古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
カテゴリー「舞台」の記事一覧
- 2025.04.20
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- 2005.03.14
「ガス燈」を観ました
- 2005.01.18
野田演出オペラ「マクベス」を観ました
- 2005.01.17
「三婆」を観てきました
「ガス燈」を観ました
北千住に新しくできた劇場「THEATRE1010」に、「ガス燈」を観にいってきました。
「ガス燈」というと、イングリッド・バーグマンが精神的に追いつめられていく妻役を好演してアカデミー賞をとったあの「ガス燈」を思い出す方が多いかもしれませんが、じつはこの話、もともとは舞台で、そのあとに映画化されたらしいです。
今回の舞台は日本初演で、バーグマンの演じた役は藤真利子が演じています。
ストーリーを簡単に説明すると…。
舞台は19世紀末のロンドン。
マニンガム夫妻(藤真利子&大森博史)は、最近ヨークシャーからロンドンの屋敷に引っ越してきた。
しかし、ここへ越してきてから、夫は急に妻につらくあたるようになり、もともと精神的に不安定な夫人は心の安まる暇がない。
夫はことあるごとに物がなくなったと騒いではそれを夫人のせいにし、夫人が知らないというと、病気のせいにするのである。
夫人の母親は精神病院で亡くなっており、夫人自身も母親のようになるのではないかという恐怖をもっているため、夫に責められるたびに彼女はどんどん追いつめられていく。
屋敷にはエリザベス(南一恵)という年輩の家政婦と、ナンシー(山谷典子)という若いメイドがいる。エリザベスは夫人に同情的だが、ナンシーはことあるごとに夫人に挑発的な態度をとる。
ある日、夫の留守中に、リー警部(千葉哲也)と名乗る男が夫人を訪ねてくる。
リーは、「マニンガム氏にはじつは籍を抜いていない妻がいて、あなたとはまだ籍を入れていない」ということ、さらに「マニンガムというのは偽名」だと夫人に暴露し、夫人にプロポーズしたのは夫人が資産家だったからで、彼はこの屋敷を買うお金がほしかったのだという。
さらにリーは、自分が担当した15年前の強盗殺人事件について話し、その事件が起きた現場がこの家であること、犯人はそのときに奪いそこねた宝石のありかを捜すためにこの屋敷と隣りの空き家を手に入れたのだと話す。
夫が殺人犯ときいて動揺する夫人だが、彼女には思い当たるふしがあった。
屋敷の2階は誰も使っていないはずなのに、時々2階で人の歩き回る足音が聞こえ、そのときは部屋のガス燈の光が暗くなるのだという。
ガス燈は、圧力の関係で、どこかべつの部屋で新しくガス燈をつけると、他の部屋のガス燈は暗くなるようになっている。
そうこうしているうちに、夫人の言う通り部屋のガス燈の光量が落ち、2階から足音が聞こえてくる。
リーは、マニンガムは外出したかのようにみせかけて隣りの空き家の屋根裏をつたって2階に侵入し、家捜しをしているのだと指摘。
リーを信用した夫人は、夫の机の抽出の中を調べることを許可する。すると、中から夫人が今まで「どこかへ隠した」と濡れ衣を着せ続けられてきたさまざまなものが出てきて夫人はショックを受ける。
犯人が15年間必死に捜し続けている宝石は、その中にあった中古品のブローチの裏に埋め込まれていたことが判明。
そのうちに夫が帰宅。リーと対面したマニンガムは悪事を暴かれて……。
THEATRE1010は初めて行く劇場です。
新しいし、広いし、きれいだし、駅からのアクセスはいいし、申し分なし。と言いたいところですが、音響はいまいち。セリフがあまり響いてこない。
とはいえ、ここまで大きい劇場じゃしょうがないか。
でも客席の反響はやたらにいいので、たえまなくいたるところから聞こえてくる咳の嵐に辟易しました。セリフより咳のほうがよく響くんだもん。
高年齢層が目立っていたからなのか。それにしても咳する人多すぎだよ。我慢できないのはわかるけど、口を覆うなど、もう少し気を遣えばこんなにうるさくならないはず。やはりマナーの問題だと思う。
後ろの席のオヤジなんて咳してくしゃみして鼻すすっていびきかいてもううるさいったらないんだよ。ムカーッ!
あと、休憩時間に飲み物飲みにロビーに出るのに、いちいち半券見せなきゃいけないのは劇場としていかがなものか。
まあ劇場への文句はそのくらいにして内容について。
まず、暗い!(照明が)
わかるんですよ。暗くする意味は。ガス燈が明るくなったり暗くなったりするのがキーワードだから、それを強調するために部屋全体を暗めにしてるんだと思います。
それでも、こんなに登場人物が少なくて(メインが3人で、サブが2人)、ほとんどが2人芝居で、人の出入りも少ないし、場面転換もないし、ずっと暗いし……となると、どんなに頑張っても眠くなります。特に私、暗い照明になるとてきめんに眠くなる体質なんで。
これがもっと小さい劇場なら、ガス燈の明暗も強調できると思うし、緊迫感も出ると思うんだけど、ちょっとそういう効果を狙うにはでかすぎます、この劇場は。
壁に巨大な影ができる演出とか、おもしろいんだけど、それだけじゃ3時間はもちません。2人芝居は難しいという意味があらためてわかった気がしました。
第2に、まあ途中で寝てしまった客が言うのもなんなんですが、寝ながら観ている私から見てももうちょっとひねってもいいんじゃないの?と思うくらいサスペンスとしては先が読めすぎ!
最初に「夫が殺人犯かもしれない」と疑惑が提示され、妻が警部に言われるがままに証拠探しを手伝いますが、その時点で「そう思わせておいて、結末は『じつは夫が犯人じゃない』というオチだな」くらいは誰でも思うでしょう。
ところが、やっぱり夫が犯人なんですよ(笑)。これにはびっくりしました。
それだけの話ならもっと短くしようよ!
