古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
冬ドラチェック(2)
- 2008/02/09 (Sat)
- TV(ドラマ) |
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新ドラチェックの残り、書こうと思いつつ「だいすき!!」だけがどうしても録画を見る機会を得られず、ずっと延ばしてきました。
もう始まって4回も5回もたってて、「今更…」って感じですが、先日ようやく初回だけ見ることができたので一応残り5本にも軽く触れておきます。
「佐々木夫妻の仁義なき戦い」(TBS/日曜9時〜)
脚本の森下佳子は、「白夜行」で見事な脚色の手腕を見せた(原作には書かれていない犯人側の視点で物語を再構成した)人で、オリジナルでも「平成夫婦茶碗」というのんびりとした人情ドラマを書いたりしているので、今回はどんな切り口になるのかと楽しみにしていました。
たしかに初回はそこそこ楽しめましたが、2回目以降はどうも話の焦点がさだまらなくなっているような気がします。
このドラマについては「TVステーション」(2/27発売号)に書く予定なので、具体的なことはそちらで書きます。
「エジソンの母」(TBS/金曜10時〜)
すっごくおもしろいとは思いませんが(なんか話の進み方が一本道すぎて)、肩の力を抜いて見られるというか「安心して見られる」ドラマだと思います。
子供の「どうして?どうして?」攻撃は珍しくありませんが、どちらかというと、それ言うと大人が困るからおもしろがってわざと連発するというケースが多数です。
でもこの子供は純粋に「知識欲」が異常に強いんですね。
純粋なだけに答えられない大人は困る。
私は子供から質問されるの大嫌いだから教師にだけはなりたくない(いや、他にもなりたくないものはいっぱいあるけど)と思っているので、見てるだけで先生方には同情でいっぱいになります。
ほのぼのした中にもドラマの作りにそこはかとなく「きまじめさ」が漂うのはTBSだからかですかね。
「未来講師めぐる」(テレ朝/金曜11時15分〜)
いつもながらのクドカンワールドではありますが、いまひとつ上滑り感があってのりきれません。まあ私は「木更津キャッツアイ」にものれなかったシニアなので、これがいいという人もいるのかもしれませんが、同じクドカンなら他にも好きなものいっぱいあるしなあ。
深夜枠なんだからバカバカしい笑えるものでいいじゃんと言われればそうなんですが、中途半端にまともな人生訓のようなものが入るので、そのへんがどう見たらいいのやらむずがゆい。
ギャグはおもしろくても人物造形が雑なのがいやなのかも。一見メチャクチャでも「この人何がしたいの?」「なんでここで気持ちが変わるの?」という部分が一本通ってればのれるんですが、そのへんが曖昧で散漫だから気持ちが冷めちゃうのかもしれない。
スピード感がいくらあっても、方向がはっきりしないと同じところぐるぐる回ってるだけみたいになっちゃうし。
あと深夜だからしょうがないのかもしれませんが、他のクドカン作品に比べるとキャスティングがマイナーすぎじゃないでしょうか。
「鹿男あをによし」(フジ/木曜10時〜)
原作おもしろいらしいけど私は未読。
たしかにシチュエーションは独創的ですね。
玉木くんは鹿っぽい顔なので、それでキャスティングされたのかな(笑)。
ただ、ファンタジーながらバックグラウンドがけっこう複雑(歴史的背景などがからんでいて)なので、説明が多いのがちょっときびしいかな。
小説なら気にならないのかもしれないけど、TVでやられるとね。
あと、綾瀬はるかがやっている同僚の藤原は、原作では男らしいんですが、なぜ女に変えてしまったんでしょうか。まあ事務所の都合でしょうが。
でもなんかこの人は女じゃないほうがいいような気がするんですよね。
「ガリレオ」もそうだったけど、相棒を異性にするとどうしてもラブの雰囲気がからんでくるんで、邪魔な感じがしちゃうんですよ。
フツーに空気読めない“歴史オタク男”にしちゃえばよかったのに。
話の世界観の中で綾瀬はるかだけが浮いているように見えるのは私だけでしょうか。
「だいすき!!」(TBS/木曜10時〜)
これはね、まだ初回しか見てないんであくまでも初回だけの印象ですが、私としては不満がいっぱいですね。
知的障害者が子供を産む。
それはまあ産まなきゃドラマにならないし、そのへんの是非はとりあえずおいておくとして、このドラマのケースはちょっと周囲の対応がひどすぎる気がします。
ヒロインの柚子は自分の身の回りのことも母親の手を借りないときちんとできなくて、障害者自立支援のためのワークセンターと家を往復する毎日という設定なんですが、じつはセンターで仲良くしている男性(彼も軽い知的障害を持っている)がいて、彼が突然事故死したことをきっかけに「彼とつきあっていたこと」「彼の子供を妊娠していること」が家族に知れるんですよ。
自分一人で行動できる自由がこれだけ限定されているにもかかわらず、誰にも知られないまま、いつどういうタイミングでそういうことになったのか。母親もセンターの職員もまったくこのことに気づかなかったというのがまず信じられません。
だって5ヶ月目に入ってるんですよ。その間、体調の変化もいろいろあっただろうし、本人が気づかなくても、いつも娘のことを心配して過保護なほど世話を焼いているはずの母親が気づかないっていうのはありえないでしょう。
なによりも本人が妊娠したことを認識しているというのもちょっと意外でした。一人で病院に行ったとは思えないし、検査薬を買ったとも思えないし、性に関する知識がいったいどの程度あるのかわからないけど、周囲にうまく隠したりごまかしたりできるようにも思えないし、見ていて「母親が気づかずに本人がわかる」っていうのが不自然な気がしました。
当然、周囲は出産に大反対する……かと思いきや、わりとそうでもないんですね、これが。
一番反対したのは母親で、あとは「産ませてあげたい」と無責任な希望を言うのみ。
その母親にしても「私、お母さんみたいなお母さんになりたいの」というありがちな娘の一言であっさり翻意。
で、承諾したからには自分が責任をとるのかと思いきや、その家庭は母子家庭なので、自分は昼間働きに出ていて、娘と生まれた赤ん坊は家に置き去りですよ。
で、その保育状況を見にきた役所の保健師が「娘さんに突発的出来事の多い子育ては難しいと思います」と言ったら、母親は「そんなできないことばっかり言われても。今からたたんでおなかの中に戻すわけにはいかないじゃないですか」と逆ギレ発言。
これには「はあ〜?」って感じでした。あのー、そういうのを「開き直り」って言うんじゃないでしょうか。
おまけに「手のかかる時期だけでも施設に預けてはどうでしょう」と提案されたら、「ゆずは一生懸命頑張ってるんです。そんなのかわいそうじゃないですか」と反論。
「頑張ってる」「頑張ってる」って葵の御紋みたく言いますけどね、お母さんはみんな頑張ってますよ。人間ひとり作り上げるんだから当たり前でしょう。
そりゃあ産んだ本人は満足でしょうが、生まれた子供は常に危険にさらされてたまったもんじゃないですよ。
ゆずの子供への接し方は、ペットを与えられて大喜びした子供が「一人でできるもん」と駄々をこねているようにしか見えません。
障害者の自立が重要なのはわかります。
ゆず本人が何かをやりたいと強く希望し、努力しようとするのを妨げる権利はまわりにはありません。
でも子育ては人の一生がかかっているんだからゆずだけの問題じゃないんですよ。
ゆずへの同情論だけで判断するのは危険です。
私には保健師の言うことだけがまともに聞こえましたが、その保健師だけが悪役、とまではいかないけど損な役回りって感じで妙でした。
さ・ら・に。
最大の疑問は、ゆずの弟です。
母子家庭、知的障害の姉が単身で子育て……という何重にも過酷なこの家庭環境で、なんと音大に通ってんですよ、音大。なぜよりによって音大。
あまりにも一人だけ浮世離れしすぎだろう。
「お金がないから特待生で通っている」というエクスキューズは一応あるんですが、そんな目先の学費だけの問題じゃなく、ピアノ科なんて入る学生は、幼少時より親子二人三脚で個人レッスンを浴びるように受けてきてる人ばかりで、お金も時間も、そしてなによりも親の熱意が必要なんですよ。
