古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
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【号外】やっちゃいました<(_ _)>
- 2010.06.09
納骨を終えて
- 2010.04.19
母の言葉が届いた日
【号外】やっちゃいました<(_ _)>
- 2010/07/06 (Tue)
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6/21〜29からロシアに旅行していましたが、帰国日(28日)の前日、赤の広場で転倒し、地面についた左手首と肘を思いっきりねじってしまいました。
これはまずい!とは思いましたが、海外で病院に行くのはできれば避けたかったので、手をブラブラさせたまま観光を続け、成田に着いたその足で病院に行きました。
結果は「上腕骨顆上骨折」(うち1カ所は靭帯にくっついた形で骨片が剥がれおちた)および「橈骨遠位端骨折」。ひらたくいうと手首1カ所と肘2カ所、計3カ所の骨折です。
普通は手術して治すらしいのですが、私は左腕に麻痺と浮腫があるため、手術なしで固定のみで治すことになりました。
西洋医学的にはすることはないので、ドクターには「入院の必要はなし」と言われたのですが、この状態ではさすがに身の回りのことがなにもできないため、痛みと腫れがひき、ある程度動かせるようになるまで入院させてもらうことになりました。
イタリアでこけて靭帯損傷、香港でインフルエンザから気管支炎を併発して成田から救急車搬送…と今までいろいろやってきましたが、今回もまたやってしまいました(>_<)
今日は入院1週間目ですが、外出許可をとって鍼治療に行き、そのまま一時帰宅したので、久しぶりにパソコンを開きました。
これからまた病院に戻ります。
いつまで入院になるかわかりませんが、時々戻ってきつつ、様子をみます。
恐れ入りますが、なにかありましたら、当分は携帯のほうに連絡をお願いいたしますm(_ _)m
とりいそぎご報告まで。
これはまずい!とは思いましたが、海外で病院に行くのはできれば避けたかったので、手をブラブラさせたまま観光を続け、成田に着いたその足で病院に行きました。
結果は「上腕骨顆上骨折」(うち1カ所は靭帯にくっついた形で骨片が剥がれおちた)および「橈骨遠位端骨折」。ひらたくいうと手首1カ所と肘2カ所、計3カ所の骨折です。
普通は手術して治すらしいのですが、私は左腕に麻痺と浮腫があるため、手術なしで固定のみで治すことになりました。
西洋医学的にはすることはないので、ドクターには「入院の必要はなし」と言われたのですが、この状態ではさすがに身の回りのことがなにもできないため、痛みと腫れがひき、ある程度動かせるようになるまで入院させてもらうことになりました。
イタリアでこけて靭帯損傷、香港でインフルエンザから気管支炎を併発して成田から救急車搬送…と今までいろいろやってきましたが、今回もまたやってしまいました(>_<)
今日は入院1週間目ですが、外出許可をとって鍼治療に行き、そのまま一時帰宅したので、久しぶりにパソコンを開きました。
これからまた病院に戻ります。
いつまで入院になるかわかりませんが、時々戻ってきつつ、様子をみます。
恐れ入りますが、なにかありましたら、当分は携帯のほうに連絡をお願いいたしますm(_ _)m
とりいそぎご報告まで。
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納骨を終えて
- 2010/06/09 (Wed)
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早いもので、母が亡くなってもう半年が経過しました。
いろいろな方にご心配いただきましたが、お陰さまで私は元気です。
前回の記事でも少し楽になってきたと書きましたが、今はさらに楽になりました。
というか、今まで生きてきた中で今が一番楽かもしれないです。
じつは5月に、友人の紹介でスピリチュアル系の方とお話をさせていただきました。
占い…とは違いますね。どちらかというと「見える人」という感じです。まったくそんなふうには見えない普通の印象の方なんですが。
インチキとか出鱈目とか言われてしまえばそれまでですが、私はどうしても「母が今どういう状態でいるのか」を知りたかったのです。
そうでないと、最後に見たあまりにも悲しい母の姿で時間がとまってしまって前へ進めないので。
なにをどう考えて、どちらをどう向いても、最後にはそこへ思考が戻ってしまうのがどうにもこうにもつらかったのです。
