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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

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夏至前夜の夢物語

 梅雨に入ってから、いよいよ本格的に花や野菜に虫がつくようになりました。
 ルッコラとかベビーリーフなんて油断するとすぐに穴だらけになるんで、どっちが早く食べるか虫との競争みたいな毎日です。
 「もうちょっと大きくなってから」なんて思ってるとその翌日にやられてたりして悔しさ倍増。
 株の売買よりタイミングはかるのが難しいです。
 あんまり食べられ続けると、「いつもおいしいご飯をありがとう!」と虫から感謝されてる賄いのおばさんになったような気分でむかつきます。

 さて、今日は久々に観劇のお話を。
 先日、知人の岡本舞さんが演出する無名塾の稽古場公演「令嬢と召使」を観てきました。
 「令嬢と召使」の原作は「令嬢ジュリー」というストリンドベリの戯曲で、つい最近、純名りさ×貴水博之という組み合わせで上演されました。
 じつは私、これを観るつもりだったんですが、他の公演のチケットとりに追われてグズグズしているうちに完売(ToT)
 まさか売り切れることはあるまいと高をくくっていただけに、手に入らないとなるとよけいに未練が残り、「どっかでもう一度やらないかなー」と虫のいいことを言っていたら舞さんから「今度『令嬢と召使』をやるんです」というご案内が!
 言霊って本当にあるのかも(^o^)

 舞さんは無名塾の3期生ですが、この作品にはなみなみならぬ思い入れがあるようです。
 というのも、今から15年ほど前、舞さんが女優としての最大転換期に出会ったのが、今回の作品の原作である「令嬢ジュリー」だったから。 
 そのときは、タイトルロールのジュリー役を舞さんが、召使のジャン役を仲代達矢さんが演じました。
 つまり今回は、かつて自分の演じた役(作品)を演出するわけです。
 おお、月影千草みたいだ。かっこええ。
 と外野は無責任に思うのですが、ご本人は相当プレッシャーだったようで、チケットに添えられた案内状には「やせそうです…」と書かれてました。

 で、観た感想ですが、いろいろな意味で刺激的な公演でした。
 まずびっくりしたのは稽古場の立派さ!
 無名塾の公演を観るのは今回が初めてなので、もちろん稽古場(仲代さんのご自宅も兼ねています)に行くのも初めてです。 
 二子玉川駅からタクシーに乗って緑の多いお屋敷街に入り込み、無名坂と呼ばれる急坂を一気に上ると、いきなりヨーロッパの修道院のような瀟洒なレンガ作りの建物が…!
 中に入ると、ちょっとした小劇場くらいにはなりそうな広さの稽古場。
 2階まで吹き抜けになっているため、天井が高く、照明も劇場並みに吊り込めるようになっています。
 広いだけでなく、窓があって表の緑や自然光もとりこめるようになっているのがまた贅沢。
 壁には歴代の上演作品のポスターがずらりと並んでいて、ここに刻まれてきた歴史の重みを感じさせてくれます。
 並べられた椅子の数はせいぜい60くらい。
 客席以外はすべて舞台として使われており、他の部屋からの出入りだけでなく、2階のバルコニー部分から上り下りしたり、壁際に雑多に並んだ小道具や衣装を自由に使ったり、はては床下収納スペースから小道具をとりだしたり…と、水平方向にも垂直方向にもフルにスペースを使っていたのがおもしろかったです。
 「この稽古場はこんなふうな作りになってるんだ〜」と作品とはまったく関係ない部分でも感心したりして(笑)。

