古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
「バルトの楽園」をみました
チケットをいただいたので、駆け込みで「バルトの楽園」を観てきました。
なんとなく「夏休みの間中やっているんじゃないか」と漠然と思って油断していたのですが、ある日ふと劇場検索してみたら、なんと都内のほとんどの劇場では8/4で終了していて、最後に残った銀座シネパトスが18日まででおしまいではないですか!
……てことで、あわてて最終日の今日、行ってきました。
前評判としては、「日本で初めて『第九』が演奏されるまでの苦労話だと思って観たら、いつまでたっても『第九』が出てこなくて、『いつ出るんだ!』と思ってたら残り10分というところで唐突に始まり、演奏が終わると同時に映画も終わったので、キツネにつままれた感じ」というような感想をきいていたので、覚悟はしていきましたが、なるほどその通りでした。
ただ、これはそういう映画(「第九」の初演の秘話とか)ではないですね。そういうものを期待していくと前述したような感想になりますが、「第九」はお話の要素のひとつだと思えばそれほど違和感はありません。
じゃあどんな話なんだと言われるとうーーーん。
なんて言ったらいいんでしょう。悪い映画ではないと思うんですよ(微妙な言い方)。
長いけど退屈はさせられないし。
「なんでこの人こんなことするの?」「この人何がしたいの?」というような破綻もわかりにくさもないし。
脚本の古田求さんは時代劇で人情をきちっと書ける大ベテランですし、そのへんおさえるべきセオリーはきちんとおさえて無難には作ってます。
が、その無難さがどうもひっかかるというか、ひっかからないというか…。
失礼承知で言いますと、手練れのベテランが小手先で作った感がぬぐえないのです。
古田さんならもっともっとぐっとくる話にできたんじゃないかと思えばこその物足りなさなんですが。
おもしろいなと思ったのは、主人公の松江所長(松平健)をただの「いい人」として描くのではなく、「維新で辛酸をなめた会津藩出身として、弱者や敗者に対して格別の思いがある」「だからドイツ人俘虜たちにはたとえ敗者となっても祖国再建のために力強く生き抜いてほしいと願っている」といったような背景をとりいれている点です。
徳島旅行中にこの板東収容所の話をきいたときは、時代がいまひとつピンとこなかったんですが、「日本ではまだ維新の生々しい記憶が緒をひいている時代(=維新で敗者となって苦労してきた世代がまだ生存している時代)」という位置づけがはっきり示されたことでぐっとストーリーが生き生きと迫ってきました。このへんは脚本家のベテランらしい仕事ぶりですね。
その一方で、登場人物の対立やドラマについては、盛りだくさんすぎてすべてがさらっと表面的に通り過ぎてしまった印象を受けました。
「予定調和」と言っては身も蓋もないですが、大団円に向かってあまりにもシャンシャン話がいい具合にころがりすぎる感じが気になったんですよね。
松江がいい人すぎるというのはまあこの際おいておくとして、だったらその対立候補としての伊東(阿部寛)にもうちょっと見せ場がほしかった。
「同じ会津出身として薩長になめられたくない」という思いとか、一応自分の意見や立場は明確にしているので、なんのためにいるのかという役割はよくわかるんですけど、そういう説明じゃなくて、実際に俘虜対管理者というシチュエーションになったときに、松江と伊東とでは何が違うのか、具体的な行動で見せていってもらいたかったです。
伊東が上層部に「松江は俘虜に甘すぎる」とチクるところがあって、そこが唯一松江が危機に立つ場面なのですが、実際はもっともっと厳しい出来事があったと思うんですよね。極端な話、「俘虜を守るのか、自分の家族の生活を守るのか」というくらい追いつめられるようなことが。それを乗り越えていく松江の姿というのが当然話の軸になっていくと思うのですが、残念ながらそこが弱い。松江に対して最初から好意的な人が多すぎるんです。
奥さん(高島礼子)にしても、絵に描いたような良い奥さんとしてしか出てこないので、添え物っぽくてもったいない。せめて「夫の信念はわかってあげたいけど、家族のことも考えてほしい。でも言えない」くらいの葛藤はあってもいいのでは?
