古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
カテゴリー「舞台」の記事一覧
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- 2008.10.30
「山の巨人たち」を観ました
- 2008.05.17
“ちょい不良おやじ”の元祖をみた!
- 2007.12.29
心に残った“ベストプレイ5”(2007年度)
「山の巨人たち」を観ました
- 2008/10/30 (Thu)
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昨日、新国立劇場で「山の巨人たち」というお芝居を観てきました。
作家はピランデルロというイタリアのシチリア出身のノーベル賞作家。演出はラヴォーダン。新国立劇場芸術監督の鵜山さんが、「ピランデルロの演出なら彼しかいない!」とラブコールを送ってフランスから連れてきたという幻想的な演出を得意とする演出家さんです。
ピランデルロ作品の特徴は、一言でいうと……わけわかんないこと(笑)。
少なくともストーリーを理屈で追っていこうとすると狐につままれます。
それでも無理やりストーリーらしきことを拾うと……。
まず、場所は橋の上。
橋といっても平らな橋ではなく、いわゆるアーチ型になった「たいこ橋」。
客席から舞台奥に向かってどーんと巨大なたいこ橋がかけられているのを想像してください。つまり舞台上には平らな場所がほとんどないってこってす(かなりの傾斜で、どこに立ってももれなくこわいそうです)。
橋といえば、能舞台でもお決まりの装置ですが、演劇的には「あの世」と「この世」、あるいは「現実」と「夢」、あるいは「過去」と「現在」など、異空間をつなぐもの。
この作品も全体を通して異質なものが常に対立し、せめぎあう形で進んでいきます。
橋の上には、なにやら浮世離れした人々(あの世とこの世の境目に存在する亡者?あるいは人里離れて身を隠している社会からの落伍者?)がうごめいていて、橋の下を見下ろして「なにかがこちらにむかってやってくる」と不安にかられている。
橋の向こうから現れたのは女優である伯爵夫人イルセ(麻実れい)を中心とした10人ほどの役者集団。放浪の末たどりついたのか、全員がボロボロに疲れきっている。
これを出迎えたのが浮き世離れ集団の頭であるコトローネ(平幹二朗)。彼は自分は魔術師だと名乗り、ここは「不運の館」と呼ばれていると説明する。
イルセは「ある戯曲をどうしても上演したいのだが、どこでやっても観客が受け入れてくれない。どこかで上演させてもらえないか」というようなことを訴える。
イルセは伯爵と結婚していったん女優をやめたが、ある詩人が彼女のために戯曲を書き、それがあまりにもすばらしかったので再び女優を始めた。
詩人は彼女の愛を要求するが、イルセが拒んだために自殺してしまう。
死んだ詩人の魂をもてあましながら、彼らはずっと旅を続けているという。
コトローネは自分の館に役者たちを招き、彼らはそこで夢と現実が渾然一体となった不思議な体験をする(このあたり、人形を使ったりして幻想的な演出が発揮される)。
コトローネは「観客も劇場も必要ない」と言うが、イルセはあくまでも「観客あっての芝居だ」と主張する。
そんな彼女に「では明日、山の巨人と呼ばれる2家族の婚礼があるので、そこで芝居を上演してみてはどうか」と提案するコトローネ。
じつは台本が書かれているのはここまで。
これはピランデルロの遺作で、彼は作品が書き終わらないうちに亡くなってしまったのです。
書かれなかった最終幕については、作者が息子に語ったという梗概が字幕で流されましたが、エンディングはけっこう残虐。
山の巨人が登場する前にその配下の民衆たちが登場し、彼らの前で作品を上演しようとするも激しい拒絶に遭い、怒り狂った民衆によって伯爵夫人はなぶり殺しにされるというのがその結末です。
結局、「山の巨人」は最後まで登場しません。
以上、これだけ読むと具体的な話に見えますが、実際に観ると話がポンポンとんで横道にそれていくので、本筋を拾おうと思うとかなり疲れます。
ちなみに今回一緒に観劇したのは、イタリア好きのRISAとフランス語翻訳家のマリコさん。
RISAはもともとピランデルロのファンらしいのでいいとして、まったく予備知識なしで来たマリコさんはどうだったんだろうとちょっと心配に…。
でも杞憂だったようです。終わったとたん、頬を紅潮させて「私、こういうのかなり好きかも〜♪」と喜んでいたのでホッとしました。
誰にでもわかるたぐいの娯楽作ではないだけに、こういうのまったくうけつけない人ってのもかなりいると思うので。
しかし、考えてみればマリコさんは「フランス脳」(笑)。ピランデルロは特にフランスで人気があるらしいので、好みとしてははずれてなかったのかも。とにかくお気に召したようで一安心。
RISAいわく、「この作品はまだ全然わかりやすいほう。もっともっとわけわかんない作品もあるよ」とのこと。
で、私はどうだったかというと……微妙。
これよりもっと難解で観ているのがただただ苦痛という舞台も経験しているし、その点これは対立概念が比較的はっきり浮かび上がっている作品なので、特別難解だとか退屈だとかは思いませんでした。
でもなんか生理的にすっきりしないんです。かゆいところに手が届かなくて気持ち悪いってうか。イメージとして伝わってくるものはあるんだけど、輪郭がボヤーッとして遠くに見えるっていうか、胸にささってくるものがない。変に気持ちが冷静になっちゃって、突き動かされるものがないんです。
これはもう好みの問題なのでしかたがないですね。
それよりもおもしろかったのは終演後に行われたシアタートーク。
最近はどこの舞台でもシアタートークが大はやりですが、中でも新国立のシアタートークは群を抜いておもしろい。
MCの堀尾アナの座持ちのうまさもさることながら、観客にコアな演劇ファンが多く、けっこうきわどい質問とかもバンバン出るのがスリリング。
これもライブなので、修正や編集ができないという緊張感があります。
今回は芸術監督の鵜山さんを筆頭に、麻実れい、手塚とおる、植本潤など総勢7名が出演。
うわ〜、豪華〜!!な顔ぶれですが、ちょっと待て。トメの位置にあたる平さんがいない!なぜ??
