古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
「温故知新」の夏ドラ2本
夏ドラが始まって約1ヶ月。
皆さんは何をご覧になってますか?
今期は全体的に視聴率が低めのようですが、私のイチオシは「パパとムスメの7日間」(日曜9時/TBS)と「地獄の沙汰もヨメ次第」(木曜9時/TBS)の2本です。
ともに「あれ? こういう話、前にも見たことあるような気がするんですけど…」という既視感が強い題材なんですが、それぞれちゃんと進化をとげており、おさえるべき要素もしっかりおさえているので、安易さは感じられません。
「パパとムスメ〜」は、古くは「転校生」に代表される“入れ替わりもの”で、50近いお父さんと、高校生の娘の心と体が入れ替わってしまうというのが今回のシチュエーション。母娘入れ替わりの話も昔ありましたが、父娘はさらに強烈!
しかもこの父娘、あんまりしっくりいってなくて、娘は父親に直接口を聞かないというお年頃。これが入れ替わっちゃうんですからそれはもう大変です。
ただ、この手のドラマのキモは、「入れ替わることによってお互いの気持ちや立場が理解できるようになり、絆が深まるまでの過程」にあるというのが相場ですが、「パパとムスメ〜」の場合、けっこうすぐに協力体制に入るっていうか、入れ替わるやいなやいいコンビ(?)になっちゃうんですよね。
なので、「こんなに早くしっくりいっちゃってあとはどうやってもたせるんだろう」と心配したんですが、今のところドラマは「2人の関係の変化」よりも、「会社」「学校」という2人が所属する“社会”が、入れ替わった“パパ”と“ムスメ”の行動によって変わっていく……という展開のほうに力を入れているようです。
たとえば、ムスメの心が宿ったパパは、女子高生の目で見て「ここがヘンだよ、日本の企業」って感じで、素直に思ったことを口に出していく。
その意見は青臭いし、子供っぽいし、見た目女子高生が言ったら誰も相手にしないような意見なんだけど、見た目管理職のおっさんが言うことによって妙な説得力が生まれる。それどころか「部長ってピュアですてき
」みたいな女子社員からの好評価も受けてしまう。そのへんがおもしろいですね。
もちろん、ママに迫られて困っちゃうパパの図とか、試験勉強に四苦八苦するムスメの図とか、お約束の笑えるエピソードもてんこ盛りなんですが、それだけに終わらせない意欲的な展開には好感がもてます。
このドラマは他のドラマ(全11回)より短め(全7回)なので、あと2回で終わってしまうのがとても残念です。
もうひとつ、「地獄の沙汰もヨメ次第」ですが、これはちょっとドラマに詳しい人なら「作者が西荻弓絵で、姑が野際陽子とくれば『ダブル・キッチン』の続編でしょ。今さらなんでまたやるの?」と思われるのではないでしょうか?
じつは私もそう思ってて、それほど期待はしてなかったんです。
「ダブル・キッチン」はおもしろかったけど、あれは14年も前の作品だし、もう一度同じことをやってもねぇ…って感じで。
ところが、見てみてびっくり。
意外にもおもしろいんですよ、これが。
たしかに仕事を持っている嫁と専業主婦の姑の対立をコメディタッチで描いているところや、二世帯で暮らしたために衝突が頻発するシチュエーションや、夫に小姑がいる点など、基本路線は「ダブル・キッチン」と同じです。
同じなんだけど、家族をとりまくシチュエーションがぐっと現代的になっているというか、パワーアップしているんですよ。
「ダブル・キッチン」での嫁(山口智子)はたしか出版社勤務で、まあマスコミ系なので華やかさはあるものの、所詮は一介の勤め人でした。
当時は「共働き」も「二世帯同居」も今日的なテーマだったんですが、いまや嫁がキャリアウーマンっていうだけでは珍しくもないし、特に今日的でもない。というわけで、今回の嫁(江角マキコ)は「40歳の会社経営者」という設定となっています。
30代のキャリアウーマンならドラマにいっぱい出てきますが、さすがにヒロインが40歳の社長さんで、新婚で、自分も相手も同年代で初婚……というのは珍しいんじゃないでしょうか。
ニューヨークに支店を出す話が進んでいるというおにぎりカフェの社長である嫁にとって、仕事を続けるのはもはや呼吸をするのと同じくらい当たり前のことで、収入も地味な勤め人である旦那の収入を軽く越えている。
交友関係もセレブばかりで、出戻りの小姑(浅田美代子)とその娘(片瀬那奈)は卑屈になって嫁に媚びる始末。このあたりも小姑が気が強くて嫁に対して威張っていた従来の“嫁姑モノ”とはひと味違います。
とにかく、一言でいって嫁が「強い」!
