古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
戦後に咲いた悲しい徒花──「宝塚BOYS」
今、ルテアトル銀座で、宝塚の舞台に立つことを夢見た男たちの青春を描いた「宝塚BOYS」という舞台を上演しています。
かつて「もし日本に陪審員制度があったら?」というフィクションをベースにして「12人の優しい日本人」(三谷幸喜作で舞台・映画になりました)が作られたように、これも「もし宝塚に男子部があったら?」というフィクションで作られたドラマなのでは?と思った人も多いのではないかと思います。
が、これはれっきとした史実なんです。しかも意外に知られていない……。
かくいう私は、戦後のある一時期(昭和20年〜29年)、宝塚に「男子部」が存在していたという事実は知っていました。
生徒やファンから猛反発を食らい、結局一度も大劇場の舞台に立つことなく解散させられた……という話も知っていました。
でも、宝塚は「女だけ」という点に存在意義があると思っているので(ファンなら誰でもそうでしょう)、「そんなの駄目に決まってんじゃん」という感想しかもてず、そのときは「消された男たちの気持ち」に思いがいたることはありませんでした。
そんなわけで、今回その「消された男」の側にたったドラマが作られたときいて、ちょっと……いや、正直かなり興味をそそられました。
なるほど。“男に入り込まれる側”にしか立って見てなかったけど、向こうには向こうの言い分なり思いなりがあるだろう。
それはぜひ見てみたいものだ……と。
同様に感じたヅカファンはかなり多かったのか、チケットの売れ行きは好調だったようで、なかなか入手困難でした。
で、ようやく観てきたので感想を公開します。
うーーん。
非常に「残念」なお芝居でした。
題材はとってもおいしいのに、いや、おいしいからこそなのか、題材に頼りすぎてる気がしました。
言いたいことはいろいろあるんですが、まずポイントとして押さえておかなくちゃならないことは3つあると思うんです。
「歌劇団(小林一三代表)は、なぜ男子を入れようとしたのか」
「男たちはなぜ宝塚に入ってきたのか」
「なぜ歌劇団は男を最終的に閉め出したのか」
1番目に関しては、小林一三氏自身に「女だけでは表現の幅が狭まる。ステップアップのために男も入れて普通の劇団に転身し、さらにグレードをあげていこう」という考えがあったことが知られており、そういう意味では小林氏は「今はたまたま女だけでやっているが、必ずしも『女だけ』という形にはこだわっていなかった」といえます(少なくとも当時は)。
が、「宝塚は女だけで作り上げるこの世のどこにもない世界。男が入ったらそれはもう宝塚ではなくなってしまう」という認識がすでに生徒とファンの間に根深く浸透しており、それは歌劇団が思う以上に強く育っていたようです。
結局、経営者の判断として「男子部」を作ってはみたが、生徒たちやファンの反発には抗いきれず解散にするしかなかった……というのが真相なのではないでしょうか。
そこまではわかるんですが、わからないのが2番目なんですよ。
観る前もわかんなかったし、観ても結局よくわかんなかった。
彼らは宝塚でいったい何をしようとしたんでしょうか。
男役がやっているポジションを狙ったのか。
まさか「女が男をやれるなら俺たちが娘役やってもいいよな」と思ったわけじゃないですよね。
もし男役のポジを狙ったとしたら、当然最初のうちは「本物の男」と「男役」が混在する状況になりますよね。
それ、どう考えても無理がありませんか?
