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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

カテゴリー「映画」の記事一覧

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「バルトの楽園」をみました

 チケットをいただいたので、駆け込みで「バルトの楽園」を観てきました。
 なんとなく「夏休みの間中やっているんじゃないか」と漠然と思って油断していたのですが、ある日ふと劇場検索してみたら、なんと都内のほとんどの劇場では8/4で終了していて、最後に残った銀座シネパトスが18日まででおしまいではないですか!
 ……てことで、あわてて最終日の今日、行ってきました。

 前評判としては、「日本で初めて『第九』が演奏されるまでの苦労話だと思って観たら、いつまでたっても『第九』が出てこなくて、『いつ出るんだ!』と思ってたら残り10分というところで唐突に始まり、演奏が終わると同時に映画も終わったので、キツネにつままれた感じ」というような感想をきいていたので、覚悟はしていきましたが、なるほどその通りでした。
 ただ、これはそういう映画(「第九」の初演の秘話とか)ではないですね。そういうものを期待していくと前述したような感想になりますが、「第九」はお話の要素のひとつだと思えばそれほど違和感はありません。

 じゃあどんな話なんだと言われるとうーーーん。
 なんて言ったらいいんでしょう。悪い映画ではないと思うんですよ(微妙な言い方)。
 長いけど退屈はさせられないし。
 「なんでこの人こんなことするの?」「この人何がしたいの?」というような破綻もわかりにくさもないし。
 脚本の古田求さんは時代劇で人情をきちっと書ける大ベテランですし、そのへんおさえるべきセオリーはきちんとおさえて無難には作ってます。
 が、その無難さがどうもひっかかるというか、ひっかからないというか…。
 失礼承知で言いますと、手練れのベテランが小手先で作った感がぬぐえないのです。
 古田さんならもっともっとぐっとくる話にできたんじゃないかと思えばこその物足りなさなんですが。

 おもしろいなと思ったのは、主人公の松江所長(松平健)をただの「いい人」として描くのではなく、「維新で辛酸をなめた会津藩出身として、弱者や敗者に対して格別の思いがある」「だからドイツ人俘虜たちにはたとえ敗者となっても祖国再建のために力強く生き抜いてほしいと願っている」といったような背景をとりいれている点です。
 徳島旅行中にこの板東収容所の話をきいたときは、時代がいまひとつピンとこなかったんですが、「日本ではまだ維新の生々しい記憶が緒をひいている時代(=維新で敗者となって苦労してきた世代がまだ生存している時代)」という位置づけがはっきり示されたことでぐっとストーリーが生き生きと迫ってきました。このへんは脚本家のベテランらしい仕事ぶりですね。

 その一方で、登場人物の対立やドラマについては、盛りだくさんすぎてすべてがさらっと表面的に通り過ぎてしまった印象を受けました。
 「予定調和」と言っては身も蓋もないですが、大団円に向かってあまりにもシャンシャン話がいい具合にころがりすぎる感じが気になったんですよね。
 松江がいい人すぎるというのはまあこの際おいておくとして、だったらその対立候補としての伊東(阿部寛)にもうちょっと見せ場がほしかった。
 「同じ会津出身として薩長になめられたくない」という思いとか、一応自分の意見や立場は明確にしているので、なんのためにいるのかという役割はよくわかるんですけど、そういう説明じゃなくて、実際に俘虜対管理者というシチュエーションになったときに、松江と伊東とでは何が違うのか、具体的な行動で見せていってもらいたかったです。
 伊東が上層部に「松江は俘虜に甘すぎる」とチクるところがあって、そこが唯一松江が危機に立つ場面なのですが、実際はもっともっと厳しい出来事があったと思うんですよね。極端な話、「俘虜を守るのか、自分の家族の生活を守るのか」というくらい追いつめられるようなことが。それを乗り越えていく松江の姿というのが当然話の軸になっていくと思うのですが、残念ながらそこが弱い。松江に対して最初から好意的な人が多すぎるんです。
 奥さん(高島礼子)にしても、絵に描いたような良い奥さんとしてしか出てこないので、添え物っぽくてもったいない。せめて「夫の信念はわかってあげたいけど、家族のことも考えてほしい。でも言えない」くらいの葛藤はあってもいいのでは?

