古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
「書く女」の究極のリサイクル構造
もうすぐカウンタが「1並び(11111)」だわ。踏んだ人には何か記念品をお出ししようかしら…と思っていたら自分が踏みました。ありがちな結末。次は「2並び(22222)」ね。よし。今度も踏むぞ(←踏むなよ)。
永井愛の「書く女」を観てきました。
寺島しのぶが樋口一葉を演じています。
樋口一葉について、皆さんはどのくらい具体的なイメージがあるでしょうか?
「5000円札の人」
「『たけくらべ』の人」
「若くして貧乏なまま死んだ不幸そうな人」
そんなところでしょうか。
樋口一葉をドラマ化した舞台としては、なんといっても井上ひさしの「頭痛肩凝り樋口一葉」が有名です。
井上作品に出てくる一葉は、主役なんだけどわりと影が薄くて、「常に死の世界にひかれている内向的な女性」というキャラでした(その分、周囲の女性がタフでエネルギッシュに描かれています)。
ところが、今回の「書く女」に出てくる一葉はイメージがまったく違う!
一言でいって「したたか」。そして「へこたれない」。
「書く」という行為は、外から見れば「静かな行為」です。
これが「歌う女」や「踊る女」を書いた話だったら、「彼女がどんなふうに悩みながら表現したか」を舞台上でアクティブに視覚化することができますが、「書く女」ではそうはいきません。所詮、「書くこと」は目には見えない創造活動だからです。
しかし、永井愛はその問題を「一葉の現実と妄想を一続きのものとして舞台上に繰り広げる」ことによってクリアしました。
現実世界の出来事があり、それがなにかのひきがねとなって作家の創作世界につながっていくとき、その間には作家自身にしかわからない「現実とも妄想ともつかない曖昧な世界」が存在します。永井愛はそこを同じ“書く女”のとしての立場から想像し、観客に仮想体験させてくれたわけです。
だから「書く女」に登場する一葉は、作家でありながら非常にアクティブです。
観客としては、一葉の頭の中身を覗いている気分になれるので、ある意味、彼女の感情の起伏をともに体感し、彼女と一緒に作品を生みだしているような気分にすらなれます。
なんかもう“樋口一葉アトラクション”って感じ?
ただ、そこまで濃厚に実感できたのは、もしかしたら観ている自分もまた「書く女」だったからなのかもしれません。というのも、私はけっこうおもしろいと思ったんですが、周囲の評判はそれほどでもなかったので。
私が少々意外に感じたのは、「一葉がサロンの女王様状態」だったという描写です。
なんか一葉って、女所帯で戸主としての責任を背負わされて苦労し通しだったし、年中生活苦にあえいでいるような地味〜でさびしい女のイメージがあったので、「おほほほ。次に私とダンスを踊るのはどなたかしら?」みたいなイメージとはほど遠かったんですよね(←サロンの意味をはきちがえてるね、あんた)。
実際、一葉は「美人説」もあり(写真を見る限りでは、「ハッとするほどの美人」というタイプではないが、「知的な魅力のあるキリッとしたお姉さん」という感じ)、文壇の男性には随分もてたらしい。しかも年下男に。
年下っていったって、一葉は死んだのが24だから、それより年下って……子供じゃん!
うち帰って勉強しなよって感じですが、当時の年齢は今で言うとプラス10歳くらいの大人っぽさがあったんでしょう。
とにかく、“一葉お姉さまもてもて状態”はなかなか新鮮だったのですが(また一葉の年下男あしらいが堂に入っている!)、そんな有象無象(←失礼)にちやほやされてるだけで終わる一葉様ではありません。
「書く女」には、一葉に大きな影響を与えた男が2人登場します。
1人は前半に出てくる半井桃水。最初に小説の指導を請うたという新聞小説作家です。
桃水は、明治の男にしては珍しいフェミ男くんタイプです。まったく威張ったところがないし、優しいし、二枚目だし、料理も上手。しかもヒューマニストでもあり、純粋な「いい人」キャラです。
一葉と桃水は明らかにひかれあっているし、「雪の夜のお泊まり事件疑惑」もあって、かなりいい線いっていたらしい。
双方とも独身だし、今ならなんの問題もなさそうですが、問題は2人とも家を継がなくてはならない身の上だということ。戸主の女は婿をとらない限りは結婚できないので、2人が結ばれることはありません。
桃水の前での一葉はじつにかわいらしく、まさに「恋する乙女」。でも、本当に恋に溺れているのではなく、悲劇的な状況(忍ぶ恋)を積極的に作って恋する自分に酔っているようにも見えます。もちろん、その陶酔感がそのまま小説の肥やしになっていることは言うまでもありません。
