古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
「赤い疑惑」リメイクを見て
百恵&友和主演ドラマの金字塔と言われる大映ドラマ「赤い疑惑」(以下、「赤い運命」「赤い絆」「赤い衝撃」など数々の“赤シリーズ”と呼ばれるドラマが生まれました。ちなみに「赤」とは「血のつながり」を意味し、親兄弟が錯綜する展開がひとつの定番でした)が30年ぶりにリメイクされたのを見ました。
本来は連ドラでしたが、今回は2時間×3週で放送されました。
山口百恵演じる大島幸子は石原さとみ。
三浦友和演じる相良光夫は藤原竜也。
宇津井健演じる幸子のお父さん(じつは伯父)は陣内孝則。
八千草薫(後半からは渡辺美佐子)演じるお母さん(じつは他人)は田中好子。
松村達雄演じるおじいちゃんは北村総一郎。
岸恵子演じるパリの叔母さま(じつは生みの母)は高橋惠子。
長門裕之演じる相良教授(じつは父親)は内藤剛志。
たしかに石原さとみ、山口百恵に似てますね。
特にポスターの写真はメイクや表情も似せて撮っているためか、びっくりするほど似ている。
もともと古くさい(昭和チックな)顔だちなので、そういう意味でははまっているかも(上戸彩も百恵に似ているとよく言われるそうですが、こっちはもう少し年とってあか抜けた頃の顔に似てるかな。共通点はボッテリした厚い唇!)。
ただ………どうなんでしょう、演技のほうは。
山口百恵は本職歌手だから、べつにものすごい演技力とかいらないと思うんですよ。存在自体がすでにスーパースターだったし。
でも石原さとみは一応女優なわけだし……うーん、けっこう見ていてつらいものがあったんですけど。あのかすれ声も、ハスキーというよりは変声期?って感じだし。
それよりなにより愕然としたのは「歌」です。
しつこいようだけど、山口百恵は歌手なのでいいんですよ。サービスショットとしてギターに合わせて歌うシーンがあるのは。
でも石原さとみは…………正直、凍りました。
「義経」の静御前が舞っているところでも「こ…この音程は……」とギョッとしましたが、こちらはまあ歌といっても邦楽ですし、一般人が歌うような曲じゃないのでまだ「もともとこういう歌なのかな」と納得できなくもありませんでした(←無理のある解釈)。
だけど今回はねー、こちとら百恵が同じ歌うたってんのを聞いてんだよ。
それなのに……それなのに……。
♪わす〜れな〜ぐさを〜、あなたに〜、あなたに〜
って、
お願い〜〜〜、やめてぇ〜〜〜!!!
音程が気になって全然悲しい気分になんてなれねーよ。
ていうか、変なところでブレス入れないでくれ。気持ち悪いから。
べつにすごくうまく歌えなくてもいいんですよ。歌手じゃないから(←しつこい)。
でもこれはちょっと……痛い。痛すぎる。
正直、白血病という設定よりも歌のほうが痛々しかったです、私は。
本人もつらかったと思いますよ。私が石原さとみの家族ならいたたまれずに音声消して見てたと思います。
どうして歌を入れなきゃいけなかったんでしょう。幸子が歌う必然性ってドラマの中にほとんどないし。
山口百恵だったから入れたんでしょ。それならカットしてあげればいいのに。
歌にこだわりすぎたので先に進みます。
オリジナル版の演技にクリソツだったのは、陣内孝則と北村総一郎。
これはかなりもとの演技に洗脳されてるなー。
言い回しとか、泣きの入れ方とかチョー似てるんだもん。
でもまあ、当時の大映ドラマの雰囲気をまるごと伝えるという意味では、演技もオリジナルをコピーしたほうが間違いないし、そのミョーな演技がかえってドラマの世界観にハマッていたんじゃないでしょうか。
むしろ「あえてオリジナル版は見なかった」という藤原竜也や、中途半端に普通の演技をしていた内藤剛志は浮いていましたね。
というか、リアルに演技すればするほど脚本の納得できないところが目立って恥ずかしくなってくるんですわ。
陣内、目ェむきすぎだよ!(笑)と思いつつも、あの劇伴(30年たっても憶えている自分がいやだった)に負けないためにはこのくらいの顔筋力と暑苦しさが必要だよなーと納得しました。
ま、役者の話はこんなところで。
話したかったのは内容のほうです。
最初、リメイクと聞いててっきり現代に置き換えるのかと思ったら、昭和52年の設定のままなんですね。
たしかに「今どき、白血病なんて不治の病じゃない」という事実をはじめとして、現代に置き換えると無理のある設定はいっぱい出てくるので、「いっそこのままの時代でいこう」ということになったのかもしれませんが、それって今もう一度リメイクする必要があるんでしょうか。
この当時の大映ドラマの雰囲気を「なつかし〜」と言いながら楽しみたいのなら昔のドラマを再放送すればいいんじゃないの?