家にピアノがない人が特待生で入れるなんて話、きいたことないよ。
同じお金がかかるなら医大出たほうがまだ将来稼げるだけいい。ピアノ科なんて出ても仕事ねえべ。
しかも、この弟が「姉貴のせいで俺の人生が犠牲になるなんてまっぴらだ。俺は自分のやりたいことをやる」という屈折でももってるならまだ勝手なことを一人でやってるのもわかるんですが、やたらに姉思いの優しい青年なんですよ。
「姉貴に好きな人ができて俺もうれしいよ。産ませてあげようよ」…って言うことだけは理解ありげ。なのに自分はなんにもせずにピアノ弾いてんの(笑)。
ちょっとだけ「俺、もっとバイト増やそうか」と母親に言うシーンがあって却下されてましたが、本当に家族思いのキャラなら「姉貴が本気で子供産むなら俺はピアノやめて就職する。母ちゃんは仕事減らして子育ての手伝いをしてやってくれ」くらい言ってもいいと思う。結果的には却下されたとしてもね。
だってこの状況で子供産むってそのくらい大きな決断ですよ。
家族で応援するってそういうことでしょう。
みんな口だけじゃんかよ〜。
そしてそのツケはすべてゆずの子供へとまわっていくと思うと次回以降を見るのが今から不憫です。
初回の終わりで子供は一気に2歳になってしまいますが、2歳までの道のりってすごく大変だと思うけど……あっさりカットなのか……。
いろいろとひっかかるところが多い「だいすき!!」ですが、今後は余喜美子演じる保健師がキーパーソンになりそう。どんな過去があるのかだいたい予想はつくけどね。
私としては、同じ知的障害をもつ友だちをもう一人くらいフィーチャーさせたらもっと深くなったんじゃないかと思うんだけど。
その子は好きな人の子供は産めなかったとかね。私がそういう立場だったら、健常者との差異よりも同じ障害者との差異のほうがせつないし、気になると思うので。
以上、冬ドラチェック、ようやく完了しました。
お疲れ>自分
もう始まって4回も5回もたってて、「今更…」って感じですが、先日ようやく初回だけ見ることができたので一応残り5本にも軽く触れておきます。
「佐々木夫妻の仁義なき戦い」(TBS/日曜9時〜)
脚本の森下佳子は、「白夜行」で見事な脚色の手腕を見せた(原作には書かれていない犯人側の視点で物語を再構成した)人で、オリジナルでも「平成夫婦茶碗」というのんびりとした人情ドラマを書いたりしているので、今回はどんな切り口になるのかと楽しみにしていました。
たしかに初回はそこそこ楽しめましたが、2回目以降はどうも話の焦点がさだまらなくなっているような気がします。
このドラマについては「TVステーション」(2/27発売号)に書く予定なので、具体的なことはそちらで書きます。
「エジソンの母」(TBS/金曜10時〜)
すっごくおもしろいとは思いませんが(なんか話の進み方が一本道すぎて)、肩の力を抜いて見られるというか「安心して見られる」ドラマだと思います。
子供の「どうして?どうして?」攻撃は珍しくありませんが、どちらかというと、それ言うと大人が困るからおもしろがってわざと連発するというケースが多数です。
でもこの子供は純粋に「知識欲」が異常に強いんですね。
純粋なだけに答えられない大人は困る。
私は子供から質問されるの大嫌いだから教師にだけはなりたくない(いや、他にもなりたくないものはいっぱいあるけど)と思っているので、見てるだけで先生方には同情でいっぱいになります。
ほのぼのした中にもドラマの作りにそこはかとなく「きまじめさ」が漂うのはTBSだからかですかね。
「未来講師めぐる」(テレ朝/金曜11時15分〜)
いつもながらのクドカンワールドではありますが、いまひとつ上滑り感があってのりきれません。まあ私は「木更津キャッツアイ」にものれなかったシニアなので、これがいいという人もいるのかもしれませんが、同じクドカンなら他にも好きなものいっぱいあるしなあ。
深夜枠なんだからバカバカしい笑えるものでいいじゃんと言われればそうなんですが、中途半端にまともな人生訓のようなものが入るので、そのへんがどう見たらいいのやらむずがゆい。
ギャグはおもしろくても人物造形が雑なのがいやなのかも。一見メチャクチャでも「この人何がしたいの?」「なんでここで気持ちが変わるの?」という部分が一本通ってればのれるんですが、そのへんが曖昧で散漫だから気持ちが冷めちゃうのかもしれない。
スピード感がいくらあっても、方向がはっきりしないと同じところぐるぐる回ってるだけみたいになっちゃうし。
あと深夜だからしょうがないのかもしれませんが、他のクドカン作品に比べるとキャスティングがマイナーすぎじゃないでしょうか。
「鹿男あをによし」(フジ/木曜10時〜)
原作おもしろいらしいけど私は未読。
たしかにシチュエーションは独創的ですね。
玉木くんは鹿っぽい顔なので、それでキャスティングされたのかな(笑)。
ただ、ファンタジーながらバックグラウンドがけっこう複雑(歴史的背景などがからんでいて)なので、説明が多いのがちょっときびしいかな。
小説なら気にならないのかもしれないけど、TVでやられるとね。
あと、綾瀬はるかがやっている同僚の藤原は、原作では男らしいんですが、なぜ女に変えてしまったんでしょうか。まあ事務所の都合でしょうが。
でもなんかこの人は女じゃないほうがいいような気がするんですよね。
「ガリレオ」もそうだったけど、相棒を異性にするとどうしてもラブの雰囲気がからんでくるんで、邪魔な感じがしちゃうんですよ。
フツーに空気読めない“歴史オタク男”にしちゃえばよかったのに。
話の世界観の中で綾瀬はるかだけが浮いているように見えるのは私だけでしょうか。
「だいすき!!」(TBS/木曜10時〜)
これはね、まだ初回しか見てないんであくまでも初回だけの印象ですが、私としては不満がいっぱいですね。
知的障害者が子供を産む。
それはまあ産まなきゃドラマにならないし、そのへんの是非はとりあえずおいておくとして、このドラマのケースはちょっと周囲の対応がひどすぎる気がします。
ヒロインの柚子は自分の身の回りのことも母親の手を借りないときちんとできなくて、障害者自立支援のためのワークセンターと家を往復する毎日という設定なんですが、じつはセンターで仲良くしている男性(彼も軽い知的障害を持っている)がいて、彼が突然事故死したことをきっかけに「彼とつきあっていたこと」「彼の子供を妊娠していること」が家族に知れるんですよ。
自分一人で行動できる自由がこれだけ限定されているにもかかわらず、誰にも知られないまま、いつどういうタイミングでそういうことになったのか。母親もセンターの職員もまったくこのことに気づかなかったというのがまず信じられません。
だって5ヶ月目に入ってるんですよ。その間、体調の変化もいろいろあっただろうし、本人が気づかなくても、いつも娘のことを心配して過保護なほど世話を焼いているはずの母親が気づかないっていうのはありえないでしょう。
なによりも本人が妊娠したことを認識しているというのもちょっと意外でした。一人で病院に行ったとは思えないし、検査薬を買ったとも思えないし、性に関する知識がいったいどの程度あるのかわからないけど、周囲にうまく隠したりごまかしたりできるようにも思えないし、見ていて「母親が気づかずに本人がわかる」っていうのが不自然な気がしました。
当然、周囲は出産に大反対する……かと思いきや、わりとそうでもないんですね、これが。
一番反対したのは母親で、あとは「産ませてあげたい」と無責任な希望を言うのみ。
その母親にしても「私、お母さんみたいなお母さんになりたいの」というありがちな娘の一言であっさり翻意。
で、承諾したからには自分が責任をとるのかと思いきや、その家庭は母子家庭なので、自分は昼間働きに出ていて、娘と生まれた赤ん坊は家に置き去りですよ。
で、その保育状況を見にきた役所の保健師が「娘さんに突発的出来事の多い子育ては難しいと思います」と言ったら、母親は「そんなできないことばっかり言われても。今からたたんでおなかの中に戻すわけにはいかないじゃないですか」と逆ギレ発言。
これには「はあ〜?」って感じでした。あのー、そういうのを「開き直り」って言うんじゃないでしょうか。