そのへんの処理は小林先生はどう考えていらっしゃったのかわかりませんが、男役が出るなら全部男役にする。本物の男を使うなら男役は廃止する。どっちかにしなきゃ世界観じたいが崩れてしまいますよね。
だとすれば、これは単に「男だって頑張ってんだから仲間に入れてやりなよ。かわいそうじゃん」という問題ではなく、「男役」にとってみたら「自分たちが生き残るのか、本物の男にのっとられるか」という死活問題だったと思うんです。
そこの視点が抜けていると、この「男子部」問題は見当違いの「人情話」になってしまうんじゃないでしょうか。
もうひとつ気になったのは、彼らの志望動機は必ずしも「宝塚でなきゃいけない」わけではなかったんじゃないかということ。
今では男が歌ったり踊ったりしたいと思えば、その選択肢はいくらでもありますから、なにもわざわざ男子禁制の宝塚に入らなくたっていいわけで、その感覚でいくと「なぜわざわざ宝塚なの?」という疑問をもってしまいますが、当時(男子部が設立されたのは終戦後わずか4ヶ月)は歌ったり踊ったりする場所じたいが著しく限られているわけで、彼らは「わざわざ宝塚を選んだ」というよりも、「歌ったり踊ったりしたいと思ったときに選べた選択肢が宝塚しかなかった」のかもしれません。
そのへんの時代的状況ももう少し書き込んでくれないと「なぜあえて宝塚なのか」という部分が今の観客にはピンとこないんじゃないでしょうか。
もちろん、宝塚の舞台そのものがとにかく大好きで、純粋にあの舞台にたちたい、ああいうことを自分もやりたいと思って入ってきた人もいるでしょうが、「べつに宝塚でなくてもいいんだけどとりあえず歌いたい(踊りたい)」という人もいるだろうし、「歌やダンスの経験はないし、宝塚も観たことないけど、戦争の暗い抑圧から解放されたんだから正反対の華やかなことにチャレンジしてみたい」という人もいたかもしれない。あるいは単に「女の子がいっぱいいるところに入りたい」人もいたかもしれないし、「食糧難のこの時代に食べる心配しなくてもいいし、給料ももらえる」ことが魅力で入った人もいるかもしれない。
そういうそれぞれのスタンスというか事情がどれだけ鮮やかに描き出されているかでこのドラマのおもしろさが決まると思うのですが、残念ながらそこがいまひとつ不明確な印象を受けました。
いや、一応7人がそれぞれ少しずつ身の上話をしたりして説明はされるんですが、説明だけで終わってしまい、そのバラバラな動機がどのように反発しあい、刺激しあってひとつにまとまっていくか…という過程があまり見えてこないんですね。
いろいろ説明しているわりには似たりよったりに見えてしまうというか。
ひとつには、隔離された男たちの視点だけで物語が進んでいく…という形に限界があるのかもしれません。
7人のBOYSの他に出てくるのは、「元宝塚の生徒で、今は掃除婦兼賄い婦のおばちゃん」と「男子部担当になった歌劇団職員」の2人だけ(女子生徒は登場せず、廊下の向こうから時々歌声が聞こえてくるのみ)。
この2人を「外からの目」としてうまく使わないと、非常に狭い閉じられた範囲でのやりとりになってしまう危険があるんですが、残念ながらそういうきらいは否めませんでした。
おばちゃんも職員も、それぞれ夢をかなえられなかったという苦い思い出をもっており、いわばBOYSの理解者となりうる存在として描かれているんですが、そのわりには終始BOYSとのかかわりが淡泊というか、「遠くからそっと見守る系」あるいは「あまりガッツリかかわらず距離をおく系」という接し方なので、あまり葛藤が生まれないんですよね。
理解者になりうるということは、同時に近親憎悪が生まれる可能性もあるということで、「かつての自分を見ているようだ」というシチュエーションは、ポジティブにしろネガティブにしろもっと強い感情を生み出すはず。そこがちょっとぬるいのがもったいないなーと思いました。
たとえば、職員じゃなくて指導者にしたらどうなんでしょうか。
職員の池田は、いつもスケジュールとか業務連絡を伝えにくるだけで、どっちかというと「庶務担当」って感じなので、あまりぶつかりようがないんですね。常にやる気がなさそうだし。
そうじゃなくて、「フラガール」みたいに「かつては花形だったが、今はある事情から歌劇団にうとまれて男子部の指導に左遷された元生徒」って感じの設定にするとか。
そうすると、その人は明らかに男子が入ることに反対で、「おまえら、宝塚をなめてんじゃねえぞ」って感じでイジメ(笑)に入るんだけど、BOYSたちがあまりにもピュアなんで、だんだん感情移入してきて「あんたたちは私が守る!」って感じでBOYSのために奔走する…とかいう展開もありになるじゃないですか。そうすればそこにはおのずと激しい葛藤と対立が生まれ、観るほうももっとワクワクすると思います。
