチ!という事件をつくり、2幕で2人がどうやってそれを乗り越えていくのかを描くべきでしょう。
なのに結局最後までマーガレットが一人で悶々と悩み、迷い、観客にむかってこぼしているだけで、誰も病気に気づかずに終わってしまうというのはいかがなものでしょうか。
あげくのはての結論が「障害があるからとか本当はたいしたことじゃないのかもしれない」って……いや、たいした問題ですよ、ファブリツィオ一家にとっては。
言ったうえでの波乱を乗り越えたうえでそういうこと言うならともかく、真実を話し、クララを理解してもらおうという努力をしないままそんなこと言われても。
べつにマーガレットがうち明けなくてもいいと思うんですよ。母親としては、できれば言いたくないことだろうし、言えない気持ちはよくわかるから。
でも、ファブリツィオ一家が誰も気づかないのは不自然です。
実際、何度もクララが「え?」と思うような行動をとる場面がありましたからね(一番顕著だったのは、兄嫁がふざけてファブリツィオにキスしたとき、いきなりキレて攻撃的になった事件)。
そういうときに、家族の中で「おかしいかも」と思う人と、「いや、おかしくない」という人と反応が分かれるくらいの描写はあってもいいと思うんですが、常に全員が同じ反応で、誰も「おかしい」と思わないのが疑問。
ファブリツィオ一家の誰かが気がついて忠告するとか、マーガレットに問いただすとか、なんかそのくらいのアクションはあってもいいんじゃないですかね。
疑問その3。
ファブリツィオ一家の力関係というか、どういう一家なのかがいまひとつよく伝わってきませんでした。
そもそも、町でちょっとかわいい外国人観光客を息子がナンパして家に連れてきたからって、すぐに「結婚させましょう」なんていう親がいるか?
そういうところがなんかうそくさいというか、ひいちゃうとこなんですよ。
しかもお父さん、クララが26歳(ファブリツィオより6歳年上)ということがわかったとたん、いきなり不機嫌になって教会出ていっちゃうんですよ(式のリハーサルの途中で)。
そんなことで「許せん」なんて頑固親父っぷりを発揮するくらいなら、その前にもっと相手のことをチェックする余裕をもてよと言いたい。
逆にそのエピソードで「決してリベラルな親じゃないんだ」ということがわかるため、「じゃあなんで1回会っただけの行きずりの外国人との結婚を簡単に許すんだ」ってところが疑問になるわけです。
クララとファブリツィオのカップルに対し、ファブリツィオの両親、クララの両親、ファブリツィオの兄夫婦、と3組のカップル(夫婦)が出てきますが、3組出すからには3通りの夫婦の形を見せ、それぞれのアプローチで若い2人の結婚になにかを問いかけるようにしてほしいところですが、「兄夫婦は兄の浮気癖のために夫婦仲がうまくいってない」「クララの両親はクララのことで夫婦仲が冷えているらしい」くらいの情報しかないので、どの夫婦関係もあまりドラマ展開に生かされていないのが惜しい。
疑問その4。
クララとファブリツィオのが恋に落ちるきっかけですけど、もうちょっとなんとかなんないですかね。
ドラマだし、一目惚れっていうのはあってもいいと思うけど、風でとんでしまった帽子を拾っただけでもうラブラブになるのってちょっと能がなさすぎでは?
旅先なんだからいくらでも出会いのきっかけは作れそうなのに(観光客が困っているときに現地の人が助けてあげるなんてパターンは山ほどあるだろうに)。
ファブリツィオが毎日女の子に声かけまくっているようなキャラならそれはそれでいいけど(で、毎回同じ手をつかってるとかね)、どう見てもそういうキャラじゃない、ある意味イタリア男らしからぬ奥手キャラなんで、よけいに違和感を感じました。
また、ファブリツィオがクララのどこにそんなに夢中になるのか、そこも描いてくれないと短期間で「結婚」にまでいくのはちょっとどうだろうと思います。
たとえば、ファブリツィオは父の経営する店で見習いをしていて、厳しくしつけられていたが、自分に自信がない、もしくは「自分にはこんなことむいてないんじゃないか」と悩んでいたが、クララに出会って自信を取り戻したとか、なんでもいいんですが、2人の距離が縮まるようなエピソードがなにかほしいですね。
以上、気になった点、不満な点をあげてみました。
ミュージカルにしては等身大のお話で心理劇的要素が強い作品なので、そこが「超大作ミュージカル」に食傷気味の観客に受けたのかもしれませんが、なまじ芝居の要素が多いだけに「芝居として気になる点」が目立ってしまったのかもしれません。
それでも、終演後はスタンディングオベーションだらけだったので、皆さんの満足度は高かったんでしょうか(もっとも最近はなんでもかんでもスタンディングする傾向があってこれもどうかと思いますが)。
千秋楽だったためか、客席には業界関係者が多く、加賀まりこさんを見かけましたが、あまりお気に召さなかったようで、同行者の若い男性に「ふーん。これに感動するんだ。ピュアなんだね」とさめた口調で語っておられました(笑)。
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「ウーマン・イン・ホワイト」を観ました
仕切りなおして……「ウーマン・イン・ホワイト」です。
昨日から急にアクセスが増えてるんですけど、どうやらほとんどが「ウーマン・イン・ホワイト」で検索して来られた方のようです。
「ウーマン・イン・ホワイト」のレビューを期待して検索して前回の記事(↓)にたどりついた方、ごめんなさい。これじゃ詐欺ですよね。怒りましたよね。
今後も同様の人が増えそうな予感なので、犠牲者をこれ以上増やさないためにさっさとアップします。
……と言いつつ、私はネタバレ主義なので、以下はネタバレありありです。
オチとか、展開とか知りたくない方はここから先には踏み込まないほうが身のためです。
では、まずストーリーからご紹介しましょう。