 松江と対立する存在として、伊東と並ぶのがハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)です。
 まあ、俘虜の親玉といった存在なんですが、この2人の対立ももうちょっと書き込んでほしかったところ。
 それはそれとしてハインリッヒ、なんであなたはそんなに態度がでかいのですか?
 最初に送られた久留米の収容所では、横暴な南郷所長(板東英二)に向かって「あんたは所長としての資質に欠けてる!」と捕虜全員の前で糾弾。いや、そりゃ殴られて当然ですよ。そんなの「はい。さようですか」なんて所長が認めたら収拾つかなくなっちゃうじゃん。あまりの場の空気読めなさに唖然としました。
 板東に移されてからもハインリッヒの俺様状態は続き、こぎれいな個室を与えられ、タバコ(パイプだったか?)を優雅にくゆらせながらクラシック音楽を鑑賞。松江所長が入ってきても挨拶するでもなく、「今、音楽鑑賞の時間だからあとにしてくんない?」って態度。また松江もおとなしくご機嫌伺いに終始してるし。どっちが所長だよ!
 あと、敗戦を知って自殺を図るシーンがあるんですが、「頭を撃とうとして左手を負傷」というのが意味不明でした。ほんとに死ぬ気あるの?
 ていうか、基本的な問題として俘虜がピストル持ってていいのか?
 話に破綻は少な目と言いましたが、正直ここは「無理がある」と思いました。

 その他の俘虜についても書き込み不足を感じました。
 まず、俘虜の中にもいろいろなタイプがいて、少なくとも最初のうちは松江に対する感情もさまざまだと思うんですが、「俘虜と松江がうまくいかない」というエピソードが皆無に等しいので(松江はドイツ語ペラペラなので言葉による障害もなし)、「松江が俘虜たちに受け入れられていくドラマ」としては弱いというのがひとつ。
 もうひとつは俘虜たちだけのドラマがあまりないので、彼らの本音(松江たちの前では見せない)の強さが伝わってこないこと。
 たとえば、唯一事件らしい事件(全体を通して意外に事件が少ないんですよね)だった俘虜カルル(オリバー・ブーツ)の脱走事件。結局、彼は自らの意志で戻ってきて、松江は彼を咎めなかったわけですが、この事件に対する俘虜たちの反応がまったく書かれてないのが不自然です。

 このドラマでは、おもに収容所の所員グループ(松江や伊東など)、俘虜グループ、板東の人々グループの3つのカテゴリーが登場します。
 もちろんそれぞれのカテゴリー同士の対立を描くのは不可欠ですが、当然のことながら同じカテゴリー内でも対立やぶつかりあいや腹のさぐりあいはあるはずです。なのに、それが描かれているのはかろうじて所員グループのみで、他の2グループについては単品で考えを提示するだけでグループ内でのゴタゴタがほとんど描かれていないのです。
 板東の人々もねえ、いい人ばっかりなのはわかるけど、これまた少なくとも最初のうちはもうちょっと警戒する感じとか、あからさまに好奇心をむきだしにする人とか、いろいろヴァリエーションがあってもいいんじゃないでしょうか。

 ごちゃごちゃ書いてきましたが、書きついでにもう一点。
 「現代とのつながり」という視点がもうひとつあってもよかったかもしれませんね。
 それこそ「第九」というおいしいキーワードがあるんですから、現代から始めて、「第九」の音楽を聴いた当時の生存者が当時を回想する(あるいは子孫に語る)という形で入っていくとかね。
 現代で生存っていうのが厳しいならもう少し近過去に設定してもいい。
 子孫が遺品を板東に寄贈して資料館ができあがったというエピソードから入るのもいいし、神戸でパン屋を開いたカルルと、彼が養女に迎えた混血娘の志を(大後寿々花)のその後を描くところから入ってもいい。
 とにかくその後の時代を生きる関係者が、何らかの事件をきっかけに封印していた過去を蘇らせる(そしてその封印を解くのが「第九」のメロディ)……という導入部だと、現代とのつながりも出るし、話も立体的になるのでは?
 過去の話だけで完結させちゃうと、どうしても単なる美談話にまとまってしまいがちですから。
 俘虜たちのその後というのには少なからず興味があります(むしろそっちのほうがドラマがありそう)。