詳細はあえて書きませんが、その方と話をした日から、自分でも信じられないくらい心が軽くなりました。
「そうか!」と納得することも多数。
前回、「母の言葉が聞こえた気がした」「母が見ていてくれると感じた」と書きましたが、今はさらに進んで「母と一体化している自分」を感じています。
「そばにいる」のではなく、「中にいる」と感じるのです。
中にいるので、言葉という形ももう必要ではないと思っています。
変な話ですが、なんとなく自分の行動も変わってきているんですよね。
前だったら母がやっていたようなこと、言っていたようなことを、スッとやったり言ったりしているとか…。
もちろん、いなくなったからその分私がしっかりしなきゃと思って…という部分もあると思いますが、「無理に」というのではなく「自然に」出てくるのを感じるんです。
ちょっと前まではなんとなく「苦手だな」と思うようなことがするっとできてたりとか。
そんなとき、「ああ、母は生きていたときよりストレートに力をくれているのかも」と感じます。
不思議なもので、最初はあれだけ不安で気が狂いそうだったのに、今は「安心」という言葉がぴったりくる状態です。
自分が置かれた状況はなにも変わってないんですけどね。
そんな中、5月30日(母の誕生日)に納骨式をおこないました。
普通、納骨といえば四九日ですが、半年もたってしまったのは、「うちにはまだお墓がなかったから」です。
思えば、母もしょっちゅう「お墓はどうするの」と気にしていたのですが、なかなか実際に亡くなる家族が出てこないとお墓を真剣に探すことってしないものです。
というわけで、「葬儀後の後処理」「追悼演奏会の準備」と並んで、「お墓探し」もおこなうことになったわけですが、いくつかまわった末にとてもすてきな墓地をみつけることができました。
最初は跡継ぎがいなくてもいい「永代供養墓」を探していたんですが、今は「跡継ぎがいる」ほうが少数派という世の中(子供がいなくて…というだけでなく、子供はいるけど子供が未婚とか、子供はいるけど娘だけとか、子供はいるけど海外にいっちゃったとか、理由はいくらでもありますから)。
探してみると、思った以上に今のお墓事情は「継承者」についてのルールがゆるいことがわかりました。
となると、あとはお墓の「場所」と「形態」の問題です。
樹木葬なども興味があって見学したりしたんですが、やはり墓石というはっきりした形がないとしっくりこないという家族の意見もあって、墓石はたてようということになりました。
そこでいきついたのが「ガーデン墓地」。
日本古来の墓地のように墓石がみっしり埋まってる墓地ではなく、ヨーロッパ風のガーデンと一体化しているような墓地です。
墓石の色や形も好きなものにできるので、墓地内を散策するだけでも楽しいです。
専属のガーデナーが園内の手入れをしてくれているので、大きな霊園にありがちな荒涼とした感じがなく、いつも花と緑に溢れています。
じつは、母が亡くなってからいっそうガーデニングに情熱を注ぐようになっていて、今や私の最大の癒しは「植物」なんですが、植物って本当に不思議な力があるなとつくづく思ってます。
母の具合がどんどん悪くなっていったとき、家の中のある植物だけが急に枯れていったという出来事がありました。
それはアジアンタムという観葉植物なんですが、それまではたいして手をかけているわけでもないのに異様に元気がよくて、母がそばを通るたびに「すごい勢いね」「見事ね」「きれいな緑ね」と感心していたんです。たしかに枯れるのが想像できないくらいの勢いでした。
ところが、母が入院した頃からみるみる枯れてしまい、最後には丸坊主に近い状態になってしまったんです。
手入れは前と変わらずやっていたんですが。
そのときは「この植物は母の身代わりになってくれているのかもしれない。だから母はきっと回復する」と自分に言い聞かせていましたが、その願いはかないませんでした。
今では、植物もほめてくれる母がいなくなって悲しんでいたのかなと思っています。
母も植物がとても好きでした(世話はあまりしなかったけど)。
花と緑に囲まれた墓地はきっと気に入ってくれることでしょう。
納骨当日は、親戚22人が集まり、聖歌を歌い、献花をし、記念撮影をしました。
前日まで式次第を作成したり、会食の席次を決めたり、BGMのCDを用意したり、記念品に配る母のCDやフォトブックをデザインしたり、聖歌の楽譜を探してパソコンで四部合唱にアレンジしたり、合唱の練習をしたり、コンビニに楽譜のコピーに走ったり、お供え物の蕗の煮物を作ったり(母の大好物だったので。私はあまり好きじゃないのでじつは初めて作った)…と、家族中準備でおおわらわでした。