19世紀半ばのイギリス。
貧乏な絵画教師・ウォルター(別所哲也)は、ロンドンを発ち、夢のような美しい自然が残る北部湖水地方にやってきた。
彼は、ここの大地主フェアリー家の屋敷で、絵を教えるという職を得てきたのだ。
着いて早々に、彼は謎めいた白いドレスの女と出会う。
なにかに怯えたような様子の彼女は、「秘密なの。全部秘密なの」とうわごとのように言って去っていく。
フェアリー家の当主はすでに亡くなり、莫大な資産は一人娘のローラ(神田沙也加)が相続していた。ローラには父親が異なる姉マリアン(笹本玲奈)がいて、2人は仲むつまじく暮らしている。
あとは当主の弟にあたるフレデリック(光枝明彦)が姉妹の後見人として世捨て人のような暮らしをしているのみである。
姉妹と会ったウォルターは驚く。白いドレスの女とローラがうりふたつだったのだ。
3人でスケッチをする幸せな日々が過ぎていく。
マリアンは、都会からやってきた二枚目絵画教師に心浮き立つものを感じる。
しかし、ローラもまた、彼にひかれており、ウォルターの気持ちはローラのほうにむいていることにマリアンは気づいていた。
村祭りの日、ウォルターは再び白いドレスの女と出会う。
彼女は「アン・キャスリック」と名乗り、「自分をひどい目に遭わせた男がいる。その名前はパーシヴァル・クライド卿」という言葉を残して消える。
一方、マリアンは、妹とウォルターの仲を心配し、ウォルターに「ローラには親が決めた貴族の婚約者がいる。ローラへの思いは封印してほしい」と言い渡す。
もともと結ばれる身分でないことは承知していたウォルターは、ローラを諦めようとするが、婚約者の名前を聞いてショックを受ける。
その名前は、白いドレスの女が口にした「パーシヴァル・クライド卿」だった。
ローラとパーシヴァル卿(石川禅)の婚約式の日、ウォルターはパーシヴァル卿に「アン・キャスリックに何をしたんだ」とつめよる。
パーシヴァル卿は、「アンの母親は以前フェアリー家で奉公していて、その後うちで働くようになった。アンは次第に精神を病むようになり、気の毒に思って病院に入れたのだ」と説明。
人々はパーシヴァル卿の思いやりに感服する。
祝いの席をぶちこわしにしたウォルターにマリアンは怒り、屋敷から出ていくように言う。
やがて、ローラとパーシヴァル卿の結婚式がとりおこなわれる。
「これでローラも幸せになれる」と安堵したマリアンだったが、新婚旅行から戻ってきたローラの表情には幸せのかけらも感じられなかった。
心配するマリアンに、ローラは折檻された傷跡を見せる。
「あの男がほしいのは財産だけ。愛なんてない。悪魔のような男よ」
激しいショックを受けたマリアンは、ローラに結婚を勧めたことを後悔する。
また、その裏に「ローラとウォルターの仲を引き裂こう」とした自分の嫉妬があったことに気づき、これからは自分の人生をかけてローラを守らなければならないと決意する。
パーシヴァル卿は、貴族の爵位はあるものの、内情は破産寸前で、ローラの資産が目当てなのは明らかだった。
資産を手に入れるにはローラのサインが必要だったが、ローラがどうしてもサインしようとしないため、彼はいらだっていた。
彼にはフォスコ伯爵(上條恒彦)という女好きのうさんくさいイタリア人医師の相棒がいたが、フォスコ伯爵はマリアンに興味を抱く。
ある日、マリアンは白いドレスの女=アン(山本カナコ)に出会う。
アンは「ローラに秘密を話したい。明日の同じ時間にここへ連れてきて」と言う。
翌日、マリアンはローラを連れて同じ場所を訪ねる。
双子のように自分に似ているアンに驚くローラ。
初めて出会った3人は不思議なつながりを感じ、勇気を得る。
しかし、あとをつけてきたパーシヴァル卿は、3人をひき離し、アンをロンドンの病院に送り込むと宣言。
絶望するローラだが、マリアンは「私は負けない」と自分をふるいたたせる。
マリアンは、危険を冒してパーシヴァル卿とフォスコ伯爵がぐるであることをつきとめるが、雨にあたったことが原因で3日間寝込んでしまう。
目が覚めたマリアンに告げられた知らせは「ローラが転落死した」という衝撃的なものだった。
しばらくは、失意の底に沈むマリアンだったが、「ローラの無念を晴らしたい」一心で、ロンドンまでアンを探しにいき、真実を明らかにすることを決意。
そのためにウォルターに協力を依頼しようと考える。
ロンドンに出てきたマリアンは、やっとの思いでウォルターと再会する。
ウォルターはローラを失った悲しみで生ける屍のようになっていたが、マリアンの懇願で彼女に協力する気になる。
まずはアンに会うこと。アンの居場所はフォスコ伯爵が知っているはずだ。
マリアンはフォスコ伯爵が自分に興味をもっていることを利用し、誘惑して居場所をつかみだそうとする。
マリアンの企みは途中でバレてしまったが、フォスコ伯爵はなぜか彼女を見逃す。
ようやく病院にたどりついたマリアンとウォルターは、アンに面会を申し込むが、そこにいたのはなんとアンではなくローラだった。
どうやら、アンは口封じのために殺され、代わりにローラがアンとして病院に閉じこめられたらしい。
パーシヴァル卿の卑劣さに怒りをあらたにするマリアン。
その頃、パーシヴァル卿は、財産の所有権を持つフレデリックにサインをするように迫っていた。
マリアンたちが到着したときには、すでにパーシヴァル卿は立ち去ったあとだったが、そこで彼らはフレデリックの口から「アンはローラの父親が召使いに産ませた子供。日に日にローラに似てくるのを恐れてパーシヴァル卿の屋敷に追い払われたのだ」と聞く。
書類にサインをもらったパーシヴァル卿は、駅に向かうが、鉄道事故の影響で列車がなかなか到着せず、いらだっていた。
そこへアンの亡霊が現れ、彼の罪を暴き立てようとする。
恐怖にかられて昔の罪(アンを孕ませて子供を湖に沈めたこと)を告白してしまうパーシヴァル卿。
しかし、それはアンを演じたローラだった。