「ダブル・キッチン」では、作者が明らかに嫁の立場寄りで書いているのがわかり、姑はその行く手を阻むモンスターといった様相を呈していました。
もちろん、最後はそのバトルにも和解が訪れ、「姑にもいいとこあるじゃん」みたいな描かれ方で締められるわけですが、視点はあくまでも嫁目線。見ているほうも嫁を応援するような感じになるのがごく自然でした。
が、今回は嫁があまりにも権力をもちすぎているため(単に性格がきついだけではなく、理屈と経済力がそれに説得力を与えている)、視聴者としてはもはや共感の域を逸脱し、「この人のライフスタイル、たしかにこうなれたらいいなという憧れだし、言うこともいちいちごもっともなんだけど、なんか違う……。でも私がなにを言っても妬みにしか聞こえないから何も言えないな」という距離を感じさせるキャラになっているんですね。
実際、いくらバカにされるようなことを言われて悔しい思いをしても何も言い返せず、むしろ嫁のご機嫌をとって利益を得ようとしてしまう小姑の立場がそれを如実に物語っています。
こうなると、「誰かがガツンと言ってやってよ、この女に(私は言えないけど)」という空気が高まってくるのですが、その期待にばっちり応えてくれるのが姑@野際陽子というわけ。
一言でいうと、嫁は経営者だけあって徹底的な合理派、姑は合理性だけではわりきれない心を大切にするタイプ。ドラマのパターンとしては、まずある事件が起こり、それに対して嫁は持ち前の合理性と権力をふりかざして対処しようとし、姑は最初嫁の理屈にやりこめられてぐうの音も出ないんだけど、最終的にはそれを上回る「いいこと」を姑が言って嫁を諫め、嫁も自分の欠点やいたらなさを思い知る……という運びになっています。
と、字面で読むと姑がおいしいとこどりするだけの古くさい人情ドラマに見えるかもしれませんが、そこはうまくできていて、姑が嫁を意地悪くやりこめるという形ではなく、姑の人としての生き方というか、不器用だけどおかしいと思ったことはおかしいと言える正直な心の発露がまわりの人の心を打つという感じで描かれているので、姑の一喝にもカタルシスがあるし、鼻っ柱の強い嫁がそれに素直にうちのめされるさまにも納得がいくんですよ。
また、「嫁姑もの」の姑というと、息子にベタベタに甘く、嫁に嫉妬するみたいなパターンが多いですが、この姑は息子の甘さをビシッとたしなめる潔さもあって、そこも気持ちいい。
というわけで、なんか今回に関しては、作者は姑のセリフが一番書きたかったんじゃないかなと思っちゃいました。
もちろん、そうはいってもコメディなので、嫁もしゅんと反省したままでは終わらず、事件が終わったあと、夫婦2人で話しているうちに「たしかにお義母さんの言うことは正しいと思う。でもさぁ…」と得意の屁理屈が頭をもたげ、だんだん怒りが盛り上がってきて、姑に対する毒を吐き散らしながらフラダンスを踊り狂う。
一方同じ頃、隣の家では姑もあらためて嫁の態度に腹立たしさが復活し、怒りの三味線を弾きまくる。
そしてその演奏とダンスはくしくも息ぴったりのコラボになっていて…という結末で終わるパターンは「ダブル・キッチン」と同じで健在です(「ダブル・キッチン」では“玉のれんパンチ”と“鼓”でしたが)。
ちなみに、この「妻のフラダンスそろそろくるぞ」という頃合いになると、夫が絶妙のタイミングでスッとさりげなくソファとかテーブルを脇にどかしてスペースを作ってやるのが笑える。
まさに阿吽の呼吸。“婦唱夫随”の鑑ですね(笑)。
また、姑もいいこと言うんだけど決して完璧な人間ではなく、みんなに「いいこといった」とほめられると調子こいて図にのるとか、一応慇懃に遠慮しつつもお節介を焼くくせはやめられないとか、人間らしい欠点もあるのがほほえましい。
まあほほえましいとはいっても、「ごめんなさい。私が悪かったわ」としおらしく謝って相手の怒りの矛先をいったんうまく収めさせておいて、「でもね、一言だけいいかしら」と控えめに、でもじわじわと確実に反撃に転じていく老獪なテクニックなど、そこは単純にいやみだけ言いまくる姑よりも数段ランクが上というか、一筋縄ではいかない年期を感じさせるんですけど。
で、見ていて思ったんですが、これって嫁と姑の対立のドラマのようで、じつはそうじゃないんじゃないかなと。
というのも、嫁と姑って女同士じゃないですか。
少なくとも今までの嫁姑ものは「女の立場」という同じ土俵の上での対立というか、考えの相違であったわけです。
でも今回の嫁って、もはや「女」じゃないんですよね。
論理が完全に「男」なんですよ。
たとえば先週の事件。
夫の会社で不祥事が起こるんだけど、いろいろな事情から社長はそれを隠蔽しようとする。
夫は「公表すべき」だと何度も言おうとするんだけど言えなくて悩む(ちなみに会社はアットホームな感じで、夫は社長の人柄にもほれこんでいるだけに言うのがつらい)。
妻に話したら「そんなの公表するのが当たり前じゃん」と主張。
「そうだよね」と思い切って社長に進言したら閑職にとばされる夫。
それをきいた妻は怒りまくり「私が夫を救う」とばかりに友人の弁護士を連れて夫の会社に乗り込み、とうとうと正論をまくしたて、「不当解雇で訴える」だの「いざとなったらこんな会社はやめさせて夫は私が養う」だのとわめきちらす。
それに対する姑のコメントは「妻が夫の会社に乗り込んで『いざとなったら私が夫を養う』と叫ぶなんて、息子がそれをきいてどんなにせつない気もちになるか想像できないのか。あなたは自分が経済力があることで驕りがあるんじゃないのか」でした。
たしかにこの夫婦の関係、完全に妻のほうが「男」で、彼女にとって夫は「働いている嫁をもらった」くらいの感覚です。
外では髪振り乱して働いている妻ですが、家に帰れば夫に甘え、膝枕をしてもらって「やっぱり家はサイコー!」とご機嫌になり、夫になにかあれば「いやならやめていいんだよ。生活は私が支えるから」と保護モードに入る。
ちょっと前までまさに「女」が「こういう夫って機嫌いいときはいいけど、意外に妻の気持ちがわかってないんだよね。結局ジコチューなんだよ。妻は守ってやるべき所有物でしかないんだよ」と文句を言っていたようなタイプじゃないですか。
こうなると姑の一撃は「女」に対するというよりも、「男の論理」に対するもののように見えてきて、これは「嫁姑もの」の形を借りた「男の発想=経済の担い手ならではの合理思考」に対する社会批判なんじゃないかと思ったりもしてます。
いかにも旧態依然とした感じの男を標的にするのではなく、一見フェミニストのような「進歩的な女性」を標的にしているところが手が込んでますよね。
じつはTV雑誌に書いているドラマ評の候補のひとつにこれを出したんですが、他のライターがまったく興味を示さなかったため、今期はとりあげられないことになりました。
なので、その代わりといってはなんですがここで書いちゃいました。
基本的に一話完結ものなので、途中から見ても充分ついていけると思います。
見たことがない皆さんも、まだ残り半分以上あるんでぜひ一度ご覧になってみてくださいませ。
皆さんは何をご覧になってますか?
今期は全体的に視聴率が低めのようですが、私のイチオシは「パパとムスメの7日間」(日曜9時/TBS)と「地獄の沙汰もヨメ次第」(木曜9時/TBS)の2本です。
ともに「あれ? こういう話、前にも見たことあるような気がするんですけど…」という既視感が強い題材なんですが、それぞれちゃんと進化をとげており、おさえるべき要素もしっかりおさえているので、安易さは感じられません。
「パパとムスメ〜」は、古くは「転校生」に代表される“入れ替わりもの”で、50近いお父さんと、高校生の娘の心と体が入れ替わってしまうというのが今回のシチュエーション。母娘入れ替わりの話も昔ありましたが、父娘はさらに強烈!