私は最初警部がニセモノで、じつは彼が犯人かと思ったんですよ。
警部のふりをして家の中に入り込んで、夫が犯人であるかのように話をつくって夫人を脅し、宝石を証拠品として押収する振りをしてまんまと手に入れるっていう…。
さらに夫人は、それを見抜きながらも騙された振りをして警部に協力して夫を犯人にしたてあげるとかね。なぜなら夫は若いメイドと不倫関係にあり、妻はそれに薄々感づいているという伏線があったので。
最後に「夫と2人きりにしてください」と妻が警部に頼むので、「おお、ここで2人きりになり、夫が『誤解なんだ。縄を解いてくれ』と訴えたとたん、『知ってるわよ。あなたが犯人じゃないってことはね』と妻は薄笑いを浮かべて夫の不倫を知っていたことを告白。妻にはめられたことを知って慄然とする夫が無実を訴えようとすると、妻が突然大声をあげ、『警部さん。この男を捕まえて!』と夫を指差す……みたいな展開になるんだな」と思ったら、全然そんなどんでん返しはなくて(笑)、やっぱり夫が犯人で、妻は単に今までいじめられていた意趣返しをして溜飲を下げるというだけの話でした。
うーーーーん。これでサスペンスと言えるんでしょうかねー。
私の考えたどんでん返しなら、妻が「今日は最高の夜だわ」と陰惨な笑みを浮かべるラストも生きると思うんだけど。
古い話だからしょうがないのかもしれませんが、全体的に展開がゆっくりすぎてちょっとだれました。
ゆっくりでも最後に一気にどんでんが連続してくるなら最終的には帳消しになるんだけど、それもないので最後に残るのは「長かった……」という感想のみ。
映画ならカメラワークで閉塞感も恐怖感もうまく出せるだろうから、視覚的な工夫でいくらでもひっぱれるだろうけど、舞台だと厳しいですねー(しかもこの広さでは余計に)。
2階でガス燈をつけると、圧力の関係で家中のガス燈が暗くなり、消すと再び明るくなる……という特性をサスペンスに入れ込むアイデアはすごくおもしろかったです。
でも、だからこそもうちょっとおいしい利用をしてほしいなと思いました。
たとえば、最後、夫が逮捕されてもう2階を捜しまわる人物はいなくなったはずなのに、階下のガス燈がスーッと暗くなり、妻がそれを見て前以上に怯えて幕、とか。この場合は「じつは警部が殺人鬼で、首尾よく夫を追い出して『これで思う存分探しまわれる』と歩き回っていることを象徴」し、妻は警部が犯人とは知らないというオチになりますが。
それにしても、北千住って初めて降りたけど、びっくりしましたよ。
なにがって、どこもかしこも激混みで。
まず、開演前に軽くお昼を食べようと思って駅ビルのルミネの上に行ったんですけど、1時を過ぎているのにどの飲食店も漏れなく並んでいる。
さらにエレベーターも満員。混んでるばかりではなく、なかなかこない(「お急ぎの方はエスカレーターをご利用ください」という謎の張り紙が…)。
もちろんトイレも行列してました。
また、遅れてきた同行者がお昼を食べそこね、地下1階でたいやきを買っていこうとしたらここも行列。しかもかなりの人気店なのか、各自が大量に注文するのでものすごく待たされて、ついに開演時間ギリギリに。
劇場の入っているビルの1階は百貨店になっているのですが、そこもすごい人波で、逆行してくる人の群におされて前へ進めないほど。
たしかに日曜だったから家族連れが出てきているのかもしれないけど、それにしても混みすぎ!
こんなに混んでるエリア、見たことないです。
というわけで、人波にぐったりし、舞台照明の暗さに居眠りをする……という何をしに行ったのかよくわからない1日でした。
「ガス燈」というと、イングリッド・バーグマンが精神的に追いつめられていく妻役を好演してアカデミー賞をとったあの「ガス燈」を思い出す方が多いかもしれませんが、じつはこの話、もともとは舞台で、そのあとに映画化されたらしいです。
今回の舞台は日本初演で、バーグマンの演じた役は藤真利子が演じています。
ストーリーを簡単に説明すると…。
舞台は19世紀末のロンドン。
マニンガム夫妻(藤真利子&大森博史)は、最近ヨークシャーからロンドンの屋敷に引っ越してきた。
しかし、ここへ越してきてから、夫は急に妻につらくあたるようになり、もともと精神的に不安定な夫人は心の安まる暇がない。
夫はことあるごとに物がなくなったと騒いではそれを夫人のせいにし、夫人が知らないというと、病気のせいにするのである。
夫人の母親は精神病院で亡くなっており、夫人自身も母親のようになるのではないかという恐怖をもっているため、夫に責められるたびに彼女はどんどん追いつめられていく。
屋敷にはエリザベス(南一恵)という年輩の家政婦と、ナンシー(山谷典子)という若いメイドがいる。エリザベスは夫人に同情的だが、ナンシーはことあるごとに夫人に挑発的な態度をとる。
ある日、夫の留守中に、リー警部(千葉哲也)と名乗る男が夫人を訪ねてくる。
リーは、「マニンガム氏にはじつは籍を抜いていない妻がいて、あなたとはまだ籍を入れていない」ということ、さらに「マニンガムというのは偽名」だと夫人に暴露し、夫人にプロポーズしたのは夫人が資産家だったからで、彼はこの屋敷を買うお金がほしかったのだという。
さらにリーは、自分が担当した15年前の強盗殺人事件について話し、その事件が起きた現場がこの家であること、犯人はそのときに奪いそこねた宝石のありかを捜すためにこの屋敷と隣りの空き家を手に入れたのだと話す。
夫が殺人犯ときいて動揺する夫人だが、彼女には思い当たるふしがあった。
屋敷の2階は誰も使っていないはずなのに、時々2階で人の歩き回る足音が聞こえ、そのときは部屋のガス燈の光が暗くなるのだという。
ガス燈は、圧力の関係で、どこかべつの部屋で新しくガス燈をつけると、他の部屋のガス燈は暗くなるようになっている。
そうこうしているうちに、夫人の言う通り部屋のガス燈の光量が落ち、2階から足音が聞こえてくる。
リーは、マニンガムは外出したかのようにみせかけて隣りの空き家の屋根裏をつたって2階に侵入し、家捜しをしているのだと指摘。
リーを信用した夫人は、夫の机の抽出の中を調べることを許可する。すると、中から夫人が今まで「どこかへ隠した」と濡れ衣を着せ続けられてきたさまざまなものが出てきて夫人はショックを受ける。
犯人が15年間必死に捜し続けている宝石は、その中にあった中古品のブローチの裏に埋め込まれていたことが判明。
そのうちに夫が帰宅。リーと対面したマニンガムは悪事を暴かれて……。
THEATRE1010は初めて行く劇場です。
新しいし、広いし、きれいだし、駅からのアクセスはいいし、申し分なし。と言いたいところですが、音響はいまいち。セリフがあまり響いてこない。
とはいえ、ここまで大きい劇場じゃしょうがないか。
でも客席の反響はやたらにいいので、たえまなくいたるところから聞こえてくる咳の嵐に辟易しました。セリフより咳のほうがよく響くんだもん。
高年齢層が目立っていたからなのか。それにしても咳する人多すぎだよ。我慢できないのはわかるけど、口を覆うなど、もう少し気を遣えばこんなにうるさくならないはず。やはりマナーの問題だと思う。
後ろの席のオヤジなんて咳してくしゃみして鼻すすっていびきかいてもううるさいったらないんだよ。ムカーッ!
