古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
「山の巨人たち」を観ました
- 2008/10/30 (Thu)
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昨日、新国立劇場で「山の巨人たち」というお芝居を観てきました。
作家はピランデルロというイタリアのシチリア出身のノーベル賞作家。演出はラヴォーダン。新国立劇場芸術監督の鵜山さんが、「ピランデルロの演出なら彼しかいない!」とラブコールを送ってフランスから連れてきたという幻想的な演出を得意とする演出家さんです。
ピランデルロ作品の特徴は、一言でいうと……わけわかんないこと(笑)。
少なくともストーリーを理屈で追っていこうとすると狐につままれます。
それでも無理やりストーリーらしきことを拾うと……。
まず、場所は橋の上。
橋といっても平らな橋ではなく、いわゆるアーチ型になった「たいこ橋」。
客席から舞台奥に向かってどーんと巨大なたいこ橋がかけられているのを想像してください。つまり舞台上には平らな場所がほとんどないってこってす(かなりの傾斜で、どこに立ってももれなくこわいそうです)。
橋といえば、能舞台でもお決まりの装置ですが、演劇的には「あの世」と「この世」、あるいは「現実」と「夢」、あるいは「過去」と「現在」など、異空間をつなぐもの。
この作品も全体を通して異質なものが常に対立し、せめぎあう形で進んでいきます。
橋の上には、なにやら浮世離れした人々(あの世とこの世の境目に存在する亡者?あるいは人里離れて身を隠している社会からの落伍者?)がうごめいていて、橋の下を見下ろして「なにかがこちらにむかってやってくる」と不安にかられている。
橋の向こうから現れたのは女優である伯爵夫人イルセ(麻実れい)を中心とした10人ほどの役者集団。放浪の末たどりついたのか、全員がボロボロに疲れきっている。
これを出迎えたのが浮き世離れ集団の頭であるコトローネ(平幹二朗)。彼は自分は魔術師だと名乗り、ここは「不運の館」と呼ばれていると説明する。
イルセは「ある戯曲をどうしても上演したいのだが、どこでやっても観客が受け入れてくれない。どこかで上演させてもらえないか」というようなことを訴える。
イルセは伯爵と結婚していったん女優をやめたが、ある詩人が彼女のために戯曲を書き、それがあまりにもすばらしかったので再び女優を始めた。
詩人は彼女の愛を要求するが、イルセが拒んだために自殺してしまう。
死んだ詩人の魂をもてあましながら、彼らはずっと旅を続けているという。
コトローネは自分の館に役者たちを招き、彼らはそこで夢と現実が渾然一体となった不思議な体験をする(このあたり、人形を使ったりして幻想的な演出が発揮される)。
コトローネは「観客も劇場も必要ない」と言うが、イルセはあくまでも「観客あっての芝居だ」と主張する。
そんな彼女に「では明日、山の巨人と呼ばれる2家族の婚礼があるので、そこで芝居を上演してみてはどうか」と提案するコトローネ。
じつは台本が書かれているのはここまで。
これはピランデルロの遺作で、彼は作品が書き終わらないうちに亡くなってしまったのです。
書かれなかった最終幕については、作者が息子に語ったという梗概が字幕で流されましたが、エンディングはけっこう残虐。
山の巨人が登場する前にその配下の民衆たちが登場し、彼らの前で作品を上演しようとするも激しい拒絶に遭い、怒り狂った民衆によって伯爵夫人はなぶり殺しにされるというのがその結末です。
結局、「山の巨人」は最後まで登場しません。
以上、これだけ読むと具体的な話に見えますが、実際に観ると話がポンポンとんで横道にそれていくので、本筋を拾おうと思うとかなり疲れます。
ちなみに今回一緒に観劇したのは、イタリア好きのRISAとフランス語翻訳家のマリコさん。
RISAはもともとピランデルロのファンらしいのでいいとして、まったく予備知識なしで来たマリコさんはどうだったんだろうとちょっと心配に…。