 ここで話の内容をちょっと説明。
 ストリンドベリはスウェーデンの作家なので、場所は北欧という設定。
 伯爵令嬢のジュリーは気位が高く、超わがままでサディスティックなお嬢様。
 彼女はフェミニストの母親から「男に屈服しないこと」を要求され、男並みの教育を受け、すっかり男嫌いになってしまうが、その一方で無理矢理のぼらされた高い場所に孤独と不安と息苦しさを感じている。
 召使のジャンは上昇志向の強い野心家だが、ご主人様の伯爵(ジュリーの父)の前に出るとどうしても卑屈な自分から抜け出すことができない。
 物語の冒頭。ジュリーは「高い塔の上からどこまでも落ちて行く夢」を見る。
 そしてジャンは「太陽の光を目指し、どこまでも木を登っていく夢」を見る。
 2人の夢は未完に終わり、そこから物語が始まる。
 夏至祭の夜、たわむれにジャンを誘惑しようとするジュリー。
 ジャンはジュリーの命令には逆らえず、彼女のわがままに翻弄される。
 ところが、ふとしたはずみで肉体関係を結んでしまったことで、2人の立場は逆転する。
 高みからひきずりおろされたジュリーはジャンの愛と命令を乞い、ジャンはジュリーの心をいたぶり、支配する。
 身分という現実に縛られたこの場所から逃げだそうとする2人だが、伯爵が帰ってくる馬車の音が聞こえてきたとたん、ジャンは現実に戻ってしまい…。

 すごくわかりやすく翻訳しちゃうと「令嬢ジュリー」はそんな感じの話です。
 今回の笹部博司版「令嬢と召使」は、内容としてはほとんど原作のままなのですが、違うのは令嬢と召使に名前がないこと。最初に男優と女優が登場して夢の話をし、その延長で芝居ごっこのような感じで「令嬢ジュリー」の話を演じ始め、最後はまた現実の役者に戻るという入れ子構造になっていること。原作には2人の他にジャンの婚約者の召使女や村人なども登場するが、「令嬢と召使」では役者は2人しか登場せず、召使女は令嬢と同じ女優が演じること。大きく異なるのはこんなところでしょうか。
 以上の相違点はネットに載っているデータから類推したもので、「令嬢ジュリー」のほうもちゃんと観たうえでの比較ではないのですが、今回観た限りでは「うーん。わざわざ改変する意味あったのかなー?」というのが正直な感想。

 役者が出てきてある役を演じることで、現実とフィクションの力関係が逆転してしまう…という図式はよくありがちな構造ですが、今回の場合、その構造が浮いているように感じました。
 だってわざわざそんな前置き入れなくたって、すべての芝居はそういう要素を持ってるわけじゃないですか。役者が役を演じるってことはそもそもそういうことでしょ?
 だったら、まずは役者2人が素っぽい感じで登場し、儀式のようにその場で衣装を着けて小道具を持つ…という始まりから入る程度でも充分その意図は伝わると思うんですが。
 なまじ現代の男と女の風景から入って意味ありげなセリフや動きを見せられると、「この2人はどういう関係なんだろう」「どういう設定でしゃべってるんだろう」といったよけいなことに意識がいってしまい、本編の世界に没入する妨げになっちゃうんですよ。

 本編には多分に「寓話」的な要素が入ってると思いましたが、それでも「身分差」が絶対的な障害として実感できないと、そこに提示される苦悩も抽象的にしか実感できないと思うんですよね。
 今回は稽古場公演ということで、装置もないし、衣装もシンプルだし、それはよく言えば普遍的な話にできるんだけど、逆に言えば「時代性を感じにくい」とも言えるわけで、現代人の目から見ると「そこまで大袈裟に悩むことか?」と思う部分がなくもない。
 そう思ってしまうのはきっと2人が現代的に見えてしまうからであり、それは役者のせいというよりは脚本の構造のせいじゃないかと思ったのです。
 「芝居ごっこ」からスタートしている以上、本編も「現代人のお遊び(退屈しのぎ)」みたいに見えてしまうというか…。

 時々2人が「素」に戻って「もうやめようよ」「いやよ。まだ続けるわ」みたいなセリフをかわすところがあるんですが(ここは脚色部分だと思われ)、これがまたよけいに「この2人、どんな事情があってこんな芝居ごっこやってるの?」と現代パートのほうに関心がいってしまう逆効果をかもしだしていて、結局「本編を通して現代の2人の葛藤を想像する」という本末転倒な結果になってしまってるんです。
 「それはそれでいいじゃん」という考え方もあるかもしれませんが、そういう作品として観るには現代パートの情報があまりにも少ないので、やっぱり落ち着かない気分になるんですよね。
 ラーメンをおかずにご飯食べたみたいな。
 いや、それが好きな人がいるにしてもですよ。