あと、休憩時間に飲み物飲みにロビーに出るのに、いちいち半券見せなきゃいけないのは劇場としていかがなものか。
まあ劇場への文句はそのくらいにして内容について。
まず、暗い!(照明が)
わかるんですよ。暗くする意味は。ガス燈が明るくなったり暗くなったりするのがキーワードだから、それを強調するために部屋全体を暗めにしてるんだと思います。
それでも、こんなに登場人物が少なくて(メインが3人で、サブが2人)、ほとんどが2人芝居で、人の出入りも少ないし、場面転換もないし、ずっと暗いし……となると、どんなに頑張っても眠くなります。特に私、暗い照明になるとてきめんに眠くなる体質なんで。
これがもっと小さい劇場なら、ガス燈の明暗も強調できると思うし、緊迫感も出ると思うんだけど、ちょっとそういう効果を狙うにはでかすぎます、この劇場は。
壁に巨大な影ができる演出とか、おもしろいんだけど、それだけじゃ3時間はもちません。2人芝居は難しいという意味があらためてわかった気がしました。
第2に、まあ途中で寝てしまった客が言うのもなんなんですが、寝ながら観ている私から見てももうちょっとひねってもいいんじゃないの?と思うくらいサスペンスとしては先が読めすぎ!
最初に「夫が殺人犯かもしれない」と疑惑が提示され、妻が警部に言われるがままに証拠探しを手伝いますが、その時点で「そう思わせておいて、結末は『じつは夫が犯人じゃない』というオチだな」くらいは誰でも思うでしょう。
ところが、やっぱり夫が犯人なんですよ(笑)。これにはびっくりしました。
それだけの話ならもっと短くしようよ!
私は最初警部がニセモノで、じつは彼が犯人かと思ったんですよ。
警部のふりをして家の中に入り込んで、夫が犯人であるかのように話をつくって夫人を脅し、宝石を証拠品として押収する振りをしてまんまと手に入れるっていう…。
さらに夫人は、それを見抜きながらも騙された振りをして警部に協力して夫を犯人にしたてあげるとかね。なぜなら夫は若いメイドと不倫関係にあり、妻はそれに薄々感づいているという伏線があったので。
最後に「夫と2人きりにしてください」と妻が警部に頼むので、「おお、ここで2人きりになり、夫が『誤解なんだ。縄を解いてくれ』と訴えたとたん、『知ってるわよ。あなたが犯人じゃないってことはね』と妻は薄笑いを浮かべて夫の不倫を知っていたことを告白。妻にはめられたことを知って慄然とする夫が無実を訴えようとすると、妻が突然大声をあげ、『警部さん。この男を捕まえて!』と夫を指差す……みたいな展開になるんだな」と思ったら、全然そんなどんでん返しはなくて(笑)、やっぱり夫が犯人で、妻は単に今までいじめられていた意趣返しをして溜飲を下げるというだけの話でした。
うーーーーん。これでサスペンスと言えるんでしょうかねー。
私の考えたどんでん返しなら、妻が「今日は最高の夜だわ」と陰惨な笑みを浮かべるラストも生きると思うんだけど。
古い話だからしょうがないのかもしれませんが、全体的に展開がゆっくりすぎてちょっとだれました。
ゆっくりでも最後に一気にどんでんが連続してくるなら最終的には帳消しになるんだけど、それもないので最後に残るのは「長かった……」という感想のみ。
映画ならカメラワークで閉塞感も恐怖感もうまく出せるだろうから、視覚的な工夫でいくらでもひっぱれるだろうけど、舞台だと厳しいですねー(しかもこの広さでは余計に)。
2階でガス燈をつけると、圧力の関係で家中のガス燈が暗くなり、消すと再び明るくなる……という特性をサスペンスに入れ込むアイデアはすごくおもしろかったです。
でも、だからこそもうちょっとおいしい利用をしてほしいなと思いました。
たとえば、最後、夫が逮捕されてもう2階を捜しまわる人物はいなくなったはずなのに、階下のガス燈がスーッと暗くなり、妻がそれを見て前以上に怯えて幕、とか。この場合は「じつは警部が殺人鬼で、首尾よく夫を追い出して『これで思う存分探しまわれる』と歩き回っていることを象徴」し、妻は警部が犯人とは知らないというオチになりますが。
それにしても、北千住って初めて降りたけど、びっくりしましたよ。
なにがって、どこもかしこも激混みで。
まず、開演前に軽くお昼を食べようと思って駅ビルのルミネの上に行ったんですけど、1時を過ぎているのにどの飲食店も漏れなく並んでいる。
さらにエレベーターも満員。混んでるばかりではなく、なかなかこない(「お急ぎの方はエスカレーターをご利用ください」という謎の張り紙が…)。
もちろんトイレも行列してました。
また、遅れてきた同行者がお昼を食べそこね、地下1階でたいやきを買っていこうとしたらここも行列。しかもかなりの人気店なのか、各自が大量に注文するのでものすごく待たされて、ついに開演時間ギリギリに。
劇場の入っているビルの1階は百貨店になっているのですが、そこもすごい人波で、逆行してくる人の群におされて前へ進めないほど。
たしかに日曜だったから家族連れが出てきているのかもしれないけど、それにしても混みすぎ!