という会場の空気を事前に察した堀尾アナ、「平さんはお疲れとのことでお帰りに…」とエクスキューズ。したと思ったら手塚さんが横から「平さん、『僕が出るといろいろ聞かれるからやだ』とかいってさっき帰っていきましたよ」と暴露(笑)。
たしかに今回のようにわかりにくい作品の場合、シアタートークなんかに出演しようものなら、観客から「あれはどういう意味なんだ」「どう解釈してやってたんだ」と嵐のように質問をされるだろうことは明らか。
そりゃ逃げたくもなるわな。。。
しかも堀尾アナは「知ったかぶり」をしないポリシーの持ち主なので、一般観客がわからないだろうと思われる部分は堂々と「あれはいったいどういう意味なんですか?」と正面からガシガシつっこんでくる。
こういうときに逃げ隠れできないのがシアタートークのこわさ。
本来なら演出家が出演してなんでも答えてくれるはずなのだが、ラヴォーダンはすでにフランスに帰っちゃったあとでして(笑)。
観客が陥りやすい誤解の一つとして、「演じてる人は何もかも理解してやってるんだろう」というものがありますが、申し訳ないけど、それはないと思います。
役者は素材ですから、演出家の要求に応じていろいろな引き出しをあけて見せてあげられればいい。
それぞれが勝手に解釈して演じられても収拾がつかなくなるし、共同作業なので、やっぱり解釈の元締めは演出家だと思うんですよね。そこでコンセンサスをとらないとなにも動かない。だから、役者はむしろ必要に応じて白紙になれるくらいのタイプのほうがいいんじゃないかと思います。
そんなわけで、今回のシアタートークは、会場から出た質問を堀尾アナが誰かに聞こうとすると、みんな一斉に目をそらして当たらないようにしてるのが見え見えで(笑)。
自分のセリフの中にあった言葉について質問された某役者さんなんて、答えにつまって、追いつめられたあげくに「す、すいません!そこにそう書いてあったので何も考えずにただしゃべってました〜!」と懺悔してました。相撲とりかよ!正直な人だー。
でもね、シアタートークに出て来た以上、「想定内の質問」ってのもあると思うんですよ。そのくらいはせめて考えてきてほしかったです。
今回だったら「『山の巨人たち』は誰(何)を表してるのだと思いますか?」という質問。これはタイトルにもなっているくらいだし、全体のテーマにもかかわる部分ですよね。
堀尾アナは全員に聞いてましたが、これすら“初めて考えました風”の人がいたのはいかがなものかと思いました。
この答えには「正解」ってないと思うんです。
この作品が書かれた時代には、「山の巨人たち」はファシズムの象徴だっていうのが一般的な解釈だったらしいですが、今はべつのものに置き換わってるかもしれません。
「社会不安」とか「戦争の影」とかあげようと思えばいくらでもあがりますが、一見平和な時代の中でも「山の巨人たち」の存在を感じることはたくさんあると思います。
ちなみに、出演者は「山の巨人たちは“お客様”」と答える人が多く、興味深かったです。
もの言わぬ大きな存在の前で、何か手応えをつかもうと常に必死に戦っているという感じなんでしょうか。
逆に「山の巨人たちは“この芝居を観ようとしないお客様”」という答えもあってなるほどそうきたかと思いました。
私のイメージは、「山の巨人たち=ネット社会」ですね。
「巨人」という言葉から「マス」を表していることは明らかで、同時に「最後まで登場しない」ということで、「顔の見えないこわさ」「匿名性」も感じられます。
大きい存在がバンッとあるというよりは、なにか目に見えないものの集合体なんだろうなって気がします。
しかもそのパーツパーツは自分が「巨人の一部」だということに無自覚だったりする。
となると、コトローネたちは「私たちメール使えませ〜ん」「携帯もってませ〜ん」「回覧板は手書きでガリ版刷です〜」「地デジってなんですか〜?」みたいなIT難民かな。
イルセたちは中途半端な難民で、コトローネたちの存在に安心しながらも「あんたたちと一緒にしないでよ!」とまだITの世界に色気も持っている。
なぶり殺しは「炎上」。いやー、すごくよくわかりますね。
おまけのエピソード。
ラヴォーダンさんは、平さんにも平気でダメだしをするんだそうです。
「日本人の演出家で平さんにダメだしできる人なんていないよね」
「いても言うこときかないでしょ」
「でも平さんはダメだしされたのが新鮮だったって言ってたよ」
などなど、ひとしきりやりとりがあったあと、手塚さんが一言。
「この前、楽屋の鏡に向かって平さんと並んで座ってたとき、ポツッと『…ボクって芝居下手なのかなぁ』って言ってましたよ」
大爆笑!!!
手塚さん、平さんがいないと思って話作ってないですか?
作家はピランデルロというイタリアのシチリア出身のノーベル賞作家。演出はラヴォーダン。新国立劇場芸術監督の鵜山さんが、「ピランデルロの演出なら彼しかいない!」とラブコールを送ってフランスから連れてきたという幻想的な演出を得意とする演出家さんです。
ピランデルロ作品の特徴は、一言でいうと……わけわかんないこと(笑)。
少なくともストーリーを理屈で追っていこうとすると狐につままれます。
それでも無理やりストーリーらしきことを拾うと……。
まず、場所は橋の上。
橋といっても平らな橋ではなく、いわゆるアーチ型になった「たいこ橋」。
客席から舞台奥に向かってどーんと巨大なたいこ橋がかけられているのを想像してください。つまり舞台上には平らな場所がほとんどないってこってす(かなりの傾斜で、どこに立ってももれなくこわいそうです)。
橋といえば、能舞台でもお決まりの装置ですが、演劇的には「あの世」と「この世」、あるいは「現実」と「夢」、あるいは「過去」と「現在」など、異空間をつなぐもの。
この作品も全体を通して異質なものが常に対立し、せめぎあう形で進んでいきます。
橋の上には、なにやら浮世離れした人々(あの世とこの世の境目に存在する亡者?あるいは人里離れて身を隠している社会からの落伍者?)がうごめいていて、橋の下を見下ろして「なにかがこちらにむかってやってくる」と不安にかられている。
橋の向こうから現れたのは女優である伯爵夫人イルセ(麻実れい)を中心とした10人ほどの役者集団。放浪の末たどりついたのか、全員がボロボロに疲れきっている。
これを出迎えたのが浮き世離れ集団の頭であるコトローネ(平幹二朗)。彼は自分は魔術師だと名乗り、ここは「不運の館」と呼ばれていると説明する。
イルセは「ある戯曲をどうしても上演したいのだが、どこでやっても観客が受け入れてくれない。どこかで上演させてもらえないか」というようなことを訴える。
イルセは伯爵と結婚していったん女優をやめたが、ある詩人が彼女のために戯曲を書き、それがあまりにもすばらしかったので再び女優を始めた。
詩人は彼女の愛を要求するが、イルセが拒んだために自殺してしまう。
死んだ詩人の魂をもてあましながら、彼らはずっと旅を続けているという。
コトローネは自分の館に役者たちを招き、彼らはそこで夢と現実が渾然一体となった不思議な体験をする(このあたり、人形を使ったりして幻想的な演出が発揮される)。
コトローネは「観客も劇場も必要ない」と言うが、イルセはあくまでも「観客あっての芝居だ」と主張する。
そんな彼女に「では明日、山の巨人と呼ばれる2家族の婚礼があるので、そこで芝居を上演してみてはどうか」と提案するコトローネ。
じつは台本が書かれているのはここまで。
これはピランデルロの遺作で、彼は作品が書き終わらないうちに亡くなってしまったのです。
書かれなかった最終幕については、作者が息子に語ったという梗概が字幕で流されましたが、エンディングはけっこう残虐。
山の巨人が登場する前にその配下の民衆たちが登場し、彼らの前で作品を上演しようとするも激しい拒絶に遭い、怒り狂った民衆によって伯爵夫人はなぶり殺しにされるというのがその結末です。
結局、「山の巨人」は最後まで登場しません。
以上、これだけ読むと具体的な話に見えますが、実際に観ると話がポンポンとんで横道にそれていくので、本筋を拾おうと思うとかなり疲れます。
ちなみに今回一緒に観劇したのは、イタリア好きのRISAとフランス語翻訳家のマリコさん。
RISAはもともとピランデルロのファンらしいのでいいとして、まったく予備知識なしで来たマリコさんはどうだったんだろうとちょっと心配に…。
でも杞憂だったようです。終わったとたん、頬を紅潮させて「私、こういうのかなり好きかも〜♪」と喜んでいたのでホッとしました。
誰にでもわかるたぐいの娯楽作ではないだけに、こういうのまったくうけつけない人ってのもかなりいると思うので。
しかし、考えてみればマリコさんは「フランス脳」(笑)。ピランデルロは特にフランスで人気があるらしいので、好みとしてははずれてなかったのかも。とにかくお気に召したようで一安心。
RISAいわく、「この作品はまだ全然わかりやすいほう。もっともっとわけわかんない作品もあるよ」とのこと。
で、私はどうだったかというと……微妙。
これよりもっと難解で観ているのがただただ苦痛という舞台も経験しているし、その点これは対立概念が比較的はっきり浮かび上がっている作品なので、特別難解だとか退屈だとかは思いませんでした。
でもなんか生理的にすっきりしないんです。かゆいところに手が届かなくて気持ち悪いってうか。イメージとして伝わってくるものはあるんだけど、輪郭がボヤーッとして遠くに見えるっていうか、胸にささってくるものがない。変に気持ちが冷静になっちゃって、突き動かされるものがないんです。
これはもう好みの問題なのでしかたがないですね。
それよりもおもしろかったのは終演後に行われたシアタートーク。
最近はどこの舞台でもシアタートークが大はやりですが、中でも新国立のシアタートークは群を抜いておもしろい。
MCの堀尾アナの座持ちのうまさもさることながら、観客にコアな演劇ファンが多く、けっこうきわどい質問とかもバンバン出るのがスリリング。
これもライブなので、修正や編集ができないという緊張感があります。
今回は芸術監督の鵜山さんを筆頭に、麻実れい、手塚とおる、植本潤など総勢7名が出演。
うわ〜、豪華〜!!な顔ぶれですが、ちょっと待て。トメの位置にあたる平さんがいない!なぜ??