自分の悪事が露見したパーシヴァル卿は、パニック状態に陥り、トンネルの中に走っていって事故死する。
すべてが解決したあと、マリアンは、あらためてウォルターにローラを託し、自分の思いは封印するのだった。
以上です。
一言でいって「古風」なお話です。
それもそのはず、この原作はヴィクトリア朝時代(19世紀半ば)に書かれた通俗小説で、当時の人の価値観や社会通念に根深く覆われているのです。
ミステリ小説といえば、イギリスのお家芸ですが、これはそのミステリ小説の元祖ともいうべき作品で、当時の人気はかなりのものだったようです。
が、当時はともかくとして、現代にこれをよみがえらせようと思ったら、それなりに「現代人の視点」がないと厳しいかなと思うんですよね。
マリアンが戦うヒロインなのはよくわかります。
現代に比べて圧倒的に弱い立場だった女性が、たった一人で妹のために勇気をふりしぼって敵に立ち向かっていく姿。それがこの作品の一番の魅力でしょう。
ただ強いのではなく、ほんとに世間知らずの無力なお嬢さんなんだなということが漂ってくる(ロンドンに着いたとたん、身ぐるみはがれちゃうとか。人をすぐに信じちゃうとか)のがまたポイントで、弱い部分が前提になっているからこそ、さらにけなげに見えるという効果があります。
でも、もうひとつ、ひいた視点でヒロインを観察する“現代との接点となるキャラ”がほしいなと思っちゃうんですよね。
この中でいうと、やっぱりフォスコ伯爵でしょうか。
フォスコ伯爵は、一応お金のためにパーシヴァル卿に協力し、犯罪にも手を染めるわけですが、ギャンブルに夢中になるパーシヴァル卿を見放したり、自分をだまそうとするマリアンを見逃したり、基本的には誰の味方でもないような微妙な位置にいます。
つまり、外国人でもある彼は、この中では時代のしがらみから一番自由な存在なわけです。
現代人としては、彼の目を通してこの作品に参加したいなという気になるんですが、惜しいのはそこまではっきりした役割を担っていないこと。
最初の登場など、明らかにエロエロ成金親父って感じの3枚目キャラになっているのがもったいない。
これはあくまでも私の希望ですが、フォスコ伯爵はあんなじいさんじゃなくて、もっと若い色敵みたいなキャラにしてほしかったです(ちょっと若すぎるけどたとえば吉野圭吾系とか)。
でね、マリアンが誘惑にいくシーンも、海千山千の彼としては最初から気づいててだまされてやってるっていう芝居がほしいですね。途中で気づくんじゃなくて。
マリアンがこんなことするキャラじゃないことは彼はとっくにわかってるわけです。
キャラじゃないのに、こんなことまでするんだという彼女の気持ちに打たれて彼は芝居につきあってやる。
もともと彼はパーシヴァル卿にそれほど肩入れしてるわけじゃないし、かなり世慣れた人ですから、あとは犯罪がバレても自分には及ばないくらいの細工はしているはず。
マリアンの芝居につきあうくらいの余裕はあっておかしくないと思います。
そのうえで、彼には、マリアンの古風さにひかれながらも「そんなに自分を殺していいの? 自分のために生きてもいいんじゃない? 妹のためだけじゃなく」という問題を投げかける存在になってほしい。
最初はフォスコ伯爵を「軽薄な外国人」と軽蔑していたマリアンも、一瞬この考えにグラッとなりそうになるんだけど、最後は「私はこういうふうにしか生きられないの」と自分の生きる道を見つける。
そんな関係を見てみたいですね。
実際、ちょっとそういうやりとりがあったんですけど、上條フォスコが最初からあまりにも田舎のエロ親父風に登場しちゃったんで、いいこと言ってもあんまりまじめに聞く気になれなかったのが残念。
エロはエロでいいんだけどー、もっと危険な香りがほしいですね。
たとえば……北村一輝とか(笑)。
それでいくとラストも私は不満です。
マリアン、ウォルターに「ローラのところへ行け」と合図する→ウォルター、「でもそれは…」と逡巡する(なぜなら彼はマリアンの気持ちを知っているから)→「いいのよ、私は」とウォルターをみつめるマリアン→「それじゃ」って感じでローラのところへ行ってしまうウォルター→ほほえんで2人を見るマリアン→幕
……って、そりゃないだろ。
ウォルター、きみってやつは…(笑)!
この作品で観客がもっとも感情移入するのは間違いなくマリアンです。
だからこそ、この行為はかなり「ひどいんじゃない?」っていう納得できない印象を残すと思います。
ここでも私はフォスコ@北村(←もう脳内では北村変換)にからんでほしいですね。
マリアン、ウォルターに「ローラのところへ行け」と合図する→ウォルター、「でもそれは…」と逡巡する(なぜなら彼はマリアンの気持ちを知っているから)→また、妹も姉の気持ちに気づいて遠慮する→マリアン、「私もこれからは自分のことを考えてみたいの。しばらくフォスコ伯爵とヴェネツィアにでも旅行しようと思うの」と明るく言う→フォスコ、喜ぶ→「ええっ、いつのまにそんなことになってたんかい!」と驚く2人だが、「そういうことなら」と納得する→2人が去ったあと、マリアンが「伯爵」ときりだそうとするとフォスコはそれを押しとどめる。「わかってますよ。シニョリータ。あなたがヴェネツィアに行くつもりなんかないってことは」→フォスコ、マリアンの生き方も評価するようなことを言って去っていく→残されたマリアン、すっきりとした表情で歩いていく
せめてこのくらいの芝居は入れてほしいな。
この時代の社会通念としてはおそらくありえないと思うけど、現代人のハートには確実にひびくと思います。定番すぎてくさいけど。
他にも気になるところはいっぱいあるんですが、なんといっても一番気になったのは
ウォルター、結局きみは何もしてないよね。。。(-_-)
ということ。
普通、ある土地に秘密があり、そこに外からの訪問者が入ってくることでドラマが起こる場合、その訪問者が謎を解いていくリーダーになるんじゃないか?