その当時は「その時代に生きる人」としての視点でああいうドラマを作ったからドラマに新鮮さやパワーがあったのであって、現代のキャスト&スタッフが同じものをなぞって作ってもそこには「懐古趣味」しか生じないんじゃないでしょうか。
たとえば、韓国ドラマが大映ドラマに似ているというのはよく指摘されることですよね。個人的には「記憶喪失」とか「じつは兄妹」とかいうアイテムの使い方が似ているだけで皆が言うほど似てるとは思わないんですけど(あんな感情的なナレーションないし)、まあ百歩譲って「冬ソナ」などの韓国ドラマが大映ドラマを研究して作られたものだとしても、あれは現代に通用するドラマとしてきちんと作り直されてるじゃないですか。彷彿とさせるテイストがあっても、最終的には現代のドラマになってるんですよね。だからあれほどヒットしたんだと思うのです。好き嫌いはともかくとして。
現代でリメイクする意味ってそういうことじゃないの?
題材がいくら古き良き時代を描いたものでも、どこかに現代に生きる人たちの心を揺さぶるような「今の視点」がないとわざわざ作り直す意味ってないと思うんですけど。
皆さん、「大映ドラマは突っ込んでみるからあれでいいんだよ」とおっしゃいますが、過去のドラマを「このころの大映ドラマってこうなんだよねー」と突っ込みながら見るのと、今のドラマを「大映ってこうなんだよねー」と突っ込んで見るのとでは意味が全然違います。
今のドラマは、今のドラマとして見ますよ。
オリジナルの「赤シリーズ」を知らない人にとってはそんなこと関係ないもん。
……と考えて、冷静に今回のドラマを見てみると、やっぱり「これはないだろう」という部分がどう贔屓目にみても多すぎるとあらためて思いました。
まず、「不治の病で余命わずか」「好きな人が異母兄妹」というのが「赤い疑惑」を貫く2大障害なわけですが、この障害の使い方があまりにも雑。
普通、こういう衝撃の事実を知ったときに人間はこういうリアクションをするだろうという部分がどれもこれも類型すぎてリアリティがないんです。
ひらたく言うと、障害の設定が大きいわりには、それによって起こるドラマが凡庸。
ちょっと考えればもっともっと細かいドラマがたくさんひきおこされると思うんだけど、一番単純な反応しか描かれないんですよね。
だから障害が大袈裟なわりには、それほど悲壮感が伝わってこないんだと思います。
障害には秘密がつきもので、秘密をうまく使うことによってドラマのサスペンスは何倍にもふくらみます。
でも、見てると皆、秘密簡単にもらしすぎ!
「言いたいけど言えない」という気持ちをずっとひっぱって苦しむとか、「本心を心に秘めてわざと逆のことを言う」とか、「好きだから意地悪を言ってしまう」とか、人間なら誰でもそのくらいのひねりはあるだろうに、「本当のことを言えと言われるとすぐに本当のことを言ってしまう」し、「本心そのまましゃべる」し、「好きな人には好きだと叫ぶ」……っていちいちそのまますぎだよ。
もちろん、ひっぱってる秘密もあるんですが、秘密ってのはばれる瞬間が最大のドラマであり、その瞬間のお互いの駆け引きをどう描くかが作者の腕の見せどころでしょう。
「秘密を隠しきれなくなる」→「ばれる」→「衝撃をうけて感情のぶつかりあいがある」→「でもあるきっかけでそれを乗り越える」という流れは同じでも、そのきっかけやエピソードの作り方でドラマに感情移入できるかどうかが決まるわけです。
なのに、それがあまりにも工夫なさすぎなんですよ。
べつに複雑な仕掛けをしろとか、しゃれたエピソードを作れとか、そんなことを言ってるわけじゃないんです。
例をあげたほうがわかりやすいかな。
たとえば…。
病名を隠されていた幸子が、自分の本当の病名に感づいてしまい、「皆、私に嘘ばかりつく」と荒れまくるシーンがあります。
幸子の母は、「もうこれ以上はごまかせない。私が幸子に本当の病名を言います」と決意して幸子のところへ行くが、幸子の顔を見るとどうしても本当のことが言えず、やっぱり嘘の病名を言ってしまい、ますます幸子を傷つける。
「やっぱり私は本当の母親じゃないから」と無意識に感じていたコンプレックスが噴き出し、激しく自己嫌悪に陥った母は、いきなりお遍路さんの恰好をして秩父の札所をまわりにいく。
そこまではいいんです。問題はそのあと。
母親が告知に失敗したため、今度は父親が幸子に病名を告げる。
案の定、生きる希望をなくして泣きわめく幸子。
どうしたらいいのかわからず途方に暮れる父。
そこへ巡礼から帰ってくる母。
……が、なんとこのとき、母はこともあろうにお遍路さんの恰好そのままで帰ってくるのです。
で、さらにその恰好のまま幸子の部屋へ。
幸子は「お母さん……その恰好は……」と驚き、次の瞬間「私のためにこんなことまで……ごめんなさい、お母さん。私、生きるわ。病気になんて負けない」とあッという間に自己完結して立ち直ってしまう。
どうなんでしょう。これ。
そもそも、こういうこと(願掛けとか巡礼とか)って人に知られないようにやるものじゃないの?