という会場の空気を事前に察した堀尾アナ、「平さんはお疲れとのことでお帰りに…」とエクスキューズ。したと思ったら手塚さんが横から「平さん、『僕が出るといろいろ聞かれるからやだ』とかいってさっき帰っていきましたよ」と暴露(笑)。
たしかに今回のようにわかりにくい作品の場合、シアタートークなんかに出演しようものなら、観客から「あれはどういう意味なんだ」「どう解釈してやってたんだ」と嵐のように質問をされるだろうことは明らか。
そりゃ逃げたくもなるわな。。。
しかも堀尾アナは「知ったかぶり」をしないポリシーの持ち主なので、一般観客がわからないだろうと思われる部分は堂々と「あれはいったいどういう意味なんですか?」と正面からガシガシつっこんでくる。
こういうときに逃げ隠れできないのがシアタートークのこわさ。
本来なら演出家が出演してなんでも答えてくれるはずなのだが、ラヴォーダンはすでにフランスに帰っちゃったあとでして(笑)。
観客が陥りやすい誤解の一つとして、「演じてる人は何もかも理解してやってるんだろう」というものがありますが、申し訳ないけど、それはないと思います。
役者は素材ですから、演出家の要求に応じていろいろな引き出しをあけて見せてあげられればいい。
それぞれが勝手に解釈して演じられても収拾がつかなくなるし、共同作業なので、やっぱり解釈の元締めは演出家だと思うんですよね。そこでコンセンサスをとらないとなにも動かない。だから、役者はむしろ必要に応じて白紙になれるくらいのタイプのほうがいいんじゃないかと思います。
そんなわけで、今回のシアタートークは、会場から出た質問を堀尾アナが誰かに聞こうとすると、みんな一斉に目をそらして当たらないようにしてるのが見え見えで(笑)。
自分のセリフの中にあった言葉について質問された某役者さんなんて、答えにつまって、追いつめられたあげくに「す、すいません!そこにそう書いてあったので何も考えずにただしゃべってました〜!」と懺悔してました。相撲とりかよ!正直な人だー。
でもね、シアタートークに出て来た以上、「想定内の質問」ってのもあると思うんですよ。そのくらいはせめて考えてきてほしかったです。
今回だったら「『山の巨人たち』は誰(何)を表してるのだと思いますか?」という質問。これはタイトルにもなっているくらいだし、全体のテーマにもかかわる部分ですよね。
堀尾アナは全員に聞いてましたが、これすら“初めて考えました風”の人がいたのはいかがなものかと思いました。
この答えには「正解」ってないと思うんです。
この作品が書かれた時代には、「山の巨人たち」はファシズムの象徴だっていうのが一般的な解釈だったらしいですが、今はべつのものに置き換わってるかもしれません。
「社会不安」とか「戦争の影」とかあげようと思えばいくらでもあがりますが、一見平和な時代の中でも「山の巨人たち」の存在を感じることはたくさんあると思います。
ちなみに、出演者は「山の巨人たちは“お客様”」と答える人が多く、興味深かったです。
もの言わぬ大きな存在の前で、何か手応えをつかもうと常に必死に戦っているという感じなんでしょうか。
逆に「山の巨人たちは“この芝居を観ようとしないお客様”」という答えもあってなるほどそうきたかと思いました。
私のイメージは、「山の巨人たち=ネット社会」ですね。
「巨人」という言葉から「マス」を表していることは明らかで、同時に「最後まで登場しない」ということで、「顔の見えないこわさ」「匿名性」も感じられます。
大きい存在がバンッとあるというよりは、なにか目に見えないものの集合体なんだろうなって気がします。
しかもそのパーツパーツは自分が「巨人の一部」だということに無自覚だったりする。
となると、コトローネたちは「私たちメール使えませ〜ん」「携帯もってませ〜ん」「回覧板は手書きでガリ版刷です〜」「地デジってなんですか〜?」みたいなIT難民かな。
イルセたちは中途半端な難民で、コトローネたちの存在に安心しながらも「あんたたちと一緒にしないでよ!」とまだITの世界に色気も持っている。
なぶり殺しは「炎上」。いやー、すごくよくわかりますね。
おまけのエピソード。
ラヴォーダンさんは、平さんにも平気でダメだしをするんだそうです。
「日本人の演出家で平さんにダメだしできる人なんていないよね」
「いても言うこときかないでしょ」
「でも平さんはダメだしされたのが新鮮だったって言ってたよ」
などなど、ひとしきりやりとりがあったあと、手塚さんが一言。
「この前、楽屋の鏡に向かって平さんと並んで座ってたとき、ポツッと『…ボクって芝居下手なのかなぁ』って言ってましたよ」
大爆笑!!!
手塚さん、平さんがいないと思って話作ってないですか?

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“ちょい不良おやじ”の元祖をみた!