でも杞憂だったようです。終わったとたん、頬を紅潮させて「私、こういうのかなり好きかも〜♪」と喜んでいたのでホッとしました。
誰にでもわかるたぐいの娯楽作ではないだけに、こういうのまったくうけつけない人ってのもかなりいると思うので。
しかし、考えてみればマリコさんは「フランス脳」(笑)。ピランデルロは特にフランスで人気があるらしいので、好みとしてははずれてなかったのかも。とにかくお気に召したようで一安心。
RISAいわく、「この作品はまだ全然わかりやすいほう。もっともっとわけわかんない作品もあるよ」とのこと。
で、私はどうだったかというと……微妙。
これよりもっと難解で観ているのがただただ苦痛という舞台も経験しているし、その点これは対立概念が比較的はっきり浮かび上がっている作品なので、特別難解だとか退屈だとかは思いませんでした。
でもなんか生理的にすっきりしないんです。かゆいところに手が届かなくて気持ち悪いってうか。イメージとして伝わってくるものはあるんだけど、輪郭がボヤーッとして遠くに見えるっていうか、胸にささってくるものがない。変に気持ちが冷静になっちゃって、突き動かされるものがないんです。
これはもう好みの問題なのでしかたがないですね。
それよりもおもしろかったのは終演後に行われたシアタートーク。
最近はどこの舞台でもシアタートークが大はやりですが、中でも新国立のシアタートークは群を抜いておもしろい。
MCの堀尾アナの座持ちのうまさもさることながら、観客にコアな演劇ファンが多く、けっこうきわどい質問とかもバンバン出るのがスリリング。
これもライブなので、修正や編集ができないという緊張感があります。
今回は芸術監督の鵜山さんを筆頭に、麻実れい、手塚とおる、植本潤など総勢7名が出演。
うわ〜、豪華〜!!な顔ぶれですが、ちょっと待て。トメの位置にあたる平さんがいない!なぜ??
という会場の空気を事前に察した堀尾アナ、「平さんはお疲れとのことでお帰りに…」とエクスキューズ。したと思ったら手塚さんが横から「平さん、『僕が出るといろいろ聞かれるからやだ』とかいってさっき帰っていきましたよ」と暴露(笑)。
たしかに今回のようにわかりにくい作品の場合、シアタートークなんかに出演しようものなら、観客から「あれはどういう意味なんだ」「どう解釈してやってたんだ」と嵐のように質問をされるだろうことは明らか。
そりゃ逃げたくもなるわな。。。
しかも堀尾アナは「知ったかぶり」をしないポリシーの持ち主なので、一般観客がわからないだろうと思われる部分は堂々と「あれはいったいどういう意味なんですか?」と正面からガシガシつっこんでくる。
こういうときに逃げ隠れできないのがシアタートークのこわさ。
本来なら演出家が出演してなんでも答えてくれるはずなのだが、ラヴォーダンはすでにフランスに帰っちゃったあとでして(笑)。
観客が陥りやすい誤解の一つとして、「演じてる人は何もかも理解してやってるんだろう」というものがありますが、申し訳ないけど、それはないと思います。
役者は素材ですから、演出家の要求に応じていろいろな引き出しをあけて見せてあげられればいい。
それぞれが勝手に解釈して演じられても収拾がつかなくなるし、共同作業なので、やっぱり解釈の元締めは演出家だと思うんですよね。そこでコンセンサスをとらないとなにも動かない。だから、役者はむしろ必要に応じて白紙になれるくらいのタイプのほうがいいんじゃないかと思います。
そんなわけで、今回のシアタートークは、会場から出た質問を堀尾アナが誰かに聞こうとすると、みんな一斉に目をそらして当たらないようにしてるのが見え見えで(笑)。
自分のセリフの中にあった言葉について質問された某役者さんなんて、答えにつまって、追いつめられたあげくに「す、すいません!そこにそう書いてあったので何も考えずにただしゃべってました〜!」と懺悔してました。相撲とりかよ!正直な人だー。
でもね、シアタートークに出て来た以上、「想定内の質問」ってのもあると思うんですよ。そのくらいはせめて考えてきてほしかったです。