なのに、ウォルターってば、明らかに様子のおかしい女が口走ったというだけで、人の婚約式をぶちこわすような非常識な行動をとり、開き直ってその土地を早々に立ち去り、姉妹が危機に陥っているときはずっと登場せず。
ようやく後半で登場したと思ったら、解決に向けての行動はすべてマリアンがして、彼は付き添ってるだけ。唯一やったことは最後にパーシヴァル卿に暴力をふるったことだけ。
よく考えると随分な人です。
あとそこの「白い女」!
何回も登場するわりに秘密しゃべるのが遅いよ。
あんたがもったいぶらずにさっさとしゃべってればこんなことにはならなかったんだよ。
もちろん、すぐに解決してしまったらドラマにならないのはわかってるんですが、それならそれで「しゃべろうとすると邪魔が入る」とか障害を作ってほしいです。
しゃべるチャンスがいっぱいあるのに全部自分で見送ってるのがとっても気になります。
それにしても、姉妹は今までにアンに出会うチャンスはなかったんでしょうか。
新参者のウォルターはあんなに頻繁に会ってるのに、ずっとそこに住んでる姉妹が会ったことないってのも不自然。
そしてあんなに頻繁に患者を抜け出させてしまう病院の管理体制はいかがなものでしょうか?(笑)
歌はマリアンの笹本玲奈が健闘していました。
まだ22歳なのに、落ち着いたお姉さん役も堂々と板についていたし、歌も一番安定していました。
一般の認知度は低いけど、ミュージカル界ではひっぱりだこの玲奈ちゃん。今後の成長が楽しみです。
そして、神田沙也加は遠目で観ると松田聖子そっくりだった。いっそのこと、「白いドレスの女」は松田聖子がやったらどうだろう(笑)。
東京公演は青山劇場にて12月2日まで上演。
そのあと愛知県勤労会館で12月22・23日の2日間上演予定。
6人目のトートが“近すぎる”件について
宝塚雪組の「エリザベート」を観てきました。
「エリザベート」についてはもう今までにしつこいほど書いてきたので、皆さん(特に観たことない人は)「またか!」とうんざりかもしれませんが、今回は「エリザベート」の話だけど「エリザベート」の話じゃない部分もあるので、お許しください。
一応説明しておきますと、宝塚で「エリザベート」が初めて上演されたのは1996年。一路真輝の退団公演の演目に選ばれたのがこのウィーンミュージカルでした。
以後、星組→宙組→花組→月組と再演され(必ずしも続いて上演されたわけではなく、ものすごく間が空いた時期もあります)、11年かけてまた雪組に戻ってきたのが今回の公演です。
もちろん、11年たったらメンバーはほとんど入れ替わっているので、同じカンパニーでの公演とはもはや言えません。
ただ、宝塚は組替えが多いので、前にいた組のときとか、前の前の組にいたときとか、過去になんらかの形で「エリザベート」にかかわっていた人もけっこういるんですが、その場合、同じ役をやることは稀で(だいたいそのときの学年にふさわしいポジションの役を与えられるので)、「前は××だったけど、今回は▲▲だった」など、かかわるたびに出世魚のように役が変わっていくのがひとつの楽しみだったりします。
が、それにも運不運がついてまわり、これは「ベルサイユのばら」とか「風と共に去りぬ」のような再演の多い人気作品にも言えることなんですが、こういった作品にものすごく当たる確率が高い人とそうでない人というのがいるんですよ。
たとえば、大地真央が上記の2作品に恵まれなかったのは有名な話です。正確に言うと下級生のときに小さい役では出てるんですけど、主役を張れるスターになってからはかかわる機会がなかったようです。
今回の公演でいうと、フランツ役の彩吹真央はなんと3度目。しかも前回はルドルフですから、これだけ大きい役を続けてできるのはかなり「エリザ運」がいいのかもしれません。
一方、意外なのは主役のトートをやる水夏希(今回は水のトップお披露目公演になります)。
あんなに組替え多かったのに、なんと「エリザベート」に出演するのは今回が初めてなのだそうです(本人いわく「(エリザベートを)やらない組、やらない組を渡り歩いていた」とか)。
下級生ならともかく、トップになるくらいの学年で、11年間1回も当たらなかったというのもかなり珍しいかもしれない。
まるで、私の宝塚友の会の花組運みたいだ…(ついに春野寿美礼在任中は一度も当たらず。次はさよならだし、よけいに無理でしょう。なぜか花だけが毎回1枚も当たらない…)。
というのは前振りで、今回はこの水のトートについて書きます。
じつは「エリザベート」については、ウィーン原典版を観たときに、あまりに完璧な台本&音楽&表現と解釈に完全にノックアウトされてしまい、これを観たあとはもうこれ以上のものがあるとは思えないという状態になっていたので、申し訳ないけど宝塚の「エリザベート」に対する期待感は前よりもずっと色あせていました。
もちろん、歌唱力のこともありますが、本来エリザベート主役の話を、男役中心にするため、無理やり彼女につきまとう死神(トート)を主役に据えて書き換えた……という脚色じたいにどうしても無理があり、ウィーン版の自然で説得力のある作品構造を観てしまった今となっては、宝塚版の無理ばかりが目につくようになってしまったことが大きいです。