こんなに混んでるエリア、見たことないです。
というわけで、人波にぐったりし、舞台照明の暗さに居眠りをする……という何をしに行ったのかよくわからない1日でした。
「ガス燈」(DVD)
1944年製作の映画版。
ジョージ・キューカー監督。
出演はイングリッド・バーグマン、シャルル・ボワイエ他。
オリジナル版(1940年製作)も同時収録。
1944年製作の映画版。
ジョージ・キューカー監督。
出演はイングリッド・バーグマン、シャルル・ボワイエ他。
オリジナル版(1940年製作)も同時収録。
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野田演出オペラ「マクベス」を観ました
野田秀樹が初演出したオペラ「マクベス」の初日に行ってきました(新国立劇場)。
マクベス夫人役のイアーノ・タマーは、病気のためゲオルギーナ・ルカーチに変更になりましたが、さらに今日になってマクベス役のカルロス・アルヴァレスも病気によって泉良平に変更になりました。
ミュージカルなどと違って、アンダースタディの稽古はかなりきちっとされてはいるものの、やはり払い戻しもたくさん出たようで、全体的に空席が目立っていました。
泉良平は、声がちっちゃくて、「やっぱり日本人、パワーないかも」と思いました。
また、マクベス夫人のルカーチがやたらに野太い大声で吠えまくるので(ルックスはやや渡辺えり子似)、ますます「おい、マクベス。しっかりしろよ!」と叱咤したくなりました。
もっとも、このお話自体、煮え切らない夫を妻が叱咤する話なのでそこは雰囲気出ていたといえば出ていたんですけど…。
注目の野田演出ですが、とにかくすごい大がかりで、この視覚的効果だけでも充分一見の価値ありです。豪華な装置に大人数演出(総勢150名の群衆が使われます)にうっとり。
最近、貧乏くさい芝居ばかり見ているので、久々にビジュアルだけでガッツリとカタルシスを味わうことができました。
まず冒頭。魔女がマクベスに「王になる」と予言を与える場面の装置は一面黄色いお花畑でやけにメルヘンチック。そこへペスト流行時の中世ヨーロッパの「死の舞踏」を思わせるような外見(ひょろひょろした骸骨とカラスがドッキングしたような感じ)の魔女の大群がわらわらと現れる。
このダンスシーンだけでかなり度肝を抜かれます。
今回、野田が一番注目したのはこの「魔女」で、彼は魔女を「権力者によってふみにじられた戦場の死者」ととらえ、「だからこそ権力者を裁く権利がある存在」として描いたそうです。
「魔女」が人間の姿をしていないというだけで、彼女たちの存在はぐっと戯画化されます。
予言のシーンだけではなく、王座(血塗られた王座のイメージで真っ赤な椅子)を運んだり、夢遊病のマクベス夫人と一緒に舞台上を徘徊したり、王を殺したマクベスと一緒に血に染まった手を前につきだしながら出てきたり、かなり象徴的な存在として扱われていました。
「エリザベート」のトートダンサーズみたいな感じか?
と書くと気味が悪そうに思われるかもしれませんが、肉をまとわない骸骨だけという風貌が、どこかひょうひょうとしていて、こわいとか気持ち悪いとかいうよりも滑稽な感じを漂わせていたのが印象的でした。
特に、1幕から2幕の間に、幕前でさながら幕間狂言のようなコントっぽい動きを見せるところなど、あまりにキュートで思わずなごんでしまいました。
で、プロローグの予言のシーンが終わると、そのお花畑とわらわらと動いている魔女たちを載せたまま、その装置が一気に奈落までガーッとせり下がっていき、同時に後方から巨大な王冠と目玉をかたどった装置がゴーッと前方に張り出してくるんですよ。
この大胆さにも驚きました(この常に見開かれている巨大な目玉は、おそらく殺人を犯してから眠れなくなった「マクベスは眠りを殺した」というセリフに呼応しているのでしょう)。
この巨大な王冠も重要なモチーフで、ちょうど盆の上に作られているので、そのまま盆をまわすと王冠を裏から見たような形になり、この王冠の中が、魔女たちが大釜で気味の悪いものをぐつぐつ煮る場面の大釜になったりするんです。
言葉で説明するのは難しいんですけど、とにかく視覚的にすごくインパクトがある演出で、しかも独特の美意識で統一されていて、なんともいえない魅力に溢れていました。
というわけで、ドラマ性のあるストーリー、ヴェルディならではのドラマチックな音楽、わかりやすく楽しい演出…と3拍子揃っていて、オペラ初心者でもかなり楽しめる内容になっていましたが、どうも常に芝居のことを考えてしまう癖で、それだけでは没入できないのが悲しいところ。
今回も前々から感じていた「マクベス」の筋運びや展開や設定についての疑問や腑に落ちない点が次々に思い出され、思い出すだけでなく「じゃあどういうふうにしたら納得できるドラマになるだろうか」とか考え始めたら舞台に集中できなくなってしまい、途中で何回も考えを頭から追い払いながら観る羽目になりました。
腑に落ちない点は挙げ始めるとキリがないんですが、どうしてもひっかかるのが「マクベスは魔女に『王になる』という良い予言を与えられたのに、なぜわざわざ王殺害に走るのか」でした。
予言っていうのは、なんにもしなくてもそういうふうになる運命にあるから予言なんですよね?
だったら、何もする必要ないじゃん。
悪い予言をされたというなら、それが実現しないようにじたばた運命に抗おうとするのはわかるけど。
だって殺人ってすごいリスクでしょ。王が死んだからって必ず自分が次の王になれるという現実的な保証はないわけだし。
下手に動いたらせっかくの良い運命が狂ってしまうとか考えなかったのかな。
でも、人間が運命に逆らおうとすることで起きる悲劇を描いているわけだから、予言の成就をおとなしく待ってめでたしめでたしというだけではドラマにならない。
マクベスが運命に逆らおうとして犯罪に手を染めるという部分ははずせないですよね。
じゃあどうしたらいいのか?