 とはいうものの、やはり音楽の力は大きく、最後に「第九」を演奏すればそれだけでカタルシスはバリバリ得られるし、なにもかもめでたしめでたしという気分にさせられてしまう。
 「『第九』が日本で初めて演奏された状況はこういう状況だったんだよ」という事実を知らない人には、このエピソードだけでも充分観る価値はあるでしょう。
 まあでもちょっと演奏うますぎなのはウソっぽいけどね。カラヤン指揮の最高クォリティーの演奏を吹き替えであてているのでうまいのは当たり前だけど、どう考えてもこの状況でこの演奏はできないだろう。。。

 平日朝いちの映画館は老人でいっぱいでした。
 しかも反応がすごい。
 よたよたと自転車に乗る松江所長が出れば
 「あーーー、あの人、ころぶよ、ころぶよ」
 逃亡した俘虜が農家で介抱され、その家の子供をじっと見るシーンが出れば
 「(しみじみと)あー、子供のこと思い出しちゃったんだねえ」
 市原悦子が俘虜にご飯を勧め「お腹空いただろ?」と優しく問えば
 「………うん」

 うんって………うんって………うんって……

 あんたに聞いたんじゃないよ!
 
 あのー、TVを見るように楽しむのはけっこうなんですが、TVじゃないのでやっぱりこのような反応は謹んでいただきたいです。
 ものすごーーーーく気が散りました。


「バルトの楽園<メイキング>」(DVD)
二枚看板、松平健&ブルーノ・ガンツを
フィーチャーしたメイキングDVD。

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「リング」〜“恐怖”の日米比較文化論

 このあいだ、「ザ・リング」が地上波放送になったので見ました。
 「リング」に関しては、まず原作を読み、「こぇ〜!!」と震えあがったところでTVでドラマ化され、これはあんまりこわくなかったんだけどいろいろと工夫が見られてそれはそれでおもしろく見て、映画はTVで見て「そうきたか!」と腰を抜かし……と、メディアが変わるたびにどうアレンジされるのかを楽しんできたわけですが、まさかハリウッドヴァージョンまで登場するとは…。

 最初に言っておくと、私はべつに“ホラー好き”ではありません。
 いや、どちらかというと「こわい話」には興味のあるほうなんですが、巷のホラーって「気持ちの悪いもの」や「視覚的にびっくりさせるもの」に終始するものが多いじゃないですか。あの手のホラーが好きじゃないんだと思う、きっと。
 視覚的な衝撃は、その瞬間はびっくりしてドキドキするけど、その作品を見終わったあとにまで恐怖が持続することはないですよね。その瞬間に完結する恐怖だから。
 でも、もっと人間の心理に根深く切り込んでくる恐怖っていうのは、視覚表現よりもむしろ人間がもっている本能的な恐怖感知能力や、想像力にスイッチを入れることによって、その人の中でどんどん増殖していくものだと思うんですよ。

 初めて「リング」の原作を読んだとき、「こんなにこわい話があるのか」というくらいこわかったのですが、まわりの人の話をきくと、「すごいこわい」という人と「何がこわいのかさっぱりわからない」という人とにきっぱり二分されるんですね。
 さらに興味深いのは、「リング」の謎解き編という位置づけで書かれた「らせん」のほうがこわいという人には、「リング」のこわさがわからない人が目立ったこと。
 私はもう断然「リング」のほうがこわかったですよ。
 だって謎が解明され、筋が通っちゃってる時点でもうこわくないんだもん。
 「らせん」はミステリ小説としてはおもしろいのかもしれないけれど、もはやホラーではない気がします(少なくとも私にとっては)。