納骨当日の朝まで発声練習してる遺族ってどうなの?って感じですが。
そのわりに弟は本番で違うパート歌ってるし(笑)。
でも、結果的にとても心に残る納骨式になりました。
納骨が終わってホッとしたのか、このところずっと元気だったのにちょっと疲れが出てきましたが…。
キリスト教では、仏教と違って納骨にそれほど意味はないようですが、やはり家族にとっては大きな節目です。
そういう意味では半年くらい時間をもらえてよかったなと思います。
いろいろな方にご心配いただきましたが、お陰さまで私は元気です。
前回の記事でも少し楽になってきたと書きましたが、今はさらに楽になりました。
というか、今まで生きてきた中で今が一番楽かもしれないです。
じつは5月に、友人の紹介でスピリチュアル系の方とお話をさせていただきました。
占い…とは違いますね。どちらかというと「見える人」という感じです。まったくそんなふうには見えない普通の印象の方なんですが。
インチキとか出鱈目とか言われてしまえばそれまでですが、私はどうしても「母が今どういう状態でいるのか」を知りたかったのです。
そうでないと、最後に見たあまりにも悲しい母の姿で時間がとまってしまって前へ進めないので。
なにをどう考えて、どちらをどう向いても、最後にはそこへ思考が戻ってしまうのがどうにもこうにもつらかったのです。
詳細はあえて書きませんが、その方と話をした日から、自分でも信じられないくらい心が軽くなりました。
「そうか!」と納得することも多数。
前回、「母の言葉が聞こえた気がした」「母が見ていてくれると感じた」と書きましたが、今はさらに進んで「母と一体化している自分」を感じています。
「そばにいる」のではなく、「中にいる」と感じるのです。
中にいるので、言葉という形ももう必要ではないと思っています。
変な話ですが、なんとなく自分の行動も変わってきているんですよね。
前だったら母がやっていたようなこと、言っていたようなことを、スッとやったり言ったりしているとか…。
もちろん、いなくなったからその分私がしっかりしなきゃと思って…という部分もあると思いますが、「無理に」というのではなく「自然に」出てくるのを感じるんです。
ちょっと前まではなんとなく「苦手だな」と思うようなことがするっとできてたりとか。
そんなとき、「ああ、母は生きていたときよりストレートに力をくれているのかも」と感じます。
不思議なもので、最初はあれだけ不安で気が狂いそうだったのに、今は「安心」という言葉がぴったりくる状態です。
自分が置かれた状況はなにも変わってないんですけどね。
そんな中、5月30日(母の誕生日)に納骨式をおこないました。
普通、納骨といえば四九日ですが、半年もたってしまったのは、「うちにはまだお墓がなかったから」です。
思えば、母もしょっちゅう「お墓はどうするの」と気にしていたのですが、なかなか実際に亡くなる家族が出てこないとお墓を真剣に探すことってしないものです。
というわけで、「葬儀後の後処理」「追悼演奏会の準備」と並んで、「お墓探し」もおこなうことになったわけですが、いくつかまわった末にとてもすてきな墓地をみつけることができました。
最初は跡継ぎがいなくてもいい「永代供養墓」を探していたんですが、今は「跡継ぎがいる」ほうが少数派という世の中(子供がいなくて…というだけでなく、子供はいるけど子供が未婚とか、子供はいるけど娘だけとか、子供はいるけど海外にいっちゃったとか、理由はいくらでもありますから)。
探してみると、思った以上に今のお墓事情は「継承者」についてのルールがゆるいことがわかりました。
となると、あとはお墓の「場所」と「形態」の問題です。
樹木葬なども興味があって見学したりしたんですが、やはり墓石というはっきりした形がないとしっくりこないという家族の意見もあって、墓石はたてようということになりました。
そこでいきついたのが「ガーデン墓地」。
日本古来の墓地のように墓石がみっしり埋まってる墓地ではなく、ヨーロッパ風のガーデンと一体化しているような墓地です。
墓石の色や形も好きなものにできるので、墓地内を散策するだけでも楽しいです。
専属のガーデナーが園内の手入れをしてくれているので、大きな霊園にありがちな荒涼とした感じがなく、いつも花と緑に溢れています。
じつは、母が亡くなってからいっそうガーデニングに情熱を注ぐようになっていて、今や私の最大の癒しは「植物」なんですが、植物って本当に不思議な力があるなとつくづく思ってます。
母の具合がどんどん悪くなっていったとき、家の中のある植物だけが急に枯れていったという出来事がありました。
