古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
あのとき、私は若かった
私が通っていた高校(中高一貫の非ミッション系の私立女子校)は、イベントに対して異様に執念を燃やすことで有名な学校です。
特に年2回の最大イベント、「春の体育祭」と「秋の文化祭」にはまるまる1年分の精力を注ぎ、その直前は授業どこじゃないっていうくらい盛り上がり、終わったら終わったで燃え尽きちゃってやっぱり授業どこじゃないっていうふざけた生徒たちでした。
……という話は、今までにも折りに触れてしてきたと思います。
そのうち、「秋の文化祭」については、2006年10月2日の記事「衝撃の『レミゼ』文化祭公演」にたっぷり書きましたが、今日は「春の体育祭」について書こうと思います。
うちの体育祭の大きな特徴──それは「学年対抗」というところにあります。
最近は、みんなが手をつないで一斉にゴールするとか、順位は決めないとか、運動会でも「平等」を要求する変な風潮がありますが、その発想で言えばうちの体育祭は不平等きわまりないものです。
だって、中1なんてつい2ヶ月前までは小学生だったんですよ。高3は来年には大学に入る年齢ですよ。勝負にならなくて当然でしょう。
実際、集団で並んでるのを見ても、「大人」と「子供」くらいの体格差があります。
「平等にするなら中1〜高3までの混合チームをつくって対抗させるべきじゃないの?」
「これじゃ高3が必ず優勝して当たり前じゃない」
と思いますよね。
ところが、実際にやってみるとこれがそうでもないんですよ。
まあ中1がビリなのはまず動かないにしても、その上は順位の入れ替わりがけっこうありますし、高1くらいになると上級生を抜いて優勝した学年も過去の歴史にはあります。
身が軽いほうが有利な種目、持久力が要求される種目、経験とキャリアがものをいう種目、団結力が必要な種目…といろいろありますからね。体格がよければすべていけるってほど甘くはない。
ちょうど相撲が体重別じゃないからおもしろいように、学年対抗戦ももまさかという逆転劇を生み出すおもしろさがあります。
特に高2と高3の差は拮抗しており、逆転されることもしばしば。ひとつ下の学年が強豪だったりすると、結局一度も優勝できないまま卒業していかねばならない悲運の学年もでてきますが、そのトラウマは外部の人の想像をはるかに超えたものです。
「そんな……たかが体育祭で優勝できなかったくらいで大げさな」
と思いますよね?
でも大げさじゃなく、「体育祭で優勝した」という事実は、その後の人生の困難を乗り越えるための支えになるくらいの重みがあるので、優勝経験がある学年は何十年たって集まってもその共通体験を反芻しては再び生きるパワーをもらえるし、優勝できなかった学年は、同窓会で集まっても「体育祭の話」はNGワードというくらい微妙な思いを抱えていくことになります(先生も、卒業生に会うときは「優勝した学年かどうか気を使って話す」と言ってました)。
で、私たちの学年はどうだったのかというと……「高3で優勝しました」。
そこだけ見ると「よかったね」という話なんですが、ここへくるまでは平坦な道のりではありませんでした。
というのも、私たちは「万年5位」という不名誉な称号を与えられていた伝説の学年だったからです。
まず、中1のときの成績は「6位」。
これはまあ誰もが通る道のりだったんで誰も傷つきませんでした。
そして翌年の中2では「5位」。
これまた順当な順位なので、「このまま来年は4位、次は3位とのぼっていくんだろうなー」と漠然と思っていました。
ところが、中3の順位は……やっぱり「5位」。
そう。ひとつ下の中2に抜かされちゃったのです。