しかもこの父娘、あんまりしっくりいってなくて、娘は父親に直接口を聞かないというお年頃。これが入れ替わっちゃうんですからそれはもう大変です。
ただ、この手のドラマのキモは、「入れ替わることによってお互いの気持ちや立場が理解できるようになり、絆が深まるまでの過程」にあるというのが相場ですが、「パパとムスメ〜」の場合、けっこうすぐに協力体制に入るっていうか、入れ替わるやいなやいいコンビ(?)になっちゃうんですよね。
なので、「こんなに早くしっくりいっちゃってあとはどうやってもたせるんだろう」と心配したんですが、今のところドラマは「2人の関係の変化」よりも、「会社」「学校」という2人が所属する“社会”が、入れ替わった“パパ”と“ムスメ”の行動によって変わっていく……という展開のほうに力を入れているようです。
たとえば、ムスメの心が宿ったパパは、女子高生の目で見て「ここがヘンだよ、日本の企業」って感じで、素直に思ったことを口に出していく。
その意見は青臭いし、子供っぽいし、見た目女子高生が言ったら誰も相手にしないような意見なんだけど、見た目管理職のおっさんが言うことによって妙な説得力が生まれる。それどころか「部長ってピュアですてき

もちろん、ママに迫られて困っちゃうパパの図とか、試験勉強に四苦八苦するムスメの図とか、お約束の笑えるエピソードもてんこ盛りなんですが、それだけに終わらせない意欲的な展開には好感がもてます。
このドラマは他のドラマ(全11回)より短め(全7回)なので、あと2回で終わってしまうのがとても残念です。
もうひとつ、「地獄の沙汰もヨメ次第」ですが、これはちょっとドラマに詳しい人なら「作者が西荻弓絵で、姑が野際陽子とくれば『ダブル・キッチン』の続編でしょ。今さらなんでまたやるの?」と思われるのではないでしょうか?
じつは私もそう思ってて、それほど期待はしてなかったんです。
「ダブル・キッチン」はおもしろかったけど、あれは14年も前の作品だし、もう一度同じことをやってもねぇ…って感じで。
ところが、見てみてびっくり。
意外にもおもしろいんですよ、これが。
たしかに仕事を持っている嫁と専業主婦の姑の対立をコメディタッチで描いているところや、二世帯で暮らしたために衝突が頻発するシチュエーションや、夫に小姑がいる点など、基本路線は「ダブル・キッチン」と同じです。
同じなんだけど、家族をとりまくシチュエーションがぐっと現代的になっているというか、パワーアップしているんですよ。
「ダブル・キッチン」での嫁(山口智子)はたしか出版社勤務で、まあマスコミ系なので華やかさはあるものの、所詮は一介の勤め人でした。
当時は「共働き」も「二世帯同居」も今日的なテーマだったんですが、いまや嫁がキャリアウーマンっていうだけでは珍しくもないし、特に今日的でもない。というわけで、今回の嫁(江角マキコ)は「40歳の会社経営者」という設定となっています。
30代のキャリアウーマンならドラマにいっぱい出てきますが、さすがにヒロインが40歳の社長さんで、新婚で、自分も相手も同年代で初婚……というのは珍しいんじゃないでしょうか。
ニューヨークに支店を出す話が進んでいるというおにぎりカフェの社長である嫁にとって、仕事を続けるのはもはや呼吸をするのと同じくらい当たり前のことで、収入も地味な勤め人である旦那の収入を軽く越えている。
交友関係もセレブばかりで、出戻りの小姑(浅田美代子)とその娘(片瀬那奈)は卑屈になって嫁に媚びる始末。このあたりも小姑が気が強くて嫁に対して威張っていた従来の“嫁姑モノ”とはひと味違います。
とにかく、一言でいって嫁が「強い」!
「ダブル・キッチン」では、作者が明らかに嫁の立場寄りで書いているのがわかり、姑はその行く手を阻むモンスターといった様相を呈していました。
もちろん、最後はそのバトルにも和解が訪れ、「姑にもいいとこあるじゃん」みたいな描かれ方で締められるわけですが、視点はあくまでも嫁目線。見ているほうも嫁を応援するような感じになるのがごく自然でした。
が、今回は嫁があまりにも権力をもちすぎているため(単に性格がきついだけではなく、理屈と経済力がそれに説得力を与えている)、視聴者としてはもはや共感の域を逸脱し、「この人のライフスタイル、たしかにこうなれたらいいなという憧れだし、言うこともいちいちごもっともなんだけど、なんか違う……。でも私がなにを言っても妬みにしか聞こえないから何も言えないな」という距離を感じさせるキャラになっているんですね。
実際、いくらバカにされるようなことを言われて悔しい思いをしても何も言い返せず、むしろ嫁のご機嫌をとって利益を得ようとしてしまう小姑の立場がそれを如実に物語っています。
こうなると、「誰かがガツンと言ってやってよ、この女に(私は言えないけど)」という空気が高まってくるのですが、その期待にばっちり応えてくれるのが姑@野際陽子というわけ。
一言でいうと、嫁は経営者だけあって徹底的な合理派、姑は合理性だけではわりきれない心を大切にするタイプ。ドラマのパターンとしては、まずある事件が起こり、それに対して嫁は持ち前の合理性と権力をふりかざして対処しようとし、姑は最初嫁の理屈にやりこめられてぐうの音も出ないんだけど、最終的にはそれを上回る「いいこと」を姑が言って嫁を諫め、嫁も自分の欠点やいたらなさを思い知る……という運びになっています。
と、字面で読むと姑がおいしいとこどりするだけの古くさい人情ドラマに見えるかもしれませんが、そこはうまくできていて、姑が嫁を意地悪くやりこめるという形ではなく、姑の人としての生き方というか、不器用だけどおかしいと思ったことはおかしいと言える正直な心の発露がまわりの人の心を打つという感じで描かれているので、姑の一喝にもカタルシスがあるし、鼻っ柱の強い嫁がそれに素直にうちのめされるさまにも納得がいくんですよ。
また、「嫁姑もの」の姑というと、息子にベタベタに甘く、嫁に嫉妬するみたいなパターンが多いですが、この姑は息子の甘さをビシッとたしなめる潔さもあって、そこも気持ちいい。
というわけで、なんか今回に関しては、作者は姑のセリフが一番書きたかったんじゃないかなと思っちゃいました。
もちろん、そうはいってもコメディなので、嫁もしゅんと反省したままでは終わらず、事件が終わったあと、夫婦2人で話しているうちに「たしかにお義母さんの言うことは正しいと思う。でもさぁ…」と得意の屁理屈が頭をもたげ、だんだん怒りが盛り上がってきて、姑に対する毒を吐き散らしながらフラダンスを踊り狂う。