散々考えた結果、「私ならこう作る」という結論を出しました。
まず、マクベスは「王になる」という予言を受けるが、その時点では自分が王になるような位置からはほど遠い場所にいるため、「まさか」と一笑に付す。
が、信じられない逆転劇が次々に怒り、あれよあれよという間にマクベスは王になってしまう。しかもまったく手を汚さずに。
マクベスは喜ぶが、いざ栄冠を手に入れると、今度はそれをどこまで守れるのかが心配になってくる。
マクベスよりも心配しているのがマクベス夫人で、彼女はひそかに魔女を訪ね、もう一度未来を占ってもらう。
が、今度は「次はバンクォーの子孫が王になる」という予言を与えられてしまう。
あせった夫人は、マクベスに「バンクォーの子孫を根絶やしにしないと、今度は私たちが先王のような運命になってしまう」と訴える。
最初はとりあわないマクベスだが、予言の力は身をもって知っているので心中は穏やかではない。
夫人は、「今の私たちの力なら運命をも変えられるはず」と夫を叱咤し、だんだんその気になったマクベスは、ここで初めて運命に挑戦しようと決意する。
こんな展開なら、良い予言が成就したことで、さらに人間の際限ない欲が刺激されて悲劇の方向へと進んでいってしまうという皮肉さが出るのではないでしょうか。
もっと深読みすれば、マクベスが欲にかられて自滅するところまで計算に入れて良い予言をした魔女の残酷な遊びというとらえ方もできます。
今のままだと、運命に逆らおうとする動機づけがいまひとつ弱い気がするんですよね。
もうひとつ、すっきりしないのは、マクベスと一緒にビミョーな予言をされたバンクォーです。
「マクベスほどではないがなかなか幸せになれる」とか、「王ではないが、王の父にはなれる」とか、どう受け止めていいのかよくわからない予言をされるのですが、結局バンクォーはマクベスの刺客によってソッコー殺されてしまうし(←これがなかなかの幸せか?)、息子も刺客の手は逃れたものの、王にはなれない。
つまり、バンクォーに関しては予言は成就してないわけですよ。それでいいのか?>バンクォー
さらにマクベスに殺された先王の息子(結局これがマクベス亡きあとの王になる)、唯一マクベスを殺せる資格があったマクダフという男が出てきますが、はっきり言ってこの人たち一つにまとめちゃったほうがすっきりするんじゃないですか?
バンクォーの息子が予言通り次の国王になり、マクベスを殺せるのもバンクォーの息子っていうほうが話が1本に通じてわかりやすいと思うんですが。
役割をいちいち分ける意味がよくわかんない。
それとも、座付作家のつらさで、たくさんの役者に役を与えるために1つで済む役を複数に分けたんだろうか…。
プログラムを見たら、マクベスって実在していたことを知ってびっくり。
しかもけっこういい王様だったらしい(笑)。
先王を殺して王位についたのは史実だけど、じつは先王のほうがあまりいい統治者ではなかったみたいです。
まあ、もっとも歴史は強者を正当化していくものですから、実際のところはどうだかわかりませんけどね。
マクベス夫人役のイアーノ・タマーは、病気のためゲオルギーナ・ルカーチに変更になりましたが、さらに今日になってマクベス役のカルロス・アルヴァレスも病気によって泉良平に変更になりました。
ミュージカルなどと違って、アンダースタディの稽古はかなりきちっとされてはいるものの、やはり払い戻しもたくさん出たようで、全体的に空席が目立っていました。
泉良平は、声がちっちゃくて、「やっぱり日本人、パワーないかも」と思いました。
また、マクベス夫人のルカーチがやたらに野太い大声で吠えまくるので(ルックスはやや渡辺えり子似)、ますます「おい、マクベス。しっかりしろよ!」と叱咤したくなりました。
もっとも、このお話自体、煮え切らない夫を妻が叱咤する話なのでそこは雰囲気出ていたといえば出ていたんですけど…。
注目の野田演出ですが、とにかくすごい大がかりで、この視覚的効果だけでも充分一見の価値ありです。豪華な装置に大人数演出(総勢150名の群衆が使われます)にうっとり。
最近、貧乏くさい芝居ばかり見ているので、久々にビジュアルだけでガッツリとカタルシスを味わうことができました。
まず冒頭。魔女がマクベスに「王になる」と予言を与える場面の装置は一面黄色いお花畑でやけにメルヘンチック。そこへペスト流行時の中世ヨーロッパの「死の舞踏」を思わせるような外見(ひょろひょろした骸骨とカラスがドッキングしたような感じ)の魔女の大群がわらわらと現れる。
このダンスシーンだけでかなり度肝を抜かれます。
今回、野田が一番注目したのはこの「魔女」で、彼は魔女を「権力者によってふみにじられた戦場の死者」ととらえ、「だからこそ権力者を裁く権利がある存在」として描いたそうです。
「魔女」が人間の姿をしていないというだけで、彼女たちの存在はぐっと戯画化されます。
予言のシーンだけではなく、王座(血塗られた王座のイメージで真っ赤な椅子)を運んだり、夢遊病のマクベス夫人と一緒に舞台上を徘徊したり、王を殺したマクベスと一緒に血に染まった手を前につきだしながら出てきたり、かなり象徴的な存在として扱われていました。
「エリザベート」のトートダンサーズみたいな感じか?