あと、女子生徒をあえて出さないというのは「声はすれども姿は見えず」ってことで、BOYSとの距離感(住む世界が最後まで違うという)を出すのには効果的な処理なのかもしれませんが、それなら逆にBOYSが娑婆に捨ててきた人たちというのを出して、彼らが外の世界でどのくらい排斥されているか(あるいは追いつめられているか)を表現すれば、もう少し話に変化が出たのではないでしょうか。そのほうが説明だけの身の上話よりわかりやすいし、訪問じたいで事件もつくりやすい。
たとえば、一番浮き世離れした「一匹オオカミ」的イメージの星野にじつはすっごい所帯じみた奥さんがいて、「ちょっとあんた。冗談じゃないわよ。なにがダンスよ。子供5人どうするつもりよ」とおしかけてくるとか(笑)。
3時間近くやってて、外から面会人が訪ねてくるシーンが1回もないっていうのがなんか物足りないんですよねー。
全体的に「葛藤」が単調すぎるというか、終始「俺たち、いつになったら舞台に立てるんだ。これじゃ飼い殺しじゃないか」というぼやきしかないので、「同じことばっかり言ってるな」という印象で3時間がとても長く感じられました。
最後のレビューシーン(幻想)では、「本物のBOYSがこのシーンを観たらどういう気持ちになるだろう」と思ってそっちに思いを馳せてジーンとしてしまいましたが、ドラマとしては泣けませんでした。
戦争の話もけっこう出てくるんですが、登場人物の感覚があまりにも現代っぽくて戦争の影(復員直後で仲間もいっぱい見送っている)が感じられないため、セリフだけで言われてもあまり重みが伝わってこないというのも気になりました。なんか皆さん、他人事みたいに軽くしゃべってるんでちょっとキモかった。。。
原作は、元宝塚番だった新聞記者が根気強くBOYSを探し出して取材したというルポルタージュ。
こっちは泣けるのかな。
いや、泣けなくてもいいんだけど、泣こうと思って行って肩透かしだったんで今ちょっと欲求不満気味で………。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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戦後に咲いた悲しい徒花──「宝塚BOYS」
>彼らは宝塚でいったい何をしようとしたんでしょうか。
そうなんです、これなんですよ、すごくひっかかったんです。
最後のレビューを見る限りでは彼らの夢は「男役」ということになりますよねえ。。
女性が男役をするから男役なわけで
本物の男が男役をする必要性はないわけでしょう。
ホント、なにをやりたかったのか、なにをやらせたかったのか、舞台の中ですっきりさせてほしかったです。
現在に置き換えて、例えば井上芳雄や岡幸二郎が
男役を演じることを考えてみたんです。
わたし的には何万円つぎ込んでも激しく見たい~~!!
でもそれはあくまでも彼らが外の世界で活躍しているからそそられるわけであって、
宝塚の男組に在籍しているイケメンくらいじゃ何の興味もそそられないですよね。
レビューシーンは確かにジーンときてウルウルしちゃったりしたんですが、
何かこのシーンですべてごまかされた気がしないでもないです。
見終わった後に疑問が長々続く作品でした。
すっきり!
あー、よかった。すっきりした。
いや、なんかよそのブログ見る限りでは「宝塚BOYS」大絶賛記事ばかりで、しかもヅカファンはヅカファンで、ヅカネタだけでもう充分おかずとしておいしいので「いいんだよ。ヅカネタを楽しめば」って感じでまともに批評する雰囲気じゃないし、もしかして……これって……批判しちゃいけないの????泣くのがデフォルト????……とだんだん心細くなってきてたんです(笑)。
さらに、この記事アップしてから「宝塚BOYS」で検索してやってくる人の数が異様に増えて、「あー、きっと賞賛記事を探してきたんだろうに……こんなこと言っちゃってごめんよ」という罪悪感もあり(笑)。
これでもけっこう控えめに…書いた…つもりなんですが。
そもそも、戦後すぐの時代に、宝塚に入ろうと思う男じたいがものすごく少数派で変わったな人たちだと思うので、そのうえイケメン揃いを期待するのは酷だと思いますよ。
ていうか、イケメン揃いだったら嘘くさいでしょ。
そういう意味では、「今でも男役として通用しそう」なのは吉野さんくらいで、あとは………まあ、昭和の風貌あり、純日本的体型あり…(以下自粛)……というところは「イロモノじゃなくて、ちゃんと実話だってことをふまえてリアルにやろう」というコンセプトだったんだと思うんですよ。
でもそのわりにはドラマの核となる部分があまり明確になってないんで、単に「こういう人たちがいました」という話にしか見えなかったんですよね。
それならドキュメンタリーのほうがいい。
宝塚歌劇団との兼ね合いもあるんでしょうかね。
全面協力してるみたいだったし、「これは出しちゃだめ」っていう規制もあったんじゃないのかな。
実話って難しいですよね。