今回だったら「『山の巨人たち』は誰(何)を表してるのだと思いますか?」という質問。これはタイトルにもなっているくらいだし、全体のテーマにもかかわる部分ですよね。
堀尾アナは全員に聞いてましたが、これすら“初めて考えました風”の人がいたのはいかがなものかと思いました。
この答えには「正解」ってないと思うんです。
この作品が書かれた時代には、「山の巨人たち」はファシズムの象徴だっていうのが一般的な解釈だったらしいですが、今はべつのものに置き換わってるかもしれません。
「社会不安」とか「戦争の影」とかあげようと思えばいくらでもあがりますが、一見平和な時代の中でも「山の巨人たち」の存在を感じることはたくさんあると思います。
ちなみに、出演者は「山の巨人たちは“お客様”」と答える人が多く、興味深かったです。
もの言わぬ大きな存在の前で、何か手応えをつかもうと常に必死に戦っているという感じなんでしょうか。
逆に「山の巨人たちは“この芝居を観ようとしないお客様”」という答えもあってなるほどそうきたかと思いました。
私のイメージは、「山の巨人たち=ネット社会」ですね。
「巨人」という言葉から「マス」を表していることは明らかで、同時に「最後まで登場しない」ということで、「顔の見えないこわさ」「匿名性」も感じられます。
大きい存在がバンッとあるというよりは、なにか目に見えないものの集合体なんだろうなって気がします。
しかもそのパーツパーツは自分が「巨人の一部」だということに無自覚だったりする。
となると、コトローネたちは「私たちメール使えませ〜ん」「携帯もってませ〜ん」「回覧板は手書きでガリ版刷です〜」「地デジってなんですか〜?」みたいなIT難民かな。
イルセたちは中途半端な難民で、コトローネたちの存在に安心しながらも「あんたたちと一緒にしないでよ!」とまだITの世界に色気も持っている。
なぶり殺しは「炎上」。いやー、すごくよくわかりますね。
おまけのエピソード。
ラヴォーダンさんは、平さんにも平気でダメだしをするんだそうです。
「日本人の演出家で平さんにダメだしできる人なんていないよね」
「いても言うこときかないでしょ」
「でも平さんはダメだしされたのが新鮮だったって言ってたよ」
などなど、ひとしきりやりとりがあったあと、手塚さんが一言。
「この前、楽屋の鏡に向かって平さんと並んで座ってたとき、ポツッと『…ボクって芝居下手なのかなぁ』って言ってましたよ」
大爆笑!!!
手塚さん、平さんがいないと思って話作ってないですか?
作家はピランデルロというイタリアのシチリア出身のノーベル賞作家。演出はラヴォーダン。新国立劇場芸術監督の鵜山さんが、「ピランデルロの演出なら彼しかいない!」とラブコールを送ってフランスから連れてきたという幻想的な演出を得意とする演出家さんです。
ピランデルロ作品の特徴は、一言でいうと……わけわかんないこと(笑)。
少なくともストーリーを理屈で追っていこうとすると狐につままれます。
それでも無理やりストーリーらしきことを拾うと……。
まず、場所は橋の上。
橋といっても平らな橋ではなく、いわゆるアーチ型になった「たいこ橋」。
客席から舞台奥に向かってどーんと巨大なたいこ橋がかけられているのを想像してください。つまり舞台上には平らな場所がほとんどないってこってす(かなりの傾斜で、どこに立ってももれなくこわいそうです)。
橋といえば、能舞台でもお決まりの装置ですが、演劇的には「あの世」と「この世」、あるいは「現実」と「夢」、あるいは「過去」と「現在」など、異空間をつなぐもの。
この作品も全体を通して異質なものが常に対立し、せめぎあう形で進んでいきます。
橋の上には、なにやら浮世離れした人々(あの世とこの世の境目に存在する亡者?あるいは人里離れて身を隠している社会からの落伍者?)がうごめいていて、橋の下を見下ろして「なにかがこちらにむかってやってくる」と不安にかられている。
橋の向こうから現れたのは女優である伯爵夫人イルセ(麻実れい)を中心とした10人ほどの役者集団。放浪の末たどりついたのか、全員がボロボロに疲れきっている。