「あちゃー、参ったね、こりゃどうも」
という感じでしたが、元来、よく言えば「のびのび」、悪く言えば「お気楽体質」だったうちの学年は、まだそれほどの危機感を感じていませんでした。
が、高1で「5位」になったときはさすがに顔面蒼白になりました。
いくらなんでも中2にまで負けるって……そりゃあないだろう。そんな学年、聞いたことないよ。
こうなると、下の学年からもなめられるようになってきます。
「あの学年は恐るるに足らず」と陰でみんなに言われているような気がしました(というか、実際に言われてました)。
「年功序列なんて通じないんだ。勝つためには人よりも努力しなければいけないんだ」
そんな当たり前のことに気づき、本気で努力し始めたのがこの年からでした。それまでだって決して努力していなかったわけではないのですが、それではまだまだ足りなかったということです。
悔し泣きに暮れた苦い体育祭が終わり、その翌日から私たちは来年のリベンジに向けて具体的に動き始めました。その詳細については語りませんが、かなりシステマチックに計画をたてて、研究を重ね、練習を積んできました。
その甲斐あって、高2では念願の「2位」を獲得。
とにかく「学年相当の順位」を得ることがその年の目標だったので、このときは優勝した高3を心から祝福し、2位という成績に満足して終わりました。
ここまできたら残る目標は「優勝して卒業する」──これしかありません。
卒業するまでに優勝できるのはワンチャンス。泣いても笑っても次回だけです。
下の学年は強豪揃いだったし、「優勝」はさらに高いハードルでしたが、結果的にはなんとか達成することができました。
もうひとつ、うちの体育祭の呼びものに「応援合戦」がありました。
これは昼休憩のあと、午後の部に入る前にやはり学年対抗で行うもので、まあ一言でいうとマスゲームみたいなものですが、このレベルはかなり高いです。
中1は入ったばかりで何もわからないので、先生が内容を考え、教えられた通りにやるだけですが、中2以降はすべて自分たちで考え、1年かけて練習を繰り返していきます。
私たちの時代でもこの時間帯はすごい数のギャラリーで溢れかえってましたが、今はさらに人気がヒートアップしているようで、5年前に見に行ったときは、空間という空間がすべてギャラリーで埋め尽くされていて、そのボルテージの高さに驚きました(父兄は早朝、生徒より早く学校へ行って、開門と同時に席取り争奪戦を始めるらしいです)。
ここでさらにうちの特徴をいうと、入学と同時に「学年色」が与えられること。
私たちは「紫」でしたが、その学年色は卒業するまでずっと私たちのもので、卒業するとその色は中1にまわります。
たとえば、私たちが中1のとき、中2は白、中3は青、高1は赤、高2は黄、高3は緑でしたが、次の年は中1が緑になり、あとは繰り上がるという次第。
おかしなもので、同じ色の学年にはわけもなく親近感がわくという現象があって(同じ学年色の学年と同じ時期に在学することはないわけですが)、卒業してもOGに会うと「何年卒業か?」よりもまず「何色?」と聞かれ、同じ色だと年齢に関係なく妙な同志愛を感じたりします。
また、「紫のひとつ下は緑で、その下は黄色」というふうに、みんな色の並びが体にしみついているので、「何年卒業」と数字で言われるよりも「黄色」と言われたほうが「ああ、2コ下ね」とすぐにピンとくるという便利さもあります。
この「学年色」はいわば学年のCIみたいなもので、いたるところで利用されますが(同期会の名称は学年色にちなむものにするとか、体育祭の応援にくる父兄や先生は必ず学年色を身につけるとか)、これがもっとも色濃く発揮されるのが体育祭の応援合戦です。
忘れもしない中1の体育祭のとき。
高3は緑の学年でした。