と書くと気味が悪そうに思われるかもしれませんが、肉をまとわない骸骨だけという風貌が、どこかひょうひょうとしていて、こわいとか気持ち悪いとかいうよりも滑稽な感じを漂わせていたのが印象的でした。
特に、1幕から2幕の間に、幕前でさながら幕間狂言のようなコントっぽい動きを見せるところなど、あまりにキュートで思わずなごんでしまいました。
で、プロローグの予言のシーンが終わると、そのお花畑とわらわらと動いている魔女たちを載せたまま、その装置が一気に奈落までガーッとせり下がっていき、同時に後方から巨大な王冠と目玉をかたどった装置がゴーッと前方に張り出してくるんですよ。
この大胆さにも驚きました(この常に見開かれている巨大な目玉は、おそらく殺人を犯してから眠れなくなった「マクベスは眠りを殺した」というセリフに呼応しているのでしょう)。
この巨大な王冠も重要なモチーフで、ちょうど盆の上に作られているので、そのまま盆をまわすと王冠を裏から見たような形になり、この王冠の中が、魔女たちが大釜で気味の悪いものをぐつぐつ煮る場面の大釜になったりするんです。
言葉で説明するのは難しいんですけど、とにかく視覚的にすごくインパクトがある演出で、しかも独特の美意識で統一されていて、なんともいえない魅力に溢れていました。
というわけで、ドラマ性のあるストーリー、ヴェルディならではのドラマチックな音楽、わかりやすく楽しい演出…と3拍子揃っていて、オペラ初心者でもかなり楽しめる内容になっていましたが、どうも常に芝居のことを考えてしまう癖で、それだけでは没入できないのが悲しいところ。
今回も前々から感じていた「マクベス」の筋運びや展開や設定についての疑問や腑に落ちない点が次々に思い出され、思い出すだけでなく「じゃあどういうふうにしたら納得できるドラマになるだろうか」とか考え始めたら舞台に集中できなくなってしまい、途中で何回も考えを頭から追い払いながら観る羽目になりました。
腑に落ちない点は挙げ始めるとキリがないんですが、どうしてもひっかかるのが「マクベスは魔女に『王になる』という良い予言を与えられたのに、なぜわざわざ王殺害に走るのか」でした。
予言っていうのは、なんにもしなくてもそういうふうになる運命にあるから予言なんですよね?
だったら、何もする必要ないじゃん。
悪い予言をされたというなら、それが実現しないようにじたばた運命に抗おうとするのはわかるけど。
だって殺人ってすごいリスクでしょ。王が死んだからって必ず自分が次の王になれるという現実的な保証はないわけだし。
下手に動いたらせっかくの良い運命が狂ってしまうとか考えなかったのかな。
でも、人間が運命に逆らおうとすることで起きる悲劇を描いているわけだから、予言の成就をおとなしく待ってめでたしめでたしというだけではドラマにならない。
マクベスが運命に逆らおうとして犯罪に手を染めるという部分ははずせないですよね。
じゃあどうしたらいいのか?
散々考えた結果、「私ならこう作る」という結論を出しました。
まず、マクベスは「王になる」という予言を受けるが、その時点では自分が王になるような位置からはほど遠い場所にいるため、「まさか」と一笑に付す。
が、信じられない逆転劇が次々に怒り、あれよあれよという間にマクベスは王になってしまう。しかもまったく手を汚さずに。
マクベスは喜ぶが、いざ栄冠を手に入れると、今度はそれをどこまで守れるのかが心配になってくる。
マクベスよりも心配しているのがマクベス夫人で、彼女はひそかに魔女を訪ね、もう一度未来を占ってもらう。
が、今度は「次はバンクォーの子孫が王になる」という予言を与えられてしまう。
あせった夫人は、マクベスに「バンクォーの子孫を根絶やしにしないと、今度は私たちが先王のような運命になってしまう」と訴える。
最初はとりあわないマクベスだが、予言の力は身をもって知っているので心中は穏やかではない。
夫人は、「今の私たちの力なら運命をも変えられるはず」と夫を叱咤し、だんだんその気になったマクベスは、ここで初めて運命に挑戦しようと決意する。
こんな展開なら、良い予言が成就したことで、さらに人間の際限ない欲が刺激されて悲劇の方向へと進んでいってしまうという皮肉さが出るのではないでしょうか。
もっと深読みすれば、マクベスが欲にかられて自滅するところまで計算に入れて良い予言をした魔女の残酷な遊びというとらえ方もできます。
今のままだと、運命に逆らおうとする動機づけがいまひとつ弱い気がするんですよね。
もうひとつ、すっきりしないのは、マクベスと一緒にビミョーな予言をされたバンクォーです。
「マクベスほどではないがなかなか幸せになれる」とか、「王ではないが、王の父にはなれる」とか、どう受け止めていいのかよくわからない予言をされるのですが、結局バンクォーはマクベスの刺客によってソッコー殺されてしまうし(←これがなかなかの幸せか?)、息子も刺客の手は逃れたものの、王にはなれない。
つまり、バンクォーに関しては予言は成就してないわけですよ。それでいいのか?>バンクォー
さらにマクベスに殺された先王の息子(結局これがマクベス亡きあとの王になる)、唯一マクベスを殺せる資格があったマクダフという男が出てきますが、はっきり言ってこの人たち一つにまとめちゃったほうがすっきりするんじゃないですか?