これを出迎えたのが浮き世離れ集団の頭であるコトローネ(平幹二朗)。彼は自分は魔術師だと名乗り、ここは「不運の館」と呼ばれていると説明する。
イルセは「ある戯曲をどうしても上演したいのだが、どこでやっても観客が受け入れてくれない。どこかで上演させてもらえないか」というようなことを訴える。
イルセは伯爵と結婚していったん女優をやめたが、ある詩人が彼女のために戯曲を書き、それがあまりにもすばらしかったので再び女優を始めた。
詩人は彼女の愛を要求するが、イルセが拒んだために自殺してしまう。
死んだ詩人の魂をもてあましながら、彼らはずっと旅を続けているという。
コトローネは自分の館に役者たちを招き、彼らはそこで夢と現実が渾然一体となった不思議な体験をする(このあたり、人形を使ったりして幻想的な演出が発揮される)。
コトローネは「観客も劇場も必要ない」と言うが、イルセはあくまでも「観客あっての芝居だ」と主張する。
そんな彼女に「では明日、山の巨人と呼ばれる2家族の婚礼があるので、そこで芝居を上演してみてはどうか」と提案するコトローネ。
じつは台本が書かれているのはここまで。
これはピランデルロの遺作で、彼は作品が書き終わらないうちに亡くなってしまったのです。
書かれなかった最終幕については、作者が息子に語ったという梗概が字幕で流されましたが、エンディングはけっこう残虐。
山の巨人が登場する前にその配下の民衆たちが登場し、彼らの前で作品を上演しようとするも激しい拒絶に遭い、怒り狂った民衆によって伯爵夫人はなぶり殺しにされるというのがその結末です。
結局、「山の巨人」は最後まで登場しません。
以上、これだけ読むと具体的な話に見えますが、実際に観ると話がポンポンとんで横道にそれていくので、本筋を拾おうと思うとかなり疲れます。
ちなみに今回一緒に観劇したのは、イタリア好きのRISAとフランス語翻訳家のマリコさん。
RISAはもともとピランデルロのファンらしいのでいいとして、まったく予備知識なしで来たマリコさんはどうだったんだろうとちょっと心配に…。
でも杞憂だったようです。終わったとたん、頬を紅潮させて「私、こういうのかなり好きかも〜♪」と喜んでいたのでホッとしました。
誰にでもわかるたぐいの娯楽作ではないだけに、こういうのまったくうけつけない人ってのもかなりいると思うので。
しかし、考えてみればマリコさんは「フランス脳」(笑)。ピランデルロは特にフランスで人気があるらしいので、好みとしてははずれてなかったのかも。とにかくお気に召したようで一安心。
RISAいわく、「この作品はまだ全然わかりやすいほう。もっともっとわけわかんない作品もあるよ」とのこと。
で、私はどうだったかというと……微妙。
これよりもっと難解で観ているのがただただ苦痛という舞台も経験しているし、その点これは対立概念が比較的はっきり浮かび上がっている作品なので、特別難解だとか退屈だとかは思いませんでした。
でもなんか生理的にすっきりしないんです。かゆいところに手が届かなくて気持ち悪いってうか。イメージとして伝わってくるものはあるんだけど、輪郭がボヤーッとして遠くに見えるっていうか、胸にささってくるものがない。変に気持ちが冷静になっちゃって、突き動かされるものがないんです。
これはもう好みの問題なのでしかたがないですね。
それよりもおもしろかったのは終演後に行われたシアタートーク。
最近はどこの舞台でもシアタートークが大はやりですが、中でも新国立のシアタートークは群を抜いておもしろい。
MCの堀尾アナの座持ちのうまさもさることながら、観客にコアな演劇ファンが多く、けっこうきわどい質問とかもバンバン出るのがスリリング。
これもライブなので、修正や編集ができないという緊張感があります。
今回は芸術監督の鵜山さんを筆頭に、麻実れい、手塚とおる、植本潤など総勢7名が出演。
うわ〜、豪華〜!!な顔ぶれですが、ちょっと待て。トメの位置にあたる平さんがいない!なぜ??