その応援内容は、木の芽が生まれ、育ち、やがて大きな樹木になって実をつけるまでの過程をパネルの展開で表現したもので、幼心にそのスケールの大きさと迫力に驚嘆し、「高3ってすごい人たちなんだ」とボーッとしたのを覚えています。
それ以来、「高3はどの学年よりも圧倒的にすばらしい応援をするもの」という刷り込みができあがり、それはそのまま、自分たちが高3になったときの応援への意気込みにつながっていきました。
高3のとき、私たちは「今までにどこもやったことがない独創的なものをやろう」という構想のもと、「ケチャ」をとりいれた応援を計画しました。
「パネル」や「ポンポン」を使った「視覚効果」に訴える応援はすでに散々出つくしていましたが、「声」を中心にした応援はまだないのではないか?と思ったからです。
「ケチャ」は、今でこそ観光客向けのパフォーマンスとしてすっかり有名になってしまいましたが、当時そんなものを知っている人はほとんどいなかったと思います。
そんなマイナーなものに目をつけ、応援用にアレンジした企画委員・執行委員の眼力と実行力には心底敬服します。
当日の反響は今でもはっきり覚えています。
当然ながら、自分たちが今どう見えているのか、やっている本人たちにはわかりません。
だから、練習の間はいまいちどこがどうすごいのかよくわからないままやっているのですが(チェックできるのは前に出ている応援団の人だけ)、本番では山場になるとギャラリーからいっせいに「おおっ」という大きなどよめきが響いてきて、そのとき初めて「ああ、すごいことやってるんだ」という手応えを得て、快感と日差しの強さに頭がクラクラしたものです。
「この応援を見て、中1の子たちはあの頃の私みたいに『すごいな』『あんなふうになりたいな』って思ってくれてるのかな…」
緑の応援に度肝を抜かれたあのときが体育祭への「入学」の瞬間だとすれば、このときが「卒業」の瞬間だったのかもしれません。
1年かけてつくりあげてきた応援はたった数分間で終わってしまいますが、その充実感は何十年たっても色あせることなく残っています。
前振りがすごく長くなりましたが、本題はここから(ええかげんにせえ!とつっこまれそうですが)。
さる12月1日のこと。
母校でM先生の校長就任祝いが催されました。
M先生は、中1から高3まで私たちの学年の担任を受け持っていた先生だったので、プチ同期会を兼ねた祝賀会が行われたのです。
出席者は日頃M先生に連絡をとっている紫の仲間66名。
正式な同期会ではないので、学年全部(360名余)に連絡したわけじゃないのですが、個人的な呼びかけだけでここまで集まるというのもすごい出席率です。
で、当日のお楽しみとして、高3のときの体育祭フィルム上映会が行われました。
DVDにおこしたものの、画質はかなり粗い状態。
それでもみんなすさまじい盛り上がりで、紫の同級生が画面に映るたびに大騒ぎ。“27年前の■■ちゃん”が走り高跳びをクリアすればその場にいるかのように大喝采だし、“27年前の△△ちゃん”がリレーで独走すれば本気で拍手するし、先生は画面を見ながら「えー、このときはこのような陣形が主流でしたが、今の傾向は……」などとウンチク解説を加えるし、先生に限らず何か言いたい人はマイクを奪いあいながら「ああだった」「こうだった」と解説合戦になるし、「なんなんだ、このオリンピックのような盛り上がりは…」と大受けでした。
そんな大騒ぎも、応援合戦のときばかりはやんで静かになりました。
自分たちの応援をフィルムやビデオで見たのはこのときが初めてではありませんでしたが、久しぶりに見た応援は、近いようでなんだかとても遠いものに感じました。
そうか。このときは自分たちの姿を見ることができなかったけど、今は見ることしかできないんだな……。