 では「リング」のこわさはどんなこわさなのか?
 それはまさに前述した「人間の心理に根深く切り込んでくる恐怖」です。
 そこに書かれてるものそのものがこわいというよりは、それによって読者の中にある「これだけは見たくない」と無意識に思っている“恐怖を生み出すスイッチ”がオンになってしまうこわさです。だから、スイッチがオンにならない人にとってはなにがこわいのかわからないし、オンになってしまった人にとってはメチャクチャこわい。
 「どこがどうこわいのか教えて」と言われても、スイッチのツボは人それぞれ微妙に違うので、本当のこわさについては他人に説明しにくい。
 こういうたぐいの恐怖は、受け手側が自らの感受性によって勝手に恐怖の拡大解釈をしてくれるので、作者が意図した以上に大きな恐怖を与えることができます。
 私が最上のホラーだと思うのはこういうホラーです。

 じゃあ私が「リング」に感じた恐怖のスイッチはどこにあったのか?(以下、ネタバレありですので、ご了承のうえ、先にお進みください)
 いろいろ考えたんですが、一言でいうと「異質なものが境界線を越えてまじりあう恐怖」だと思います。
 まず、ビデオテープという無機的な文明の利器と、怨念という非文明的な理不尽なもののコラボレーションの妙。
 「恐怖」の源は「理屈でわりきれないもの」「筋の通らないもの」「科学や文明の力で制御できないもの」であり、私たちはその恐怖から逃れるために、恐怖を闇(理屈で制御できない世界)に封じこめ、光(秩序と理屈が支配する世界)の領域を拡大させてきたわけです。
 今や光の世界はほとんどの領域を占め、理不尽で非科学的なものが存在する世界は縮小傾向にありますが、それは同時にそういうものに対する免疫が昔よりも鈍くなってきているともいえます。
 光の領域に棲む私たちは、「こわい現象は闇の世界で起こること。こちら側の世界にいる限りはそういうものに出くわすことはない」と心のどこかで気を許しています。
 だからこそ、境界をやぶって闇が光の領域に侵入してくることへの恐怖感にはすさまじいものがあるのです。

 「ビデオテープに呪いがかけられる」というモチーフは、そういう現代人の弱点というか気のゆるみを非常にうまくついていると思いました。
 これがビデオテープじゃなくて、よくわかんないけど、古くから伝わる人形とか、とにかくいかにも闇の世界のアイテムといった感じのものに呪いがかけられたというならそれほどこわくなかったと思うんですよ。それは闇の世界のアイテムだけで完結していて、光の領域とは関係ないって安心できるからね。
 でもビデオテープなんて家の中にゴロゴロしてるし、ラベルのないテープがあるとふっと気軽に見ちゃうし、でも心のどこかで「何が写ってるかわかんないものを見るのってちょっとドキドキするな」という気持ちもたしかにあるし、そういう現代人のリアルな感覚を呪いに結びつけたというだけでも「リング」のコンセプトはすごいと思います。

 同様に、新しくてきれいなコテージのTVやビデオデッキの真下におぞましい惨劇の舞台となった井戸が存在していたという構図。これまた光と闇がぴったり寄り添った気持ちの悪さでゾクゾクします。
 さらに、最もゾッとしたのは、ビデオに写っている映像がカメラで撮られたものではなく、貞子の目に映ったものが念写されたものだということがわかるくだりです。
 そのこと自体は斬新なアイデアではないのですが、「まばたき」がテープに反映されていることで自分が貞子と同じ目線で映像を見てしまったこと、つまりビデオを見ることで知らないうちに貞子の身体生理と同化していたことがわかる……という部分がたまらなくこわかったです。
 これもまた、思わぬ不意打ちで異質な闇が境界線をこえて自分の領域になだれ込んでくる気持ち悪さに通じます。

 原作の話ばかりしてしまいましたが、ここから映画の話に入ります。
 原作では、「結局、ビデオを見て7日目に何が起こるのか」という点がいまひとつ不明瞭でした(死ぬということはわかるんだけど)。
 小説はそういうところはうまくぼかせるけど、映画となるとすべてを視覚化・聴覚化しなくてはなりませんから、ぼかしたままというわけにはいきません。
 そこで新しくつけくわえられたアイデアが、あの有名な「TVから這い出してくる貞子の図」です。
 まああれもまた「這い出してきたあとに何をするのか」ときかれたら、それはそれでいまいち不明瞭っちゃー不明瞭なんですが、這い出してきた瞬間のインパクトがあまりに強烈なので、そのあとはもうどうでもいいという気分になります。