おまけに「手のかかる時期だけでも施設に預けてはどうでしょう」と提案されたら、「ゆずは一生懸命頑張ってるんです。そんなのかわいそうじゃないですか」と反論。
「頑張ってる」「頑張ってる」って葵の御紋みたく言いますけどね、お母さんはみんな頑張ってますよ。人間ひとり作り上げるんだから当たり前でしょう。
そりゃあ産んだ本人は満足でしょうが、生まれた子供は常に危険にさらされてたまったもんじゃないですよ。
ゆずの子供への接し方は、ペットを与えられて大喜びした子供が「一人でできるもん」と駄々をこねているようにしか見えません。
障害者の自立が重要なのはわかります。
ゆず本人が何かをやりたいと強く希望し、努力しようとするのを妨げる権利はまわりにはありません。
でも子育ては人の一生がかかっているんだからゆずだけの問題じゃないんですよ。
ゆずへの同情論だけで判断するのは危険です。
私には保健師の言うことだけがまともに聞こえましたが、その保健師だけが悪役、とまではいかないけど損な役回りって感じで妙でした。
さ・ら・に。
最大の疑問は、ゆずの弟です。
母子家庭、知的障害の姉が単身で子育て……という何重にも過酷なこの家庭環境で、なんと音大に通ってんですよ、音大。なぜよりによって音大。
あまりにも一人だけ浮世離れしすぎだろう。
「お金がないから特待生で通っている」というエクスキューズは一応あるんですが、そんな目先の学費だけの問題じゃなく、ピアノ科なんて入る学生は、幼少時より親子二人三脚で個人レッスンを浴びるように受けてきてる人ばかりで、お金も時間も、そしてなによりも親の熱意が必要なんですよ。
家にピアノがない人が特待生で入れるなんて話、きいたことないよ。
同じお金がかかるなら医大出たほうがまだ将来稼げるだけいい。ピアノ科なんて出ても仕事ねえべ。
しかも、この弟が「姉貴のせいで俺の人生が犠牲になるなんてまっぴらだ。俺は自分のやりたいことをやる」という屈折でももってるならまだ勝手なことを一人でやってるのもわかるんですが、やたらに姉思いの優しい青年なんですよ。
「姉貴に好きな人ができて俺もうれしいよ。産ませてあげようよ」…って言うことだけは理解ありげ。なのに自分はなんにもせずにピアノ弾いてんの(笑)。
ちょっとだけ「俺、もっとバイト増やそうか」と母親に言うシーンがあって却下されてましたが、本当に家族思いのキャラなら「姉貴が本気で子供産むなら俺はピアノやめて就職する。母ちゃんは仕事減らして子育ての手伝いをしてやってくれ」くらい言ってもいいと思う。結果的には却下されたとしてもね。
だってこの状況で子供産むってそのくらい大きな決断ですよ。
家族で応援するってそういうことでしょう。
みんな口だけじゃんかよ〜。
そしてそのツケはすべてゆずの子供へとまわっていくと思うと次回以降を見るのが今から不憫です。
初回の終わりで子供は一気に2歳になってしまいますが、2歳までの道のりってすごく大変だと思うけど……あっさりカットなのか……。
いろいろとひっかかるところが多い「だいすき!!」ですが、今後は余喜美子演じる保健師がキーパーソンになりそう。どんな過去があるのかだいたい予想はつくけどね。
私としては、同じ知的障害をもつ友だちをもう一人くらいフィーチャーさせたらもっと深くなったんじゃないかと思うんだけど。
その子は好きな人の子供は産めなかったとかね。私がそういう立場だったら、健常者との差異よりも同じ障害者との差異のほうがせつないし、気になると思うので。
以上、冬ドラチェック、ようやく完了しました。
お疲れ>自分

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「蕨野行」で語られた姥捨ての意味
- 2008/01/23 (Wed)
- 映画 |
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- Edit |
- ▲Top
ドラマチェックがまだ終わってませんが、ここでちょっとべつの作品の話を書きたいと思います。
先ほどまで、東京では珍しい雪が降っていましたが、雪景色が印象的な映画をBS(NHK)で見ました。
恩地日出夫監督の「蕨野行(わらびのこう)」(2003年製作)。
芥川賞作家・村田喜代子作品の映画化です。
じつは原作をこれから読もうと思っているので、読んでから書こうかどうしようか迷ったのですが、こういうものは延ばすとどんどんきっかけを失っていくので、「あくまでも映画を見て思ったこと」ということにして、思い切って今書きます。
この作品を知ったのは、先日の一葉会公演がきっかけでした。
東風堂さんの「楽園」は、この作品(原作の小説のほう)にインスパイアされて書かれたものだという話をきいたのです。
なんでも東風堂さんはこの小説がものすごくお気に入りで、講座時代にもこの作品の脚色を手がけたのだとか。
東風堂さんによれば、この物語の内容は「姥捨て後日談」であるらしい。
たしかに、「姥捨て山」の話というと、「年寄りを山に捨てる」という部分がクライマックスになり、そのあと捨てられた年寄りがどうなったかという部分はあまり積極的には語られてこなかったような気がします。ていうか、あまりふれたくないというか、考えたくないというのが正直なところなのかもしれません。
考えてみれば、雪山に捨てるならともかく、あるいはもう動けなくなった年寄りならともかく、普通はただ山においてきただけでは人間そんなに簡単には死にません。
そう思うと、「捨てられたあとの年寄りたちがどう生きて、死んでいったのか」という部分を描くというのは、意外にありそうでなかった視点なのかもしれない、と興味をもちました。
興味をもったんならさっさと原作を読めばいいものを、なんだかんだできっかけを逸してそのまま月日がたってしまったのですが、ある日たまたま映画化された「蕨野行」がTVで放送されることを知り、録画して見ることにしました。
以下、簡単なストーリーです。
ときは江戸時代。
場所は東北の山あいにある架空の貧しい村。
気候の厳しいその村では、数年に一度、大凶作に見舞われることが避けられないため、口べらしの犠牲として、「赤ん坊」「臨月の女性」「老人」などがターゲットになってきた。
若くして庄屋に嫁いできたヌイは、姑のレンを母のように慕っていたが、春が近づくにつれて、レンとまわりの家族の様子がおかしくなる。何があるのかきいてもみんな口をつぐむばかり。
やがてその秘密があきらかになる。
60歳の年まで生き延びたジジとババは、春になると村を出て「蕨野」に行かなければならないというしきたりがあるのだという。
蕨野とは、山の中腹にある何もない原野で、村から半里ほど離れた場所にある。
蕨野で畑を作ることは許されない。
そこへ入ったジジババたちは、毎日里までおりていって農作業を手伝い、その日1日のみの食料を得て帰っていく。
そのとき、家族に会っても決して口をきいてはいけない。
彼らは名前を奪われ、「ワラビ」と呼ばれ、「生きてはいるがすでに死んだ者」として扱われる。
得られる食料は1日分だけなので、天候が悪くて農作業ができない日は飢えなければならない。足が萎えて山を下りることができなくなったワラビも同様だ。
残酷な風習にショックを受けるヌイだが、レンは「秋まで生き延びれば戻ってこられることになってるから」と告げて家を出ていく。
その言葉に希望をもつヌイだが、それはヌイを思いやっての嘘であり、ワラビは二度と里へは戻れないのが掟だった。
その年、蕨野入りしたジジババはレンを含めて8名。
村にいたときはさまざまな立場だった8人だが、蕨野に入れば娑婆のしがらみは消えてなくなる。
8人のワラビたちは、里から食料を調達し、火をおこし、水を汲み、細々と、しかし精一杯力と知恵をふりしぼって生きていく。
ワラビにとって運命の日は「仕事納め」と呼ばれる日だ。
年によって違うが、それは遅かれ早かれやってくる。
「仕事納め」→「もうワラビに手伝ってもらう仕事はないと言われる日」→すなわち里からの食料が断たれる日である。
その年は例年よりも早く、夏の終わりにそれはやってきた。
食を断たれたワラビたちは、不浄と言われていた山の獣や川の魚をとって食し、生きられる限り、生きようとする。
8人いたワラビの数も徐々に減っていき、ボケ始める者も出てくる。