それはアジアンタムという観葉植物なんですが、それまではたいして手をかけているわけでもないのに異様に元気がよくて、母がそばを通るたびに「すごい勢いね」「見事ね」「きれいな緑ね」と感心していたんです。たしかに枯れるのが想像できないくらいの勢いでした。
ところが、母が入院した頃からみるみる枯れてしまい、最後には丸坊主に近い状態になってしまったんです。
手入れは前と変わらずやっていたんですが。
そのときは「この植物は母の身代わりになってくれているのかもしれない。だから母はきっと回復する」と自分に言い聞かせていましたが、その願いはかないませんでした。
今では、植物もほめてくれる母がいなくなって悲しんでいたのかなと思っています。
母も植物がとても好きでした(世話はあまりしなかったけど)。
花と緑に囲まれた墓地はきっと気に入ってくれることでしょう。
納骨当日は、親戚22人が集まり、聖歌を歌い、献花をし、記念撮影をしました。
前日まで式次第を作成したり、会食の席次を決めたり、BGMのCDを用意したり、記念品に配る母のCDやフォトブックをデザインしたり、聖歌の楽譜を探してパソコンで四部合唱にアレンジしたり、合唱の練習をしたり、コンビニに楽譜のコピーに走ったり、お供え物の蕗の煮物を作ったり(母の大好物だったので。私はあまり好きじゃないのでじつは初めて作った)…と、家族中準備でおおわらわでした。
納骨当日の朝まで発声練習してる遺族ってどうなの?って感じですが。
そのわりに弟は本番で違うパート歌ってるし(笑)。
でも、結果的にとても心に残る納骨式になりました。
納骨が終わってホッとしたのか、このところずっと元気だったのにちょっと疲れが出てきましたが…。
キリスト教では、仏教と違って納骨にそれほど意味はないようですが、やはり家族にとっては大きな節目です。
そういう意味では半年くらい時間をもらえてよかったなと思います。
母の言葉が届いた日
- 2010/04/19 (Mon)
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長らくのご無沙汰です…という挨拶ももう何度目かという感じですが、またまた久しぶりの更新です。
さる4月10日に、女声合唱団コーロ・ヴィータの演奏会が開催されました。
コーロ・ヴィータは私の両親が作った合唱団で、今年の4月でちょうど設立10周年を迎えます(コーロ・ヴィータの詳細については この記事をご覧ください)。
今回は5回目の演奏会となりますが、10周年ということで、浜離宮朝日ホールで盛大に記念コンサートを行う予定で1年半前から準備を進めてきました。
ところが、団の代表だった母が本番の5ヶ月前に急逝したため、追悼コンサートも兼ねることになってしまいました。
もちろん、私も毎回プログラム制作や当日の現場の仕切りなどで手伝いをしてはいましたが、なんといっても母を中心にまとまっていた合唱団ですし、お客の動員も母に頼っていたところがあるので、母を失ったことは家族にとってはもちろんのこと、合唱団にとっても大きな打撃でした。
一時は「もうとても歌う気になれない」と練習に出てこなくなる方もいらっしゃったりして、「こんな調子で本当に本番を迎えられるのか?」…とかなり不安な状態でした。
それでも、このまま演奏会がつぶれてしまったら誰よりも母が一番悲しむーーそういう思いで、自分が悲しむより先に団員を奮い立たせ、葬儀の1週間後から母の仕事を引き継ぎ、本番を迎える日まで走り続けてきました。
と、言葉で言うのは簡単ですが、この5ヶ月は本当に気が遠くなるほど長くて、何度も何度も「早く終わってほしい」と時間が早く過ぎてくれることを願いました。
最初は張り切っていたものの、やはり無理があったのか、1月から不安発作のようなものが起こり始めました(漠然とした不安がどわーっと押し寄せてきて、胸がつぶれそうに苦しくて身体が緊張で固まってしまう感じ)。
涙は脱水症状を起こしそうなほど出続けるし、あまりのつらさにどうしていいのやら途方に暮れる毎日でしたが、抗うつ剤を飲み始めたら徐々に薬が効いてきて、3月に入った頃からようやく気分も体調も落ち着いてきました。
そんなこんなでお陰さまでなんとか無事に本番を終えることができたのですが、当日は集客9割というびっくりするほどの数のお客様を迎えることができて、ロビースタッフも嬉しい悲鳴をあげていました。
受付まわりを手伝いに来てくださった方々は本当によく働いてくれて、「仕事というだけではここまで一生懸命やってくれないよなー」とあらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました。
悲しみは少しも薄れていませんが、悲しみと自分の間に距離をおくことは最近ようやく少しずつできるようになってきた気がします。