バンクォーの息子が予言通り次の国王になり、マクベスを殺せるのもバンクォーの息子っていうほうが話が1本に通じてわかりやすいと思うんですが。
役割をいちいち分ける意味がよくわかんない。
それとも、座付作家のつらさで、たくさんの役者に役を与えるために1つで済む役を複数に分けたんだろうか…。
プログラムを見たら、マクベスって実在していたことを知ってびっくり。
しかもけっこういい王様だったらしい(笑)。
先王を殺して王位についたのは史実だけど、じつは先王のほうがあまりいい統治者ではなかったみたいです。
まあ、もっとも歴史は強者を正当化していくものですから、実際のところはどうだかわかりませんけどね。
「マクベス」(戯曲)
シェイクスピアの原作戯曲。
翻訳は木下順二。
シェイクスピアの原作戯曲。
翻訳は木下順二。
「三婆」を観てきました
ルテアトル銀座で「三婆」を観てきました。
有吉佐和子の原作を昭和48年に東宝が舞台化。以後、何度も再演を重ね、商業演劇の金字塔と言われている傑作喜劇です。
夫が妾の家で突然死。
その事件をきっかけに、平穏な一人暮らしを楽しむ本妻(池内淳子)のもとに、60を過ぎてなお独身の夫の妹(大空眞弓)、さらに妾(沢田亜矢子)までもがころがりこんできて、ありえない組み合わせで同居する羽目になり……というお話。
原作は、かなり陰湿な人間関係で、時代設定も古いらしいのですが、脚色では3人の老女の関係の妙を喜劇的に描いているうえに、時代設定を高度成長期に据えることにより、伸び盛りの日本全体の空気と衰えていく老人たちを対比しながら、老人問題や福祉問題に対する皮肉な視線までをも感じさせます。
なんといっても秀逸なのは、3人の老女のキャラ設定です。
きまじめでちょっと要領の悪いおっとりタイプの本妻、調子のいい妾、プライドが高く口うるさいうえにがめつい小姑。
3人それぞれがソリが合わないのは当然なのですが、その中でもあるときは本妻と妾が、またあるときは本妻と小姑が、ときには妾と小姑が…というように、状況によって2人が結託して2対1になるという図式がおもしろい。
「3」という数字が生み出す妙というか、たしかに3人って2対1になりやすいよなーとか、しかも一瞬のうちに2対1の組み合わせが入れ替わったりするんだよなーとか、そのへんの形勢の変化と利害の動き方が非常にリアリティーあってひきこまれました。
キャラとしては、一番強烈な役柄が小姑、発散できる役柄が妾で、本妻はある意味一番常識人なのでおもしろみがないといえばないのですが、私はこの本妻に一番ドラマを感じました。
本来、妾や小姑と同居する義理などないはずなのに、いすわられているうちに追い出そうとする自分のほうが悪者のような雰囲気になってしまうあたりなど、「そうそう。こういう海千山千の人たちにかかると、なにが常識なのかわけわかんなくなってきて、結局一番まっとうに生きてる人が損するんだよね」と思わず共感。
さらに、いざ2人とも出ていくことが決まると、今度は「追い出される者2名対追い出す者1名」という図式になり、2名に妙な連帯感が生まれて自分が仲間はずれになったような孤独感を感じ、「私が悪かったわ。皆、ここにいてちょうだい」と口走り、2人にすがってしまうという心理も非常によくわかる。
このシーンの本妻の姿からは、いろいろな感情が見えてきます。
広い家に一人残されると考えたとたん、急にさびしくなったというのはまあわかるんですけど、それだけではなく、彼女にとって妾や小姑といがみあう日々は、案外楽しかったんじゃないかと思うんですよね。
彼女の夫は生前から妾宅にいりびたりの生活をしていた。つまり、彼女は今までもずっと孤独だったわけで、さびしさは今に始まったことではないはずです。
本妻という立場に守られてはきたが、常識やまっとうな考えや法律は彼女をどんどんさびしくさせていく。本音をぶつけられる相手もいない。そんな彼女にとって、世間から嘲笑される立場の妾や小姑との間にくりひろげられる人間くさい本音バトルはなんともいえず刺激的でスリリングだったと思うし、その中で、彼女自身楽になれた部分や活力を与えられた部分もいっぱいあったのではないでしょうか。
それまでの彼女は、本当の意味での孤独を知らなかった。そういう価値観しか知らなかったからです。むきだしの感情でぶつかる手応えを知った今となっては、もう昔の自分には戻れない。だから2人を追い出すことができなかったのだと思います。
しかし、その目覚めには大きな代償がついてきたのでした。
最終幕。それから15年後の3人の姿が提示されます。
小姑はますます乙女ババアっぷりを発揮し、現実をまったく見ようとしないマイペース状態。
妾は痴呆(今は認知症というようですが)になり、妄想の世界をさまよっている。
結局、最後までしっかりしている本妻が全員の面倒をみる羽目になるのです。かくして、貧乏クジひく人はどこまでもひくことになるんだなーと、ここでまた実感。
福祉事務所の職員が、都バスのパスやら動物園の無料入園券を大量にもってきて去っていくラストもなんともいえず皮肉でした。
彼女たちには、もはやバスに乗ってどこかへ行く気力も、動物園に行って楽しむ好奇心もない。
それでも、職員は自分はお年寄りに良いことをしているとなんの疑いも感じることなく去っていき、選挙カーからは「福祉対策」「お年寄りが楽しく暮らせる明るい社会に」と連呼する声が空しく響いてくるのです。
こんなふうに書くと、随分救いのない暗い話だと思われそうですが、実際はあくまでも喜劇的に演じられるため、後味の悪さはありません。
とはいうものの、最終幕については疑問がないわけではないです。
この幕があるからこそ、ただの娯楽劇ではない社会派のお芝居になっているのだと思うし、時代性も反映されて作品に深みも与えているのだと思います。
が、やはりそれまでの話のトーンと最終幕は異質な印象を受けることも否めないのです。
それが証拠に、本妻が妾と小姑に「出ていかないでくれ」とすがり、2人が「あんたが心をいれかえるっていうなら出ていかなくもない」といい気になって本妻に恩着せがましいセリフを言って一件落着するという前幕の幕切では、ほとんどのお客が満足して「これでおしまい」だと思いこみ、席をたとうとしていました。
「ただいまより10分間の休憩を…」というアナウンスが流れた瞬間、あちこちから「え、まだあるの?」という戸惑いの声が聞こえてきたのを見て、「ああ。やっぱりこの最終幕は微妙な位置づけかもな」とあらためて思いました。
個人的には、最終幕をなくして、その分、本妻の気持ちが変わるまでの変化をもっとダイナミックに見せるように組み立てて、純粋に3人の女の人間関係の妙を見せる人間喜劇に徹したほうが客層のニーズには合っていたのではないかと思います。