 令嬢と召使女を1人の役者で演じるというのも、もともとの原作がそのように書かれているわけではないはずなので、その2役が会話する場面とかが出てきちゃうんですよ。
 そのときは女優が落語のように一人で会話を処理するんですが、これまた落ち着かない。
 2人の対立は重要な場面なだけに、普通に2人の女優で観たかったと思いました。

 じつは、最初はストリンドベリがどこの国の人なのか知らずに観ていたんですが、観ていてなんとなく「イプセンに似てるなー」と思ったんです。
 そしたら、同じ北欧の作家(イプセンはノルウェー)で、実際ストリンドベリはかなりイプセンをライバル視していたらしいことがあとで判明。
 イプセンの代表作「人形の家」は、「女が無知だとどういう悲劇が起きるか」という啓蒙的な話でしたが、「令嬢ジュリー」は「女が知恵をつけすぎるとどういう悲劇が起きるか」という「人形の家」を裏から見たようなお話。いわば「裏イプセン」ですね。ライバル視という言葉に納得です。
 ストリンドベリは何回も結婚に失敗して数々の修羅場をくぐり抜けてきたらしいですが、そのせいなのかなんなのか、「ストリンドベリの作品は女性への憎悪に満ちみちている」と評する人もいます。
 なるほど、たしかにジュリーの描写は女から見るとムッとする部分があるかも(笑)。

 演じる2人は無名塾の若手俳優(若手といっても30代ですが)。
 びっくりしたのは召使役の男優さん(川村進)が超イケメンだったこと。イケメンには興味の薄い私の目をも釘付けにするほどのオーラを放ってました。
 写真を見る限りでは涼しげな目元の二枚目(無名塾は濃い顔の人が多いのでこういう顔は珍しい)という印象しかないのですが、ナマで見ると表情にすごく力があって、身のこなしにも色気があります。身長も190近くあってモデル並みのプロポーション!
 ただ、あまりにもオーラがありすぎて、前半の召使の卑屈さがあまり感じられなかったのが残念。最初からなんかふてぶてしいというか、腹に一物ありそうで、後半の逆転が思ったほど衝撃的じゃなかったんですよね。

 一方、令嬢役の女優さん(渡部晶子)はわりと童顔系のぽちゃっとした顔立ちで、かわいらしいんだけどちょっと令嬢というには違和感が……(ご本人もパンフに書いておられましたが)。
 金持ちの娘くらいには見えるけど、高貴な身分というには…うーーん。
 2役で「地に足のついた召使女」も演じていたのですが、こちらはピッタリ。
 失礼ながら、同行の友人とは「『令嬢と召使』っていうよりは『王子と召使』っていう感じだよね」と話してました(笑)。

 でもお2人とも終始緊張感漂う熱いお芝居を見せてくれて、濃密な時間を楽しむことができました。
 こういう芝居観ると、やっぱり向こうの人は「肉食」だよなーと実感しますね。
 そのエネルギーに感化されたのか、エネルギーを奪われたのかはわかりませんが、終演後は鈴木光司似のこだわりマスターがいるビストロで豚肉と仔牛肉を貪り食い、さらに電車の中でも羊の話をして帰りました。
 翌日は体重が1キロ増えてたので、奪われたエネルギーのもとはとったようです。

 余談ですが、物語の設定が「夏至祭の夜」となっていますが、これはスウェーデンではかなり重要なイベントらしいです(ある意味、クリスマス以上かも)。
 日本では「夏至」と言っても「一年で一番日が長い日」くらいの認識しかないし、特別な思い入れはないけれど、一年を通して太陽を拝める時間が少ない北欧では「一年で一番長く太陽の恵みを受けられる日」である夏至は特別な日。
 シェイクスピアの「夏の夜の夢」も最初は「真夏〜」と誤訳されてましたが、原語の「midsummer」は「夏至」のことで、やはり「夏至祭の夜」の出来事を描いたものです。
 北欧では、白夜となる夏至祭には、太陽の光を愛おしむように一晩中外でどんちゃん騒ぎをするそうです(気候的にはけっこうまだ夜は寒いと思うのですが)。
 太陽のパワーがマックスになる夏至の日だからこそ、こういう非日常の不思議な逆転劇を引き起こすエネルギーが生まれるのだと作者は考えたのでしょうか。
 そういえば、このお芝居を観た日はくしくも夏至前日でした。

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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