松江と対立する存在として、伊東と並ぶのがハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)です。
まあ、俘虜の親玉といった存在なんですが、この2人の対立ももうちょっと書き込んでほしかったところ。
それはそれとしてハインリッヒ、なんであなたはそんなに態度がでかいのですか?
最初に送られた久留米の収容所では、横暴な南郷所長(板東英二)に向かって「あんたは所長としての資質に欠けてる!」と捕虜全員の前で糾弾。いや、そりゃ殴られて当然ですよ。そんなの「はい。さようですか」なんて所長が認めたら収拾つかなくなっちゃうじゃん。あまりの場の空気読めなさに唖然としました。
板東に移されてからもハインリッヒの俺様状態は続き、こぎれいな個室を与えられ、タバコ(パイプだったか?)を優雅にくゆらせながらクラシック音楽を鑑賞。松江所長が入ってきても挨拶するでもなく、「今、音楽鑑賞の時間だからあとにしてくんない?」って態度。また松江もおとなしくご機嫌伺いに終始してるし。どっちが所長だよ!
あと、敗戦を知って自殺を図るシーンがあるんですが、「頭を撃とうとして左手を負傷」というのが意味不明でした。ほんとに死ぬ気あるの?
ていうか、基本的な問題として俘虜がピストル持ってていいのか?
話に破綻は少な目と言いましたが、正直ここは「無理がある」と思いました。
その他の俘虜についても書き込み不足を感じました。
まず、俘虜の中にもいろいろなタイプがいて、少なくとも最初のうちは松江に対する感情もさまざまだと思うんですが、「俘虜と松江がうまくいかない」というエピソードが皆無に等しいので(松江はドイツ語ペラペラなので言葉による障害もなし)、「松江が俘虜たちに受け入れられていくドラマ」としては弱いというのがひとつ。
もうひとつは俘虜たちだけのドラマがあまりないので、彼らの本音(松江たちの前では見せない)の強さが伝わってこないこと。
たとえば、唯一事件らしい事件(全体を通して意外に事件が少ないんですよね)だった俘虜カルル(オリバー・ブーツ)の脱走事件。結局、彼は自らの意志で戻ってきて、松江は彼を咎めなかったわけですが、この事件に対する俘虜たちの反応がまったく書かれてないのが不自然です。
このドラマでは、おもに収容所の所員グループ(松江や伊東など)、俘虜グループ、板東の人々グループの3つのカテゴリーが登場します。
もちろんそれぞれのカテゴリー同士の対立を描くのは不可欠ですが、当然のことながら同じカテゴリー内でも対立やぶつかりあいや腹のさぐりあいはあるはずです。なのに、それが描かれているのはかろうじて所員グループのみで、他の2グループについては単品で考えを提示するだけでグループ内でのゴタゴタがほとんど描かれていないのです。
板東の人々もねえ、いい人ばっかりなのはわかるけど、これまた少なくとも最初のうちはもうちょっと警戒する感じとか、あからさまに好奇心をむきだしにする人とか、いろいろヴァリエーションがあってもいいんじゃないでしょうか。
ごちゃごちゃ書いてきましたが、書きついでにもう一点。
「現代とのつながり」という視点がもうひとつあってもよかったかもしれませんね。
それこそ「第九」というおいしいキーワードがあるんですから、現代から始めて、「第九」の音楽を聴いた当時の生存者が当時を回想する(あるいは子孫に語る)という形で入っていくとかね。
現代で生存っていうのが厳しいならもう少し近過去に設定してもいい。
子孫が遺品を板東に寄贈して資料館ができあがったというエピソードから入るのもいいし、神戸でパン屋を開いたカルルと、彼が養女に迎えた混血娘の志を(大後寿々花)のその後を描くところから入ってもいい。
とにかくその後の時代を生きる関係者が、何らかの事件をきっかけに封印していた過去を蘇らせる(そしてその封印を解くのが「第九」のメロディ)……という導入部だと、現代とのつながりも出るし、話も立体的になるのでは?