という会場の空気を事前に察した堀尾アナ、「平さんはお疲れとのことでお帰りに…」とエクスキューズ。したと思ったら手塚さんが横から「平さん、『僕が出るといろいろ聞かれるからやだ』とかいってさっき帰っていきましたよ」と暴露(笑)。
たしかに今回のようにわかりにくい作品の場合、シアタートークなんかに出演しようものなら、観客から「あれはどういう意味なんだ」「どう解釈してやってたんだ」と嵐のように質問をされるだろうことは明らか。
そりゃ逃げたくもなるわな。。。
しかも堀尾アナは「知ったかぶり」をしないポリシーの持ち主なので、一般観客がわからないだろうと思われる部分は堂々と「あれはいったいどういう意味なんですか?」と正面からガシガシつっこんでくる。
こういうときに逃げ隠れできないのがシアタートークのこわさ。
本来なら演出家が出演してなんでも答えてくれるはずなのだが、ラヴォーダンはすでにフランスに帰っちゃったあとでして(笑)。
観客が陥りやすい誤解の一つとして、「演じてる人は何もかも理解してやってるんだろう」というものがありますが、申し訳ないけど、それはないと思います。
役者は素材ですから、演出家の要求に応じていろいろな引き出しをあけて見せてあげられればいい。
それぞれが勝手に解釈して演じられても収拾がつかなくなるし、共同作業なので、やっぱり解釈の元締めは演出家だと思うんですよね。そこでコンセンサスをとらないとなにも動かない。だから、役者はむしろ必要に応じて白紙になれるくらいのタイプのほうがいいんじゃないかと思います。
そんなわけで、今回のシアタートークは、会場から出た質問を堀尾アナが誰かに聞こうとすると、みんな一斉に目をそらして当たらないようにしてるのが見え見えで(笑)。
自分のセリフの中にあった言葉について質問された某役者さんなんて、答えにつまって、追いつめられたあげくに「す、すいません!そこにそう書いてあったので何も考えずにただしゃべってました〜!」と懺悔してました。相撲とりかよ!正直な人だー。
でもね、シアタートークに出て来た以上、「想定内の質問」ってのもあると思うんですよ。そのくらいはせめて考えてきてほしかったです。
今回だったら「『山の巨人たち』は誰(何)を表してるのだと思いますか?」という質問。これはタイトルにもなっているくらいだし、全体のテーマにもかかわる部分ですよね。
堀尾アナは全員に聞いてましたが、これすら“初めて考えました風”の人がいたのはいかがなものかと思いました。
この答えには「正解」ってないと思うんです。
この作品が書かれた時代には、「山の巨人たち」はファシズムの象徴だっていうのが一般的な解釈だったらしいですが、今はべつのものに置き換わってるかもしれません。
「社会不安」とか「戦争の影」とかあげようと思えばいくらでもあがりますが、一見平和な時代の中でも「山の巨人たち」の存在を感じることはたくさんあると思います。
ちなみに、出演者は「山の巨人たちは“お客様”」と答える人が多く、興味深かったです。
もの言わぬ大きな存在の前で、何か手応えをつかもうと常に必死に戦っているという感じなんでしょうか。
逆に「山の巨人たちは“この芝居を観ようとしないお客様”」という答えもあってなるほどそうきたかと思いました。
私のイメージは、「山の巨人たち=ネット社会」ですね。
「巨人」という言葉から「マス」を表していることは明らかで、同時に「最後まで登場しない」ということで、「顔の見えないこわさ」「匿名性」も感じられます。
大きい存在がバンッとあるというよりは、なにか目に見えないものの集合体なんだろうなって気がします。
しかもそのパーツパーツは自分が「巨人の一部」だということに無自覚だったりする。
となると、コトローネたちは「私たちメール使えませ〜ん」「携帯もってませ〜ん」「回覧板は手書きでガリ版刷です〜」「地デジってなんですか〜?」みたいなIT難民かな。
イルセたちは中途半端な難民で、コトローネたちの存在に安心しながらも「あんたたちと一緒にしないでよ!」とまだITの世界に色気も持っている。
なぶり殺しは「炎上」。いやー、すごくよくわかりますね。
おまけのエピソード。
ラヴォーダンさんは、平さんにも平気でダメだしをするんだそうです。
「日本人の演出家で平さんにダメだしできる人なんていないよね」
「いても言うこときかないでしょ」
「でも平さんはダメだしされたのが新鮮だったって言ってたよ」
などなど、ひとしきりやりとりがあったあと、手塚さんが一言。
「この前、楽屋の鏡に向かって平さんと並んで座ってたとき、ポツッと『…ボクって芝居下手なのかなぁ』って言ってましたよ」
大爆笑!!!
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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