母親が自分のために巡礼に行ったことを知って幸子が感動して立ち直るという運びにするにしても、そのことは誰かべつの人の口から知られるようにすべきではないですか?
たとえば、何も知らない幸子が、「私がこんなに苦しんでるときにお母さんは暢気に旅行になんて行って!」と非難するんだけど、母はじっと耐えて本当の行く先を言わない。
でも、どこかから母が巡礼に行ったことがわかり(わかんないけど家の中からお札がみつかるとか)、そこで初めて母の思いの深さを知って「お母さん、ごめんなさい」と泣き崩れるとか…。
そんなさー、これみよがしにお遍路ルックで「幸子、見なさい。私の姿を」みたいに登場されても困りますって。これじゃせっかくの美談も台無しです。
これはほんの一例ですが、一事が万事そういう調子で、障害が多いようでいて、ストーリーの流れていく方向が一方向しかなくて、すべて答えが最初からひとつしかない感じなんですよね。思わぬ方向から邪魔が入るとかじゃなく、すべて想定範囲内。
べつにものすごい悪役とか、ものすごい意地悪をする人とか出さなくても、その人を思うがゆえにその人の障害になるとかいうことだってあると思うんです。
たとえば幸子と光夫がつきあうことにしても、家族全員が同じ意見っていうのはどうなんでしょう。家族全員幸子のことを思っているという点は同じなのに、「だからこうすべきだ」という「こうすべき」の部分が家族によって違うってことは当然あるんじゃないでしょうか。そういうものがまったくないまま全員が常に一致したまま6時間たってしまったのにはかなり違和感を感じました。
それから、障害の大きさのわりに、そのレスポンス(波紋)が小さいというのは、最大の秘密「自分の親が本当の親じゃなかった」という部分でも感じました。
陣内に対しては、「お父さんじゃないんだ」と訴える場面があり、数分後には「でもやっぱりお父さん」とか泣きながら抱きついて一件落着になってしまうんですが、この問題は当然「育ての母親」「生みの母親」「本当の父親」それぞれとの対決なしには語れないはず(母親2人に対しては特に)。
なのに、母親との1対1の場面はいっさいなく、次の場面では「2人のお母さん、ありがとう」の一言でくくられておしまいになっている。2人の母にしたって幸子がいつ真実を知ったのか知りたいだろうし、真実を知ったときに自分から言いたい言葉もあっただろうに、出番なしかよ!とちょっとびっくりしました。
母子の名乗りなんて、ここで泣かせなくていつ泣かせるんだよというくらい重要な見せ場だと思うんだけど、あっさり通過。幸子はいわば不倫の子供なわけで、そのことを知ったショックというのはないんでしょうか。本当の両親に対する思いというのは不自然なほど描かれていなかったのが意外でした。
本来、陣内夫婦が自分の本当の親ではないと知ることと、本当の親が叔母と相良教授だと知ることは別の問題なので、これをいっぺんに知ってしまうのはネタバレとしてはもったいないような気がします(だからリアクションが描ききれなくなってしまうのでしょう)。
まず前者の秘密がわかり、そのショックを乗り越えたところで今度は本当の親がわかるとか、母親が叔母だということはわかったけどその相手が誰なのかはなかなかわからないとか、もっと小出しにしたほうがその都度リアクションを書き込めていいんじゃないんでしょうかね。
以下、その他でひっかかったことを少々。
細かい部分での疑問は挙げたらキリがないんでこのへんで。
最後に。これはドラマのセオリーとは関係ないんだけど、倫理観や価値観みたいな部分で、現代人とかなりズレを感じる部分もありました。
その当時は誰もが賛同する常識として言ってたんだろうけど、今見ると「その考えはおかしい」と言いたくなるような時代錯誤的な発言も目立ち……。
新しく作り直すのなら、そういう部分にこそメスを入れるべきだったのでは?