- 2008/05/17 (Sat)
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久々に宝塚レポートを。
宙組公演「黎明の風〜侍ジェントルマン 白洲次郎の挑戦」(作・演出=石田昌也)を観てきました。
宙組トップは大和悠河ですが、今回は轟様が専科から客演しているため、事実上の主役は轟様で、大和は二番手の役どころ。
轟様の位置づけについては、2005年7月24日の記事「『地震』と『轟様』」を参照してください。
まああえて一般の人にもわかりやすく一言で言うならば、轟様のポジションはジャニーズにおけるマッチみたいな感じです。
ちなみに今回のような形で轟様が客演するのはこれが最後となるようです。
今回、轟様は主役の白洲次郎を、大和は相手役…というか白洲と対立する役どころとしてマッカーサーを演じています。
轟様が客演するときは「男役トップ2人」みたいな感じになるので、どちらかというと「男女のラブロマンス」というより「男同士の対立と友情」みたいな話になる傾向がありますが、今回もまさにそのパターン。
そしてヅカファンはけっこうこの図式が好きだったりします。
皆さんは白洲次郎のことをどのくらいご存じでしょうか。
恥ずかしながら、私の認識は「白洲正子のダンナ」という程度のものでした。
白洲正子はお能や歌舞伎や骨董に造詣の深いエッセイストですから、ダンナはその師匠みたいな人なのかなと勝手に想像してました。
魯山人とかイサムノグチみたいなものすごい美意識をもった仙人みたいな人なのかなと。
全然違いました。
もともと裕福な商家の息子で、ものすごい遊びもんで、まあいわゆるワルというか暴れん坊だったもので、勘当同然にイギリスのケンブリッジに留学させられるんですが、その間にグローバルな視点と人脈と紳士としての素養を身につけて帰国。見合いで意気投合した正子と結婚して商社マンに。
おりしも日本はアメリカと緊迫関係にあり、日本中が強気のイケイケモードでしたが、白洲は「戦争になったら日本は負ける。そして東京は焼け野原になって食糧難になる」と判断してさっさと事業をたたみ、農業を始めるんですね。
まもなくその予想通り日本は敗戦国となり、マッカーサー率いるGHQが戦後処理に乗り込んできます。そのとき、戦後処理の窓口だった吉田茂の懐刀としてGHQとの交渉役にあたったのが白洲次郎です。
「快男児」という言葉はまさに彼のためにあるのでしょう。
当時、敗戦のショックで日本人はすっかり弱気になり、GHQに堂々とものが言えるような政治家や官僚はなかなかいなかった。そんな中で、白洲次郎はGHQから「従順ならざるただ一人の日本人」と恐れられるほど、言いたいことを言いまくり、筋を通し抜き、堂々とわたりあったそうです。
白洲次郎が裏で暗躍するのは日本がアメリカから独立を果たし、憲法を手に入れるサンフランシスコ講和条約の日まで。
それ以降はすっぱり政治の世界からは身をひいてしまったそうですが、これは彼の人生哲学(中央にどっぷり浸かってると状況が見えなくなるので、普段は田舎暮らしをして外から中央をみつめ、事が起こったときだけ駆けつけて力になる)によるもので、貢献したわりに名前が残ってないのはそのせいもあるかも。
本人の著作もないし、本人が書いたものとして残っているのは「葬式無用 戒名不用」の2行から成る遺言書だけという潔さ。
彼の人生哲学は家族という単位にも及んでいるようで、正子夫人との関係も「どっぷり浸かりすぎず」の距離感を守り、それぞれが好きなことに邁進した人生だったようです。
もっと言えば、宝塚における轟様のポジション(専科)も白洲的かも……と舞台を観ながら思いました。
白洲次郎のすごさは、行動だけじゃなくルックスもすこぶる魅力的なこと。
身長180センチを越える長身で、新しもの好きで、おしゃれにうるさく、ジジイになってもスポーツカーを乗り回すという当時の日本人男性としては規格外のかっこよさ。まさに「ちょい不良おやじ」のさきがけ的存在。
条約締結のために日本の関係者がサンフランシスコに向かったとき、緊張してガチガチの正装をしていった政府関係者たちの中で、白洲だけが白のTシャツとジーンズといういでたちで颯爽と現れた話はかなり有名で、おそらくネットを検索すればそのときに撮った写真が簡単にみつかると思います。
ぜひご覧あれ。49歳とは思えないジェームス・ディーンばりのかっこよさです。
ちなみに、今回の舞台でももちろん轟様がジーンズ姿で登場するシーンがあります。
たしかにこの浮世離れしたダンディズムは宝塚の男役にしか演じられないかもしれません(もし映画化されたとして、日本の男優がやるとしたら誰だろう……大柄で外人にも負けない押し出しってことで言うと阿部寛とか……
ちょっと暑苦しい?……ルックス的には吉田栄作って感じなんですが)。
おそらく今回は「轟の花道として白洲次郎のダンディズムを演じさせたい」というコンセプトがまずあって、そこから話がふくらんでいったんじゃないでしょうか。
立場から言ったら、支配者マッカーサーが轟で、それにはむかう抵抗勢力・白洲が大和だと思うんですが、結果的にはやっぱり大和が白洲では無理があったと思います。
それはわかるんですが、最後マッカーサーがあまりにも「さようなら、美しい国日本」(←安倍ちゃんの広報宣伝部隊か?)と連呼するんで、一瞬「大和のさよなら公演か?」と思ってしまったのがなんだかなーでした。トップ就任したばっかなのにね。餞別の花までもらっちゃって……ちょっと気の毒。今回の作品が一般客にはうけいいのにファンうけが悪いってのはこのためかもしれないですね。
白洲次郎の話が長くなってしまいましたが、お芝居の内容について。
いやー、あつ〜い芝居でした。
こんなに主張がてんこもりな宝塚はちょっと珍しいかもです。
主張といえばキムシン(木村信司)ですが、こちらは「愛がすべて」を連呼しすぎで、しかも説教くさいのがいただけません。
また、谷正純は「大量自爆物(?)」が好きなので、同じ時代を書いたら間違いなく「特攻隊」がメインになったでしょう。
石田昌也は、坂本龍馬・土方歳三・岩崎弥太郎…と日本の型破りな男列伝みたいなものが続いているのですが、今回が一番「書きたいものがあった」ように感じました。
説明がかなり必要な話だと思いますが、そのわりにはよくまとまっていたと思います。
戦後処理のエピソードについては知らなかった話がいっぱい出てきて興味深かったし。なおかつきちんとエンターテインメントになってたし(当時のヒット曲もてんこもりで大サービス。年輩の人はなつかしくて嬉しいだろうなーと他人事のように思いつつ、隣組の歌を一緒に歌ってしまう自分がこわい)。
ただ欲を言えばきれいにまとまりすぎてて教科書的というか、白洲とマッカーサーの対立・緊張関係をもう少し濃密に観たかったですね。
最後に不思議な同志的友情が芽生えて大団円で終わるからこそ、最初の対立はもっと激しく表現してほしかった。
なんかわりと最初からある意味すでに認めあってる感じがしちゃったのが残念。
びっくりしたのは「自衛隊問題」「憲法問題」など、現代では言いにくいような話題についてかなり歯切れ良く意見を言いきっていたこと。
「いくらなんでも50年後もこの憲法がそのまま使われてることはないだろう」とかね(思わず「ごめんなさい、まだ使ってます」って劇中の吉田茂にあやまっちゃいました)。
たしかに今言いにくくても、過去の人間に語らせれば言いやすいって部分はあるし、「これはうまいやり方だな」と思いましたね。
戦争ものってどうしても情に流された作りになりがちだけど、この作品はこの時代を「現代につながる近くて遠い過去」としてみつめなおそうという意欲が感じられました。
石田昌也はいつもかなりおふざけが多いんですけど、今回はほぼまじめ一本の印象でした。
唯一の石田テイストギャグは「『戦艦大和の最後』か………タイトルが気に入らないな」というセリフくらい。
あとは「風と共に去りぬ」の名前が出てくるところで轟様が一生懸命バトラーの真似をするところくらいかな。でもこれは「轟様といえばバトラー」ということが周知のファンにしか通じないですね。
“天海二世”として騒がれて久しい大和悠河は、相変わらずの華やかな容姿。
マッカーサーでも(でも?)かわいい!