一方同じ頃、隣の家では姑もあらためて嫁の態度に腹立たしさが復活し、怒りの三味線を弾きまくる。
そしてその演奏とダンスはくしくも息ぴったりのコラボになっていて…という結末で終わるパターンは「ダブル・キッチン」と同じで健在です(「ダブル・キッチン」では“玉のれんパンチ”と“鼓”でしたが)。
ちなみに、この「妻のフラダンスそろそろくるぞ」という頃合いになると、夫が絶妙のタイミングでスッとさりげなくソファとかテーブルを脇にどかしてスペースを作ってやるのが笑える。
まさに阿吽の呼吸。“婦唱夫随”の鑑ですね(笑)。
また、姑もいいこと言うんだけど決して完璧な人間ではなく、みんなに「いいこといった」とほめられると調子こいて図にのるとか、一応慇懃に遠慮しつつもお節介を焼くくせはやめられないとか、人間らしい欠点もあるのがほほえましい。
まあほほえましいとはいっても、「ごめんなさい。私が悪かったわ」としおらしく謝って相手の怒りの矛先をいったんうまく収めさせておいて、「でもね、一言だけいいかしら」と控えめに、でもじわじわと確実に反撃に転じていく老獪なテクニックなど、そこは単純にいやみだけ言いまくる姑よりも数段ランクが上というか、一筋縄ではいかない年期を感じさせるんですけど。
で、見ていて思ったんですが、これって嫁と姑の対立のドラマのようで、じつはそうじゃないんじゃないかなと。
というのも、嫁と姑って女同士じゃないですか。
少なくとも今までの嫁姑ものは「女の立場」という同じ土俵の上での対立というか、考えの相違であったわけです。
でも今回の嫁って、もはや「女」じゃないんですよね。
論理が完全に「男」なんですよ。
たとえば先週の事件。
夫の会社で不祥事が起こるんだけど、いろいろな事情から社長はそれを隠蔽しようとする。
夫は「公表すべき」だと何度も言おうとするんだけど言えなくて悩む(ちなみに会社はアットホームな感じで、夫は社長の人柄にもほれこんでいるだけに言うのがつらい)。
妻に話したら「そんなの公表するのが当たり前じゃん」と主張。
「そうだよね」と思い切って社長に進言したら閑職にとばされる夫。
それをきいた妻は怒りまくり「私が夫を救う」とばかりに友人の弁護士を連れて夫の会社に乗り込み、とうとうと正論をまくしたて、「不当解雇で訴える」だの「いざとなったらこんな会社はやめさせて夫は私が養う」だのとわめきちらす。
それに対する姑のコメントは「妻が夫の会社に乗り込んで『いざとなったら私が夫を養う』と叫ぶなんて、息子がそれをきいてどんなにせつない気もちになるか想像できないのか。あなたは自分が経済力があることで驕りがあるんじゃないのか」でした。
たしかにこの夫婦の関係、完全に妻のほうが「男」で、彼女にとって夫は「働いている嫁をもらった」くらいの感覚です。
外では髪振り乱して働いている妻ですが、家に帰れば夫に甘え、膝枕をしてもらって「やっぱり家はサイコー!」とご機嫌になり、夫になにかあれば「いやならやめていいんだよ。生活は私が支えるから」と保護モードに入る。
ちょっと前までまさに「女」が「こういう夫って機嫌いいときはいいけど、意外に妻の気持ちがわかってないんだよね。結局ジコチューなんだよ。妻は守ってやるべき所有物でしかないんだよ」と文句を言っていたようなタイプじゃないですか。
こうなると姑の一撃は「女」に対するというよりも、「男の論理」に対するもののように見えてきて、これは「嫁姑もの」の形を借りた「男の発想=経済の担い手ならではの合理思考」に対する社会批判なんじゃないかと思ったりもしてます。
いかにも旧態依然とした感じの男を標的にするのではなく、一見フェミニストのような「進歩的な女性」を標的にしているところが手が込んでますよね。
じつはTV雑誌に書いているドラマ評の候補のひとつにこれを出したんですが、他のライターがまったく興味を示さなかったため、今期はとりあげられないことになりました。
なので、その代わりといってはなんですがここで書いちゃいました。
基本的に一話完結ものなので、途中から見ても充分ついていけると思います。
見たことがない皆さんも、まだ残り半分以上あるんでぜひ一度ご覧になってみてくださいませ。
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6人目のトートが“近すぎる”件について
宝塚雪組の「エリザベート」を観てきました。
「エリザベート」についてはもう今までにしつこいほど書いてきたので、皆さん(特に観たことない人は)「またか!」とうんざりかもしれませんが、今回は「エリザベート」の話だけど「エリザベート」の話じゃない部分もあるので、お許しください。
一応説明しておきますと、宝塚で「エリザベート」が初めて上演されたのは1996年。一路真輝の退団公演の演目に選ばれたのがこのウィーンミュージカルでした。
以後、星組→宙組→花組→月組と再演され(必ずしも続いて上演されたわけではなく、ものすごく間が空いた時期もあります)、11年かけてまた雪組に戻ってきたのが今回の公演です。
もちろん、11年たったらメンバーはほとんど入れ替わっているので、同じカンパニーでの公演とはもはや言えません。
ただ、宝塚は組替えが多いので、前にいた組のときとか、前の前の組にいたときとか、過去になんらかの形で「エリザベート」にかかわっていた人もけっこういるんですが、その場合、同じ役をやることは稀で(だいたいそのときの学年にふさわしいポジションの役を与えられるので)、「前は××だったけど、今回は▲▲だった」など、かかわるたびに出世魚のように役が変わっていくのがひとつの楽しみだったりします。
が、それにも運不運がついてまわり、これは「ベルサイユのばら」とか「風と共に去りぬ」のような再演の多い人気作品にも言えることなんですが、こういった作品にものすごく当たる確率が高い人とそうでない人というのがいるんですよ。
たとえば、大地真央が上記の2作品に恵まれなかったのは有名な話です。正確に言うと下級生のときに小さい役では出てるんですけど、主役を張れるスターになってからはかかわる機会がなかったようです。
今回の公演でいうと、フランツ役の彩吹真央はなんと3度目。しかも前回はルドルフですから、これだけ大きい役を続けてできるのはかなり「エリザ運」がいいのかもしれません。