そうして秋を生き抜いたワラビたちを待っていたのは何もかもを凍らせてしまう厳しい冬だった。
蓄えができないワラビにとって、冬の到来は100%の死を意味する。
最後に残ったレンを含む3人のワラビは、吹雪に埋まった小屋の中で静かに最後のときを待つ……。
ストーリー読んだだけだとめちゃくちゃ悲惨に感じると思いますが、見てもやっぱり悲惨です(笑)。
悲惨さや生々しさを強調しすぎないようなしかけもあるんですけど(「〜なり」「〜なるよ」という書き言葉のようなちょっと不自然な言葉遣いをすることで、おとぎ話っぽい抑制された雰囲気をかもしだしていることとか)、話のもつ意味が「重い」ので、直接的に悲惨なシーンが出てこなくても、かなり気が重くなります。
特に、「日々の糧を得るためにいちいち里までおりていく」「定期的に糧を得られる畑は所有できない」というワラビのシステムが、「これってまさにフリーで働いてる人間のシステムじゃないか」と身につまされすぎて正視できない部分があり…。
「里に下りられなくなったらおしまい」「仕事ないよと言われたら干されてしまう」「本体が危うくなったらまず最初に切られる」というあたり、まさにそのまんまです。
どの共同体もそうやって帳尻を合わせてるんですよね。
まあ、「フリーは好んで共同体からはぐれてんだろうが」と言われたらそれまでなのですが。
私がすごく気になったのは、「年寄りを捨てて、そのまま放置する」のではなく、しばらくの間はそうやって「最低限生き延びるための糧を与えている」という部分です。
今までの「姥捨て」のイメージだと、「母ちゃん、ごめん!」と叫んで山に捨ててダーッと戻ってくる。みたいな感じで、捨てたあとも中途半端に面倒をみる(しかも「情を切る」ような奇妙な決まり事の中で)というのがすごく不思議に感じたんです。
なぜそんなことをするんだろうか。
「そりゃあそのまま放置じゃかわいそうだから、面倒みられる限りはみてあげようという人道的な処置なんでしょう」と言われるかもしれませんが、どうやらそんな単純なことではないようなのです。
なぜそう思ったかというと、もう一人、べつの道を選んだ年寄り(シカ)が物語に登場するからです。
シカはレンの妹で、若い頃、凶作時に臨月になったことで「働かずの嫁」として家を出された。
シカはそのまま山の中に入って山姥となり、何十年も生きていく。
そのシカとレンが再会するシーンがあります。
シカは喜び、「蕨野にとどまれば冬には確実に死ぬ。自分は山を越えたところで生活しているが、そこまでいけば雪も少ないし、生きていける程度の糧も手に入れることができる。そこに来て一緒に暮らさないか」とレンを誘う。
しかし、レンは断り、あくまでも蕨野で生き続ける道を選ぶのです。
てことはですよ、村を追い出された人たちが全員死ぬわけじゃないってことです。
あくまでも村のシステムに組み込まれた形で生をまっとうしようと思うから冬までしか生きられないわけで、「畑作禁止? そんなこと知るか。もう村とは関係ないんだからどこでどう生きていこうがこっちの勝手だっつの」と開き直り、このシカ婆さんのようになれば、生き抜けないわけではないんです。
じゃあ、なぜレンはその道を選ばなかったんでしょうか。
ここで年寄りたちを蕨野に送った側の心理を考えてみます。
彼らを「年寄りを粗末にしてひどいことをするやつらだ」と非難するのは簡単です。
「姥捨て伝説」から「年寄りを大切にしましょう」という教訓を導き出すのもたやすいことです。
でも、誰だって好きこのんで自分の親を捨てるわけではありません。
年寄りたちは、自分たちを助けるために犠牲になってくれたわけですから、捨てたほうはおそらく毎日心の中で手を合わせる気持ちで罪悪感に耐えていたのではないでしょうか(少なくとも、「蕨野行」の世界ではそう思えました)。
でも、もし本当に追い出した年寄りを確実に生かそうと思うなら、「蕨野」は必要ないと思うのです。
全員、シカのようにどこか遠くの未知の土地にいって、また新しい共同体を自由に作ればいい。実際、シカはそうやって生き延びてきたわけだし、「他にも私みたいにして暮らしている人たちはいっぱいいる」と言っているのですから。
じゃあなぜそうやって年寄りたちを解放してやらないのか。
私は「蕨野」が里から意外に近いということがひとつのキーポイントのように思いました。
ヌイが「すぐそばにいるのに声をかけることもできないなんて」ともどかしそうにいう場面がありますが、村の人たちは「ワラビの存在を常に身近に感じること」をひとつの試練として自分たちに課しているのではないでしょうか。
もう二度と会えないような遠い場所に捨てたり、シカのように山の中に追いやったりすれば、その瞬間は心が痛むかもしれませんが、目の前から消えてしまうことで痛みは年月とともに風化してしまいます。
人間は都合の悪いこと、思い出すとつらくなることは「忘れられる」ようにできているからです。
シカとレンに違いがあるとすれば、シカは「忘れられたババ」で、レンは「忘れられないババ」ということです。
毎日、ワラビが里へおりてくるたびに村の人間は自分たちがしたことを思い出さなくてはならないし、その人数が減れば「ああ、あの人はもうダメなんだな」と知らされることになる。
要するに、山へ追いやられたシカは、その瞬間から「共同体」のメンバーではなくなるけれど、レンは最後まで「共同体」のメンバーとして存在しているということです。
レンがシカの誘いを断ったのは、最後まで共同体の一部でいたかった、今までの先祖がそうであったように、自分も村のしきたりの中で一生をまっとうしたかったということなんだと思います。
村の人々に自分たちの生と死を見せることは、次に蕨野へ行く年寄りへの道しるべにもなります。例外をつくればしきたりは崩れ、共同体のシステムは崩壊してしまいます。
それを表す強烈なエピソードは、最初にレンが蕨野に着いたとき、小屋の中で「水の入った桶」を発見するシーンです。
木の桶は、水を入れずに長い間放置しておくと、乾燥で隙間ができてしまい、水漏れを起こすようになってしまいます。
レンは「水の入った桶」を見たとたん、「前の年にここへ来たワラビが、次に来るワラビのために水を入れておいてくれたんだな」と悟ります。
心遣いといえば心遣いなんですが、新入りのワラビにとっては衝撃的な物件です。
蕨野入りする春はまだ気候もいいので、外ではジジババたちが「いやー、どんなにおそろしい“あの世”かと思ったら景色もいいし、なかなかいいところじゃないか」などとのんきに言っています。
これから自分たちが直面する過酷な現実からはなるべく目を背けたい。できれば楽観的に考えたい。ここに送られてきて死んだ人のことなど考えたくない。それは人情として当然です。
でもレンは小屋の中で「水の入った桶」をみつけてしまう。
それはまぎれもなくここに「人」が生きていたという痕跡です。
そんなものがなければ、もう少しの間、目の前のきれいな景色を楽しみ、笑うことができたかもしれないのに、桶は容赦なく現実をワラビたちにつきつけます。
「私たちを忘れないで」と。
「水の入った桶」は、ワラビたちに「自分たちの運命」を実感させ、里におりてくるワラビは村の人間に「自分たちもやがてはたどる道」を実感させる。
それに伴う痛みや恐怖や悲しみに耐えることが、彼らにとって「生きる」ということなのです。
そのために「蕨野」は必要なんですね。
その「痛み」がなければ、人はどこまでも利己的になり、自分のために誰かが犠牲になることも当たり前だと思ってしまうからです。
「蕨野」のシステムは「ゆるやかな死」を老人たちに与えます。
その「ゆるやか」という部分に、いろいろな意味あいや効果が含まれているんでしょうね。
考えてみれば、年金暮らしの老人が、保険料の負担増で「病気になっても病院にもかかれない」というシステムは、「蕨野」とどう違うんでしょう。
システムとしては同じでも、「蕨野」に送られた人の存在を無視する、いないことにする、忘れようとする点では現代はもっと残酷です。
見えない「蕨野」に突然送られたとき、はたして私たちは「ゆるやかな死」を受け入れることができるのでしょうか。
先ほどまで、東京では珍しい雪が降っていましたが、雪景色が印象的な映画をBS(NHK)で見ました。