コーンパイプはとってつけたような持ち方だったけど、顔が小さすぎて帽子かぶると子供みたいだったけど、そしてサングラスをかけないとマッカーサーだってわからないというビギナーからの苦情もあったけど、大和だからすべて許す。
歌もダンスも芝居も………もういい(笑)。そこにいてくれるだけでいいから!
演技や歌や発声はかなり轟を意識して大人ムードに合わせようとしてましたが、歌が露骨に少なかったこともあってそれほどボロが出なかった印象。
唯一ひやっとしたのは「無着陸飛行」をかみそうな緊張から必要以上に滑舌よくしゃべってたことくらいか。
マッカーサーといえば「アイ・シャル・リターン」の名ぜりふが有名だけど、これもちゃんとセリフに入ってたのが嬉しかった。
誰よりも日本人っぽい英語だったけどね(笑)。
「伝えてくれ。私は必ず戻ってくる。『アイ・シャル・リターン』と」
……って、最後に「と」って助詞まで律儀につけるマッカーサーって……。
というわけで、目のつけどころのよさ、トド様のダンディズム、タニちゃん(大和)のポジティブオーラ、昭和史の回顧、東京ローズまで動員して歌われるなつかしのメロディ……と見所満載の舞台でした。
石田先生には、ぜひ今後も「日本のいい男」を発掘して列伝を継続してほしいです。
白洲についての本、買っちゃいそうです〜
蛇足の話。
先日、「『絶対彼氏』のミュージカル版を山口祐一郎で作るのってどう? ロボットみたいな演技って言われても『ロボットなんだからいいんだよ』って言い返せるじゃん」と友だちと話してたんですが、この日の終演後は「『絶対彼氏』の宝塚版を大和悠河で!」という話で盛り上がりました。
同行者は鼻血を出さんばかりに大興奮。
「い〜〜〜、それい〜〜〜!
いてくれるだけでメチャメチャ癒される〜〜
時々ウィンク
してくれるようにプログラミングしようっと。私、絶対ローン組んで買いますよ〜。お茶くらいはいれてくれますよね。あ、できれば宅急便の受け取りと、公共料金の払い込みと、夕方までにお布団をとりこんでくれるのと…」
いや、それって彼氏というより家政婦だろ……。
宙組公演「黎明の風〜侍ジェントルマン 白洲次郎の挑戦」(作・演出=石田昌也)を観てきました。
宙組トップは大和悠河ですが、今回は轟様が専科から客演しているため、事実上の主役は轟様で、大和は二番手の役どころ。
轟様の位置づけについては、2005年7月24日の記事「『地震』と『轟様』」を参照してください。
まああえて一般の人にもわかりやすく一言で言うならば、轟様のポジションはジャニーズにおけるマッチみたいな感じです。
ちなみに今回のような形で轟様が客演するのはこれが最後となるようです。
今回、轟様は主役の白洲次郎を、大和は相手役…というか白洲と対立する役どころとしてマッカーサーを演じています。
轟様が客演するときは「男役トップ2人」みたいな感じになるので、どちらかというと「男女のラブロマンス」というより「男同士の対立と友情」みたいな話になる傾向がありますが、今回もまさにそのパターン。
そしてヅカファンはけっこうこの図式が好きだったりします。
皆さんは白洲次郎のことをどのくらいご存じでしょうか。
恥ずかしながら、私の認識は「白洲正子のダンナ」という程度のものでした。
白洲正子はお能や歌舞伎や骨董に造詣の深いエッセイストですから、ダンナはその師匠みたいな人なのかなと勝手に想像してました。
魯山人とかイサムノグチみたいなものすごい美意識をもった仙人みたいな人なのかなと。
全然違いました。
もともと裕福な商家の息子で、ものすごい遊びもんで、まあいわゆるワルというか暴れん坊だったもので、勘当同然にイギリスのケンブリッジに留学させられるんですが、その間にグローバルな視点と人脈と紳士としての素養を身につけて帰国。見合いで意気投合した正子と結婚して商社マンに。
おりしも日本はアメリカと緊迫関係にあり、日本中が強気のイケイケモードでしたが、白洲は「戦争になったら日本は負ける。そして東京は焼け野原になって食糧難になる」と判断してさっさと事業をたたみ、農業を始めるんですね。
まもなくその予想通り日本は敗戦国となり、マッカーサー率いるGHQが戦後処理に乗り込んできます。そのとき、戦後処理の窓口だった吉田茂の懐刀としてGHQとの交渉役にあたったのが白洲次郎です。
「快男児」という言葉はまさに彼のためにあるのでしょう。
当時、敗戦のショックで日本人はすっかり弱気になり、GHQに堂々とものが言えるような政治家や官僚はなかなかいなかった。そんな中で、白洲次郎はGHQから「従順ならざるただ一人の日本人」と恐れられるほど、言いたいことを言いまくり、筋を通し抜き、堂々とわたりあったそうです。
白洲次郎が裏で暗躍するのは日本がアメリカから独立を果たし、憲法を手に入れるサンフランシスコ講和条約の日まで。
それ以降はすっぱり政治の世界からは身をひいてしまったそうですが、これは彼の人生哲学(中央にどっぷり浸かってると状況が見えなくなるので、普段は田舎暮らしをして外から中央をみつめ、事が起こったときだけ駆けつけて力になる)によるもので、貢献したわりに名前が残ってないのはそのせいもあるかも。
本人の著作もないし、本人が書いたものとして残っているのは「葬式無用 戒名不用」の2行から成る遺言書だけという潔さ。
彼の人生哲学は家族という単位にも及んでいるようで、正子夫人との関係も「どっぷり浸かりすぎず」の距離感を守り、それぞれが好きなことに邁進した人生だったようです。
もっと言えば、宝塚における轟様のポジション(専科)も白洲的かも……と舞台を観ながら思いました。
白洲次郎のすごさは、行動だけじゃなくルックスもすこぶる魅力的なこと。
身長180センチを越える長身で、新しもの好きで、おしゃれにうるさく、ジジイになってもスポーツカーを乗り回すという当時の日本人男性としては規格外のかっこよさ。まさに「ちょい不良おやじ」のさきがけ的存在。