一方、意外なのは主役のトートをやる水夏希(今回は水のトップお披露目公演になります)。
あんなに組替え多かったのに、なんと「エリザベート」に出演するのは今回が初めてなのだそうです(本人いわく「(エリザベートを)やらない組、やらない組を渡り歩いていた」とか)。
下級生ならともかく、トップになるくらいの学年で、11年間1回も当たらなかったというのもかなり珍しいかもしれない。
まるで、私の宝塚友の会の花組運みたいだ…(ついに春野寿美礼在任中は一度も当たらず。次はさよならだし、よけいに無理でしょう。なぜか花だけが毎回1枚も当たらない…)。
というのは前振りで、今回はこの水のトートについて書きます。
じつは「エリザベート」については、ウィーン原典版を観たときに、あまりに完璧な台本&音楽&表現と解釈に完全にノックアウトされてしまい、これを観たあとはもうこれ以上のものがあるとは思えないという状態になっていたので、申し訳ないけど宝塚の「エリザベート」に対する期待感は前よりもずっと色あせていました。
もちろん、歌唱力のこともありますが、本来エリザベート主役の話を、男役中心にするため、無理やり彼女につきまとう死神(トート)を主役に据えて書き換えた……という脚色じたいにどうしても無理があり、ウィーン版の自然で説得力のある作品構造を観てしまった今となっては、宝塚版の無理ばかりが目につくようになってしまったことが大きいです。
とはいうものの、ヴィジュアルの美しさはやはり宝塚が一番。特にトートの造形は、もはや物語を飛び出して宝塚の男役にしかできないキャラとして一人歩きを始めており、トップが変わるたびに「私のトートはこれ!」という感じで披露してくれるのはそれだけで充分見応えがあります。
ウィーン版の作品構造のすばらしさと、「なぜトート主役だと無理が生じるのか」についてはHPでじっくり語りまくりましたが、今回は、その無理を承知でもなお宝塚の「エリザベート」に特別な魅力があるのはなぜか、について考えてみました。
宝塚歴代のトートは水で6人目になるわけですが(新人公演は除く)、どのトートにも持ち味というか、特徴があります。
大きく分けると「歌得意派」と「ダンス得意派」と「どちらも得意ではないがルックスや雰囲気にスターとしてのカリスマがある派」。
で、今頭の中で6人のトートをバーーーッと振り分けてみたんですが、あらためて分けてみると、水は「ダンス得意派」にカテゴライズされる初めてのトートかもしれないです。
まず、初代トートの一路真輝(雪組)。これはもちろん「歌派」の筆頭ですが、トートの造形じたいはシンプルで、“基本形”という感じ。人間くささもなく、「死」という無機的なものをそのまま忠実にクールに演じていました。
2代目トートの麻路さき(星組)は“ゴージャストート”。彼女自身はスケール感のある華やかさが持ち味で、どちらかというと歌が苦手だったので、歌の苦手感をカバーするためか、かなり人間くさく作りこんでいました。で、ここから「トートって象徴じゃないの? 象徴がこんなに感情的になっちゃっていいの?」という宝塚版の違和感とズレが始まるわけですが…。
3代目トートの姿月あさと(宙組)は“俺様トート”。彼女は「歌派」でしたが、「死」というとらえどころのないものよりは「黄泉の帝王」という方向でキャラクターを作り上げちゃった感じ。「恐ろしさ」とか「パッション」とかそういう動的なものを感じさせる役作りで、エリザベートとの一体感はあまりない。どちらかというと、男性がトートを演じるときはこのパターンに陥りがち。これについては後述します。
4代目トートの春野寿美礼(花組)は………ごめんなさい。チケットあててくれなかったからうらんでるわけじゃないんですが、正直、彼女のトートはわからなかった。周囲に数人熱狂的な春野ファンがいるので言いにくいんですけど。
カテゴリー的には「歌派」なんですが、私には今までのトートが少しずつまじっているように見えて、彼女のトートというものがはっきりとあとに残りませんでした。器用にいいとこどりしたっていうか…。彼女のトートで「エリザベート」ファンが急増したという話もきくのですが、ある意味今までのトートをいったん総括してみせたからこれといったくせや偏りがなかったのかもしれません。
5代目トートの彩輝直(月組)は、“虚無トート”。彼女は「ルックスと雰囲気とスター性」に入る人ですが、クールビューティでデカダンな感じが虚無的なトートにぴったりはまっていて、「男でも女でも人間でもないなにか」という点では初代トート以来の「死神」らしい「死神」でした。とにかく、この世のものとは思えない妖しい美しさとオーラで、動きも少なく、最小限の表現でしたが、それが最大の効果をあげていました。持ち味だけでいったらこの人が一番トートのイメージにぴったりなんじゃないかな。
そして今回の水夏希(雪組)ですが……。
基本的に前回の彩輝トートの路線だったんですよ。美しさとカリスマで圧倒しながらも決して人間くささを感じさせないという。
が、観ているうちにさらにプラスアルファを発見したのです。
最初はそれがなんなのかわかりませんでした。
でもなんか冷静に観ていられない。
観ててドキドキしてくる。息苦しさを感じる。
これはなんだろう……。
しばらくしてようやくわかりました。
近いんです。距離が。
客席との、じゃなくて、相手役との。
相手役といっても濃密にからむ相手はエリザベートと皇太子ルドルフくらいなんですが、そのときの距離感が異常にち・か・い。
もう8×4してきてもやばいくらい近すぎ(笑)。
思えば、彩輝はちょっと離れた場所から冷徹な目で人間を観察するトートといった感じでした。相手に接近しすぎるとどうしても知から情の世界になってしまい、人間くささが漂ってしまう危険もあるのだと思います。
事実、今まで相手との接触が多かったトートは例外なく人間くさかった。
でもほんとに不思議なんですけど、水は接触しまくってるのに人間くさくないんですよ。
さっきから「近い」を連発していったい何が近いのかよくわからないと思われると思いますが、うー、これは説明難しいんですが、物理的な距離も心理的な距離も近いんです。
具体例で言うと「ボディタッチがやたらに多い」。
ちょっと気を許すとすごいそばにいて、なにげにいっぱい触ってるんです。
そして(ここ重要)その触り方がチョーう・ま〜い!