 いやー、あのアイデアにはやられました。
 単に「こわい」というだけではなく、今まで説明してきた原作の「リング」の恐怖の本質を見事に視覚化していたからです。
 TVという光の世界のアイテムを前にして、私たちはその中でどんなにおそろしい闇の世界が繰り広げられていても、それが境界を越えてこちら側に流れ込んでくることはありえないと信じきっています。そこを破られたからこそ、急所を突かれたような恐怖に見舞われるわけです。
 正直、私は映画版の「リング」がそれほどよくできているとは思わないのですが(やはり原作の恐怖のほうが上だと思う)、でもあのアイデアをとりいれたというだけで「映画化の功績は充分あった」と思いました。
 つまり、あの“這いだし映像”が「リング」という作品の恐怖の本質を一瞬にして伝えてくれたわけで、「視覚ほど強力でわかりやすい武器はない」とこのときばかりは心底実感しました。

 さて、この映画版「リング」を見たアメリカの監督が、ビデオを見た3時間後にリメイクの権利を買ったという話は有名ですが、「ハリウッドでリメイク」という話を聞いたときから、「アメリカ人があの作品のどこにこわさを感じたのか」に興味津々でした。
 ハリウッド版を見た人の感想をきくと「予想以上に日本版をそのままなぞっていたのでつまらなかった」という意見が多かったのですが、いくら表面的に同じものをなぞっても、そこには絶対に日米の感覚の違いは出るはずで、むしろ真似をするほうがわずかな違いが際立ってそれがわかりやすいのではないかと予想していました。
 つまり、なぞるにあたって、「そうそう。ここは私もこわいと思ったの」というところはそのまま残すだろうし、「ここは何がこわいのか意味不明」というところはカットするかべつなエピソードに置き換えられるだろうし、その改変のあとを見ることで日米の恐怖観、あるいはユングの言うところの集合無意識(その民族全体が共通してもっている無意識)が浮き彫りになるかもしれないと思ったんですね。

 で、実際にTVで見てみて感じたこと。
 まず、これは多くの人が指摘していることですが、はっきり言って「こわくない」。
 身も蓋もない感想ですけど。
 もちろん、日本版をすでに見ている人は、次に誰がどうなるかすべて知っているわけだし、クライマックスの“あのシーン”もすでに承知していて「日本版とどこがどう違うのか比較してやろう」という小姑のような冷めた目で見ているわけですから、この評価はさしひいて考えなければいけません。そりゃあ最初に見たもののほうがこわいに決まってますからね。
 でも、それを差し引いても「やっぱりこわくないかも」と思った自分がいたのもたしかです。
 その理由は「クリアさ」ではないかと思いました。

 何がって、何もかも「クリア」なんですよ、ハリウッド版は。
 まず、日本版の貞子にあたるサマラ。
 貞子は顔も常に隠れてはっきり見えないし、存在感が希薄。しゃべるところもありません。なのに、サマラは顔も表情もはっきりわかるし、しゃべるシーンすらある。
 これねー、以前無謀にもホラーを書こうと思ってトライしたときの苦い思い出なんですが、いろいろこわい現象を起こしたあと、最後に話のオチをつけようと思って幽霊を登場させて謎解きをさせてしまったことがあるんです。
 そしたらこれがまわりに超不評で、「説明してくれたので事情はよくわかったが、幽霊が筋の通ったことをしゃべった時点でもうこわくない」と言われまして。
 ごもっともです。しゃべる幽霊、話のわかる幽霊はこわくないです、たしかに。
 前述した法則に従えば、闇の世界の存在は、なるべく光の世界の論理が通じない理不尽さをもっていなくてはならない。
 たとえば「呪い」にしても、呪われて当然の相手が呪われる話はそれほどこわくないが、「なぜそれがこっちにくる?!」という方向に無差別に向けられると俄然こわさがアップする。
 「リング」の貞子がこわいのは、その不幸な境遇にもかかわらず、いっこうに感情移入できないところにあるのです。というか、「貞子も気の毒よね。こうするしかなかったのよ」と観客が感情移入した時点で貞子の負け。見ている側に余裕が生まれるからね。観客は光の世界の論理で理解しようとしますから、対する貞子はあくまでもその理解を拒む「ご意見無用の存在」でなければならない。「話せばわかる幽霊」なんてこの世でもっともこわくないですから。
 そういう意味では、サマラの顔と声を見せただけで、観客は彼女を自分たちと同次元に位置づけてしまいますから、「得体のしれないこわさ」はかなり薄まってしまいます。
 ビデオを見終わったあとにかかってくる呪いの電話も同様。
 日本版は無言できれるんだけど、ハリウッド版は「あと7日」と言葉で伝えちゃうんですよ。いや、わかりやすくて親切なんだけど(笑)、具体的な言葉を発することで、もうすでに対象とコミュニケートできちゃうわけでしょ。それはあんまりこわくないんじゃないかなーと思うんですよね。