今自分が与えられている状態の中で、「あって当然のもの」はひとつもないということ。
どれもこれも、いつ消えてしまっても少しも不思議ではないということ。
そのくらい、生きていくことは不確かなものだらけだということ。
そんなことは、「色即是空」とか「不易流行」とか言われるまでもなく、誰でも頭ではわかっているはずなのに、頭で理解することはどうしても抽象的で、なんだかんだいってもやっぱり普段は「あって当然」だと思っている自分がいます。
今回のようにそれが現実になり、やがてどんなに受け入れがたくてもこれは受け入れざるをえないのだと悟ったとき、感じるたしかな感覚は「自分の崩壊=死」です。
母とともに私も死んだーー。
その言葉に集約されます。
当たり前だと思っていたものを失ったあとに見える世界は、既視感のないものばかりでした。
同じ人に会って、同じような会話をかわしても、どこかが前とは違う。
母のいない世界で起こることは、今の私にとってすべてが未経験なのです。
演奏会の曲の中でこんな歌詞が耳に残りました。
「まだ見ぬ新しい大地へーー」
そうか。
この未経験の光景は「新しい大地」なんだ。
そう思ったとき、自分が再生しつつあることに気づきました。
私は死んで、もう一度生まれたーー。
そのことに気づいたとき、すべてのものが、人が、時間が、空間が、とても愛しく、大切に思えてきました。
いつ消えてもいいと思うほどに。
べつに仏様になったわけではなく、腹の立つことも悲しいこともイライラすることも許せないと思うことも相変わらず怒濤のようにたくさんあるのですが、それらマイナスの要素も含めて「すぐに過ぎ去っていく、とどめておけない大切なもの」なのだと感じられるようになったのです。
そんな自分の変化を認識できるようになった頃、ある出来事が起こりました。
それは演奏会が終わって4日目の夕方のことでした。
舞台に立っている人は幕が下りれば達成感もあるし、緊張から解放もされるでしょうが、裏方は終わってからもだらだらと残務処理が続き、なかなかすっきりと解放感に浸ることができません。
その残務処理もようやく一段落ついて、ちょっと休もうかなとベッドに横になった瞬間、唐突に母の声が聞こえてきたのです。
「声が聞こえた」という表現は適切ではないかもしれません。
正確には、「声が聞こえたあとの状態がいきなりやってきた」という感じです。
それは「よく頑張ったね」といった内容の言葉でした。
今までに何十回も「お母さんが見守ってくれている」「お母さんはそばにいる」といろいろな人から言われ続けてきましたが、正直、そんなふうに思えたことは一度もありませんでした。
遺影にいくら語りかけても母は何も答えてくれません。
返事を想像することはあっても、それは私が頭の中で作り上げたものであって、自問自答しているにすぎません。
語りかければ語りかけるほど、「みんな嘘つき。そんなの気休めだよ。いないよ。どこにもいないじゃん」と哀しみと空しさが増すだけでした。
でもこのときは違いました。
自分の頭で考えるより先に降ってきたんです。
あまりに不意だったので涙が30分間くらいとまりませんでした。
今は「たしかに見ていてくれている」と信じられるようになりました。
相変わらず遺影はなにも語ってくれませんが、今はそう思えます。
さる4月10日に、女声合唱団コーロ・ヴィータの演奏会が開催されました。
コーロ・ヴィータは私の両親が作った合唱団で、今年の4月でちょうど設立10周年を迎えます(コーロ・ヴィータの詳細については この記事をご覧ください)。
今回は5回目の演奏会となりますが、10周年ということで、浜離宮朝日ホールで盛大に記念コンサートを行う予定で1年半前から準備を進めてきました。
ところが、団の代表だった母が本番の5ヶ月前に急逝したため、追悼コンサートも兼ねることになってしまいました。
もちろん、私も毎回プログラム制作や当日の現場の仕切りなどで手伝いをしてはいましたが、なんといっても母を中心にまとまっていた合唱団ですし、お客の動員も母に頼っていたところがあるので、母を失ったことは家族にとってはもちろんのこと、合唱団にとっても大きな打撃でした。
一時は「もうとても歌う気になれない」と練習に出てこなくなる方もいらっしゃったりして、「こんな調子で本当に本番を迎えられるのか?」…とかなり不安な状態でした。
それでも、このまま演奏会がつぶれてしまったら誰よりも母が一番悲しむーーそういう思いで、自分が悲しむより先に団員を奮い立たせ、葬儀の1週間後から母の仕事を引き継ぎ、本番を迎える日まで走り続けてきました。
と、言葉で言うのは簡単ですが、この5ヶ月は本当に気が遠くなるほど長くて、何度も何度も「早く終わってほしい」と時間が早く過ぎてくれることを願いました。