そう思ったら、急にじわっと涙があふれ出てきました。
似たようなシチュエーションのドラマを書いたことがあるけど、「ああ、ほんとにこういうときって涙が出るもんなんだ」と思いましたね。
「すごい。すごいよ。あんたたちは……」
中1のときに高3の応援を見たときとは違う意味で素直にそう思いました。
決定的に違うのは、中1のときはこれを目指そうと思ったこと、今はここから離れていく自分を実感したことです。
で、わかったのは「今」は自分には見えないってこと。「過去」や「未来」から眺めることはできても、「今」から「今」は見えない。
そのすばらしさもその瞬間には本当の意味では理解できない。
なんて残酷なんだろう。
今はすでにこんなにいろいろなものを失っているのに。
泣けたのはそれが一番の理由です。
でも「うらやましい」「戻りたい」とは思いません。
だって戻ってもやっぱりそのときの価値はそのときの自分にはわからないだろうから。
「今」が見えないのが宿命なら、いつを生きても同じこと。
だったら、どんなにつらくても、苦しくても、見えない部分にこそ希望と可能性があると信じたいです。
暗闇の中、他の人がどんな思いでこの映像を見たのかわからないけど、きっとそれぞれの思いがあったんじゃないでしょうか。
今回はシリアスになってしまいましたが(ブログはなるべく軽い話を書きたいんだけど)、ま、たまにはいいよね。人間だもの(←まだやってんのか←ほんとは好きなんじゃねえの)。
特に年2回の最大イベント、「春の体育祭」と「秋の文化祭」にはまるまる1年分の精力を注ぎ、その直前は授業どこじゃないっていうくらい盛り上がり、終わったら終わったで燃え尽きちゃってやっぱり授業どこじゃないっていうふざけた生徒たちでした。
……という話は、今までにも折りに触れてしてきたと思います。
そのうち、「秋の文化祭」については、2006年10月2日の記事「衝撃の『レミゼ』文化祭公演」にたっぷり書きましたが、今日は「春の体育祭」について書こうと思います。
うちの体育祭の大きな特徴──それは「学年対抗」というところにあります。
最近は、みんなが手をつないで一斉にゴールするとか、順位は決めないとか、運動会でも「平等」を要求する変な風潮がありますが、その発想で言えばうちの体育祭は不平等きわまりないものです。
だって、中1なんてつい2ヶ月前までは小学生だったんですよ。高3は来年には大学に入る年齢ですよ。勝負にならなくて当然でしょう。
実際、集団で並んでるのを見ても、「大人」と「子供」くらいの体格差があります。
「平等にするなら中1〜高3までの混合チームをつくって対抗させるべきじゃないの?」
「これじゃ高3が必ず優勝して当たり前じゃない」
と思いますよね。
ところが、実際にやってみるとこれがそうでもないんですよ。
まあ中1がビリなのはまず動かないにしても、その上は順位の入れ替わりがけっこうありますし、高1くらいになると上級生を抜いて優勝した学年も過去の歴史にはあります。
身が軽いほうが有利な種目、持久力が要求される種目、経験とキャリアがものをいう種目、団結力が必要な種目…といろいろありますからね。体格がよければすべていけるってほど甘くはない。
ちょうど相撲が体重別じゃないからおもしろいように、学年対抗戦ももまさかという逆転劇を生み出すおもしろさがあります。
特に高2と高3の差は拮抗しており、逆転されることもしばしば。ひとつ下の学年が強豪だったりすると、結局一度も優勝できないまま卒業していかねばならない悲運の学年もでてきますが、そのトラウマは外部の人の想像をはるかに超えたものです。
「そんな……たかが体育祭で優勝できなかったくらいで大げさな」
と思いますよね?