本当に感動できる部分はそういうところとはべつの部分にあると思いますが…。
本来は連ドラでしたが、今回は2時間×3週で放送されました。
山口百恵演じる大島幸子は石原さとみ。
三浦友和演じる相良光夫は藤原竜也。
宇津井健演じる幸子のお父さん(じつは伯父)は陣内孝則。
八千草薫(後半からは渡辺美佐子)演じるお母さん(じつは他人)は田中好子。
松村達雄演じるおじいちゃんは北村総一郎。
岸恵子演じるパリの叔母さま(じつは生みの母)は高橋惠子。
長門裕之演じる相良教授(じつは父親)は内藤剛志。
たしかに石原さとみ、山口百恵に似てますね。
特にポスターの写真はメイクや表情も似せて撮っているためか、びっくりするほど似ている。
もともと古くさい(昭和チックな)顔だちなので、そういう意味でははまっているかも(上戸彩も百恵に似ているとよく言われるそうですが、こっちはもう少し年とってあか抜けた頃の顔に似てるかな。共通点はボッテリした厚い唇!)。
ただ………どうなんでしょう、演技のほうは。
山口百恵は本職歌手だから、べつにものすごい演技力とかいらないと思うんですよ。存在自体がすでにスーパースターだったし。
でも石原さとみは一応女優なわけだし……うーん、けっこう見ていてつらいものがあったんですけど。あのかすれ声も、ハスキーというよりは変声期?って感じだし。
それよりなにより愕然としたのは「歌」です。
しつこいようだけど、山口百恵は歌手なのでいいんですよ。サービスショットとしてギターに合わせて歌うシーンがあるのは。
でも石原さとみは…………正直、凍りました。
「義経」の静御前が舞っているところでも「こ…この音程は……」とギョッとしましたが、こちらはまあ歌といっても邦楽ですし、一般人が歌うような曲じゃないのでまだ「もともとこういう歌なのかな」と納得できなくもありませんでした(←無理のある解釈)。
だけど今回はねー、こちとら百恵が同じ歌うたってんのを聞いてんだよ。
それなのに……それなのに……。
♪わす〜れな〜ぐさを〜、あなたに〜、あなたに〜
って、
お願い〜〜〜、やめてぇ〜〜〜!!!
音程が気になって全然悲しい気分になんてなれねーよ。
ていうか、変なところでブレス入れないでくれ。気持ち悪いから。
べつにすごくうまく歌えなくてもいいんですよ。歌手じゃないから(←しつこい)。
でもこれはちょっと……痛い。痛すぎる。
正直、白血病という設定よりも歌のほうが痛々しかったです、私は。
本人もつらかったと思いますよ。私が石原さとみの家族ならいたたまれずに音声消して見てたと思います。
どうして歌を入れなきゃいけなかったんでしょう。幸子が歌う必然性ってドラマの中にほとんどないし。
山口百恵だったから入れたんでしょ。それならカットしてあげればいいのに。
歌にこだわりすぎたので先に進みます。
オリジナル版の演技にクリソツだったのは、陣内孝則と北村総一郎。
これはかなりもとの演技に洗脳されてるなー。
言い回しとか、泣きの入れ方とかチョー似てるんだもん。
でもまあ、当時の大映ドラマの雰囲気をまるごと伝えるという意味では、演技もオリジナルをコピーしたほうが間違いないし、そのミョーな演技がかえってドラマの世界観にハマッていたんじゃないでしょうか。
むしろ「あえてオリジナル版は見なかった」という藤原竜也や、中途半端に普通の演技をしていた内藤剛志は浮いていましたね。
というか、リアルに演技すればするほど脚本の納得できないところが目立って恥ずかしくなってくるんですわ。
陣内、目ェむきすぎだよ!(笑)と思いつつも、あの劇伴(30年たっても憶えている自分がいやだった)に負けないためにはこのくらいの顔筋力と暑苦しさが必要だよなーと納得しました。
ま、役者の話はこんなところで。
話したかったのは内容のほうです。
最初、リメイクと聞いててっきり現代に置き換えるのかと思ったら、昭和52年の設定のままなんですね。
たしかに「今どき、白血病なんて不治の病じゃない」という事実をはじめとして、現代に置き換えると無理のある設定はいっぱい出てくるので、「いっそこのままの時代でいこう」ということになったのかもしれませんが、それって今もう一度リメイクする必要があるんでしょうか。
この当時の大映ドラマの雰囲気を「なつかし〜」と言いながら楽しみたいのなら昔のドラマを再放送すればいいんじゃないの?