恩地日出夫監督の「蕨野行(わらびのこう)」(2003年製作)。
芥川賞作家・村田喜代子作品の映画化です。
じつは原作をこれから読もうと思っているので、読んでから書こうかどうしようか迷ったのですが、こういうものは延ばすとどんどんきっかけを失っていくので、「あくまでも映画を見て思ったこと」ということにして、思い切って今書きます。
この作品を知ったのは、先日の一葉会公演がきっかけでした。
東風堂さんの「楽園」は、この作品(原作の小説のほう)にインスパイアされて書かれたものだという話をきいたのです。
なんでも東風堂さんはこの小説がものすごくお気に入りで、講座時代にもこの作品の脚色を手がけたのだとか。
東風堂さんによれば、この物語の内容は「姥捨て後日談」であるらしい。
たしかに、「姥捨て山」の話というと、「年寄りを山に捨てる」という部分がクライマックスになり、そのあと捨てられた年寄りがどうなったかという部分はあまり積極的には語られてこなかったような気がします。ていうか、あまりふれたくないというか、考えたくないというのが正直なところなのかもしれません。
考えてみれば、雪山に捨てるならともかく、あるいはもう動けなくなった年寄りならともかく、普通はただ山においてきただけでは人間そんなに簡単には死にません。
そう思うと、「捨てられたあとの年寄りたちがどう生きて、死んでいったのか」という部分を描くというのは、意外にありそうでなかった視点なのかもしれない、と興味をもちました。
興味をもったんならさっさと原作を読めばいいものを、なんだかんだできっかけを逸してそのまま月日がたってしまったのですが、ある日たまたま映画化された「蕨野行」がTVで放送されることを知り、録画して見ることにしました。
以下、簡単なストーリーです。
ときは江戸時代。
場所は東北の山あいにある架空の貧しい村。
気候の厳しいその村では、数年に一度、大凶作に見舞われることが避けられないため、口べらしの犠牲として、「赤ん坊」「臨月の女性」「老人」などがターゲットになってきた。
若くして庄屋に嫁いできたヌイは、姑のレンを母のように慕っていたが、春が近づくにつれて、レンとまわりの家族の様子がおかしくなる。何があるのかきいてもみんな口をつぐむばかり。
やがてその秘密があきらかになる。
60歳の年まで生き延びたジジとババは、春になると村を出て「蕨野」に行かなければならないというしきたりがあるのだという。
蕨野とは、山の中腹にある何もない原野で、村から半里ほど離れた場所にある。
蕨野で畑を作ることは許されない。
そこへ入ったジジババたちは、毎日里までおりていって農作業を手伝い、その日1日のみの食料を得て帰っていく。
そのとき、家族に会っても決して口をきいてはいけない。
彼らは名前を奪われ、「ワラビ」と呼ばれ、「生きてはいるがすでに死んだ者」として扱われる。
得られる食料は1日分だけなので、天候が悪くて農作業ができない日は飢えなければならない。足が萎えて山を下りることができなくなったワラビも同様だ。
残酷な風習にショックを受けるヌイだが、レンは「秋まで生き延びれば戻ってこられることになってるから」と告げて家を出ていく。
その言葉に希望をもつヌイだが、それはヌイを思いやっての嘘であり、ワラビは二度と里へは戻れないのが掟だった。
その年、蕨野入りしたジジババはレンを含めて8名。
村にいたときはさまざまな立場だった8人だが、蕨野に入れば娑婆のしがらみは消えてなくなる。
8人のワラビたちは、里から食料を調達し、火をおこし、水を汲み、細々と、しかし精一杯力と知恵をふりしぼって生きていく。
ワラビにとって運命の日は「仕事納め」と呼ばれる日だ。
年によって違うが、それは遅かれ早かれやってくる。
「仕事納め」→「もうワラビに手伝ってもらう仕事はないと言われる日」→すなわち里からの食料が断たれる日である。
その年は例年よりも早く、夏の終わりにそれはやってきた。
食を断たれたワラビたちは、不浄と言われていた山の獣や川の魚をとって食し、生きられる限り、生きようとする。
8人いたワラビの数も徐々に減っていき、ボケ始める者も出てくる。
そうして秋を生き抜いたワラビたちを待っていたのは何もかもを凍らせてしまう厳しい冬だった。
蓄えができないワラビにとって、冬の到来は100%の死を意味する。
最後に残ったレンを含む3人のワラビは、吹雪に埋まった小屋の中で静かに最後のときを待つ……。
ストーリー読んだだけだとめちゃくちゃ悲惨に感じると思いますが、見てもやっぱり悲惨です(笑)。
悲惨さや生々しさを強調しすぎないようなしかけもあるんですけど(「〜なり」「〜なるよ」という書き言葉のようなちょっと不自然な言葉遣いをすることで、おとぎ話っぽい抑制された雰囲気をかもしだしていることとか)、話のもつ意味が「重い」ので、直接的に悲惨なシーンが出てこなくても、かなり気が重くなります。
特に、「日々の糧を得るためにいちいち里までおりていく」「定期的に糧を得られる畑は所有できない」というワラビのシステムが、「これってまさにフリーで働いてる人間のシステムじゃないか」と身につまされすぎて正視できない部分があり…。
「里に下りられなくなったらおしまい」「仕事ないよと言われたら干されてしまう」「本体が危うくなったらまず最初に切られる」というあたり、まさにそのまんまです。
どの共同体もそうやって帳尻を合わせてるんですよね。
まあ、「フリーは好んで共同体からはぐれてんだろうが」と言われたらそれまでなのですが。
私がすごく気になったのは、「年寄りを捨てて、そのまま放置する」のではなく、しばらくの間はそうやって「最低限生き延びるための糧を与えている」という部分です。
今までの「姥捨て」のイメージだと、「母ちゃん、ごめん!」と叫んで山に捨ててダーッと戻ってくる。みたいな感じで、捨てたあとも中途半端に面倒をみる(しかも「情を切る」ような奇妙な決まり事の中で)というのがすごく不思議に感じたんです。
なぜそんなことをするんだろうか。
「そりゃあそのまま放置じゃかわいそうだから、面倒みられる限りはみてあげようという人道的な処置なんでしょう」と言われるかもしれませんが、どうやらそんな単純なことではないようなのです。
なぜそう思ったかというと、もう一人、べつの道を選んだ年寄り(シカ)が物語に登場するからです。
シカはレンの妹で、若い頃、凶作時に臨月になったことで「働かずの嫁」として家を出された。
シカはそのまま山の中に入って山姥となり、何十年も生きていく。
そのシカとレンが再会するシーンがあります。
シカは喜び、「蕨野にとどまれば冬には確実に死ぬ。自分は山を越えたところで生活しているが、そこまでいけば雪も少ないし、生きていける程度の糧も手に入れることができる。そこに来て一緒に暮らさないか」とレンを誘う。
しかし、レンは断り、あくまでも蕨野で生き続ける道を選ぶのです。
てことはですよ、村を追い出された人たちが全員死ぬわけじゃないってことです。
あくまでも村のシステムに組み込まれた形で生をまっとうしようと思うから冬までしか生きられないわけで、「畑作禁止? そんなこと知るか。もう村とは関係ないんだからどこでどう生きていこうがこっちの勝手だっつの」と開き直り、このシカ婆さんのようになれば、生き抜けないわけではないんです。
じゃあ、なぜレンはその道を選ばなかったんでしょうか。
ここで年寄りたちを蕨野に送った側の心理を考えてみます。
彼らを「年寄りを粗末にしてひどいことをするやつらだ」と非難するのは簡単です。
「姥捨て伝説」から「年寄りを大切にしましょう」という教訓を導き出すのもたやすいことです。
でも、誰だって好きこのんで自分の親を捨てるわけではありません。
年寄りたちは、自分たちを助けるために犠牲になってくれたわけですから、捨てたほうはおそらく毎日心の中で手を合わせる気持ちで罪悪感に耐えていたのではないでしょうか(少なくとも、「蕨野行」の世界ではそう思えました)。
でも、もし本当に追い出した年寄りを確実に生かそうと思うなら、「蕨野」は必要ないと思うのです。
全員、シカのようにどこか遠くの未知の土地にいって、また新しい共同体を自由に作ればいい。実際、シカはそうやって生き延びてきたわけだし、「他にも私みたいにして暮らしている人たちはいっぱいいる」と言っているのですから。