逆に、最終幕を成り立たせたいのなら、老人問題にかかわる伏線をそれまでにもっとちりばめておくべきでしょう。
最終幕の前に大半のお客が満足してしまっていたのは、最終幕につながる「何か」が弱かったからだと思うのですがどうでしょうか。
有吉佐和子の原作を昭和48年に東宝が舞台化。以後、何度も再演を重ね、商業演劇の金字塔と言われている傑作喜劇です。
夫が妾の家で突然死。
その事件をきっかけに、平穏な一人暮らしを楽しむ本妻(池内淳子)のもとに、60を過ぎてなお独身の夫の妹(大空眞弓)、さらに妾(沢田亜矢子)までもがころがりこんできて、ありえない組み合わせで同居する羽目になり……というお話。
原作は、かなり陰湿な人間関係で、時代設定も古いらしいのですが、脚色では3人の老女の関係の妙を喜劇的に描いているうえに、時代設定を高度成長期に据えることにより、伸び盛りの日本全体の空気と衰えていく老人たちを対比しながら、老人問題や福祉問題に対する皮肉な視線までをも感じさせます。
なんといっても秀逸なのは、3人の老女のキャラ設定です。
きまじめでちょっと要領の悪いおっとりタイプの本妻、調子のいい妾、プライドが高く口うるさいうえにがめつい小姑。
3人それぞれがソリが合わないのは当然なのですが、その中でもあるときは本妻と妾が、またあるときは本妻と小姑が、ときには妾と小姑が…というように、状況によって2人が結託して2対1になるという図式がおもしろい。
「3」という数字が生み出す妙というか、たしかに3人って2対1になりやすいよなーとか、しかも一瞬のうちに2対1の組み合わせが入れ替わったりするんだよなーとか、そのへんの形勢の変化と利害の動き方が非常にリアリティーあってひきこまれました。
キャラとしては、一番強烈な役柄が小姑、発散できる役柄が妾で、本妻はある意味一番常識人なのでおもしろみがないといえばないのですが、私はこの本妻に一番ドラマを感じました。
本来、妾や小姑と同居する義理などないはずなのに、いすわられているうちに追い出そうとする自分のほうが悪者のような雰囲気になってしまうあたりなど、「そうそう。こういう海千山千の人たちにかかると、なにが常識なのかわけわかんなくなってきて、結局一番まっとうに生きてる人が損するんだよね」と思わず共感。
さらに、いざ2人とも出ていくことが決まると、今度は「追い出される者2名対追い出す者1名」という図式になり、2名に妙な連帯感が生まれて自分が仲間はずれになったような孤独感を感じ、「私が悪かったわ。皆、ここにいてちょうだい」と口走り、2人にすがってしまうという心理も非常によくわかる。
このシーンの本妻の姿からは、いろいろな感情が見えてきます。
広い家に一人残されると考えたとたん、急にさびしくなったというのはまあわかるんですけど、それだけではなく、彼女にとって妾や小姑といがみあう日々は、案外楽しかったんじゃないかと思うんですよね。
彼女の夫は生前から妾宅にいりびたりの生活をしていた。つまり、彼女は今までもずっと孤独だったわけで、さびしさは今に始まったことではないはずです。
本妻という立場に守られてはきたが、常識やまっとうな考えや法律は彼女をどんどんさびしくさせていく。本音をぶつけられる相手もいない。そんな彼女にとって、世間から嘲笑される立場の妾や小姑との間にくりひろげられる人間くさい本音バトルはなんともいえず刺激的でスリリングだったと思うし、その中で、彼女自身楽になれた部分や活力を与えられた部分もいっぱいあったのではないでしょうか。
それまでの彼女は、本当の意味での孤独を知らなかった。そういう価値観しか知らなかったからです。むきだしの感情でぶつかる手応えを知った今となっては、もう昔の自分には戻れない。だから2人を追い出すことができなかったのだと思います。
しかし、その目覚めには大きな代償がついてきたのでした。
最終幕。それから15年後の3人の姿が提示されます。
小姑はますます乙女ババアっぷりを発揮し、現実をまったく見ようとしないマイペース状態。
妾は痴呆(今は認知症というようですが)になり、妄想の世界をさまよっている。
結局、最後までしっかりしている本妻が全員の面倒をみる羽目になるのです。かくして、貧乏クジひく人はどこまでもひくことになるんだなーと、ここでまた実感。
福祉事務所の職員が、都バスのパスやら動物園の無料入園券を大量にもってきて去っていくラストもなんともいえず皮肉でした。
彼女たちには、もはやバスに乗ってどこかへ行く気力も、動物園に行って楽しむ好奇心もない。
それでも、職員は自分はお年寄りに良いことをしているとなんの疑いも感じることなく去っていき、選挙カーからは「福祉対策」「お年寄りが楽しく暮らせる明るい社会に」と連呼する声が空しく響いてくるのです。
こんなふうに書くと、随分救いのない暗い話だと思われそうですが、実際はあくまでも喜劇的に演じられるため、後味の悪さはありません。
とはいうものの、最終幕については疑問がないわけではないです。
この幕があるからこそ、ただの娯楽劇ではない社会派のお芝居になっているのだと思うし、時代性も反映されて作品に深みも与えているのだと思います。
が、やはりそれまでの話のトーンと最終幕は異質な印象を受けることも否めないのです。
それが証拠に、本妻が妾と小姑に「出ていかないでくれ」とすがり、2人が「あんたが心をいれかえるっていうなら出ていかなくもない」といい気になって本妻に恩着せがましいセリフを言って一件落着するという前幕の幕切では、ほとんどのお客が満足して「これでおしまい」だと思いこみ、席をたとうとしていました。
「ただいまより10分間の休憩を…」というアナウンスが流れた瞬間、あちこちから「え、まだあるの?」という戸惑いの声が聞こえてきたのを見て、「ああ。やっぱりこの最終幕は微妙な位置づけかもな」とあらためて思いました。
個人的には、最終幕をなくして、その分、本妻の気持ちが変わるまでの変化をもっとダイナミックに見せるように組み立てて、純粋に3人の女の人間関係の妙を見せる人間喜劇に徹したほうが客層のニーズには合っていたのではないかと思います。
逆に、最終幕を成り立たせたいのなら、老人問題にかかわる伏線をそれまでにもっとちりばめておくべきでしょう。
最終幕の前に大半のお客が満足してしまっていたのは、最終幕につながる「何か」が弱かったからだと思うのですがどうでしょうか。
「三婆」(小説)
有吉佐和子の原作本。
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著作
「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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