その当時は「その時代に生きる人」としての視点でああいうドラマを作ったからドラマに新鮮さやパワーがあったのであって、現代のキャスト&スタッフが同じものをなぞって作ってもそこには「懐古趣味」しか生じないんじゃないでしょうか。
たとえば、韓国ドラマが大映ドラマに似ているというのはよく指摘されることですよね。個人的には「記憶喪失」とか「じつは兄妹」とかいうアイテムの使い方が似ているだけで皆が言うほど似てるとは思わないんですけど(あんな感情的なナレーションないし)、まあ百歩譲って「冬ソナ」などの韓国ドラマが大映ドラマを研究して作られたものだとしても、あれは現代に通用するドラマとしてきちんと作り直されてるじゃないですか。彷彿とさせるテイストがあっても、最終的には現代のドラマになってるんですよね。だからあれほどヒットしたんだと思うのです。好き嫌いはともかくとして。
現代でリメイクする意味ってそういうことじゃないの?
題材がいくら古き良き時代を描いたものでも、どこかに現代に生きる人たちの心を揺さぶるような「今の視点」がないとわざわざ作り直す意味ってないと思うんですけど。
皆さん、「大映ドラマは突っ込んでみるからあれでいいんだよ」とおっしゃいますが、過去のドラマを「このころの大映ドラマってこうなんだよねー」と突っ込みながら見るのと、今のドラマを「大映ってこうなんだよねー」と突っ込んで見るのとでは意味が全然違います。
今のドラマは、今のドラマとして見ますよ。
オリジナルの「赤シリーズ」を知らない人にとってはそんなこと関係ないもん。
……と考えて、冷静に今回のドラマを見てみると、やっぱり「これはないだろう」という部分がどう贔屓目にみても多すぎるとあらためて思いました。
まず、「不治の病で余命わずか」「好きな人が異母兄妹」というのが「赤い疑惑」を貫く2大障害なわけですが、この障害の使い方があまりにも雑。
普通、こういう衝撃の事実を知ったときに人間はこういうリアクションをするだろうという部分がどれもこれも類型すぎてリアリティがないんです。
ひらたく言うと、障害の設定が大きいわりには、それによって起こるドラマが凡庸。
ちょっと考えればもっともっと細かいドラマがたくさんひきおこされると思うんだけど、一番単純な反応しか描かれないんですよね。
だから障害が大袈裟なわりには、それほど悲壮感が伝わってこないんだと思います。
障害には秘密がつきもので、秘密をうまく使うことによってドラマのサスペンスは何倍にもふくらみます。
でも、見てると皆、秘密簡単にもらしすぎ!