それはもう尋常ならざるうまさですよ。ダンスで鍛えた繊細でしなやかな身のこなしが最大限に生きていて、その美しさにはほれぼれを通り越して茫然自失。
ちょっと近すぎでしょ、それ。触りすぎだって、それ。と動揺しながらも、なぜかそれがいやではない。というかむしろ気持ちいい。「もっと触って〜!」という気分になる。
これはすごいことですよ。
……と言うと、「えーー、気持ち悪い。女が女を触ってるの見て気持ちよくなるなんて。レズじゃん!」というつっこみが必ずくると思いますが、ことはそう単純ではないんです。
なぜなら、トートを演じている水は「男には絶対出せない味」を出していると同時に、「女」にも絶対に見えないから。
これがちょっとでも「ああ、女の人がやってるんだね」と感じさせる隙を見せたら、まず0.1秒後には「女が女を…キモい!」という抵抗感が観ているほうに生まれることは間違いありません。
ということは、これってよっぽど「女に見えない」ことに自信をもってる人でなきゃできない非常にリスキーな技ってことですよね。
次に、じゃあなぜ気持ちよくなるのか。ですが。
もしこのトートを男が演じたとしましょう。
男性のトートがエリザベートにものすごく接近し、触りまくったとしましょう。
そのとき、観ている側ははたしてこういう気持ちよさを感じることができるのか。想像してみたんですが、それは「否」でした。
もちろん、すべての男で試した(笑)わけではないので、中にはそれを芸の力でクリアする男優もいるかもしれませんが、基本的には「否」です。
なぜなら、男優がやれば当然「男と女」に見えてしまい、そこには異質なものが存在するという前提が生まれてしまうからです。
異質なものが一方的に迫ってきたら、当然そこには抵抗あるいは緊張感が生まれます。両者のコミュニケーションがうまくいってはじめて異質なもの同士が一体化できるわけですが、そこまでいくには想像以上に高い敷居を越えなければなりません。物理的には可能でも、心理的にと言われるとそれはなかなか難しい。
コミュニケーションは共感から始まりますが、一般的に「攻め」の役割を担う男性は「共感」が苦手。コミュニケーションが完璧にとれない限り、女は100%心は開かないものです。まあ開かなくても日常生活には支障ないんだけどね(笑)。ていうか開くほうが危険だし。
とにかく、そのために、攻めるトートと受けるエリザベートという図式を男女がそのままやると、緊張感や相克は伝えやすいけど一体感はかもしだしにくいわけです。
なぜなら、男が一歩接近するごとに、そこには「支配vs被支配」という匂いが漂ってしまうから。これは資質からくる根本的な違いなので、どうしようもありません。
ところが、これをいとも簡単に越えられるのが宝塚の男役なんですねー。
水トートが近すぎても抵抗を感じない、触りまくってもいやじゃないというのは、両者が同質なものであり、「支配vs被支配」の匂いが漂わないからです。
同質ゆえのアドバンテージで心理的な壁を即クリアできてしまうから、エリザベートも観客も水トートの侵入に対してこうもうかうかと無防備になれるわけ。
無防備な状態が気持ちいい。これが理由だったんですね。
「気を抜いたときに死が自分の内部に違和感なく侵入してくる」という危うい感覚はやはり宝塚にしか出せない特徴でしょう。
ではなぜドキドキするのか。
じつはこれこそ「宝塚の男役がなぜ女に快楽を与えるのか」という理由にもかかわってくるんですが、水トートのボディタッチは当然セクシャルなものを意識しての動きや形をもっています。女友だちが「ねえねえ」と触ってきたり、お母さんが抱きしめてくれたりするのとは種類が違う。
そういう意味では生身の男が与えるドキドキ感と同じといっていいでしょう。じゃあなにが違うかといえば、どちらかというと生身の男は「あんた、自分ひとりで気持ちよくなってないか?」的なジコチュー感を与えがちなのに対し、宝塚男役は同質だから「とにかく女が気持ちよくなることを中心」に考えることができるという点です。
一見、同じに見えるけど、後者はディスコミュニケーションの部分だけを巧妙に取り払っているため、純粋に「官能」の要素だけが残るというわけ。
この抽出された「官能」エキスこそが宝塚の醍醐味であり、男役と娘役のラブストーリーとか、道具立ては所詮後付けだと私は思っています。
考えてみれば、男だって抽出された「官能」だけを味わいに行く場所ってあるわけじゃないですか。
女にとっては「宝塚」がそれだといったら言い過ぎでしょうか。
というわけで、水夏希には「官能トート」という称号を捧げます。ルドルフへの「死の接吻」も史上最高か?というくらい長かったしなー(笑)。
どうでもいいんですけど、前から気になってたのが、エリザベートの寝室の場面。
エリザベートがフランツを閉め出すと、いつのまにかそばにトートが現れて、「こっちへおいで」「いやよ、あなたには頼らない。出てって」というような言い合いがあって、最後トートが「ちっ」って感じでひきあげるんですけど……。
これがねえ、ひきあげるときにドア開けて出ていくんですよ。
出ていくときは強がった自信ありげな顔で、ドアを閉めたとたん苦しげな表情になる……というのがデフォルトのトートの演技になってるんですが、演技表現以前に、私、個人的に「ドアを開けて出ていく死神」っていうのがすごく人間っぽくていかがなものかと思っちゃうんですけど。
だってあんた、出てきたときはそのへんから突然わいて出てきたじゃん。だったら退場ももっと神秘的にそのへんの装置の隙間からなんとなくはけてよ。なにもそこだけ律儀にドアから退場しなくても。。。
ウィーン版はドアから出ていったりしなかったと思うんだけどな……。
ここに小池先生の深いこだわりがあるんでしょうか。
「エリザベート」についてはもう今までにしつこいほど書いてきたので、皆さん(特に観たことない人は)「またか!」とうんざりかもしれませんが、今回は「エリザベート」の話だけど「エリザベート」の話じゃない部分もあるので、お許しください。
一応説明しておきますと、宝塚で「エリザベート」が初めて上演されたのは1996年。一路真輝の退団公演の演目に選ばれたのがこのウィーンミュージカルでした。
以後、星組→宙組→花組→月組と再演され(必ずしも続いて上演されたわけではなく、ものすごく間が空いた時期もあります)、11年かけてまた雪組に戻ってきたのが今回の公演です。
もちろん、11年たったらメンバーはほとんど入れ替わっているので、同じカンパニーでの公演とはもはや言えません。
ただ、宝塚は組替えが多いので、前にいた組のときとか、前の前の組にいたときとか、過去になんらかの形で「エリザベート」にかかわっていた人もけっこういるんですが、その場合、同じ役をやることは稀で(だいたいそのときの学年にふさわしいポジションの役を与えられるので)、「前は××だったけど、今回は▲▲だった」など、かかわるたびに出世魚のように役が変わっていくのがひとつの楽しみだったりします。