 そして問題のサマラがTVから出てくる場面。
 まあ、こっちも2回目なんで、出てくることはわかってるわけだし、「え、出るの?…出るの?…出ちゃうの?」という1回目のヒヤヒヤ感がないのは当たり前ですが、それにしても「タメ」がなさすぎです。
 日本版では、井戸から出てくる瞬間もすんごいタメがあって、いかにも長い時間(7日間)をかけてようやく這い出てきた感じだったけど、ハリウッド版は階段上ってきたみたいにちゃっちゃか出てきてそのままダーッと画面からとびだしてくる。こんなに超人的な力を持ってるならもっと早く出られるだろ!と思ってしまうくらい。
 ここまで人間離れしていると、今度は「得体がしれない」のを通り越して「ただのモンスター」としてしか認識できなくなり、まあ言ってみれば宇宙人とかエイリアンとか、もうまったく別次元の生物に思えてしまいます。
 日本版の貞子はそのへん妙に動きがリアルで、足が萎えてしまってまっすぐ歩けない感じとか、時々画面からフラ〜ッ、フラ〜ッとフレームアウトしつつ蛇行してこちらに迫ってくる感じとか、境界を越える瞬間の違和感とか、とにかくアナログな感じがメチャメチャこわいんですよ。まさしく異質なものがまじりあってる感じで。
 ハリウッド版は、「人間or非人間」「出るorでない」というデジタルな境目がはっきりしているんだけど、日本版は人間なのか人間でないのか、出るのか出ないのかはっきりしないところ(=おぼろな印象)がこわいんです。

 はっきりしすぎてこわくないという意味では、呪いのビデオ映像もそう。
 工夫しているのはわかるんだけど、ハリウッド版の映像は断片的ながらひとつひとつのイメージが明確で、いかにも編集しましたチック。
 一方、日本版の映像はなにが映ってるのかよくわからない曖昧な感じや、はっきりしないつなぎ目や、汚い画質や、時代のわからない雰囲気が「人の意識の中を覗いた映像」というリアリティーをかもしだしていて「なんかよくわからないこわさ」がある。
 ここでも、デジタルな印象のハリウッド版とアナログな印象の日本版という対照が…。
 
 やっぱりこれは「こわいもの」をどう位置づけるかという国民性の違いなんでしょうか。
 私は、アメリカ人の感性としては、「まじることへの恐怖」が日本人ほどないんじゃないかと思いました。
 矛盾するようですが、「まじることへの恐怖」は、「自分と異質なものとの間に親和性を求めてしまう性質」があるからこそ生まれるんじゃないかと思うんですね。「まじってしまいそうな自分を感じるからよけいこわい」というか…。
 アメリカ人の感覚をみていると、「異質なものは異質なもの」として、常に自分との間にビシッと揺るぎない境界線をひいてる感じなので、異質なものに対しては、「距離をおいてクールにつきあうか」「やっつけるか(あるいは支配するか)」「やられるか」の3つの選択肢しかないんじゃないかって気がする。
 となると、ホラーの場合、第1の選択肢はありえないから、残るのは「やるか、やられるか」というデジタルな戦いになりますよね。
 「こわいもの(変死した被害者の死に顔)をみてしまう」→「その恐怖に絶叫する(←ナオミ・ワッツ叫びすぎだよ…)」というじつにわかりやすいセット映像がアメリカでは絶対に必要なんだなーと、ハリウッド版を見てつくづくわかりました。
 日本のファンにしてみたら、そこにいくまでの過程が一番こわいところなんだけど、アメリカ人にしてみたら「これ」がないと「メインがなくて前菜ばっか食べさせられてる気分」になるのかも。