とはいうものの、ヴィジュアルの美しさはやはり宝塚が一番。特にトートの造形は、もはや物語を飛び出して宝塚の男役にしかできないキャラとして一人歩きを始めており、トップが変わるたびに「私のトートはこれ!」という感じで披露してくれるのはそれだけで充分見応えがあります。
ウィーン版の作品構造のすばらしさと、「なぜトート主役だと無理が生じるのか」についてはHPでじっくり語りまくりましたが、今回は、その無理を承知でもなお宝塚の「エリザベート」に特別な魅力があるのはなぜか、について考えてみました。
宝塚歴代のトートは水で6人目になるわけですが(新人公演は除く)、どのトートにも持ち味というか、特徴があります。
大きく分けると「歌得意派」と「ダンス得意派」と「どちらも得意ではないがルックスや雰囲気にスターとしてのカリスマがある派」。
で、今頭の中で6人のトートをバーーーッと振り分けてみたんですが、あらためて分けてみると、水は「ダンス得意派」にカテゴライズされる初めてのトートかもしれないです。
まず、初代トートの一路真輝(雪組)。これはもちろん「歌派」の筆頭ですが、トートの造形じたいはシンプルで、“基本形”という感じ。人間くささもなく、「死」という無機的なものをそのまま忠実にクールに演じていました。
2代目トートの麻路さき(星組)は“ゴージャストート”。彼女自身はスケール感のある華やかさが持ち味で、どちらかというと歌が苦手だったので、歌の苦手感をカバーするためか、かなり人間くさく作りこんでいました。で、ここから「トートって象徴じゃないの? 象徴がこんなに感情的になっちゃっていいの?」という宝塚版の違和感とズレが始まるわけですが…。
3代目トートの姿月あさと(宙組)は“俺様トート”。彼女は「歌派」でしたが、「死」というとらえどころのないものよりは「黄泉の帝王」という方向でキャラクターを作り上げちゃった感じ。「恐ろしさ」とか「パッション」とかそういう動的なものを感じさせる役作りで、エリザベートとの一体感はあまりない。どちらかというと、男性がトートを演じるときはこのパターンに陥りがち。これについては後述します。
4代目トートの春野寿美礼(花組)は………ごめんなさい。チケットあててくれなかったからうらんでるわけじゃないんですが、正直、彼女のトートはわからなかった。周囲に数人熱狂的な春野ファンがいるので言いにくいんですけど。
カテゴリー的には「歌派」なんですが、私には今までのトートが少しずつまじっているように見えて、彼女のトートというものがはっきりとあとに残りませんでした。器用にいいとこどりしたっていうか…。彼女のトートで「エリザベート」ファンが急増したという話もきくのですが、ある意味今までのトートをいったん総括してみせたからこれといったくせや偏りがなかったのかもしれません。
5代目トートの彩輝直(月組)は、“虚無トート”。彼女は「ルックスと雰囲気とスター性」に入る人ですが、クールビューティでデカダンな感じが虚無的なトートにぴったりはまっていて、「男でも女でも人間でもないなにか」という点では初代トート以来の「死神」らしい「死神」でした。とにかく、この世のものとは思えない妖しい美しさとオーラで、動きも少なく、最小限の表現でしたが、それが最大の効果をあげていました。持ち味だけでいったらこの人が一番トートのイメージにぴったりなんじゃないかな。
そして今回の水夏希(雪組)ですが……。
基本的に前回の彩輝トートの路線だったんですよ。美しさとカリスマで圧倒しながらも決して人間くささを感じさせないという。
が、観ているうちにさらにプラスアルファを発見したのです。
最初はそれがなんなのかわかりませんでした。
でもなんか冷静に観ていられない。
観ててドキドキしてくる。息苦しさを感じる。
これはなんだろう……。
しばらくしてようやくわかりました。
近いんです。距離が。
客席との、じゃなくて、相手役との。
相手役といっても濃密にからむ相手はエリザベートと皇太子ルドルフくらいなんですが、そのときの距離感が異常にち・か・い。
もう8×4してきてもやばいくらい近すぎ(笑)。
思えば、彩輝はちょっと離れた場所から冷徹な目で人間を観察するトートといった感じでした。相手に接近しすぎるとどうしても知から情の世界になってしまい、人間くささが漂ってしまう危険もあるのだと思います。
事実、今まで相手との接触が多かったトートは例外なく人間くさかった。
でもほんとに不思議なんですけど、水は接触しまくってるのに人間くさくないんですよ。
さっきから「近い」を連発していったい何が近いのかよくわからないと思われると思いますが、うー、これは説明難しいんですが、物理的な距離も心理的な距離も近いんです。
具体例で言うと「ボディタッチがやたらに多い」。
ちょっと気を許すとすごいそばにいて、なにげにいっぱい触ってるんです。
そして(ここ重要)その触り方がチョーう・ま〜い!