過去の話だけで完結させちゃうと、どうしても単なる美談話にまとまってしまいがちですから。
俘虜たちのその後というのには少なからず興味があります(むしろそっちのほうがドラマがありそう)。
とはいうものの、やはり音楽の力は大きく、最後に「第九」を演奏すればそれだけでカタルシスはバリバリ得られるし、なにもかもめでたしめでたしという気分にさせられてしまう。
「『第九』が日本で初めて演奏された状況はこういう状況だったんだよ」という事実を知らない人には、このエピソードだけでも充分観る価値はあるでしょう。
まあでもちょっと演奏うますぎなのはウソっぽいけどね。カラヤン指揮の最高クォリティーの演奏を吹き替えであてているのでうまいのは当たり前だけど、どう考えてもこの状況でこの演奏はできないだろう。。。
平日朝いちの映画館は老人でいっぱいでした。
しかも反応がすごい。
よたよたと自転車に乗る松江所長が出れば
「あーーー、あの人、ころぶよ、ころぶよ」
逃亡した俘虜が農家で介抱され、その家の子供をじっと見るシーンが出れば
「(しみじみと)あー、子供のこと思い出しちゃったんだねえ」
市原悦子が俘虜にご飯を勧め「お腹空いただろ?」と優しく問えば
「………うん」
うんって………うんって………うんって……
あんたに聞いたんじゃないよ!
あのー、TVを見るように楽しむのはけっこうなんですが、TVじゃないのでやっぱりこのような反応は謹んでいただきたいです。
ものすごーーーーく気が散りました。
なんとなく「夏休みの間中やっているんじゃないか」と漠然と思って油断していたのですが、ある日ふと劇場検索してみたら、なんと都内のほとんどの劇場では8/4で終了していて、最後に残った銀座シネパトスが18日まででおしまいではないですか!
……てことで、あわてて最終日の今日、行ってきました。
前評判としては、「日本で初めて『第九』が演奏されるまでの苦労話だと思って観たら、いつまでたっても『第九』が出てこなくて、『いつ出るんだ!』と思ってたら残り10分というところで唐突に始まり、演奏が終わると同時に映画も終わったので、キツネにつままれた感じ」というような感想をきいていたので、覚悟はしていきましたが、なるほどその通りでした。
ただ、これはそういう映画(「第九」の初演の秘話とか)ではないですね。そういうものを期待していくと前述したような感想になりますが、「第九」はお話の要素のひとつだと思えばそれほど違和感はありません。
じゃあどんな話なんだと言われるとうーーーん。
なんて言ったらいいんでしょう。悪い映画ではないと思うんですよ(微妙な言い方)。
長いけど退屈はさせられないし。
「なんでこの人こんなことするの?」「この人何がしたいの?」というような破綻もわかりにくさもないし。
脚本の古田求さんは時代劇で人情をきちっと書ける大ベテランですし、そのへんおさえるべきセオリーはきちんとおさえて無難には作ってます。
が、その無難さがどうもひっかかるというか、ひっかからないというか…。
失礼承知で言いますと、手練れのベテランが小手先で作った感がぬぐえないのです。
古田さんならもっともっとぐっとくる話にできたんじゃないかと思えばこその物足りなさなんですが。
おもしろいなと思ったのは、主人公の松江所長(松平健)をただの「いい人」として描くのではなく、「維新で辛酸をなめた会津藩出身として、弱者や敗者に対して格別の思いがある」「だからドイツ人俘虜たちにはたとえ敗者となっても祖国再建のために力強く生き抜いてほしいと願っている」といったような背景をとりいれている点です。
徳島旅行中にこの板東収容所の話をきいたときは、時代がいまひとつピンとこなかったんですが、「日本ではまだ維新の生々しい記憶が緒をひいている時代(=維新で敗者となって苦労してきた世代がまだ生存している時代)」という位置づけがはっきり示されたことでぐっとストーリーが生き生きと迫ってきました。このへんは脚本家のベテランらしい仕事ぶりですね。
その一方で、登場人物の対立やドラマについては、盛りだくさんすぎてすべてがさらっと表面的に通り過ぎてしまった印象を受けました。
「予定調和」と言っては身も蓋もないですが、大団円に向かってあまりにもシャンシャン話がいい具合にころがりすぎる感じが気になったんですよね。
松江がいい人すぎるというのはまあこの際おいておくとして、だったらその対立候補としての伊東(阿部寛)にもうちょっと見せ場がほしかった。
「同じ会津出身として薩長になめられたくない」という思いとか、一応自分の意見や立場は明確にしているので、なんのためにいるのかという役割はよくわかるんですけど、そういう説明じゃなくて、実際に俘虜対管理者というシチュエーションになったときに、松江と伊東とでは何が違うのか、具体的な行動で見せていってもらいたかったです。