最初は張り切っていたものの、やはり無理があったのか、1月から不安発作のようなものが起こり始めました(漠然とした不安がどわーっと押し寄せてきて、胸がつぶれそうに苦しくて身体が緊張で固まってしまう感じ)。
涙は脱水症状を起こしそうなほど出続けるし、あまりのつらさにどうしていいのやら途方に暮れる毎日でしたが、抗うつ剤を飲み始めたら徐々に薬が効いてきて、3月に入った頃からようやく気分も体調も落ち着いてきました。
そんなこんなでお陰さまでなんとか無事に本番を終えることができたのですが、当日は集客9割というびっくりするほどの数のお客様を迎えることができて、ロビースタッフも嬉しい悲鳴をあげていました。
受付まわりを手伝いに来てくださった方々は本当によく働いてくれて、「仕事というだけではここまで一生懸命やってくれないよなー」とあらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました。
悲しみは少しも薄れていませんが、悲しみと自分の間に距離をおくことは最近ようやく少しずつできるようになってきた気がします。
今自分が与えられている状態の中で、「あって当然のもの」はひとつもないということ。
どれもこれも、いつ消えてしまっても少しも不思議ではないということ。
そのくらい、生きていくことは不確かなものだらけだということ。
そんなことは、「色即是空」とか「不易流行」とか言われるまでもなく、誰でも頭ではわかっているはずなのに、頭で理解することはどうしても抽象的で、なんだかんだいってもやっぱり普段は「あって当然」だと思っている自分がいます。
今回のようにそれが現実になり、やがてどんなに受け入れがたくてもこれは受け入れざるをえないのだと悟ったとき、感じるたしかな感覚は「自分の崩壊=死」です。
母とともに私も死んだーー。
その言葉に集約されます。
当たり前だと思っていたものを失ったあとに見える世界は、既視感のないものばかりでした。
同じ人に会って、同じような会話をかわしても、どこかが前とは違う。
母のいない世界で起こることは、今の私にとってすべてが未経験なのです。
演奏会の曲の中でこんな歌詞が耳に残りました。
「まだ見ぬ新しい大地へーー」
そうか。
この未経験の光景は「新しい大地」なんだ。
そう思ったとき、自分が再生しつつあることに気づきました。
私は死んで、もう一度生まれたーー。
そのことに気づいたとき、すべてのものが、人が、時間が、空間が、とても愛しく、大切に思えてきました。
いつ消えてもいいと思うほどに。
べつに仏様になったわけではなく、腹の立つことも悲しいこともイライラすることも許せないと思うことも相変わらず怒濤のようにたくさんあるのですが、それらマイナスの要素も含めて「すぐに過ぎ去っていく、とどめておけない大切なもの」なのだと感じられるようになったのです。
そんな自分の変化を認識できるようになった頃、ある出来事が起こりました。
それは演奏会が終わって4日目の夕方のことでした。
舞台に立っている人は幕が下りれば達成感もあるし、緊張から解放もされるでしょうが、裏方は終わってからもだらだらと残務処理が続き、なかなかすっきりと解放感に浸ることができません。
その残務処理もようやく一段落ついて、ちょっと休もうかなとベッドに横になった瞬間、唐突に母の声が聞こえてきたのです。
「声が聞こえた」という表現は適切ではないかもしれません。
正確には、「声が聞こえたあとの状態がいきなりやってきた」という感じです。
それは「よく頑張ったね」といった内容の言葉でした。
今までに何十回も「お母さんが見守ってくれている」「お母さんはそばにいる」といろいろな人から言われ続けてきましたが、正直、そんなふうに思えたことは一度もありませんでした。
遺影にいくら語りかけても母は何も答えてくれません。
返事を想像することはあっても、それは私が頭の中で作り上げたものであって、自問自答しているにすぎません。
語りかければ語りかけるほど、「みんな嘘つき。そんなの気休めだよ。いないよ。どこにもいないじゃん」と哀しみと空しさが増すだけでした。
でもこのときは違いました。
自分の頭で考えるより先に降ってきたんです。
あまりに不意だったので涙が30分間くらいとまりませんでした。
今は「たしかに見ていてくれている」と信じられるようになりました。
相変わらず遺影はなにも語ってくれませんが、今はそう思えます。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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