条約締結のために日本の関係者がサンフランシスコに向かったとき、緊張してガチガチの正装をしていった政府関係者たちの中で、白洲だけが白のTシャツとジーンズといういでたちで颯爽と現れた話はかなり有名で、おそらくネットを検索すればそのときに撮った写真が簡単にみつかると思います。
ぜひご覧あれ。49歳とは思えないジェームス・ディーンばりのかっこよさです。
ちなみに、今回の舞台でももちろん轟様がジーンズ姿で登場するシーンがあります。
たしかにこの浮世離れしたダンディズムは宝塚の男役にしか演じられないかもしれません(もし映画化されたとして、日本の男優がやるとしたら誰だろう……大柄で外人にも負けない押し出しってことで言うと阿部寛とか……

おそらく今回は「轟の花道として白洲次郎のダンディズムを演じさせたい」というコンセプトがまずあって、そこから話がふくらんでいったんじゃないでしょうか。
立場から言ったら、支配者マッカーサーが轟で、それにはむかう抵抗勢力・白洲が大和だと思うんですが、結果的にはやっぱり大和が白洲では無理があったと思います。
それはわかるんですが、最後マッカーサーがあまりにも「さようなら、美しい国日本」(←安倍ちゃんの広報宣伝部隊か?)と連呼するんで、一瞬「大和のさよなら公演か?」と思ってしまったのがなんだかなーでした。トップ就任したばっかなのにね。餞別の花までもらっちゃって……ちょっと気の毒。今回の作品が一般客にはうけいいのにファンうけが悪いってのはこのためかもしれないですね。
白洲次郎の話が長くなってしまいましたが、お芝居の内容について。
いやー、あつ〜い芝居でした。
こんなに主張がてんこもりな宝塚はちょっと珍しいかもです。
主張といえばキムシン(木村信司)ですが、こちらは「愛がすべて」を連呼しすぎで、しかも説教くさいのがいただけません。
また、谷正純は「大量自爆物(?)」が好きなので、同じ時代を書いたら間違いなく「特攻隊」がメインになったでしょう。
石田昌也は、坂本龍馬・土方歳三・岩崎弥太郎…と日本の型破りな男列伝みたいなものが続いているのですが、今回が一番「書きたいものがあった」ように感じました。
説明がかなり必要な話だと思いますが、そのわりにはよくまとまっていたと思います。
戦後処理のエピソードについては知らなかった話がいっぱい出てきて興味深かったし。なおかつきちんとエンターテインメントになってたし(当時のヒット曲もてんこもりで大サービス。年輩の人はなつかしくて嬉しいだろうなーと他人事のように思いつつ、隣組の歌を一緒に歌ってしまう自分がこわい)。
ただ欲を言えばきれいにまとまりすぎてて教科書的というか、白洲とマッカーサーの対立・緊張関係をもう少し濃密に観たかったですね。
最後に不思議な同志的友情が芽生えて大団円で終わるからこそ、最初の対立はもっと激しく表現してほしかった。
なんかわりと最初からある意味すでに認めあってる感じがしちゃったのが残念。
びっくりしたのは「自衛隊問題」「憲法問題」など、現代では言いにくいような話題についてかなり歯切れ良く意見を言いきっていたこと。
「いくらなんでも50年後もこの憲法がそのまま使われてることはないだろう」とかね(思わず「ごめんなさい、まだ使ってます」って劇中の吉田茂にあやまっちゃいました)。
たしかに今言いにくくても、過去の人間に語らせれば言いやすいって部分はあるし、「これはうまいやり方だな」と思いましたね。
戦争ものってどうしても情に流された作りになりがちだけど、この作品はこの時代を「現代につながる近くて遠い過去」としてみつめなおそうという意欲が感じられました。
石田昌也はいつもかなりおふざけが多いんですけど、今回はほぼまじめ一本の印象でした。
唯一の石田テイストギャグは「『戦艦大和の最後』か………タイトルが気に入らないな」というセリフくらい。
あとは「風と共に去りぬ」の名前が出てくるところで轟様が一生懸命バトラーの真似をするところくらいかな。でもこれは「轟様といえばバトラー」ということが周知のファンにしか通じないですね。
“天海二世”として騒がれて久しい大和悠河は、相変わらずの華やかな容姿。
マッカーサーでも(でも?)かわいい!
コーンパイプはとってつけたような持ち方だったけど、顔が小さすぎて帽子かぶると子供みたいだったけど、そしてサングラスをかけないとマッカーサーだってわからないというビギナーからの苦情もあったけど、大和だからすべて許す。
歌もダンスも芝居も………もういい(笑)。そこにいてくれるだけでいいから!
演技や歌や発声はかなり轟を意識して大人ムードに合わせようとしてましたが、歌が露骨に少なかったこともあってそれほどボロが出なかった印象。
唯一ひやっとしたのは「無着陸飛行」をかみそうな緊張から必要以上に滑舌よくしゃべってたことくらいか。
マッカーサーといえば「アイ・シャル・リターン」の名ぜりふが有名だけど、これもちゃんとセリフに入ってたのが嬉しかった。
誰よりも日本人っぽい英語だったけどね(笑)。
「伝えてくれ。私は必ず戻ってくる。『アイ・シャル・リターン』と」
……って、最後に「と」って助詞まで律儀につけるマッカーサーって……。
というわけで、目のつけどころのよさ、トド様のダンディズム、タニちゃん(大和)のポジティブオーラ、昭和史の回顧、東京ローズまで動員して歌われるなつかしのメロディ……と見所満載の舞台でした。
石田先生には、ぜひ今後も「日本のいい男」を発掘して列伝を継続してほしいです。
白洲についての本、買っちゃいそうです〜

蛇足の話。
先日、「『絶対彼氏』のミュージカル版を山口祐一郎で作るのってどう? ロボットみたいな演技って言われても『ロボットなんだからいいんだよ』って言い返せるじゃん」と友だちと話してたんですが、この日の終演後は「『絶対彼氏』の宝塚版を大和悠河で!」という話で盛り上がりました。
同行者は鼻血を出さんばかりに大興奮。
「い〜〜〜、それい〜〜〜!