伊東が上層部に「松江は俘虜に甘すぎる」とチクるところがあって、そこが唯一松江が危機に立つ場面なのですが、実際はもっともっと厳しい出来事があったと思うんですよね。極端な話、「俘虜を守るのか、自分の家族の生活を守るのか」というくらい追いつめられるようなことが。それを乗り越えていく松江の姿というのが当然話の軸になっていくと思うのですが、残念ながらそこが弱い。松江に対して最初から好意的な人が多すぎるんです。
奥さん(高島礼子)にしても、絵に描いたような良い奥さんとしてしか出てこないので、添え物っぽくてもったいない。せめて「夫の信念はわかってあげたいけど、家族のことも考えてほしい。でも言えない」くらいの葛藤はあってもいいのでは?
松江と対立する存在として、伊東と並ぶのがハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)です。
まあ、俘虜の親玉といった存在なんですが、この2人の対立ももうちょっと書き込んでほしかったところ。
それはそれとしてハインリッヒ、なんであなたはそんなに態度がでかいのですか?
最初に送られた久留米の収容所では、横暴な南郷所長(板東英二)に向かって「あんたは所長としての資質に欠けてる!」と捕虜全員の前で糾弾。いや、そりゃ殴られて当然ですよ。そんなの「はい。さようですか」なんて所長が認めたら収拾つかなくなっちゃうじゃん。あまりの場の空気読めなさに唖然としました。
板東に移されてからもハインリッヒの俺様状態は続き、こぎれいな個室を与えられ、タバコ(パイプだったか?)を優雅にくゆらせながらクラシック音楽を鑑賞。松江所長が入ってきても挨拶するでもなく、「今、音楽鑑賞の時間だからあとにしてくんない?」って態度。また松江もおとなしくご機嫌伺いに終始してるし。どっちが所長だよ!
あと、敗戦を知って自殺を図るシーンがあるんですが、「頭を撃とうとして左手を負傷」というのが意味不明でした。ほんとに死ぬ気あるの?
ていうか、基本的な問題として俘虜がピストル持ってていいのか?
話に破綻は少な目と言いましたが、正直ここは「無理がある」と思いました。
その他の俘虜についても書き込み不足を感じました。
まず、俘虜の中にもいろいろなタイプがいて、少なくとも最初のうちは松江に対する感情もさまざまだと思うんですが、「俘虜と松江がうまくいかない」というエピソードが皆無に等しいので(松江はドイツ語ペラペラなので言葉による障害もなし)、「松江が俘虜たちに受け入れられていくドラマ」としては弱いというのがひとつ。
もうひとつは俘虜たちだけのドラマがあまりないので、彼らの本音(松江たちの前では見せない)の強さが伝わってこないこと。
たとえば、唯一事件らしい事件(全体を通して意外に事件が少ないんですよね)だった俘虜カルル(オリバー・ブーツ)の脱走事件。結局、彼は自らの意志で戻ってきて、松江は彼を咎めなかったわけですが、この事件に対する俘虜たちの反応がまったく書かれてないのが不自然です。
このドラマでは、おもに収容所の所員グループ(松江や伊東など)、俘虜グループ、板東の人々グループの3つのカテゴリーが登場します。
もちろんそれぞれのカテゴリー同士の対立を描くのは不可欠ですが、当然のことながら同じカテゴリー内でも対立やぶつかりあいや腹のさぐりあいはあるはずです。なのに、それが描かれているのはかろうじて所員グループのみで、他の2グループについては単品で考えを提示するだけでグループ内でのゴタゴタがほとんど描かれていないのです。
板東の人々もねえ、いい人ばっかりなのはわかるけど、これまた少なくとも最初のうちはもうちょっと警戒する感じとか、あからさまに好奇心をむきだしにする人とか、いろいろヴァリエーションがあってもいいんじゃないでしょうか。
ごちゃごちゃ書いてきましたが、書きついでにもう一点。
「現代とのつながり」という視点がもうひとつあってもよかったかもしれませんね。
それこそ「第九」というおいしいキーワードがあるんですから、現代から始めて、「第九」の音楽を聴いた当時の生存者が当時を回想する(あるいは子孫に語る)という形で入っていくとかね。
現代で生存っていうのが厳しいならもう少し近過去に設定してもいい。
子孫が遺品を板東に寄贈して資料館ができあがったというエピソードから入るのもいいし、神戸でパン屋を開いたカルルと、彼が養女に迎えた混血娘の志を(大後寿々花)のその後を描くところから入ってもいい。
とにかくその後の時代を生きる関係者が、何らかの事件をきっかけに封印していた過去を蘇らせる(そしてその封印を解くのが「第九」のメロディ)……という導入部だと、現代とのつながりも出るし、話も立体的になるのでは?