「言いたいけど言えない」という気持ちをずっとひっぱって苦しむとか、「本心を心に秘めてわざと逆のことを言う」とか、「好きだから意地悪を言ってしまう」とか、人間なら誰でもそのくらいのひねりはあるだろうに、「本当のことを言えと言われるとすぐに本当のことを言ってしまう」し、「本心そのまましゃべる」し、「好きな人には好きだと叫ぶ」……っていちいちそのまますぎだよ。
もちろん、ひっぱってる秘密もあるんですが、秘密ってのはばれる瞬間が最大のドラマであり、その瞬間のお互いの駆け引きをどう描くかが作者の腕の見せどころでしょう。
「秘密を隠しきれなくなる」→「ばれる」→「衝撃をうけて感情のぶつかりあいがある」→「でもあるきっかけでそれを乗り越える」という流れは同じでも、そのきっかけやエピソードの作り方でドラマに感情移入できるかどうかが決まるわけです。
なのに、それがあまりにも工夫なさすぎなんですよ。
べつに複雑な仕掛けをしろとか、しゃれたエピソードを作れとか、そんなことを言ってるわけじゃないんです。
例をあげたほうがわかりやすいかな。
たとえば…。
病名を隠されていた幸子が、自分の本当の病名に感づいてしまい、「皆、私に嘘ばかりつく」と荒れまくるシーンがあります。
幸子の母は、「もうこれ以上はごまかせない。私が幸子に本当の病名を言います」と決意して幸子のところへ行くが、幸子の顔を見るとどうしても本当のことが言えず、やっぱり嘘の病名を言ってしまい、ますます幸子を傷つける。
「やっぱり私は本当の母親じゃないから」と無意識に感じていたコンプレックスが噴き出し、激しく自己嫌悪に陥った母は、いきなりお遍路さんの恰好をして秩父の札所をまわりにいく。
そこまではいいんです。問題はそのあと。
母親が告知に失敗したため、今度は父親が幸子に病名を告げる。
案の定、生きる希望をなくして泣きわめく幸子。
どうしたらいいのかわからず途方に暮れる父。
そこへ巡礼から帰ってくる母。
……が、なんとこのとき、母はこともあろうにお遍路さんの恰好そのままで帰ってくるのです。
で、さらにその恰好のまま幸子の部屋へ。
幸子は「お母さん……その恰好は……」と驚き、次の瞬間「私のためにこんなことまで……ごめんなさい、お母さん。私、生きるわ。病気になんて負けない」とあッという間に自己完結して立ち直ってしまう。
どうなんでしょう。これ。
そもそも、こういうこと(願掛けとか巡礼とか)って人に知られないようにやるものじゃないの?
母親が自分のために巡礼に行ったことを知って幸子が感動して立ち直るという運びにするにしても、そのことは誰かべつの人の口から知られるようにすべきではないですか?
たとえば、何も知らない幸子が、「私がこんなに苦しんでるときにお母さんは暢気に旅行になんて行って!」と非難するんだけど、母はじっと耐えて本当の行く先を言わない。
でも、どこかから母が巡礼に行ったことがわかり(わかんないけど家の中からお札がみつかるとか)、そこで初めて母の思いの深さを知って「お母さん、ごめんなさい」と泣き崩れるとか…。
そんなさー、これみよがしにお遍路ルックで「幸子、見なさい。私の姿を」みたいに登場されても困りますって。これじゃせっかくの美談も台無しです。
これはほんの一例ですが、一事が万事そういう調子で、障害が多いようでいて、ストーリーの流れていく方向が一方向しかなくて、すべて答えが最初からひとつしかない感じなんですよね。思わぬ方向から邪魔が入るとかじゃなく、すべて想定範囲内。
べつにものすごい悪役とか、ものすごい意地悪をする人とか出さなくても、その人を思うがゆえにその人の障害になるとかいうことだってあると思うんです。
たとえば幸子と光夫がつきあうことにしても、家族全員が同じ意見っていうのはどうなんでしょう。家族全員幸子のことを思っているという点は同じなのに、「だからこうすべきだ」という「こうすべき」の部分が家族によって違うってことは当然あるんじゃないでしょうか。そういうものがまったくないまま全員が常に一致したまま6時間たってしまったのにはかなり違和感を感じました。
それから、障害の大きさのわりに、そのレスポンス(波紋)が小さいというのは、最大の秘密「自分の親が本当の親じゃなかった」という部分でも感じました。