それはもう尋常ならざるうまさですよ。ダンスで鍛えた繊細でしなやかな身のこなしが最大限に生きていて、その美しさにはほれぼれを通り越して茫然自失。
ちょっと近すぎでしょ、それ。触りすぎだって、それ。と動揺しながらも、なぜかそれがいやではない。というかむしろ気持ちいい。「もっと触って〜!」という気分になる。
これはすごいことですよ。
……と言うと、「えーー、気持ち悪い。女が女を触ってるの見て気持ちよくなるなんて。レズじゃん!」というつっこみが必ずくると思いますが、ことはそう単純ではないんです。
なぜなら、トートを演じている水は「男には絶対出せない味」を出していると同時に、「女」にも絶対に見えないから。
これがちょっとでも「ああ、女の人がやってるんだね」と感じさせる隙を見せたら、まず0.1秒後には「女が女を…キモい!」という抵抗感が観ているほうに生まれることは間違いありません。
ということは、これってよっぽど「女に見えない」ことに自信をもってる人でなきゃできない非常にリスキーな技ってことですよね。
次に、じゃあなぜ気持ちよくなるのか。ですが。
もしこのトートを男が演じたとしましょう。
男性のトートがエリザベートにものすごく接近し、触りまくったとしましょう。
そのとき、観ている側ははたしてこういう気持ちよさを感じることができるのか。想像してみたんですが、それは「否」でした。
もちろん、すべての男で試した(笑)わけではないので、中にはそれを芸の力でクリアする男優もいるかもしれませんが、基本的には「否」です。
なぜなら、男優がやれば当然「男と女」に見えてしまい、そこには異質なものが存在するという前提が生まれてしまうからです。
異質なものが一方的に迫ってきたら、当然そこには抵抗あるいは緊張感が生まれます。両者のコミュニケーションがうまくいってはじめて異質なもの同士が一体化できるわけですが、そこまでいくには想像以上に高い敷居を越えなければなりません。物理的には可能でも、心理的にと言われるとそれはなかなか難しい。
コミュニケーションは共感から始まりますが、一般的に「攻め」の役割を担う男性は「共感」が苦手。コミュニケーションが完璧にとれない限り、女は100%心は開かないものです。まあ開かなくても日常生活には支障ないんだけどね(笑)。ていうか開くほうが危険だし。
とにかく、そのために、攻めるトートと受けるエリザベートという図式を男女がそのままやると、緊張感や相克は伝えやすいけど一体感はかもしだしにくいわけです。
なぜなら、男が一歩接近するごとに、そこには「支配vs被支配」という匂いが漂ってしまうから。これは資質からくる根本的な違いなので、どうしようもありません。
ところが、これをいとも簡単に越えられるのが宝塚の男役なんですねー。
水トートが近すぎても抵抗を感じない、触りまくってもいやじゃないというのは、両者が同質なものであり、「支配vs被支配」の匂いが漂わないからです。
同質ゆえのアドバンテージで心理的な壁を即クリアできてしまうから、エリザベートも観客も水トートの侵入に対してこうもうかうかと無防備になれるわけ。
無防備な状態が気持ちいい。これが理由だったんですね。
「気を抜いたときに死が自分の内部に違和感なく侵入してくる」という危うい感覚はやはり宝塚にしか出せない特徴でしょう。
ではなぜドキドキするのか。
じつはこれこそ「宝塚の男役がなぜ女に快楽を与えるのか」という理由にもかかわってくるんですが、水トートのボディタッチは当然セクシャルなものを意識しての動きや形をもっています。女友だちが「ねえねえ」と触ってきたり、お母さんが抱きしめてくれたりするのとは種類が違う。
そういう意味では生身の男が与えるドキドキ感と同じといっていいでしょう。じゃあなにが違うかといえば、どちらかというと生身の男は「あんた、自分ひとりで気持ちよくなってないか?」的なジコチュー感を与えがちなのに対し、宝塚男役は同質だから「とにかく女が気持ちよくなることを中心」に考えることができるという点です。
一見、同じに見えるけど、後者はディスコミュニケーションの部分だけを巧妙に取り払っているため、純粋に「官能」の要素だけが残るというわけ。
この抽出された「官能」エキスこそが宝塚の醍醐味であり、男役と娘役のラブストーリーとか、道具立ては所詮後付けだと私は思っています。
考えてみれば、男だって抽出された「官能」だけを味わいに行く場所ってあるわけじゃないですか。
女にとっては「宝塚」がそれだといったら言い過ぎでしょうか。
というわけで、水夏希には「官能トート」という称号を捧げます。ルドルフへの「死の接吻」も史上最高か?というくらい長かったしなー(笑)。
どうでもいいんですけど、前から気になってたのが、エリザベートの寝室の場面。
エリザベートがフランツを閉め出すと、いつのまにかそばにトートが現れて、「こっちへおいで」「いやよ、あなたには頼らない。出てって」というような言い合いがあって、最後トートが「ちっ」って感じでひきあげるんですけど……。
これがねえ、ひきあげるときにドア開けて出ていくんですよ。
出ていくときは強がった自信ありげな顔で、ドアを閉めたとたん苦しげな表情になる……というのがデフォルトのトートの演技になってるんですが、演技表現以前に、私、個人的に「ドアを開けて出ていく死神」っていうのがすごく人間っぽくていかがなものかと思っちゃうんですけど。
だってあんた、出てきたときはそのへんから突然わいて出てきたじゃん。だったら退場ももっと神秘的にそのへんの装置の隙間からなんとなくはけてよ。なにもそこだけ律儀にドアから退場しなくても。。。
ウィーン版はドアから出ていったりしなかったと思うんだけどな……。
ここに小池先生の深いこだわりがあるんでしょうか。
「エリザベート」についてはもう今までにしつこいほど書いてきたので、皆さん(特に観たことない人は)「またか!」とうんざりかもしれませんが、今回は「エリザベート」の話だけど「エリザベート」の話じゃない部分もあるので、お許しください。
一応説明しておきますと、宝塚で「エリザベート」が初めて上演されたのは1996年。一路真輝の退団公演の演目に選ばれたのがこのウィーンミュージカルでした。
以後、星組→宙組→花組→月組と再演され(必ずしも続いて上演されたわけではなく、ものすごく間が空いた時期もあります)、11年かけてまた雪組に戻ってきたのが今回の公演です。
もちろん、11年たったらメンバーはほとんど入れ替わっているので、同じカンパニーでの公演とはもはや言えません。
ただ、宝塚は組替えが多いので、前にいた組のときとか、前の前の組にいたときとか、過去になんらかの形で「エリザベート」にかかわっていた人もけっこういるんですが、その場合、同じ役をやることは稀で(だいたいそのときの学年にふさわしいポジションの役を与えられるので)、「前は××だったけど、今回は▲▲だった」など、かかわるたびに出世魚のように役が変わっていくのがひとつの楽しみだったりします。