じゃあなぜそうやって年寄りたちを解放してやらないのか。
私は「蕨野」が里から意外に近いということがひとつのキーポイントのように思いました。
ヌイが「すぐそばにいるのに声をかけることもできないなんて」ともどかしそうにいう場面がありますが、村の人たちは「ワラビの存在を常に身近に感じること」をひとつの試練として自分たちに課しているのではないでしょうか。
もう二度と会えないような遠い場所に捨てたり、シカのように山の中に追いやったりすれば、その瞬間は心が痛むかもしれませんが、目の前から消えてしまうことで痛みは年月とともに風化してしまいます。
人間は都合の悪いこと、思い出すとつらくなることは「忘れられる」ようにできているからです。
シカとレンに違いがあるとすれば、シカは「忘れられたババ」で、レンは「忘れられないババ」ということです。
毎日、ワラビが里へおりてくるたびに村の人間は自分たちがしたことを思い出さなくてはならないし、その人数が減れば「ああ、あの人はもうダメなんだな」と知らされることになる。
要するに、山へ追いやられたシカは、その瞬間から「共同体」のメンバーではなくなるけれど、レンは最後まで「共同体」のメンバーとして存在しているということです。
レンがシカの誘いを断ったのは、最後まで共同体の一部でいたかった、今までの先祖がそうであったように、自分も村のしきたりの中で一生をまっとうしたかったということなんだと思います。
村の人々に自分たちの生と死を見せることは、次に蕨野へ行く年寄りへの道しるべにもなります。例外をつくればしきたりは崩れ、共同体のシステムは崩壊してしまいます。
それを表す強烈なエピソードは、最初にレンが蕨野に着いたとき、小屋の中で「水の入った桶」を発見するシーンです。
木の桶は、水を入れずに長い間放置しておくと、乾燥で隙間ができてしまい、水漏れを起こすようになってしまいます。
レンは「水の入った桶」を見たとたん、「前の年にここへ来たワラビが、次に来るワラビのために水を入れておいてくれたんだな」と悟ります。
心遣いといえば心遣いなんですが、新入りのワラビにとっては衝撃的な物件です。
蕨野入りする春はまだ気候もいいので、外ではジジババたちが「いやー、どんなにおそろしい“あの世”かと思ったら景色もいいし、なかなかいいところじゃないか」などとのんきに言っています。
これから自分たちが直面する過酷な現実からはなるべく目を背けたい。できれば楽観的に考えたい。ここに送られてきて死んだ人のことなど考えたくない。それは人情として当然です。
でもレンは小屋の中で「水の入った桶」をみつけてしまう。
それはまぎれもなくここに「人」が生きていたという痕跡です。
そんなものがなければ、もう少しの間、目の前のきれいな景色を楽しみ、笑うことができたかもしれないのに、桶は容赦なく現実をワラビたちにつきつけます。
「私たちを忘れないで」と。
「水の入った桶」は、ワラビたちに「自分たちの運命」を実感させ、里におりてくるワラビは村の人間に「自分たちもやがてはたどる道」を実感させる。
それに伴う痛みや恐怖や悲しみに耐えることが、彼らにとって「生きる」ということなのです。
そのために「蕨野」は必要なんですね。
その「痛み」がなければ、人はどこまでも利己的になり、自分のために誰かが犠牲になることも当たり前だと思ってしまうからです。
「蕨野」のシステムは「ゆるやかな死」を老人たちに与えます。
その「ゆるやか」という部分に、いろいろな意味あいや効果が含まれているんでしょうね。
考えてみれば、年金暮らしの老人が、保険料の負担増で「病気になっても病院にもかかれない」というシステムは、「蕨野」とどう違うんでしょう。
システムとしては同じでも、「蕨野」に送られた人の存在を無視する、いないことにする、忘れようとする点では現代はもっと残酷です。
見えない「蕨野」に突然送られたとき、はたして私たちは「ゆるやかな死」を受け入れることができるのでしょうか。
冬ドラチェック(1)
- 2008/01/20 (Sun)
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冬の連ドラが一斉スタートする季節ですね。
秋は公演準備その他でほとんど脱落してしまったので、今期は気持ちを新たにして臨みたいと思っております。
まだ全部見切れていないのですが、とりあえず今のところチェックした7本だけコメントしておきます。
「篤姫」(NHK/日曜8時〜)
下の投稿にも書いたんですけど、やっぱりどうにもこうにもなじめないです。
巷では「薩摩弁がまったくないのはおかしい」とか「いや、上級藩士は標準語をしゃべるようになっていたらしい」とかいろいろ言われてますが、私が気になるのはそんなことじゃないんですよ。
方言があるかないか以前の問題として、「時代劇」の言葉にきこえないのがひっかかります。
動きもセリフも口調も表情もすべて「現代人そのまま」なので、「幕末のドラマ」を見ている気にまったくなれないんです。
方言ということで言えば、前回の「風林火山」でも百姓役以外は誰も方言なんてしゃべってなかったけど、強烈に「時代劇」を見ている気分になれました。
現代人の視点を入れるのはけっこうだし、とっつきやすくするために現代風にするのもかまいませんが、当時には当時の価値観というものがあるわけで、それを現代人の感覚で「合わない部分は修正する」っていうのはどうなんでしょう。
今と違う価値観の縛りがあるからこそ時代劇はおもしろいんじゃないですか?
たとえば、当時の薩摩だったら男尊女卑がかなり強い風土だったと思うんですが、そういう気配が微塵も見えないばかりか、於一(篤姫の少女時代)があまりにも我が物顔で、周囲の男たちはあまりにも軟弱で……という図式なのは、現代人には自然でも時代劇としては不自然です。於一が暴れん坊だったという描写をしたいのはわかりますが、それにしてもその時代の「枠組み」のラインというものがあるでしょう。
一番驚いたのは、お家の敵となる調所さまが自害したとき、形見の偽金を埋めながら「私、このお方が好きでした」と言うシーン。
瑛太が「めったなことを口にされるでない」ととがめると、いきなりキレて「なぜですか?! 私の心は私だけのもの。誰にも指図は受けません!」と於一が言い放つんですよ。
「おまえはエリザベートか?!」
おそらくこの瞬間、全国の「エリザベート」ファンが一斉に同じリアクションをしたはず(今回、山口祐一郎が出てるんで、エリザファンの視聴確率は高いとみた)。
いくら現代風でもこれはないと思います。
そのうちに瑛太が「篤姫〜。開けてくれ。きみが恋しい」とかドア越しに歌っちゃうかもね…とエリザファンと予測トーク中(笑)。
「薔薇のない花屋」(フジ/月曜9時〜)
久々の野島ドラマ。
オリジナルが書ける作家が少ない今、楽しみな1本です。
省略のきかせ方など、今までの野島さんからさらに進化を感じさせる緊張感があって、まずは期待通りの滑り出し。
演出の見せ方も明確でいいなーと思ってたら中江功で納得。ショットの積み重ねが独特で、詩情をかもしだすのもうまい人ですよね。
ただ……うーん、野島ドラマは適度な違和感がお約束なので多少のことには目を瞑りたいのですが、盲目のふりをするっていうのはいくらなんでも無理がある気が……。
それにあの「頭巾」もさすがに……いじめられないほうが不思議。
友人は「子供がかぶってもピチピチだった頭巾を、香取がかぶれるのは絶対変」と主張してましたが。
きっとものすごーく伸縮性のある頭巾だったんですね。
「ハチミツとクローバー」(フジ/火曜9時〜)
原作知らないんで、人気のツボもよくわからないんですが。
とりあえずよくある普遍的な青春群像劇ですね。
特にすごくおもしろいとも思わないけど、「つまんね。却下」というほどでもないので、一応見続けてます。
強いて言えばただの大学生じゃなくて、美大というところがミソかな。
「のだめ」も「動物のお医者さん」もそうだけど、専門性があるだけでエピソードはふくらみやすいですよね。
あと年寄りくさいコメントで申し訳ないんですが、生田斗真と成宮寛貴の顔の感じが似ていてまぎらわしいです。
「あしたの、喜多善男」(フジ/火曜10時〜)
これ、おもしろいです!