が、それにも運不運がついてまわり、これは「ベルサイユのばら」とか「風と共に去りぬ」のような再演の多い人気作品にも言えることなんですが、こういった作品にものすごく当たる確率が高い人とそうでない人というのがいるんですよ。
たとえば、大地真央が上記の2作品に恵まれなかったのは有名な話です。正確に言うと下級生のときに小さい役では出てるんですけど、主役を張れるスターになってからはかかわる機会がなかったようです。
今回の公演でいうと、フランツ役の彩吹真央はなんと3度目。しかも前回はルドルフですから、これだけ大きい役を続けてできるのはかなり「エリザ運」がいいのかもしれません。
一方、意外なのは主役のトートをやる水夏希(今回は水のトップお披露目公演になります)。
あんなに組替え多かったのに、なんと「エリザベート」に出演するのは今回が初めてなのだそうです(本人いわく「(エリザベートを)やらない組、やらない組を渡り歩いていた」とか)。
下級生ならともかく、トップになるくらいの学年で、11年間1回も当たらなかったというのもかなり珍しいかもしれない。
まるで、私の宝塚友の会の花組運みたいだ…(ついに春野寿美礼在任中は一度も当たらず。次はさよならだし、よけいに無理でしょう。なぜか花だけが毎回1枚も当たらない…)。
というのは前振りで、今回はこの水のトートについて書きます。
じつは「エリザベート」については、ウィーン原典版を観たときに、あまりに完璧な台本&音楽&表現と解釈に完全にノックアウトされてしまい、これを観たあとはもうこれ以上のものがあるとは思えないという状態になっていたので、申し訳ないけど宝塚の「エリザベート」に対する期待感は前よりもずっと色あせていました。
もちろん、歌唱力のこともありますが、本来エリザベート主役の話を、男役中心にするため、無理やり彼女につきまとう死神(トート)を主役に据えて書き換えた……という脚色じたいにどうしても無理があり、ウィーン版の自然で説得力のある作品構造を観てしまった今となっては、宝塚版の無理ばかりが目につくようになってしまったことが大きいです。
とはいうものの、ヴィジュアルの美しさはやはり宝塚が一番。特にトートの造形は、もはや物語を飛び出して宝塚の男役にしかできないキャラとして一人歩きを始めており、トップが変わるたびに「私のトートはこれ!」という感じで披露してくれるのはそれだけで充分見応えがあります。
ウィーン版の作品構造のすばらしさと、「なぜトート主役だと無理が生じるのか」についてはHPでじっくり語りまくりましたが、今回は、その無理を承知でもなお宝塚の「エリザベート」に特別な魅力があるのはなぜか、について考えてみました。
宝塚歴代のトートは水で6人目になるわけですが(新人公演は除く)、どのトートにも持ち味というか、特徴があります。
大きく分けると「歌得意派」と「ダンス得意派」と「どちらも得意ではないがルックスや雰囲気にスターとしてのカリスマがある派」。
で、今頭の中で6人のトートをバーーーッと振り分けてみたんですが、あらためて分けてみると、水は「ダンス得意派」にカテゴライズされる初めてのトートかもしれないです。
まず、初代トートの一路真輝(雪組)。これはもちろん「歌派」の筆頭ですが、トートの造形じたいはシンプルで、“基本形”という感じ。人間くささもなく、「死」という無機的なものをそのまま忠実にクールに演じていました。
2代目トートの麻路さき(星組)は“ゴージャストート”。彼女自身はスケール感のある華やかさが持ち味で、どちらかというと歌が苦手だったので、歌の苦手感をカバーするためか、かなり人間くさく作りこんでいました。で、ここから「トートって象徴じゃないの? 象徴がこんなに感情的になっちゃっていいの?」という宝塚版の違和感とズレが始まるわけですが…。
3代目トートの姿月あさと(宙組)は“俺様トート”。彼女は「歌派」でしたが、「死」というとらえどころのないものよりは「黄泉の帝王」という方向でキャラクターを作り上げちゃった感じ。「恐ろしさ」とか「パッション」とかそういう動的なものを感じさせる役作りで、エリザベートとの一体感はあまりない。どちらかというと、男性がトートを演じるときはこのパターンに陥りがち。これについては後述します。
4代目トートの春野寿美礼(花組)は………ごめんなさい。チケットあててくれなかったからうらんでるわけじゃないんですが、正直、彼女のトートはわからなかった。周囲に数人熱狂的な春野ファンがいるので言いにくいんですけど。
カテゴリー的には「歌派」なんですが、私には今までのトートが少しずつまじっているように見えて、彼女のトートというものがはっきりとあとに残りませんでした。器用にいいとこどりしたっていうか…。彼女のトートで「エリザベート」ファンが急増したという話もきくのですが、ある意味今までのトートをいったん総括してみせたからこれといったくせや偏りがなかったのかもしれません。
5代目トートの彩輝直(月組)は、“虚無トート”。彼女は「ルックスと雰囲気とスター性」に入る人ですが、クールビューティでデカダンな感じが虚無的なトートにぴったりはまっていて、「男でも女でも人間でもないなにか」という点では初代トート以来の「死神」らしい「死神」でした。とにかく、この世のものとは思えない妖しい美しさとオーラで、動きも少なく、最小限の表現でしたが、それが最大の効果をあげていました。持ち味だけでいったらこの人が一番トートのイメージにぴったりなんじゃないかな。
そして今回の水夏希(雪組)ですが……。
基本的に前回の彩輝トートの路線だったんですよ。美しさとカリスマで圧倒しながらも決して人間くささを感じさせないという。
が、観ているうちにさらにプラスアルファを発見したのです。
最初はそれがなんなのかわかりませんでした。
でもなんか冷静に観ていられない。
観ててドキドキしてくる。息苦しさを感じる。
これはなんだろう……。
しばらくしてようやくわかりました。
近いんです。距離が。
客席との、じゃなくて、相手役との。
相手役といっても濃密にからむ相手はエリザベートと皇太子ルドルフくらいなんですが、そのときの距離感が異常にち・か・い。
もう8×4してきてもやばいくらい近すぎ(笑)。
思えば、彩輝はちょっと離れた場所から冷徹な目で人間を観察するトートといった感じでした。相手に接近しすぎるとどうしても知から情の世界になってしまい、人間くささが漂ってしまう危険もあるのだと思います。
事実、今まで相手との接触が多かったトートは例外なく人間くさかった。
でもほんとに不思議なんですけど、水は接触しまくってるのに人間くさくないんですよ。
さっきから「近い」を連発していったい何が近いのかよくわからないと思われると思いますが、うー、これは説明難しいんですが、物理的な距離も心理的な距離も近いんです。
具体例で言うと「ボディタッチがやたらに多い」。
ちょっと気を許すとすごいそばにいて、なにげにいっぱい触ってるんです。
そして(ここ重要)その触り方がチョーう・ま〜い!