もう1人の男は後半に出てくる斎藤緑雨。一葉の作品をこきおろす評論家です。
この緑雨は、桃水とは対照的なキャラで、「ものを書く男のタイプ」というのがあるとして、その白い面が出ると桃水になり、黒い面が出ると緑雨になるという感じ。
森鴎外、幸田露伴など、名だたる作家が一葉を激賞する中、緑雨だけは批判的な評を載せるのですが、じつはそれは彼特有の「愛情表現」。
いきなり一葉の家に押し掛け、「あなたのこの作品のこの人物の行動について、鴎外はこれこれこういうふうに言っているが私の見解は違う。これこれこういうことなのではないか? どうだ。私のほうが正しいだろう」と迫る緑雨。
フツーに見れば「うざっ。自分が一番ものがよくわかってるって言いたいのね。一人で勝手に自慢してろよ。てゆーか急に来るな。帰れ、ボケ!」とむかつくところでしょうが、よーく聞くとそうではないんですね。
彼の言葉の真意は「世界中であなたを一番理解しているのは私だ」なんです。つまり、愛の告白なんですよ。わかりにくいですけど。
緑雨は、自分が一葉の作品をどれだけ深く理解しているかを綿々と述べ立てた上で、「あなたはまだ本当に書くべきことを書いていない。すでにそれをみつけているのに表に出すのをためらっている。あなたがそれを書くまでは、私は涙をのんであなたをこきおろし続ける」と宣言。
これを男女の愛といってしまっていいのかどうかは難しいところですが、一葉が女性でなかったら彼がここまでムキになったかどうかは疑問なので、そのへんはいろいろな思いがいりまじっているのでしょう。ちなみに緑雨は一葉の死後、彼女の日記刊行のために奔走したり、一葉の母親の葬式代を肩代わりするなど、変わらぬ忠誠(笑)を貫いたといいます。
この緑雨を前にした一葉はといえば、桃水の前での「恋する乙女モード」とはうってかわって「挑戦的な態度」になります。ていうか「挑発」かな。なんかふてぶてしいんですよ。見えない刃物で斬り合うような緊迫感を楽しんでいる、みたいな。
で、何を言っても一葉が動じないので、その態度に興奮してますます緑雨の言葉の毒に磨きがかかっていく。
ここでの一葉の顔もやっぱり緑雨の期待に合わせてつくりあげた仮面であり、このやりとりもまた晩年の小説の肥やしとなっていくのです。
こうしてみると、「書く女」の一葉は、非常に相手のニーズをくみ取るのがうまい女だという印象を受けます。
人間観察をする代償として、相手の望む顔を見せる。そしてまんまと相手の本質をひきずりだす。それを小説の肥やしにする。そしてできた小説を今度は自分の肥やしにしてますます輝いていく。
「書く女」には皆、少なからずこういった「リサイクル構造」が備わっているように思えます。
ほら。あなたのまわりにもいませんか?
こういう女。
永井愛の「書く女」を観てきました。
寺島しのぶが樋口一葉を演じています。
樋口一葉について、皆さんはどのくらい具体的なイメージがあるでしょうか?
「5000円札の人」
「『たけくらべ』の人」
「若くして貧乏なまま死んだ不幸そうな人」
そんなところでしょうか。
樋口一葉をドラマ化した舞台としては、なんといっても井上ひさしの「頭痛肩凝り樋口一葉」が有名です。
井上作品に出てくる一葉は、主役なんだけどわりと影が薄くて、「常に死の世界にひかれている内向的な女性」というキャラでした(その分、周囲の女性がタフでエネルギッシュに描かれています)。
ところが、今回の「書く女」に出てくる一葉はイメージがまったく違う!
一言でいって「したたか」。そして「へこたれない」。
「書く」という行為は、外から見れば「静かな行為」です。
これが「歌う女」や「踊る女」を書いた話だったら、「彼女がどんなふうに悩みながら表現したか」を舞台上でアクティブに視覚化することができますが、「書く女」ではそうはいきません。所詮、「書くこと」は目には見えない創造活動だからです。
しかし、永井愛はその問題を「一葉の現実と妄想を一続きのものとして舞台上に繰り広げる」ことによってクリアしました。
現実世界の出来事があり、それがなにかのひきがねとなって作家の創作世界につながっていくとき、その間には作家自身にしかわからない「現実とも妄想ともつかない曖昧な世界」が存在します。永井愛はそこを同じ“書く女”のとしての立場から想像し、観客に仮想体験させてくれたわけです。
だから「書く女」に登場する一葉は、作家でありながら非常にアクティブです。
観客としては、一葉の頭の中身を覗いている気分になれるので、ある意味、彼女の感情の起伏をともに体感し、彼女と一緒に作品を生みだしているような気分にすらなれます。
なんかもう“樋口一葉アトラクション”って感じ?
