古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
納骨を終えて
- 2010/06/09 (Wed)
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早いもので、母が亡くなってもう半年が経過しました。
いろいろな方にご心配いただきましたが、お陰さまで私は元気です。
前回の記事でも少し楽になってきたと書きましたが、今はさらに楽になりました。
というか、今まで生きてきた中で今が一番楽かもしれないです。
じつは5月に、友人の紹介でスピリチュアル系の方とお話をさせていただきました。
占い…とは違いますね。どちらかというと「見える人」という感じです。まったくそんなふうには見えない普通の印象の方なんですが。
インチキとか出鱈目とか言われてしまえばそれまでですが、私はどうしても「母が今どういう状態でいるのか」を知りたかったのです。
そうでないと、最後に見たあまりにも悲しい母の姿で時間がとまってしまって前へ進めないので。
なにをどう考えて、どちらをどう向いても、最後にはそこへ思考が戻ってしまうのがどうにもこうにもつらかったのです。
詳細はあえて書きませんが、その方と話をした日から、自分でも信じられないくらい心が軽くなりました。
「そうか!」と納得することも多数。
前回、「母の言葉が聞こえた気がした」「母が見ていてくれると感じた」と書きましたが、今はさらに進んで「母と一体化している自分」を感じています。
「そばにいる」のではなく、「中にいる」と感じるのです。
中にいるので、言葉という形ももう必要ではないと思っています。
変な話ですが、なんとなく自分の行動も変わってきているんですよね。
前だったら母がやっていたようなこと、言っていたようなことを、スッとやったり言ったりしているとか…。
もちろん、いなくなったからその分私がしっかりしなきゃと思って…という部分もあると思いますが、「無理に」というのではなく「自然に」出てくるのを感じるんです。
ちょっと前まではなんとなく「苦手だな」と思うようなことがするっとできてたりとか。
そんなとき、「ああ、母は生きていたときよりストレートに力をくれているのかも」と感じます。
不思議なもので、最初はあれだけ不安で気が狂いそうだったのに、今は「安心」という言葉がぴったりくる状態です。
自分が置かれた状況はなにも変わってないんですけどね。
そんな中、5月30日(母の誕生日)に納骨式をおこないました。
普通、納骨といえば四九日ですが、半年もたってしまったのは、「うちにはまだお墓がなかったから」です。
思えば、母もしょっちゅう「お墓はどうするの」と気にしていたのですが、なかなか実際に亡くなる家族が出てこないとお墓を真剣に探すことってしないものです。
というわけで、「葬儀後の後処理」「追悼演奏会の準備」と並んで、「お墓探し」もおこなうことになったわけですが、いくつかまわった末にとてもすてきな墓地をみつけることができました。
最初は跡継ぎがいなくてもいい「永代供養墓」を探していたんですが、今は「跡継ぎがいる」ほうが少数派という世の中(子供がいなくて…というだけでなく、子供はいるけど子供が未婚とか、子供はいるけど娘だけとか、子供はいるけど海外にいっちゃったとか、理由はいくらでもありますから)。
探してみると、思った以上に今のお墓事情は「継承者」についてのルールがゆるいことがわかりました。
となると、あとはお墓の「場所」と「形態」の問題です。
樹木葬なども興味があって見学したりしたんですが、やはり墓石というはっきりした形がないとしっくりこないという家族の意見もあって、墓石はたてようということになりました。
そこでいきついたのが「ガーデン墓地」。
日本古来の墓地のように墓石がみっしり埋まってる墓地ではなく、ヨーロッパ風のガーデンと一体化しているような墓地です。
墓石の色や形も好きなものにできるので、墓地内を散策するだけでも楽しいです。
専属のガーデナーが園内の手入れをしてくれているので、大きな霊園にありがちな荒涼とした感じがなく、いつも花と緑に溢れています。