陣内に対しては、「お父さんじゃないんだ」と訴える場面があり、数分後には「でもやっぱりお父さん」とか泣きながら抱きついて一件落着になってしまうんですが、この問題は当然「育ての母親」「生みの母親」「本当の父親」それぞれとの対決なしには語れないはず(母親2人に対しては特に)。
なのに、母親との1対1の場面はいっさいなく、次の場面では「2人のお母さん、ありがとう」の一言でくくられておしまいになっている。2人の母にしたって幸子がいつ真実を知ったのか知りたいだろうし、真実を知ったときに自分から言いたい言葉もあっただろうに、出番なしかよ!とちょっとびっくりしました。
母子の名乗りなんて、ここで泣かせなくていつ泣かせるんだよというくらい重要な見せ場だと思うんだけど、あっさり通過。幸子はいわば不倫の子供なわけで、そのことを知ったショックというのはないんでしょうか。本当の両親に対する思いというのは不自然なほど描かれていなかったのが意外でした。
本来、陣内夫婦が自分の本当の親ではないと知ることと、本当の親が叔母と相良教授だと知ることは別の問題なので、これをいっぺんに知ってしまうのはネタバレとしてはもったいないような気がします(だからリアクションが描ききれなくなってしまうのでしょう)。
まず前者の秘密がわかり、そのショックを乗り越えたところで今度は本当の親がわかるとか、母親が叔母だということはわかったけどその相手が誰なのかはなかなかわからないとか、もっと小出しにしたほうがその都度リアクションを書き込めていいんじゃないんでしょうかね。
以下、その他でひっかかったことを少々。
その1)
陣内は放射線科医という設定だけど、幸子が手術するたびに手術室に入ってますよね。百歩譲って手術のチームには加わってないけど娘の手術なので見学に入ったのだとしても、外科医らしき人が全然見あたらないんですけど。他に出てくる医者って同じく放射線科医の相良教授と血液内科医の国広富之(役名忘れた)、それにぺえぺえの医大生の光夫しかいないんだよね。
いないといえば、あんなに長く入退院を繰り返しているのに、看護師が1回も姿を現さないのが不思議。なじみの看護師の1人くらいできてもよさそうだが。
その2)
最初に病名が出るとき「幸子は白血病……つまり血液のガンだ」と陣内が言うんですが、医者同士の会話でわざわざそんな言い換えするのかな。
もちろん、当時はまだなじみの薄い病名なんで視聴者がわかるように言い換えたんだとは思いますけど、この1回だけじゃなく、このあと「白血病」という名称がセリフに出るたびに必ずこの通訳をしてみせるのはさすがに滑稽だと思いました。
「幸子は白血病です」
「なに……白血病といったら……血液のガンじゃないか」
「そうです。白血病……血液のガンです」
「そんな……あの幸子が白血病……つまり血液のガンだというのか」
いや、いくらなんでもここまでくどくはないけど(笑)、でもこれに近い会話は随所にありました。
すべての人が「白血病、つまり血液のガン」と連呼しているので、最後は「もうこれだけ言い続けてるんだから皆いいかげんに学習しようよ」と辟易してきました。
その3)
幸子は高校3年生ですよね。3年になってからはほとんど入院生活で学校に行ってないにしても、友達が1回も登場しないというのは不自然じゃないでしょうか。
実際に親友を出すとかじゃなくても、千羽鶴が届くとか、お見舞いのカードが届くとか、なんかもう少し存在を匂わせてもいいんじゃないですかね。
その4)
パリのおばさまを沖縄のおばさまに変更したのはなぜ?
単に予算の関係?
私は「蘭をつくっているおばさま」という手の込んだ設定に変えたことで、その設定を生かした展開が新しく作られたのかと思ったんですが、普通に沖縄ロケがあった以外は特に関係なし。
幸子が亡くなったあと、悲しみを乗り越えて新しく開発した蘭の花に「サチコ」と名付けるとか、よくわかんないけど、その蘭の花でチャリティーをやって、収益金を白血病撲滅のための基金にするとか、そのくらいのオチはほしかったですね。
細かい部分での疑問は挙げたらキリがないんでこのへんで。
最後に。これはドラマのセオリーとは関係ないんだけど、倫理観や価値観みたいな部分で、現代人とかなりズレを感じる部分もありました。
その当時は誰もが賛同する常識として言ってたんだろうけど、今見ると「その考えはおかしい」と言いたくなるような時代錯誤的な発言も目立ち……。
新しく作り直すのなら、そういう部分にこそメスを入れるべきだったのでは?