が、それにも運不運がついてまわり、これは「ベルサイユのばら」とか「風と共に去りぬ」のような再演の多い人気作品にも言えることなんですが、こういった作品にものすごく当たる確率が高い人とそうでない人というのがいるんですよ。
たとえば、大地真央が上記の2作品に恵まれなかったのは有名な話です。正確に言うと下級生のときに小さい役では出てるんですけど、主役を張れるスターになってからはかかわる機会がなかったようです。
今回の公演でいうと、フランツ役の彩吹真央はなんと3度目。しかも前回はルドルフですから、これだけ大きい役を続けてできるのはかなり「エリザ運」がいいのかもしれません。
一方、意外なのは主役のトートをやる水夏希(今回は水のトップお披露目公演になります)。
あんなに組替え多かったのに、なんと「エリザベート」に出演するのは今回が初めてなのだそうです(本人いわく「(エリザベートを)やらない組、やらない組を渡り歩いていた」とか)。
下級生ならともかく、トップになるくらいの学年で、11年間1回も当たらなかったというのもかなり珍しいかもしれない。
まるで、私の宝塚友の会の花組運みたいだ…(ついに春野寿美礼在任中は一度も当たらず。次はさよならだし、よけいに無理でしょう。なぜか花だけが毎回1枚も当たらない…)。
というのは前振りで、今回はこの水のトートについて書きます。
じつは「エリザベート」については、ウィーン原典版を観たときに、あまりに完璧な台本&音楽&表現と解釈に完全にノックアウトされてしまい、これを観たあとはもうこれ以上のものがあるとは思えないという状態になっていたので、申し訳ないけど宝塚の「エリザベート」に対する期待感は前よりもずっと色あせていました。
もちろん、歌唱力のこともありますが、本来エリザベート主役の話を、男役中心にするため、無理やり彼女につきまとう死神(トート)を主役に据えて書き換えた……という脚色じたいにどうしても無理があり、ウィーン版の自然で説得力のある作品構造を観てしまった今となっては、宝塚版の無理ばかりが目につくようになってしまったことが大きいです。
とはいうものの、ヴィジュアルの美しさはやはり宝塚が一番。特にトートの造形は、もはや物語を飛び出して宝塚の男役にしかできないキャラとして一人歩きを始めており、トップが変わるたびに「私のトートはこれ!」という感じで披露してくれるのはそれだけで充分見応えがあります。
ウィーン版の作品構造のすばらしさと、「なぜトート主役だと無理が生じるのか」についてはHPでじっくり語りまくりましたが、今回は、その無理を承知でもなお宝塚の「エリザベート」に特別な魅力があるのはなぜか、について考えてみました。
宝塚歴代のトートは水で6人目になるわけですが(新人公演は除く)、どのトートにも持ち味というか、特徴があります。
大きく分けると「歌得意派」と「ダンス得意派」と「どちらも得意ではないがルックスや雰囲気にスターとしてのカリスマがある派」。
で、今頭の中で6人のトートをバーーーッと振り分けてみたんですが、あらためて分けてみると、水は「ダンス得意派」にカテゴライズされる初めてのトートかもしれないです。
まず、初代トートの一路真輝(雪組)。これはもちろん「歌派」の筆頭ですが、トートの造形じたいはシンプルで、“基本形”という感じ。人間くささもなく、「死」という無機的なものをそのまま忠実にクールに演じていました。
2代目トートの麻路さき(星組)は“ゴージャストート”。彼女自身はスケール感のある華やかさが持ち味で、どちらかというと歌が苦手だったので、歌の苦手感をカバーするためか、かなり人間くさく作りこんでいました。で、ここから「トートって象徴じゃないの? 象徴がこんなに感情的になっちゃっていいの?」という宝塚版の違和感とズレが始まるわけですが…。
3代目トートの姿月あさと(宙組)は“俺様トート”。彼女は「歌派」でしたが、「死」というとらえどころのないものよりは「黄泉の帝王」という方向でキャラクターを作り上げちゃった感じ。「恐ろしさ」とか「パッション」とかそういう動的なものを感じさせる役作りで、エリザベートとの一体感はあまりない。どちらかというと、男性がトートを演じるときはこのパターンに陥りがち。これについては後述します。
4代目トートの春野寿美礼(花組)は………ごめんなさい。チケットあててくれなかったからうらんでるわけじゃないんですが、正直、彼女のトートはわからなかった。周囲に数人熱狂的な春野ファンがいるので言いにくいんですけど。
カテゴリー的には「歌派」なんですが、私には今までのトートが少しずつまじっているように見えて、彼女のトートというものがはっきりとあとに残りませんでした。器用にいいとこどりしたっていうか…。彼女のトートで「エリザベート」ファンが急増したという話もきくのですが、ある意味今までのトートをいったん総括してみせたからこれといったくせや偏りがなかったのかもしれません。
5代目トートの彩輝直(月組)は、“虚無トート”。彼女は「ルックスと雰囲気とスター性」に入る人ですが、クールビューティでデカダンな感じが虚無的なトートにぴったりはまっていて、「男でも女でも人間でもないなにか」という点では初代トート以来の「死神」らしい「死神」でした。とにかく、この世のものとは思えない妖しい美しさとオーラで、動きも少なく、最小限の表現でしたが、それが最大の効果をあげていました。持ち味だけでいったらこの人が一番トートのイメージにぴったりなんじゃないかな。
そして今回の水夏希(雪組)ですが……。
基本的に前回の彩輝トートの路線だったんですよ。美しさとカリスマで圧倒しながらも決して人間くささを感じさせないという。
が、観ているうちにさらにプラスアルファを発見したのです。
最初はそれがなんなのかわかりませんでした。
でもなんか冷静に観ていられない。
観ててドキドキしてくる。息苦しさを感じる。
これはなんだろう……。
しばらくしてようやくわかりました。
近いんです。距離が。
客席との、じゃなくて、相手役との。
相手役といっても濃密にからむ相手はエリザベートと皇太子ルドルフくらいなんですが、そのときの距離感が異常にち・か・い。
もう8×4してきてもやばいくらい近すぎ(笑)。
思えば、彩輝はちょっと離れた場所から冷徹な目で人間を観察するトートといった感じでした。相手に接近しすぎるとどうしても知から情の世界になってしまい、人間くささが漂ってしまう危険もあるのだと思います。
事実、今まで相手との接触が多かったトートは例外なく人間くさかった。
でもほんとに不思議なんですけど、水は接触しまくってるのに人間くさくないんですよ。
さっきから「近い」を連発していったい何が近いのかよくわからないと思われると思いますが、うー、これは説明難しいんですが、物理的な距離も心理的な距離も近いんです。
具体例で言うと「ボディタッチがやたらに多い」。
ちょっと気を許すとすごいそばにいて、なにげにいっぱい触ってるんです。
そして(ここ重要)その触り方がチョーう・ま〜い!