いや、それって彼氏というより家政婦だろ……。
心に残った“ベストプレイ5”(2007年度)
- 2007/12/29 (Sat)
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今年も残すところわずか。
昨年のようなジルベスター状態にならない今のうちに、恒例の「心に残った“ベストプレイ5”」を発表します。
……といっても、今年は家の建て替えや旗揚げ公演などでいっぱいいっぱいだったため、観劇数が非常に少ないんですよ。数えてみたら44本しかない。昨年は67本、一昨年は58本、その前が76本なので、まあ例年の半分とは言わないまでも、3分の2くらいしか観てないですね。
しかも内訳をみると短編とかリーディングとか、1回で数本こなしているものもけっこうあるんで、感覚としてはもっと少ない感じです。
そんな中で印象に残った5本をあげると…(44本の中にはオペラやミュージカルも入ってますが、選出はストレートプレイに限定します)。
「ヒステリア」(T.ジョンソン)
《三軒茶屋/シアタートラム》
「コンフィダント・絆」(三谷幸喜)
《渋谷/パルコ劇場》
「CLEAN SKINS」(シャン・カーン)
《初台/新国立劇場小劇場》
「片づけたい女たち」(永井愛)
《三軒茶屋/シアタートラム》
「恐れを知らぬ川上音二郎一座」(三谷幸喜)
《日比谷/シアタークリエ》
この5本でしょうか。
強いていうと「CLEAN SKINS」は他の4本に比べると納得できない点が多かったんですが、題材はおもしろかったんで入れてみました。なにせ本数少ないんで。
たしかにあの限定された空間&人数(母と息子とイスラム教に改宗して突然戻ってきた娘の3人)で2時間緊張感を持続させるのはすごいと思うし、「クリスチャンの白人がいきなりイスラム教徒に改宗」という設定はかなりインパクトあって、最初はその部分の「なぜ?」という謎でひっぱられましたが、理由を知ったらちょっと腰砕け。
というのも、「失踪した父が、じつは白人ではなくトルコ人だったということを知ってしまったから」というのは、イスラム教徒に改宗する理由としては合理的すぎて「なーんだ」という感じが否めないから。
ほんとにまっっったくみじんもイスラムとは関係なかった家族の一人がイスラムに改宗するドラマのほうが私は観たかったな。
途中、「あんたイスラムイスラムいうけど、女はみんな差別されてて、男は自爆テロにはしる、くらいの知識しかないんでしょ、どうせ」みたいなことをお姉さんが弟に言うんですが、私はまさに「その程度の知識」しかない人間だったんで、このあとに「なぜイスラム教なのか」「キリスト教では救われなかったけど、イスラム教で救われた理由はなんなのか」「知られざるイスラムの姿」などが帰ってきたお姉さんの口から明かされるのを楽しみに待ってたんですが、結局そういう具体的な宗教話はなにも出てこないまま「お父さん」の話に移ってっちゃったので「あれれ? そういう話じゃなかったんだ」という感じでした。前振りだけかい!って。
そもそもアラブ系との混血だったら見た目からすでにまわりの人とは違うんじゃないかと。誰かにそういうようなことを指摘されたことはないんだろうか。友達とかさ。お母さんも、白人の背の高い見知らぬおっさんの写真を子供たちに見せて「これがあなたたちのお父さんよ」と思わせてきたってそれはちょっと無理あると思わなかったのか?
せめてアラブ系寄りの白人とか、せいぜい北村一輝程度の顔写真を選んで見せておけばよかったのにね(北村一輝じゃもう充分疑惑の対象か←北村ネタ好きだね>自分)。
残り4本はどれもとてもおもしろかったです。
中でも三谷幸喜の作品は2本とも新作書き下ろしで、2本ともこのレベルって相当すごいことだと思います(永井愛の作品は再演です)。
特に「コンフィダント・絆」は、個人的にかなり完成度の高い話だと思いました(ただ、完璧に宛書きなので、このメンツの役者でなければ成り立たないだろうなとは思うのですが)。
「画家」なんておよそ演劇になりにくい題材だと思うのに、作品(絵)そのものを見せるのではなく、おのおのの創作スタイルや個人的性癖などを通してどういうアーティストなのかをビビッドに伝えてみせるという手腕は見事です。
ゴッホとゴーギャンのコンビなんて、もうなまじのお笑いコンビより笑いましたよ。ある程度画家についての情報やエピソードを知っている人がみるとさらに楽しめます。
この「知ってる人が観るとさらに楽しい」という知的な部分でくすぐる三谷作風が「鼻につく」と敬遠する人がいることもたしかなんですが、「恐れを知らぬ〜」のほうは、もう少し大衆性を強調し、商業演劇という間口の広さを十二分に意識した作りになっていました(親切に説明しすぎて長尺化してたけど)。
「コンフィダント・絆」も「恐れを知らぬ〜」も言ってみれば芸術・芸能関係の有名人が出てくる話です。
前者では、芸術家ならではのしょうもなさや矮小さやせこさといったサガを愛すべき形で描いていて、こういうテーマは三谷さん大好きなんですよね(そして実際にこういうテーマだと筆が冴える)。
これをそのまま後者におきかえると、「役者に目覚めてしまった自分の本能と、舞台にあがることをよく思わない夫の間で葛藤する貞奴」「貞奴の天性の舞台人としての才能を認めながらも、同業としてどうしようもなく嫉妬してしまう音二郎」というあたりを集中的に描いていたと思うんです。
でも、今回は、新劇場のこけら落としで、なおかつ旧芸術座ファン(年輩客)も意識しないと……という前提があったためか、あえてそういう要素はつっこまずにさらっと通過し、「劇中劇」を通して「虚」と「実」のせめぎあいをダイナミックに描くというアプローチをとっていたのが印象的でした。
まず、わかりやすさと演劇らしさを重視し、なおかつ物語の構造やエピソードが今の演劇界や演じている役者自身とも重なるという点で演劇好きにもアピールする奥行きをも備えていた点がすごいなと思いました。
最初は主役の2人がユースケ・サンタマリアと常盤貴子ときいて、演劇好きは「そんな舞台経験の少ない役者をもってくるなんて。いかにも一般受け狙ってる感じ」と不安を拭えなかったようですが、これまたよく考えられていて、芸の見せ場は脇の達者な人が担い、2人は真ん中にいるだけで輝くように書かれているんですね。
というか、むしろ経験が乏しいのに勢いだけでつっぱしる感じが、明治時代にアメリカ巡業を押し切ってしまった音二郎&貞奴の無謀なエネルギーと重なっていい効果を出していました。
特に常盤貴子は、「初めて舞台にあがったので技術はないが、なにをしても人の目をひきつける天賦の華やかさがある」という設定の役なので、ごく自然にはまって見えました。
あと、「座長の稽古嫌いは有名だからな」というセリフに笑った(ユースケは自他共に認める稽古嫌いなので)。
他にも、三谷作品では山南さんのイメージが強い堺雅人が、衣装が足りなくて新撰組の羽織を着て出てくるあたりも「ファンサービス心得てるな」と思ったし、「受ければいいんだ」というユースケと、「人に見せるからにはそれなりの内容がなきゃだめだ」という堺雅人の対立場面など、TVと舞台の対立にもダブって見えたし(特に「お客が入らなきゃ中身がよくてもしょうがない」というセリフには商業演劇の大命題が凝縮されてるようでつきささりました)、新劇出身の今井朋彦が、「シェイクスピアならハムレットのほうがいい」とこうるさく注文をつけるプライドの高い役者を演じてるのもおもしろかった。
「いろんなジャンルの人がまじってて統一感がない」という批判もきいたけど、商業演劇がこれから生きていくためにはまずそういう「節操」を捨てなきゃいけないのかもしれません。
音二郎一座の奮闘が、演劇界全体の縮図にも見えるという、おもしろいだけでなく、演劇業界人にとっては考えさせられることも多い1本だったと思います。
「ヒステリア」については、HPの「鑑定法」で語ってますので、興味ある方はそちらへお越しください。