でも大げさじゃなく、「体育祭で優勝した」という事実は、その後の人生の困難を乗り越えるための支えになるくらいの重みがあるので、優勝経験がある学年は何十年たって集まってもその共通体験を反芻しては再び生きるパワーをもらえるし、優勝できなかった学年は、同窓会で集まっても「体育祭の話」はNGワードというくらい微妙な思いを抱えていくことになります(先生も、卒業生に会うときは「優勝した学年かどうか気を使って話す」と言ってました)。
で、私たちの学年はどうだったのかというと……「高3で優勝しました」。
そこだけ見ると「よかったね」という話なんですが、ここへくるまでは平坦な道のりではありませんでした。
というのも、私たちは「万年5位」という不名誉な称号を与えられていた伝説の学年だったからです。
まず、中1のときの成績は「6位」。
これはまあ誰もが通る道のりだったんで誰も傷つきませんでした。
そして翌年の中2では「5位」。
これまた順当な順位なので、「このまま来年は4位、次は3位とのぼっていくんだろうなー」と漠然と思っていました。
ところが、中3の順位は……やっぱり「5位」。
そう。ひとつ下の中2に抜かされちゃったのです。
「あちゃー、参ったね、こりゃどうも」
という感じでしたが、元来、よく言えば「のびのび」、悪く言えば「お気楽体質」だったうちの学年は、まだそれほどの危機感を感じていませんでした。
が、高1で「5位」になったときはさすがに顔面蒼白になりました。
いくらなんでも中2にまで負けるって……そりゃあないだろう。そんな学年、聞いたことないよ。
こうなると、下の学年からもなめられるようになってきます。
「あの学年は恐るるに足らず」と陰でみんなに言われているような気がしました(というか、実際に言われてました)。
「年功序列なんて通じないんだ。勝つためには人よりも努力しなければいけないんだ」
そんな当たり前のことに気づき、本気で努力し始めたのがこの年からでした。それまでだって決して努力していなかったわけではないのですが、それではまだまだ足りなかったということです。
悔し泣きに暮れた苦い体育祭が終わり、その翌日から私たちは来年のリベンジに向けて具体的に動き始めました。その詳細については語りませんが、かなりシステマチックに計画をたてて、研究を重ね、練習を積んできました。
その甲斐あって、高2では念願の「2位」を獲得。
とにかく「学年相当の順位」を得ることがその年の目標だったので、このときは優勝した高3を心から祝福し、2位という成績に満足して終わりました。
ここまできたら残る目標は「優勝して卒業する」──これしかありません。
卒業するまでに優勝できるのはワンチャンス。泣いても笑っても次回だけです。
下の学年は強豪揃いだったし、「優勝」はさらに高いハードルでしたが、結果的にはなんとか達成することができました。
もうひとつ、うちの体育祭の呼びものに「応援合戦」がありました。
これは昼休憩のあと、午後の部に入る前にやはり学年対抗で行うもので、まあ一言でいうとマスゲームみたいなものですが、このレベルはかなり高いです。
中1は入ったばかりで何もわからないので、先生が内容を考え、教えられた通りにやるだけですが、中2以降はすべて自分たちで考え、1年かけて練習を繰り返していきます。
私たちの時代でもこの時間帯はすごい数のギャラリーで溢れかえってましたが、今はさらに人気がヒートアップしているようで、5年前に見に行ったときは、空間という空間がすべてギャラリーで埋め尽くされていて、そのボルテージの高さに驚きました(父兄は早朝、生徒より早く学校へ行って、開門と同時に席取り争奪戦を始めるらしいです)。
ここでさらにうちの特徴をいうと、入学と同時に「学年色」が与えられること。
私たちは「紫」でしたが、その学年色は卒業するまでずっと私たちのもので、卒業するとその色は中1にまわります。
たとえば、私たちが中1のとき、中2は白、中3は青、高1は赤、高2は黄、高3は緑でしたが、次の年は中1が緑になり、あとは繰り上がるという次第。
おかしなもので、同じ色の学年にはわけもなく親近感がわくという現象があって(同じ学年色の学年と同じ時期に在学することはないわけですが)、卒業してもOGに会うと「何年卒業か?」よりもまず「何色?」と聞かれ、同じ色だと年齢に関係なく妙な同志愛を感じたりします。