じつは、母が亡くなってからいっそうガーデニングに情熱を注ぐようになっていて、今や私の最大の癒しは「植物」なんですが、植物って本当に不思議な力があるなとつくづく思ってます。
母の具合がどんどん悪くなっていったとき、家の中のある植物だけが急に枯れていったという出来事がありました。
それはアジアンタムという観葉植物なんですが、それまではたいして手をかけているわけでもないのに異様に元気がよくて、母がそばを通るたびに「すごい勢いね」「見事ね」「きれいな緑ね」と感心していたんです。たしかに枯れるのが想像できないくらいの勢いでした。
ところが、母が入院した頃からみるみる枯れてしまい、最後には丸坊主に近い状態になってしまったんです。
手入れは前と変わらずやっていたんですが。
そのときは「この植物は母の身代わりになってくれているのかもしれない。だから母はきっと回復する」と自分に言い聞かせていましたが、その願いはかないませんでした。
今では、植物もほめてくれる母がいなくなって悲しんでいたのかなと思っています。
母も植物がとても好きでした(世話はあまりしなかったけど)。
花と緑に囲まれた墓地はきっと気に入ってくれることでしょう。
納骨当日は、親戚22人が集まり、聖歌を歌い、献花をし、記念撮影をしました。
前日まで式次第を作成したり、会食の席次を決めたり、BGMのCDを用意したり、記念品に配る母のCDやフォトブックをデザインしたり、聖歌の楽譜を探してパソコンで四部合唱にアレンジしたり、合唱の練習をしたり、コンビニに楽譜のコピーに走ったり、お供え物の蕗の煮物を作ったり(母の大好物だったので。私はあまり好きじゃないのでじつは初めて作った)…と、家族中準備でおおわらわでした。
納骨当日の朝まで発声練習してる遺族ってどうなの?って感じですが。
そのわりに弟は本番で違うパート歌ってるし(笑)。
でも、結果的にとても心に残る納骨式になりました。
納骨が終わってホッとしたのか、このところずっと元気だったのにちょっと疲れが出てきましたが…。
キリスト教では、仏教と違って納骨にそれほど意味はないようですが、やはり家族にとっては大きな節目です。
そういう意味では半年くらい時間をもらえてよかったなと思います。
いろいろな方にご心配いただきましたが、お陰さまで私は元気です。
前回の記事でも少し楽になってきたと書きましたが、今はさらに楽になりました。
というか、今まで生きてきた中で今が一番楽かもしれないです。
じつは5月に、友人の紹介でスピリチュアル系の方とお話をさせていただきました。
占い…とは違いますね。どちらかというと「見える人」という感じです。まったくそんなふうには見えない普通の印象の方なんですが。
インチキとか出鱈目とか言われてしまえばそれまでですが、私はどうしても「母が今どういう状態でいるのか」を知りたかったのです。
そうでないと、最後に見たあまりにも悲しい母の姿で時間がとまってしまって前へ進めないので。
なにをどう考えて、どちらをどう向いても、最後にはそこへ思考が戻ってしまうのがどうにもこうにもつらかったのです。
詳細はあえて書きませんが、その方と話をした日から、自分でも信じられないくらい心が軽くなりました。
「そうか!」と納得することも多数。
前回、「母の言葉が聞こえた気がした」「母が見ていてくれると感じた」と書きましたが、今はさらに進んで「母と一体化している自分」を感じています。
「そばにいる」のではなく、「中にいる」と感じるのです。
中にいるので、言葉という形ももう必要ではないと思っています。
変な話ですが、なんとなく自分の行動も変わってきているんですよね。
前だったら母がやっていたようなこと、言っていたようなことを、スッとやったり言ったりしているとか…。
もちろん、いなくなったからその分私がしっかりしなきゃと思って…という部分もあると思いますが、「無理に」というのではなく「自然に」出てくるのを感じるんです。
ちょっと前まではなんとなく「苦手だな」と思うようなことがするっとできてたりとか。
そんなとき、「ああ、母は生きていたときよりストレートに力をくれているのかも」と感じます。
不思議なもので、最初はあれだけ不安で気が狂いそうだったのに、今は「安心」という言葉がぴったりくる状態です。