 監督の話では、「日本のホラーは語りきらないで終わっているところが(語りきってしまうアメリカに比べて)エキサイティング」とコメントしているので、「リング」を気に入って買った監督自身、「リング」の魅力はわかってるとは思うんですよ。
 アメリカの感覚とは違うこわさが表現されているのがおもしろいということも。
 ただ、これだけお金をかけてつくる以上、全世界のマーケットを意識しないわけにはいかないでしょうし、となると、やっぱり従来のアメリカ人のニーズからあまりかけ離れてしまうことはできないというジレンマがあり、その結果がどっちつかずになってしまったのかもしれません。

 いろいろネガティブなことを書いたけど、まっさらな目で見比べたら、脚本の運びとしてはハリウッド版のほうが整理されていたと思うし、展開もわかりやすかったし、役者の演技も人間性が感じられたと思うので、作品としてはハリウッド版のほうが練られていたのではないでしょうか。
 日本版は、シーンとシーンのつなぎが省略されすぎてて、原作を読んでいない人には意味不明の部分が多かったと思うし、そのぎこちない展開のせいか登場人物の人間性もあまり印象に残っていません。また、ハリウッド版は映像やエピソードをうまく使って説明的にならない工夫がされていたのに対し、日本版は動きに乏しく、説明が多い印象を受けました。
 でもこわいかどうかっていうとそれはまたべつの問題。
 ホラーってほんとに難しいですね。

 あと、日本版でけっこうポイントだった「最後に、子供を救うためにダビングしたビデオを自分の親に見せる」というラストね。
 TV版では、ここがすごく重視されていて、かなり早いうちにその解決方法がわかるんだけど、わかったからといって自分さえ助かればいいという選択肢はいかがなものか、と悩む主人公が、ずーーーっと最後までその葛藤をひきずり、最終的に自分なりの答えを見つけるのですが、映画版では「呪いから逃れる解決策」が最後の最後でわかり、わかった次の瞬間、「じゃあうちの親に見せよう。孫が助かるためなんだからいいわよね」って速攻で答えが出ちゃうんですよね(笑)。
 ところが、ハリウッド版ではその選択肢すら出てこないんですよ。最後に解決策がわかるというところは日本版と同じなんですが、そのあとビデオをダビングしている母親のそばで子供が「このビデオを見た人はどうなっちゃうの?」と冷静なつっこみをしておしまい。
 いや、このラストが悪いって言ってるわけじゃないんですけど、「自分の親に見せる」という人間の究極のエゴイズムを描いた原作の問題提起をあえてアメリカ側がカットしたという事実に興味をひかれます。
 倫理的に嫌悪感をもたれるとか、反発がくることが予想されるとか、そういう思惑があったんだろうか。とかいろいろ憶測が…。
 やっぱりこういう倫理的な問題に抵触してくると、宗教が出てくるでしょう、欧米の場合。
 でも今回は日本の話が元ネタなだけに宗教色はいっさい出てこなかった。
 だから宗教抜きでこういう問題は処理しきれなかったということなんでしょうかね。
 こういうカットされた部分にいろいろな思惑を感じ取るのも、それはそれで楽しいものです。


「ザ・リング」(DVD)
ハリウッドリメイク版「リング」。
ゴア・ヴァービンスキー監督。
出演はナオミ・ワッツ、マーティン・ヘンダースン他。



「リング」(DVD)
こちらは元祖国産「リング」。
中田秀夫監督。
出演は松嶋菜々子、真田広之他。



「リング」(本)
鈴木光司による原作文庫本。

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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