また、「紫のひとつ下は緑で、その下は黄色」というふうに、みんな色の並びが体にしみついているので、「何年卒業」と数字で言われるよりも「黄色」と言われたほうが「ああ、2コ下ね」とすぐにピンとくるという便利さもあります。
この「学年色」はいわば学年のCIみたいなもので、いたるところで利用されますが(同期会の名称は学年色にちなむものにするとか、体育祭の応援にくる父兄や先生は必ず学年色を身につけるとか)、これがもっとも色濃く発揮されるのが体育祭の応援合戦です。
忘れもしない中1の体育祭のとき。
高3は緑の学年でした。
その応援内容は、木の芽が生まれ、育ち、やがて大きな樹木になって実をつけるまでの過程をパネルの展開で表現したもので、幼心にそのスケールの大きさと迫力に驚嘆し、「高3ってすごい人たちなんだ」とボーッとしたのを覚えています。
それ以来、「高3はどの学年よりも圧倒的にすばらしい応援をするもの」という刷り込みができあがり、それはそのまま、自分たちが高3になったときの応援への意気込みにつながっていきました。
高3のとき、私たちは「今までにどこもやったことがない独創的なものをやろう」という構想のもと、「ケチャ」をとりいれた応援を計画しました。
「パネル」や「ポンポン」を使った「視覚効果」に訴える応援はすでに散々出つくしていましたが、「声」を中心にした応援はまだないのではないか?と思ったからです。
「ケチャ」は、今でこそ観光客向けのパフォーマンスとしてすっかり有名になってしまいましたが、当時そんなものを知っている人はほとんどいなかったと思います。
そんなマイナーなものに目をつけ、応援用にアレンジした企画委員・執行委員の眼力と実行力には心底敬服します。
当日の反響は今でもはっきり覚えています。
当然ながら、自分たちが今どう見えているのか、やっている本人たちにはわかりません。
だから、練習の間はいまいちどこがどうすごいのかよくわからないままやっているのですが(チェックできるのは前に出ている応援団の人だけ)、本番では山場になるとギャラリーからいっせいに「おおっ」という大きなどよめきが響いてきて、そのとき初めて「ああ、すごいことやってるんだ」という手応えを得て、快感と日差しの強さに頭がクラクラしたものです。
「この応援を見て、中1の子たちはあの頃の私みたいに『すごいな』『あんなふうになりたいな』って思ってくれてるのかな…」
緑の応援に度肝を抜かれたあのときが体育祭への「入学」の瞬間だとすれば、このときが「卒業」の瞬間だったのかもしれません。
1年かけてつくりあげてきた応援はたった数分間で終わってしまいますが、その充実感は何十年たっても色あせることなく残っています。
前振りがすごく長くなりましたが、本題はここから(ええかげんにせえ!とつっこまれそうですが)。
さる12月1日のこと。
母校でM先生の校長就任祝いが催されました。
M先生は、中1から高3まで私たちの学年の担任を受け持っていた先生だったので、プチ同期会を兼ねた祝賀会が行われたのです。
出席者は日頃M先生に連絡をとっている紫の仲間66名。
正式な同期会ではないので、学年全部(360名余)に連絡したわけじゃないのですが、個人的な呼びかけだけでここまで集まるというのもすごい出席率です。
で、当日のお楽しみとして、高3のときの体育祭フィルム上映会が行われました。
DVDにおこしたものの、画質はかなり粗い状態。
それでもみんなすさまじい盛り上がりで、紫の同級生が画面に映るたびに大騒ぎ。“27年前の■■ちゃん”が走り高跳びをクリアすればその場にいるかのように大喝采だし、“27年前の△△ちゃん”がリレーで独走すれば本気で拍手するし、先生は画面を見ながら「えー、このときはこのような陣形が主流でしたが、今の傾向は……」などとウンチク解説を加えるし、先生に限らず何か言いたい人はマイクを奪いあいながら「ああだった」「こうだった」と解説合戦になるし、「なんなんだ、このオリンピックのような盛り上がりは…」と大受けでした。
そんな大騒ぎも、応援合戦のときばかりはやんで静かになりました。