それはもう尋常ならざるうまさですよ。ダンスで鍛えた繊細でしなやかな身のこなしが最大限に生きていて、その美しさにはほれぼれを通り越して茫然自失。
ちょっと近すぎでしょ、それ。触りすぎだって、それ。と動揺しながらも、なぜかそれがいやではない。というかむしろ気持ちいい。「もっと触って〜!」という気分になる。
これはすごいことですよ。
……と言うと、「えーー、気持ち悪い。女が女を触ってるの見て気持ちよくなるなんて。レズじゃん!」というつっこみが必ずくると思いますが、ことはそう単純ではないんです。
なぜなら、トートを演じている水は「男には絶対出せない味」を出していると同時に、「女」にも絶対に見えないから。
これがちょっとでも「ああ、女の人がやってるんだね」と感じさせる隙を見せたら、まず0.1秒後には「女が女を…キモい!」という抵抗感が観ているほうに生まれることは間違いありません。
ということは、これってよっぽど「女に見えない」ことに自信をもってる人でなきゃできない非常にリスキーな技ってことですよね。
次に、じゃあなぜ気持ちよくなるのか。ですが。
もしこのトートを男が演じたとしましょう。
男性のトートがエリザベートにものすごく接近し、触りまくったとしましょう。
そのとき、観ている側ははたしてこういう気持ちよさを感じることができるのか。想像してみたんですが、それは「否」でした。
もちろん、すべての男で試した(笑)わけではないので、中にはそれを芸の力でクリアする男優もいるかもしれませんが、基本的には「否」です。
なぜなら、男優がやれば当然「男と女」に見えてしまい、そこには異質なものが存在するという前提が生まれてしまうからです。
異質なものが一方的に迫ってきたら、当然そこには抵抗あるいは緊張感が生まれます。両者のコミュニケーションがうまくいってはじめて異質なもの同士が一体化できるわけですが、そこまでいくには想像以上に高い敷居を越えなければなりません。物理的には可能でも、心理的にと言われるとそれはなかなか難しい。
コミュニケーションは共感から始まりますが、一般的に「攻め」の役割を担う男性は「共感」が苦手。コミュニケーションが完璧にとれない限り、女は100%心は開かないものです。まあ開かなくても日常生活には支障ないんだけどね(笑)。ていうか開くほうが危険だし。
とにかく、そのために、攻めるトートと受けるエリザベートという図式を男女がそのままやると、緊張感や相克は伝えやすいけど一体感はかもしだしにくいわけです。
なぜなら、男が一歩接近するごとに、そこには「支配vs被支配」という匂いが漂ってしまうから。これは資質からくる根本的な違いなので、どうしようもありません。
ところが、これをいとも簡単に越えられるのが宝塚の男役なんですねー。
水トートが近すぎても抵抗を感じない、触りまくってもいやじゃないというのは、両者が同質なものであり、「支配vs被支配」の匂いが漂わないからです。
同質ゆえのアドバンテージで心理的な壁を即クリアできてしまうから、エリザベートも観客も水トートの侵入に対してこうもうかうかと無防備になれるわけ。
無防備な状態が気持ちいい。これが理由だったんですね。
「気を抜いたときに死が自分の内部に違和感なく侵入してくる」という危うい感覚はやはり宝塚にしか出せない特徴でしょう。
ではなぜドキドキするのか。
じつはこれこそ「宝塚の男役がなぜ女に快楽を与えるのか」という理由にもかかわってくるんですが、水トートのボディタッチは当然セクシャルなものを意識しての動きや形をもっています。女友だちが「ねえねえ」と触ってきたり、お母さんが抱きしめてくれたりするのとは種類が違う。
そういう意味では生身の男が与えるドキドキ感と同じといっていいでしょう。じゃあなにが違うかといえば、どちらかというと生身の男は「あんた、自分ひとりで気持ちよくなってないか?」的なジコチュー感を与えがちなのに対し、宝塚男役は同質だから「とにかく女が気持ちよくなることを中心」に考えることができるという点です。
一見、同じに見えるけど、後者はディスコミュニケーションの部分だけを巧妙に取り払っているため、純粋に「官能」の要素だけが残るというわけ。
この抽出された「官能」エキスこそが宝塚の醍醐味であり、男役と娘役のラブストーリーとか、道具立ては所詮後付けだと私は思っています。
考えてみれば、男だって抽出された「官能」だけを味わいに行く場所ってあるわけじゃないですか。
女にとっては「宝塚」がそれだといったら言い過ぎでしょうか。
というわけで、水夏希には「官能トート」という称号を捧げます。ルドルフへの「死の接吻」も史上最高か?というくらい長かったしなー(笑)。
どうでもいいんですけど、前から気になってたのが、エリザベートの寝室の場面。
エリザベートがフランツを閉め出すと、いつのまにかそばにトートが現れて、「こっちへおいで」「いやよ、あなたには頼らない。出てって」というような言い合いがあって、最後トートが「ちっ」って感じでひきあげるんですけど……。
これがねえ、ひきあげるときにドア開けて出ていくんですよ。
出ていくときは強がった自信ありげな顔で、ドアを閉めたとたん苦しげな表情になる……というのがデフォルトのトートの演技になってるんですが、演技表現以前に、私、個人的に「ドアを開けて出ていく死神」っていうのがすごく人間っぽくていかがなものかと思っちゃうんですけど。
だってあんた、出てきたときはそのへんから突然わいて出てきたじゃん。だったら退場ももっと神秘的にそのへんの装置の隙間からなんとなくはけてよ。なにもそこだけ律儀にドアから退場しなくても。。。
ウィーン版はドアから出ていったりしなかったと思うんだけどな……。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
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