ただ、そこまで濃厚に実感できたのは、もしかしたら観ている自分もまた「書く女」だったからなのかもしれません。というのも、私はけっこうおもしろいと思ったんですが、周囲の評判はそれほどでもなかったので。
私が少々意外に感じたのは、「一葉がサロンの女王様状態」だったという描写です。
なんか一葉って、女所帯で戸主としての責任を背負わされて苦労し通しだったし、年中生活苦にあえいでいるような地味〜でさびしい女のイメージがあったので、「おほほほ。次に私とダンスを踊るのはどなたかしら?」みたいなイメージとはほど遠かったんですよね(←サロンの意味をはきちがえてるね、あんた)。
実際、一葉は「美人説」もあり(写真を見る限りでは、「ハッとするほどの美人」というタイプではないが、「知的な魅力のあるキリッとしたお姉さん」という感じ)、文壇の男性には随分もてたらしい。しかも年下男に。
年下っていったって、一葉は死んだのが24だから、それより年下って……子供じゃん!


とにかく、“一葉お姉さまもてもて状態”はなかなか新鮮だったのですが(また一葉の年下男あしらいが堂に入っている!)、そんな有象無象(←失礼)にちやほやされてるだけで終わる一葉様ではありません。
「書く女」には、一葉に大きな影響を与えた男が2人登場します。
1人は前半に出てくる半井桃水。最初に小説の指導を請うたという新聞小説作家です。
桃水は、明治の男にしては珍しいフェミ男くんタイプです。まったく威張ったところがないし、優しいし、二枚目だし、料理も上手。しかもヒューマニストでもあり、純粋な「いい人」キャラです。
一葉と桃水は明らかにひかれあっているし、「雪の夜のお泊まり事件疑惑」もあって、かなりいい線いっていたらしい。
双方とも独身だし、今ならなんの問題もなさそうですが、問題は2人とも家を継がなくてはならない身の上だということ。戸主の女は婿をとらない限りは結婚できないので、2人が結ばれることはありません。
桃水の前での一葉はじつにかわいらしく、まさに「恋する乙女」。でも、本当に恋に溺れているのではなく、悲劇的な状況(忍ぶ恋)を積極的に作って恋する自分に酔っているようにも見えます。もちろん、その陶酔感がそのまま小説の肥やしになっていることは言うまでもありません。
もう1人の男は後半に出てくる斎藤緑雨。一葉の作品をこきおろす評論家です。
この緑雨は、桃水とは対照的なキャラで、「ものを書く男のタイプ」というのがあるとして、その白い面が出ると桃水になり、黒い面が出ると緑雨になるという感じ。
森鴎外、幸田露伴など、名だたる作家が一葉を激賞する中、緑雨だけは批判的な評を載せるのですが、じつはそれは彼特有の「愛情表現」。
いきなり一葉の家に押し掛け、「あなたのこの作品のこの人物の行動について、鴎外はこれこれこういうふうに言っているが私の見解は違う。これこれこういうことなのではないか? どうだ。私のほうが正しいだろう」と迫る緑雨。
フツーに見れば「うざっ。自分が一番ものがよくわかってるって言いたいのね。一人で勝手に自慢してろよ。てゆーか急に来るな。帰れ、ボケ!」とむかつくところでしょうが、よーく聞くとそうではないんですね。
彼の言葉の真意は「世界中であなたを一番理解しているのは私だ」なんです。つまり、愛の告白なんですよ。わかりにくいですけど。
緑雨は、自分が一葉の作品をどれだけ深く理解しているかを綿々と述べ立てた上で、「あなたはまだ本当に書くべきことを書いていない。すでにそれをみつけているのに表に出すのをためらっている。あなたがそれを書くまでは、私は涙をのんであなたをこきおろし続ける」と宣言。
これを男女の愛といってしまっていいのかどうかは難しいところですが、一葉が女性でなかったら彼がここまでムキになったかどうかは疑問なので、そのへんはいろいろな思いがいりまじっているのでしょう。ちなみに緑雨は一葉の死後、彼女の日記刊行のために奔走したり、一葉の母親の葬式代を肩代わりするなど、変わらぬ忠誠(笑)を貫いたといいます。
この緑雨を前にした一葉はといえば、桃水の前での「恋する乙女モード」とはうってかわって「挑戦的な態度」になります。ていうか「挑発」かな。なんかふてぶてしいんですよ。見えない刃物で斬り合うような緊迫感を楽しんでいる、みたいな。
で、何を言っても一葉が動じないので、その態度に興奮してますます緑雨の言葉の毒に磨きがかかっていく。
ここでの一葉の顔もやっぱり緑雨の期待に合わせてつくりあげた仮面であり、このやりとりもまた晩年の小説の肥やしとなっていくのです。
こうしてみると、「書く女」の一葉は、非常に相手のニーズをくみ取るのがうまい女だという印象を受けます。
人間観察をする代償として、相手の望む顔を見せる。そしてまんまと相手の本質をひきずりだす。それを小説の肥やしにする。そしてできた小説を今度は自分の肥やしにしてますます輝いていく。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
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