今までチェックした中では一番要注目かも。
小日向さんは、一般的には「脇の人」のイメージでしょうから、彼が主役というだけでもしかしたら注目度は低くなるのかもしれません。だとしたらもったいない。
基本的な話としては、「11日後に死のうと思い、すべてを売り払って放浪している中年男」がいて、いろいろな理由で彼に近づいてくる人たちがいて……というシンプルな設定なんですが、謎のちりばめ方が繊細で、緊張感があります。
あまりTVには出てこない松田龍平も見もの。決してうまいわけじゃないんだけど、雰囲気はさすがに優作ジュニアの風格があります。
小日向さんと松田龍平の組み合わせなんてよく考えたなー。
あと、私はよく知らなかったんですが、落ち目のアイドル役で吉高由里子っていう人が出ていて、なんかこの人から目が離せません。どこまでが演技なのかわからない微妙な個性がたまりません。リトル桃井かおりって感じ。ブレイクの匂いがします。
「貧乏男子」(日本TV/火曜10時〜)
初回はそこそこ楽しめました。
簡単に借金してしまう若い男の子の姿も世相を反映してましたし。
でもこれは……いくらなんでもおバカすぎるでしょう。
なんかもうちょっと、「こういうキャラが形作られるきっかけとなった幼少期の出来事」とか、そういうのから始まってくれたら納得できたと思うんですが。
小さい頃に「おまえはほんとに後先考えない子だね。でも友だち思いなのはいいことだよ」とすごくほめてくれた人がいて、それが支えになってるとかね。
極端になったのはこういう出来事があったから……というエクスキューズがあるとよかったかも。
「斉藤さん」(日本TV/水曜10時〜)
この枠って、「ハケンの品格」とか「anego」とか「働きマン」とか、戦う女性キャラが好きですね。
うーん。テーマはおもしろいとこ突いてると思うんですよ。
戦う女がヒロインじゃなくて、戦う勇気がない女がヒロインで、彼女の目を通して戦う女=斉藤さんの姿が描かれていくっていうのが。
でも、斉藤さん、かなりビミョーなんですけど。
「子供に恥ずかしいことはしない」「間違ってることは間違ってると堂々と言う」というのはたしかに立派なポリシーですが、今のところやり方があまりにも無謀というか、一本調子というか、子供っぽいというか、「ちょっと、あんた。待ちなさいよ(謝りなさいよ)!」と正面からキャンキャン吠えまくるだけで、小学校の学級委員レベル。「そんなやり方、通るわけない」っていうのの連続で、「かっこいい」というよりは「痛い」です。
「ショムニ」の江角マキコや「ハケンの品格」の篠原涼子のように、一般人がたちうちできないようなスーパーキャラなら視聴者も爽快感があるんでしょうが、今のところ斉藤さんは何を言っても「なんだよ、ババア」「うるせーんだよ」「チョーうざいんですけど」「ちょっと斉藤さん、いい加減にして。あなたのせいでみんな迷惑してるのよ」とか、ことごとく悪いリアクションしか返ってこないんですよ。爽快感どころか、中途半端に現実的すぎる無力感がただよっていていたたまれない気分になってきます。
斉藤さんに「ヒーロー気取りは気持ちいい?」と諭すママ仲間のボス・高島礼子のほうがよっぽど説得力があって感情移入しちゃいますよ。
たしかに、子供の保護者でいる以上、子供を危険から守らなきゃいけない使命はあるんだけど、じゃああたりかまわず居丈高に注意しまくることがいいことなのかどうか。
自分は「ママ友だちなんていらない」で済むかもしれないけど、子供の友達関係まで影響するでしょ、こんなことやってると。注意することで逆うらみされてもっとひどい危険(自分の手には負えないような)がふりかかってくることだってありますよ。そのへん、考えずに行動している斉藤さんは、一人よがりの身勝手な人にしか見えません。
ポリシーはいいとしても、もうちょっと大人の対応というか「斉藤さん、次はどんなことやってくれるのかしら」と楽しみになるくらいのことはやってほしい。今のところ、次に何やるのか100%読めることしかやってないんで。
「交渉人」(テレ朝/木曜9時〜)
初回、この枠としては異例な高視聴率だったそうで、ちょっと意外でした。
米倉はフツーの女の役だと注目されないけど、こういう非日常的キャラだと強いですね。
初回しかチェックしてないんですけど、なんか「沙粧妙子」を思い出す雰囲気。
あっちのほうがもっと病気っぽいけど(米倉は骨の髄まで健康そう)。
なんか「セクハラパワハラ当たり前」っていう超男社会のギスギスした描写が見ててあんまり気分よくなくて、出てくる人が(ヒロインも含めて)全員感じ悪いのがつらかった。
そういう場所で戦うヒロインのドラマだってことはわかるんだけど、情の部分がほとんど見えないので、正直ヒロインもなぜここまで頑張るのかがわかりません。
あと陣内孝則があまり適役とは思えないのですが…。
「1ポンドの福音」(日本TV/土曜9時〜)
初回見て最初に「もう見ない」と決めたドラマです。
なによりもイラついたのがシスター・アンジェラです。
ボクシングをやめようかどうしようか悩んでるボクサーに「やめれば?」と考えなしに言ったかと思うと、ジムのオーナーに同情して「絶対に(試合に出て)勝ってください」と前言撤回。かと思ったら、今度は対戦相手の子供に同情して「やっぱりあの子のために負けてあげてください」……ってナメとんのか、おら。

言ってることメチャクチャだよ。
メチャクチャなのは世間知らずだからにしても、そのメチャクチャさをたしなめる役割の人が誰もいないのがイライラしました。
以上7本の簡単な印象でした。
残り5本はまた次回。
皆さんのお薦めも教えてくださいね。
秋は公演準備その他でほとんど脱落してしまったので、今期は気持ちを新たにして臨みたいと思っております。
まだ全部見切れていないのですが、とりあえず今のところチェックした7本だけコメントしておきます。
「篤姫」(NHK/日曜8時〜)
下の投稿にも書いたんですけど、やっぱりどうにもこうにもなじめないです。
巷では「薩摩弁がまったくないのはおかしい」とか「いや、上級藩士は標準語をしゃべるようになっていたらしい」とかいろいろ言われてますが、私が気になるのはそんなことじゃないんですよ。
方言があるかないか以前の問題として、「時代劇」の言葉にきこえないのがひっかかります。
動きもセリフも口調も表情もすべて「現代人そのまま」なので、「幕末のドラマ」を見ている気にまったくなれないんです。
方言ということで言えば、前回の「風林火山」でも百姓役以外は誰も方言なんてしゃべってなかったけど、強烈に「時代劇」を見ている気分になれました。
現代人の視点を入れるのはけっこうだし、とっつきやすくするために現代風にするのもかまいませんが、当時には当時の価値観というものがあるわけで、それを現代人の感覚で「合わない部分は修正する」っていうのはどうなんでしょう。
今と違う価値観の縛りがあるからこそ時代劇はおもしろいんじゃないですか?