自分たちの応援をフィルムやビデオで見たのはこのときが初めてではありませんでしたが、久しぶりに見た応援は、近いようでなんだかとても遠いものに感じました。
そうか。このときは自分たちの姿を見ることができなかったけど、今は見ることしかできないんだな……。
そう思ったら、急にじわっと涙があふれ出てきました。
似たようなシチュエーションのドラマを書いたことがあるけど、「ああ、ほんとにこういうときって涙が出るもんなんだ」と思いましたね。
「すごい。すごいよ。あんたたちは……」
中1のときに高3の応援を見たときとは違う意味で素直にそう思いました。
決定的に違うのは、中1のときはこれを目指そうと思ったこと、今はここから離れていく自分を実感したことです。
で、わかったのは「今」は自分には見えないってこと。「過去」や「未来」から眺めることはできても、「今」から「今」は見えない。
そのすばらしさもその瞬間には本当の意味では理解できない。
なんて残酷なんだろう。
今はすでにこんなにいろいろなものを失っているのに。
泣けたのはそれが一番の理由です。
でも「うらやましい」「戻りたい」とは思いません。
だって戻ってもやっぱりそのときの価値はそのときの自分にはわからないだろうから。
「今」が見えないのが宿命なら、いつを生きても同じこと。
だったら、どんなにつらくても、苦しくても、見えない部分にこそ希望と可能性があると信じたいです。
暗闇の中、他の人がどんな思いでこの映像を見たのかわからないけど、きっとそれぞれの思いがあったんじゃないでしょうか。
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著作
「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
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この記事へのコメント
あのとき、私は若かった
過ぎてみてはじめてわかるって事多いです。
人生なんてそんなもん、だから面白いのかも。
でも、他人の事は、わかったりすることもあるよ。
それってきっと、物事が近すぎてわからないんだろうな~。
ところで学校の話ですが、今はもうだいぶ雰囲気変わっちゃってるんじゃないかと危惧しています。
私たちがいたころの校長先生は、すごかったと、今になって思えばその大きさに敬服します。
名言の「よく遊び、よく学べ」は、「よく遊び、よく遊び」だった当事の私は、もったいないことをしたと思います。
もっと勉強しておけばよかった。。
遊んで、学んで、お手伝い!
なんか「凪いでる」っていうか、そこだけ無風状態って感じなんですよね。
「よく遊び、よく学び」のあとに「よくお手伝いして」がありませんでした?
当時、母親が「いいこと言った、校長!」って感じでなにかと引用してたのを覚えてます。
「けっ。そんな花嫁修業みたいなこと」と思ってましたが、生活に関する知恵とか家庭運営のノウハウは男女未既婚にかかわらず必要なこと。
今になってみればありがたいことだなと。
そういう意味では筋が通ってました。
あのとき、私は若かった
世代感覚欠乏症
先日は幹事役、お疲れさまでした!
アイイオさんの人脈の広さの賜物でしたね。
たしかに、今の年になると6歳差なんてどうってことないけど、中1から高3の6歳差は巨大だよね。
「高校野球のお兄さん」ねえ(笑)。
それじゃ「バスガイド」も「お姉さん」か?
そういうのって、自分が世代交代するっていう経験がないとよけいにそう感じるんじゃない?
たとえば子供のいる人なら高校球児は「息子」のように見えるかもしれないし、会社で若い後輩の指導してればバスガイドも「後輩の女の子」に重なるかもしれない。
子供いないは、組織にも所属してないは、っていう身の上だと、どうも節目を意識する機会に恵まれないんだよねぇ。
アイイオさんはまだ体育会系の部活だったから先輩後輩のつながりとかも経験あるだろうけど、私はそれすらないからね。
なので、いまだに年下に年上らしくふるまうのが苦手、というか、感覚がいまいちつかめません。
でも高校球児をお兄さんとはさすがに思いません(笑)。