それはもう尋常ならざるうまさですよ。ダンスで鍛えた繊細でしなやかな身のこなしが最大限に生きていて、その美しさにはほれぼれを通り越して茫然自失。
ちょっと近すぎでしょ、それ。触りすぎだって、それ。と動揺しながらも、なぜかそれがいやではない。というかむしろ気持ちいい。「もっと触って〜!」という気分になる。
これはすごいことですよ。
……と言うと、「えーー、気持ち悪い。女が女を触ってるの見て気持ちよくなるなんて。レズじゃん!」というつっこみが必ずくると思いますが、ことはそう単純ではないんです。
なぜなら、トートを演じている水は「男には絶対出せない味」を出していると同時に、「女」にも絶対に見えないから。
これがちょっとでも「ああ、女の人がやってるんだね」と感じさせる隙を見せたら、まず0.1秒後には「女が女を…キモい!」という抵抗感が観ているほうに生まれることは間違いありません。
ということは、これってよっぽど「女に見えない」ことに自信をもってる人でなきゃできない非常にリスキーな技ってことですよね。
次に、じゃあなぜ気持ちよくなるのか。ですが。
もしこのトートを男が演じたとしましょう。
男性のトートがエリザベートにものすごく接近し、触りまくったとしましょう。
そのとき、観ている側ははたしてこういう気持ちよさを感じることができるのか。想像してみたんですが、それは「否」でした。
もちろん、すべての男で試した(笑)わけではないので、中にはそれを芸の力でクリアする男優もいるかもしれませんが、基本的には「否」です。
なぜなら、男優がやれば当然「男と女」に見えてしまい、そこには異質なものが存在するという前提が生まれてしまうからです。
異質なものが一方的に迫ってきたら、当然そこには抵抗あるいは緊張感が生まれます。両者のコミュニケーションがうまくいってはじめて異質なもの同士が一体化できるわけですが、そこまでいくには想像以上に高い敷居を越えなければなりません。物理的には可能でも、心理的にと言われるとそれはなかなか難しい。
コミュニケーションは共感から始まりますが、一般的に「攻め」の役割を担う男性は「共感」が苦手。コミュニケーションが完璧にとれない限り、女は100%心は開かないものです。まあ開かなくても日常生活には支障ないんだけどね(笑)。ていうか開くほうが危険だし。
とにかく、そのために、攻めるトートと受けるエリザベートという図式を男女がそのままやると、緊張感や相克は伝えやすいけど一体感はかもしだしにくいわけです。
なぜなら、男が一歩接近するごとに、そこには「支配vs被支配」という匂いが漂ってしまうから。これは資質からくる根本的な違いなので、どうしようもありません。
ところが、これをいとも簡単に越えられるのが宝塚の男役なんですねー。
水トートが近すぎても抵抗を感じない、触りまくってもいやじゃないというのは、両者が同質なものであり、「支配vs被支配」の匂いが漂わないからです。
同質ゆえのアドバンテージで心理的な壁を即クリアできてしまうから、エリザベートも観客も水トートの侵入に対してこうもうかうかと無防備になれるわけ。
無防備な状態が気持ちいい。これが理由だったんですね。
「気を抜いたときに死が自分の内部に違和感なく侵入してくる」という危うい感覚はやはり宝塚にしか出せない特徴でしょう。
ではなぜドキドキするのか。
じつはこれこそ「宝塚の男役がなぜ女に快楽を与えるのか」という理由にもかかわってくるんですが、水トートのボディタッチは当然セクシャルなものを意識しての動きや形をもっています。女友だちが「ねえねえ」と触ってきたり、お母さんが抱きしめてくれたりするのとは種類が違う。
そういう意味では生身の男が与えるドキドキ感と同じといっていいでしょう。じゃあなにが違うかといえば、どちらかというと生身の男は「あんた、自分ひとりで気持ちよくなってないか?」的なジコチュー感を与えがちなのに対し、宝塚男役は同質だから「とにかく女が気持ちよくなることを中心」に考えることができるという点です。
一見、同じに見えるけど、後者はディスコミュニケーションの部分だけを巧妙に取り払っているため、純粋に「官能」の要素だけが残るというわけ。
この抽出された「官能」エキスこそが宝塚の醍醐味であり、男役と娘役のラブストーリーとか、道具立ては所詮後付けだと私は思っています。
考えてみれば、男だって抽出された「官能」だけを味わいに行く場所ってあるわけじゃないですか。
女にとっては「宝塚」がそれだといったら言い過ぎでしょうか。
というわけで、水夏希には「官能トート」という称号を捧げます。ルドルフへの「死の接吻」も史上最高か?というくらい長かったしなー(笑)。
どうでもいいんですけど、前から気になってたのが、エリザベートの寝室の場面。
エリザベートがフランツを閉め出すと、いつのまにかそばにトートが現れて、「こっちへおいで」「いやよ、あなたには頼らない。出てって」というような言い合いがあって、最後トートが「ちっ」って感じでひきあげるんですけど……。
これがねえ、ひきあげるときにドア開けて出ていくんですよ。
出ていくときは強がった自信ありげな顔で、ドアを閉めたとたん苦しげな表情になる……というのがデフォルトのトートの演技になってるんですが、演技表現以前に、私、個人的に「ドアを開けて出ていく死神」っていうのがすごく人間っぽくていかがなものかと思っちゃうんですけど。
だってあんた、出てきたときはそのへんから突然わいて出てきたじゃん。だったら退場ももっと神秘的にそのへんの装置の隙間からなんとなくはけてよ。なにもそこだけ律儀にドアから退場しなくても。。。
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「一葉会」のオフィシャルサイトができました!
お待たせしました!
「一葉会」のホームページがようやくできあがりました(一葉会発足の経緯についてはこちらの記事を参照のこと)。
ホームページはここです!
今現在、公開できる情報はすべて載っています。
キャストはまだ決まっていないのですが、現在交渉中。近日中に決定予定ですので、決まり次第その情報もアップします。
公演まであと4ヶ月きりましたが、今後はこの一葉会オフィシャルサイト(?)で随時最新情報を載せていこうと思いますので、皆さん、ブックマークのうえ、時々覗きにきてくださいね。&周囲の方々にも宣伝よろしくお願いします!
さらに、一葉会のブログも作りました(HPの表紙からとべます)。
本編に載りきらない“はみだし情報”などはこちらで更新していきます。
コメントも歓迎です。
3人で頑張って更新していきますのでぜひぜひ盛り上げてください。
以上、ご報告でした!
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「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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