たとえば、当時の薩摩だったら男尊女卑がかなり強い風土だったと思うんですが、そういう気配が微塵も見えないばかりか、於一(篤姫の少女時代)があまりにも我が物顔で、周囲の男たちはあまりにも軟弱で……という図式なのは、現代人には自然でも時代劇としては不自然です。於一が暴れん坊だったという描写をしたいのはわかりますが、それにしてもその時代の「枠組み」のラインというものがあるでしょう。
一番驚いたのは、お家の敵となる調所さまが自害したとき、形見の偽金を埋めながら「私、このお方が好きでした」と言うシーン。
瑛太が「めったなことを口にされるでない」ととがめると、いきなりキレて「なぜですか?! 私の心は私だけのもの。誰にも指図は受けません!」と於一が言い放つんですよ。
「おまえはエリザベートか?!」
おそらくこの瞬間、全国の「エリザベート」ファンが一斉に同じリアクションをしたはず(今回、山口祐一郎が出てるんで、エリザファンの視聴確率は高いとみた)。
いくら現代風でもこれはないと思います。
そのうちに瑛太が「篤姫〜。開けてくれ。きみが恋しい」とかドア越しに歌っちゃうかもね…とエリザファンと予測トーク中(笑)。
「薔薇のない花屋」(フジ/月曜9時〜)
久々の野島ドラマ。
オリジナルが書ける作家が少ない今、楽しみな1本です。
省略のきかせ方など、今までの野島さんからさらに進化を感じさせる緊張感があって、まずは期待通りの滑り出し。
演出の見せ方も明確でいいなーと思ってたら中江功で納得。ショットの積み重ねが独特で、詩情をかもしだすのもうまい人ですよね。
ただ……うーん、野島ドラマは適度な違和感がお約束なので多少のことには目を瞑りたいのですが、盲目のふりをするっていうのはいくらなんでも無理がある気が……。
それにあの「頭巾」もさすがに……いじめられないほうが不思議。
友人は「子供がかぶってもピチピチだった頭巾を、香取がかぶれるのは絶対変」と主張してましたが。
きっとものすごーく伸縮性のある頭巾だったんですね。
「ハチミツとクローバー」(フジ/火曜9時〜)
原作知らないんで、人気のツボもよくわからないんですが。
とりあえずよくある普遍的な青春群像劇ですね。
特にすごくおもしろいとも思わないけど、「つまんね。却下」というほどでもないので、一応見続けてます。
強いて言えばただの大学生じゃなくて、美大というところがミソかな。
「のだめ」も「動物のお医者さん」もそうだけど、専門性があるだけでエピソードはふくらみやすいですよね。
あと年寄りくさいコメントで申し訳ないんですが、生田斗真と成宮寛貴の顔の感じが似ていてまぎらわしいです。
「あしたの、喜多善男」(フジ/火曜10時〜)
これ、おもしろいです!
今までチェックした中では一番要注目かも。
小日向さんは、一般的には「脇の人」のイメージでしょうから、彼が主役というだけでもしかしたら注目度は低くなるのかもしれません。だとしたらもったいない。
基本的な話としては、「11日後に死のうと思い、すべてを売り払って放浪している中年男」がいて、いろいろな理由で彼に近づいてくる人たちがいて……というシンプルな設定なんですが、謎のちりばめ方が繊細で、緊張感があります。
あまりTVには出てこない松田龍平も見もの。決してうまいわけじゃないんだけど、雰囲気はさすがに優作ジュニアの風格があります。
小日向さんと松田龍平の組み合わせなんてよく考えたなー。
あと、私はよく知らなかったんですが、落ち目のアイドル役で吉高由里子っていう人が出ていて、なんかこの人から目が離せません。どこまでが演技なのかわからない微妙な個性がたまりません。リトル桃井かおりって感じ。ブレイクの匂いがします。
「貧乏男子」(日本TV/火曜10時〜)
初回はそこそこ楽しめました。
簡単に借金してしまう若い男の子の姿も世相を反映してましたし。
でもこれは……いくらなんでもおバカすぎるでしょう。
なんかもうちょっと、「こういうキャラが形作られるきっかけとなった幼少期の出来事」とか、そういうのから始まってくれたら納得できたと思うんですが。
小さい頃に「おまえはほんとに後先考えない子だね。でも友だち思いなのはいいことだよ」とすごくほめてくれた人がいて、それが支えになってるとかね。
極端になったのはこういう出来事があったから……というエクスキューズがあるとよかったかも。
「斉藤さん」(日本TV/水曜10時〜)
この枠って、「ハケンの品格」とか「anego」とか「働きマン」とか、戦う女性キャラが好きですね。
うーん。テーマはおもしろいとこ突いてると思うんですよ。
戦う女がヒロインじゃなくて、戦う勇気がない女がヒロインで、彼女の目を通して戦う女=斉藤さんの姿が描かれていくっていうのが。
でも、斉藤さん、かなりビミョーなんですけど。
「子供に恥ずかしいことはしない」「間違ってることは間違ってると堂々と言う」というのはたしかに立派なポリシーですが、今のところやり方があまりにも無謀というか、一本調子というか、子供っぽいというか、「ちょっと、あんた。待ちなさいよ(謝りなさいよ)!」と正面からキャンキャン吠えまくるだけで、小学校の学級委員レベル。「そんなやり方、通るわけない」っていうのの連続で、「かっこいい」というよりは「痛い」です。
「ショムニ」の江角マキコや「ハケンの品格」の篠原涼子のように、一般人がたちうちできないようなスーパーキャラなら視聴者も爽快感があるんでしょうが、今のところ斉藤さんは何を言っても「なんだよ、ババア」「うるせーんだよ」「チョーうざいんですけど」「ちょっと斉藤さん、いい加減にして。あなたのせいでみんな迷惑してるのよ」とか、ことごとく悪いリアクションしか返ってこないんですよ。爽快感どころか、中途半端に現実的すぎる無力感がただよっていていたたまれない気分になってきます。
斉藤さんに「ヒーロー気取りは気持ちいい?」と諭すママ仲間のボス・高島礼子のほうがよっぽど説得力があって感情移入しちゃいますよ。
たしかに、子供の保護者でいる以上、子供を危険から守らなきゃいけない使命はあるんだけど、じゃああたりかまわず居丈高に注意しまくることがいいことなのかどうか。
自分は「ママ友だちなんていらない」で済むかもしれないけど、子供の友達関係まで影響するでしょ、こんなことやってると。注意することで逆うらみされてもっとひどい危険(自分の手には負えないような)がふりかかってくることだってありますよ。そのへん、考えずに行動している斉藤さんは、一人よがりの身勝手な人にしか見えません。
ポリシーはいいとしても、もうちょっと大人の対応というか「斉藤さん、次はどんなことやってくれるのかしら」と楽しみになるくらいのことはやってほしい。今のところ、次に何やるのか100%読めることしかやってないんで。
「交渉人」(テレ朝/木曜9時〜)
初回、この枠としては異例な高視聴率だったそうで、ちょっと意外でした。
米倉はフツーの女の役だと注目されないけど、こういう非日常的キャラだと強いですね。
初回しかチェックしてないんですけど、なんか「沙粧妙子」を思い出す雰囲気。
あっちのほうがもっと病気っぽいけど(米倉は骨の髄まで健康そう)。
なんか「セクハラパワハラ当たり前」っていう超男社会のギスギスした描写が見ててあんまり気分よくなくて、出てくる人が(ヒロインも含めて)全員感じ悪いのがつらかった。
そういう場所で戦うヒロインのドラマだってことはわかるんだけど、情の部分がほとんど見えないので、正直ヒロインもなぜここまで頑張るのかがわかりません。
あと陣内孝則があまり適役とは思えないのですが…。
「1ポンドの福音」(日本TV/土曜9時〜)
初回見て最初に「もう見ない」と決めたドラマです。
なによりもイラついたのがシスター・アンジェラです。
ボクシングをやめようかどうしようか悩んでるボクサーに「やめれば?」と考えなしに言ったかと思うと、ジムのオーナーに同情して「絶対に(試合に出て)勝ってください」と前言撤回。かと思ったら、今度は対戦相手の子供に同情して「やっぱりあの子のために負けてあげてください」……ってナメとんのか、おら。


言ってることメチャクチャだよ。
メチャクチャなのは世間知らずだからにしても、そのメチャクチャさをたしなめる役割の人が誰もいないのがイライラしました。
以上7本の簡単な印象でした。
残り5本はまた次回。
皆さんのお薦めも教えてくださいね。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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