過去の話だけで完結させちゃうと、どうしても単なる美談話にまとまってしまいがちですから。
俘虜たちのその後というのには少なからず興味があります(むしろそっちのほうがドラマがありそう)。
とはいうものの、やはり音楽の力は大きく、最後に「第九」を演奏すればそれだけでカタルシスはバリバリ得られるし、なにもかもめでたしめでたしという気分にさせられてしまう。
「『第九』が日本で初めて演奏された状況はこういう状況だったんだよ」という事実を知らない人には、このエピソードだけでも充分観る価値はあるでしょう。
まあでもちょっと演奏うますぎなのはウソっぽいけどね。カラヤン指揮の最高クォリティーの演奏を吹き替えであてているのでうまいのは当たり前だけど、どう考えてもこの状況でこの演奏はできないだろう。。。
平日朝いちの映画館は老人でいっぱいでした。
しかも反応がすごい。
よたよたと自転車に乗る松江所長が出れば
「あーーー、あの人、ころぶよ、ころぶよ」
逃亡した俘虜が農家で介抱され、その家の子供をじっと見るシーンが出れば
「(しみじみと)あー、子供のこと思い出しちゃったんだねえ」
市原悦子が俘虜にご飯を勧め「お腹空いただろ?」と優しく問えば
「………うん」
うんって………うんって………うんって……
あんたに聞いたんじゃないよ!
あのー、TVを見るように楽しむのはけっこうなんですが、TVじゃないのでやっぱりこのような反応は謹んでいただきたいです。
ものすごーーーーく気が散りました。
「バルトの楽園<メイキング>」(DVD)
二枚看板、松平健&ブルーノ・ガンツを
フィーチャーしたメイキングDVD。
二枚看板、松平健&ブルーノ・ガンツを
フィーチャーしたメイキングDVD。
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「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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相槌を打ったかどうかは不明ですが、水曜日に行ったので、女性1000円の日のため周りは女性ばっかりだったようです。
作曲家の池辺晋一郎さんが、N響アワーで、混声合唱を、男声合唱に直すのが難しかったと裏話をしていました。
当時は、楽器は手作りのものが多く、三味線のようなバイオリンを弾いていた写真もありました。
上映が終わっちゃているなら、ビデオがレンタルされるまで待ちたいです。
××××カラヤン
本文に「カラヤンの演奏を吹き替え」と書きましたが、考えてみるとおっしゃるとおり男声合唱でやってたし、そのまま使ってるのはおかしい気がしてきた…。私の勘違いかも。
父に言ったら「あの××××カラヤン事務所が吹き替えなんかに使わせるはずがない」と(××××は適宜埋めてください)。
たしかにね、もし使ってたらロイヤリティしこたまとられてるでしょうね。
最後のクレジットで流れた部分だけなのかも。
三味線みたいなヴァイオリンってどんな音なんだろう。
できれば当時の手作り楽器での演奏の音を再現してほしかったな。