以上です。
さて。来年はどんな作品に出会えるでしょうか。
昨年のようなジルベスター状態にならない今のうちに、恒例の「心に残った“ベストプレイ5”」を発表します。
……といっても、今年は家の建て替えや旗揚げ公演などでいっぱいいっぱいだったため、観劇数が非常に少ないんですよ。数えてみたら44本しかない。昨年は67本、一昨年は58本、その前が76本なので、まあ例年の半分とは言わないまでも、3分の2くらいしか観てないですね。
しかも内訳をみると短編とかリーディングとか、1回で数本こなしているものもけっこうあるんで、感覚としてはもっと少ない感じです。
そんな中で印象に残った5本をあげると…(44本の中にはオペラやミュージカルも入ってますが、選出はストレートプレイに限定します)。
「ヒステリア」(T.ジョンソン)
《三軒茶屋/シアタートラム》
「コンフィダント・絆」(三谷幸喜)
《渋谷/パルコ劇場》
「CLEAN SKINS」(シャン・カーン)
《初台/新国立劇場小劇場》
「片づけたい女たち」(永井愛)
《三軒茶屋/シアタートラム》
「恐れを知らぬ川上音二郎一座」(三谷幸喜)
《日比谷/シアタークリエ》
この5本でしょうか。
強いていうと「CLEAN SKINS」は他の4本に比べると納得できない点が多かったんですが、題材はおもしろかったんで入れてみました。なにせ本数少ないんで。
たしかにあの限定された空間&人数(母と息子とイスラム教に改宗して突然戻ってきた娘の3人)で2時間緊張感を持続させるのはすごいと思うし、「クリスチャンの白人がいきなりイスラム教徒に改宗」という設定はかなりインパクトあって、最初はその部分の「なぜ?」という謎でひっぱられましたが、理由を知ったらちょっと腰砕け。
というのも、「失踪した父が、じつは白人ではなくトルコ人だったということを知ってしまったから」というのは、イスラム教徒に改宗する理由としては合理的すぎて「なーんだ」という感じが否めないから。
ほんとにまっっったくみじんもイスラムとは関係なかった家族の一人がイスラムに改宗するドラマのほうが私は観たかったな。
途中、「あんたイスラムイスラムいうけど、女はみんな差別されてて、男は自爆テロにはしる、くらいの知識しかないんでしょ、どうせ」みたいなことをお姉さんが弟に言うんですが、私はまさに「その程度の知識」しかない人間だったんで、このあとに「なぜイスラム教なのか」「キリスト教では救われなかったけど、イスラム教で救われた理由はなんなのか」「知られざるイスラムの姿」などが帰ってきたお姉さんの口から明かされるのを楽しみに待ってたんですが、結局そういう具体的な宗教話はなにも出てこないまま「お父さん」の話に移ってっちゃったので「あれれ? そういう話じゃなかったんだ」という感じでした。前振りだけかい!って。
そもそもアラブ系との混血だったら見た目からすでにまわりの人とは違うんじゃないかと。誰かにそういうようなことを指摘されたことはないんだろうか。友達とかさ。お母さんも、白人の背の高い見知らぬおっさんの写真を子供たちに見せて「これがあなたたちのお父さんよ」と思わせてきたってそれはちょっと無理あると思わなかったのか?
せめてアラブ系寄りの白人とか、せいぜい北村一輝程度の顔写真を選んで見せておけばよかったのにね(北村一輝じゃもう充分疑惑の対象か←北村ネタ好きだね>自分)。
残り4本はどれもとてもおもしろかったです。
中でも三谷幸喜の作品は2本とも新作書き下ろしで、2本ともこのレベルって相当すごいことだと思います(永井愛の作品は再演です)。
特に「コンフィダント・絆」は、個人的にかなり完成度の高い話だと思いました(ただ、完璧に宛書きなので、このメンツの役者でなければ成り立たないだろうなとは思うのですが)。
「画家」なんておよそ演劇になりにくい題材だと思うのに、作品(絵)そのものを見せるのではなく、おのおのの創作スタイルや個人的性癖などを通してどういうアーティストなのかをビビッドに伝えてみせるという手腕は見事です。
ゴッホとゴーギャンのコンビなんて、もうなまじのお笑いコンビより笑いましたよ。ある程度画家についての情報やエピソードを知っている人がみるとさらに楽しめます。
この「知ってる人が観るとさらに楽しい」という知的な部分でくすぐる三谷作風が「鼻につく」と敬遠する人がいることもたしかなんですが、「恐れを知らぬ〜」のほうは、もう少し大衆性を強調し、商業演劇という間口の広さを十二分に意識した作りになっていました(親切に説明しすぎて長尺化してたけど)。
「コンフィダント・絆」も「恐れを知らぬ〜」も言ってみれば芸術・芸能関係の有名人が出てくる話です。
前者では、芸術家ならではのしょうもなさや矮小さやせこさといったサガを愛すべき形で描いていて、こういうテーマは三谷さん大好きなんですよね(そして実際にこういうテーマだと筆が冴える)。
これをそのまま後者におきかえると、「役者に目覚めてしまった自分の本能と、舞台にあがることをよく思わない夫の間で葛藤する貞奴」「貞奴の天性の舞台人としての才能を認めながらも、同業としてどうしようもなく嫉妬してしまう音二郎」というあたりを集中的に描いていたと思うんです。
でも、今回は、新劇場のこけら落としで、なおかつ旧芸術座ファン(年輩客)も意識しないと……という前提があったためか、あえてそういう要素はつっこまずにさらっと通過し、「劇中劇」を通して「虚」と「実」のせめぎあいをダイナミックに描くというアプローチをとっていたのが印象的でした。
まず、わかりやすさと演劇らしさを重視し、なおかつ物語の構造やエピソードが今の演劇界や演じている役者自身とも重なるという点で演劇好きにもアピールする奥行きをも備えていた点がすごいなと思いました。
最初は主役の2人がユースケ・サンタマリアと常盤貴子ときいて、演劇好きは「そんな舞台経験の少ない役者をもってくるなんて。いかにも一般受け狙ってる感じ」と不安を拭えなかったようですが、これまたよく考えられていて、芸の見せ場は脇の達者な人が担い、2人は真ん中にいるだけで輝くように書かれているんですね。
というか、むしろ経験が乏しいのに勢いだけでつっぱしる感じが、明治時代にアメリカ巡業を押し切ってしまった音二郎&貞奴の無謀なエネルギーと重なっていい効果を出していました。
特に常盤貴子は、「初めて舞台にあがったので技術はないが、なにをしても人の目をひきつける天賦の華やかさがある」という設定の役なので、ごく自然にはまって見えました。
あと、「座長の稽古嫌いは有名だからな」というセリフに笑った(ユースケは自他共に認める稽古嫌いなので)。
他にも、三谷作品では山南さんのイメージが強い堺雅人が、衣装が足りなくて新撰組の羽織を着て出てくるあたりも「ファンサービス心得てるな」と思ったし、「受ければいいんだ」というユースケと、「人に見せるからにはそれなりの内容がなきゃだめだ」という堺雅人の対立場面など、TVと舞台の対立にもダブって見えたし(特に「お客が入らなきゃ中身がよくてもしょうがない」というセリフには商業演劇の大命題が凝縮されてるようでつきささりました)、新劇出身の今井朋彦が、「シェイクスピアならハムレットのほうがいい」とこうるさく注文をつけるプライドの高い役者を演じてるのもおもしろかった。
「いろんなジャンルの人がまじってて統一感がない」という批判もきいたけど、商業演劇がこれから生きていくためにはまずそういう「節操」を捨てなきゃいけないのかもしれません。
音二郎一座の奮闘が、演劇界全体の縮図にも見えるという、おもしろいだけでなく、演劇業界人にとっては考えさせられることも多い1本だったと思います。
「ヒステリア」については、HPの「鑑定法」で語ってますので、興味ある方はそちらへお越しください。
以上です。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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