自分が置かれた状況はなにも変わってないんですけどね。
そんな中、5月30日(母の誕生日)に納骨式をおこないました。
普通、納骨といえば四九日ですが、半年もたってしまったのは、「うちにはまだお墓がなかったから」です。
思えば、母もしょっちゅう「お墓はどうするの」と気にしていたのですが、なかなか実際に亡くなる家族が出てこないとお墓を真剣に探すことってしないものです。
というわけで、「葬儀後の後処理」「追悼演奏会の準備」と並んで、「お墓探し」もおこなうことになったわけですが、いくつかまわった末にとてもすてきな墓地をみつけることができました。
最初は跡継ぎがいなくてもいい「永代供養墓」を探していたんですが、今は「跡継ぎがいる」ほうが少数派という世の中(子供がいなくて…というだけでなく、子供はいるけど子供が未婚とか、子供はいるけど娘だけとか、子供はいるけど海外にいっちゃったとか、理由はいくらでもありますから)。
探してみると、思った以上に今のお墓事情は「継承者」についてのルールがゆるいことがわかりました。
となると、あとはお墓の「場所」と「形態」の問題です。
樹木葬なども興味があって見学したりしたんですが、やはり墓石というはっきりした形がないとしっくりこないという家族の意見もあって、墓石はたてようということになりました。
そこでいきついたのが「ガーデン墓地」。
日本古来の墓地のように墓石がみっしり埋まってる墓地ではなく、ヨーロッパ風のガーデンと一体化しているような墓地です。
墓石の色や形も好きなものにできるので、墓地内を散策するだけでも楽しいです。
専属のガーデナーが園内の手入れをしてくれているので、大きな霊園にありがちな荒涼とした感じがなく、いつも花と緑に溢れています。
じつは、母が亡くなってからいっそうガーデニングに情熱を注ぐようになっていて、今や私の最大の癒しは「植物」なんですが、植物って本当に不思議な力があるなとつくづく思ってます。
母の具合がどんどん悪くなっていったとき、家の中のある植物だけが急に枯れていったという出来事がありました。
それはアジアンタムという観葉植物なんですが、それまではたいして手をかけているわけでもないのに異様に元気がよくて、母がそばを通るたびに「すごい勢いね」「見事ね」「きれいな緑ね」と感心していたんです。たしかに枯れるのが想像できないくらいの勢いでした。
ところが、母が入院した頃からみるみる枯れてしまい、最後には丸坊主に近い状態になってしまったんです。
手入れは前と変わらずやっていたんですが。
そのときは「この植物は母の身代わりになってくれているのかもしれない。だから母はきっと回復する」と自分に言い聞かせていましたが、その願いはかないませんでした。
今では、植物もほめてくれる母がいなくなって悲しんでいたのかなと思っています。
母も植物がとても好きでした(世話はあまりしなかったけど)。
花と緑に囲まれた墓地はきっと気に入ってくれることでしょう。
納骨当日は、親戚22人が集まり、聖歌を歌い、献花をし、記念撮影をしました。
前日まで式次第を作成したり、会食の席次を決めたり、BGMのCDを用意したり、記念品に配る母のCDやフォトブックをデザインしたり、聖歌の楽譜を探してパソコンで四部合唱にアレンジしたり、合唱の練習をしたり、コンビニに楽譜のコピーに走ったり、お供え物の蕗の煮物を作ったり(母の大好物だったので。私はあまり好きじゃないのでじつは初めて作った)…と、家族中準備でおおわらわでした。
納骨当日の朝まで発声練習してる遺族ってどうなの?って感じですが。
そのわりに弟は本番で違うパート歌ってるし(笑)。
でも、結果的にとても心に残る納骨式になりました。
納骨が終わってホッとしたのか、このところずっと元気だったのにちょっと疲れが出てきましたが…。
キリスト教では、仏教と違って納骨にそれほど意味はないようですが、やはり家族にとっては大きな節目です。
そういう意味では半年くらい時間をもらえてよかったなと思います。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
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