本当に感動できる部分はそういうところとはべつの部分にあると思いますが…。
「赤い疑惑<2005年版>」(DVD)
30年ぶりにリメイクされた「赤い疑惑」。
出演は石原さとみ、藤原竜也、高橋恵子、陣内孝則他。
30年ぶりにリメイクされた「赤い疑惑」。
出演は石原さとみ、藤原竜也、高橋恵子、陣内孝則他。
「赤い疑惑<1975年版>」(DVD)
元祖の「赤い疑惑」。
出演は山口百恵、三浦友和、岸恵子、宇津井健他。
元祖の「赤い疑惑」。
出演は山口百恵、三浦友和、岸恵子、宇津井健他。
「赤い疑惑」(本)
ノベライズ版。
ノベライズ版。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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この記事へのコメント
低視聴率に納得
職場に、これにハマって昼休みのたびにその話をしていたふたりの同僚がいます。リアルタイムでも見ていた世代です。
私は旧作も新作も見ていませんが、この二人の話を聞くのは楽しかった。なのに二人とも「不人気」報道でがっかりしていたので、何だか気の毒になり、
・視聴率ランキングは相対評価だからあてにならない
・さほどの視聴率ではなかったとしても、記事の内容はひどすぎる
・最初にネットに出た「不人気」報道はTBSと競合するフジサンケイの、しかもくだらない夕刊紙だからバイアスがかかっている
・創価学会バッシングで人気の週刊新潮が石原さとみがらみでこの番組の視聴率をからかっている記事など無視していい
・勤め人の休日である土曜日に再放送されるのだから、そっちを見ようと思っている層は無視できない、そっちまで入れて視聴率を語るべき(これはその場にいた別の同僚の意見)
と、見てもいないのにぎゃーぎゃーさわいで慰めました。
あまり喜ばれていませんでしたが…。
で、低視聴率の理由がここ読んでなんとなくわかりました…。
一言で言えばテレビの視聴者をナメてませんか。バカだと思って作ってますね。二言言ってしまいましたけど。
あと、同僚二人が「ばかばかしいと思いながらも、同時に泣いちゃうのよー」と言っていたので、「ばかばかしい」は一種の謙遜、あるいは照れだと思ってたけど違うのだということもわかりました…。
安易なリメイクに腹立ちが…
良い新作もどんどん生まれている状況で出てくるリメイクと、ネタぎれだから昔のヒット作に頼ろうという状況でのリメイクとでは明らかに意味が違います。
今回で言えば、「冬ソナがバカ売れした」→「冬ソナはどうやら『赤シリーズ』をお手本にしたらしい」→「なら『赤シリーズ』を今やればうけるかも」……という制作者側の安直な発想が手に取るようにわかる。だからなんの新鮮味もないんですよ。制作ポリシーがそれだから。
旧作をリスペクトするなら、そのままにしとけと言いたい。
旧作にインスパイアされるものがあって、「これを使ってこういうものを再生したい」という野心があるときのみリメイクしてください。
同僚のファンのお2人も、旧作への感慨でかなりバイアスがかかってるだけだと思いますよ。ていうか、そういう年寄り(?)のバイアスを利用しようとする制作側の魂胆がすでに不愉快。
悪いけど低視聴率ときいてちょっと溜飲を下げました。
再放送にとどめておけば
> かなりバイアスがかかってるだけだと思いますよ。
あー。そうですね。
話の中身はやっぱり、新旧比較というか、旧作を知ってるからこそ笑えたり嬉しかったりする点についてでしたから。
それを自分で重々わかっているからこそ、私ともうひとりが変に力をこめてフォローしても、あまり嬉しそうにしなかったのでしょうね。
冬ソナがヒットして、地上波でも流れるようになったころ、東京ローカルかもしれませんがどこか民放が深夜に大映ドラマの再放送をしていました。
ほんとに、それにとどめておけばよかったのに…。
百恵オーラはやっぱりすごい
そうそう。やってましたね。ちらっと見ましたが、やっぱり山口百恵のオーラはすごいと思いました。
これだけ「赤い疑惑」への悪口を並べたてているにもかかわらず、この数日「赤い疑惑」の主題歌と劇伴が呪いのように頭から離れない…。
誰か〜。なんとかしてくれ〜。
ロケの想い出
私が初めて生で見た芸能人は、山口百恵と三浦友和でした。
(ちなみに2番目は、学食でラーメンを食う大竹しのぶでした)
中学一年の時、学校近くの駅前の本屋(東国書林)で赤いシリーズのロケをしていました。赤い何だったのか思い出せないでいます。山口百恵は制服を着て、柴犬のような犬を連れていました。
いや、今となっては「疑惑」以外、あんまり覚えてないんですよね。
疑惑のリメイク版も裏のドラマを見ていたため、見ていないんですが…。
ここを見て、石原さとみの歌と演技を見ておくべきだったと後悔しております。
突っ込んでほしかった!
そうそう。ロケしてましたね。「赤い疑惑」の。
「赤い疑惑」、でぶおさんが見てたら軽く100メールくらい通信でネタにできるくらい突っ込みどころ満載だったと思うのに、もったいないことをしましたね。
今日、「放射能漏れの事故があったのに、マスコミにも問題にされず、翌日からフツーに営業(?)している大学病院なんてありえない」という突っ込みをきいて「たしかに」と思いましたが、あまりに突っ込みどころが多くて、そこまで基本的なことに思い至りませんでした。
ていうか、白血病になる原因としてあの事故って必要なの?
ただ発病しただけじゃダメなのかな。
事故だったら他にも発病してる人がいてもよさそうな気がするんですけど…。