古伊万里★新伊万里
劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です
送って、そして迎える
- 2012/07/23 (Mon)
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梅雨のさなかの7月11日、弟夫婦に女の子が生まれました。
昨年、弟の結婚で義妹ができ、さらに今年は姪ができて、ここへきて一気に家族構成が変動していることに驚いています。
まあ、私が生まれたときの祖母の年齢が今の私の年齢だったことを考えれば、この年までまったく変動しなかったほうがどうかと思うんですが。
父も、喜寿を迎える年になって初孫ができるとは夢にも思わなかったようで、今まで「子供」に全然縁がなかった我が家にとって「赤ちゃん登場」は未知の世界でした。
女の子だということはもう随分前からわかっていたのですが、なぜか診断がつく前から私には女の子だというイメージしかありませんでした。
女の子だったらいいなーとか、そういう好みの問題ではなく、女の子であることはすでに決まっているという確信があったのです。
こういうとオカルトっぽいですが、まだ胎児の時代から、夢の中にも何度か登場したし、自分の名前のメッセージも送られてきました。
漢字一文字なんですが、それも「女の子だったらこの名前がいいかなー」という好みではなく、最初からその文字がバーンと焼き付けられたというか…。
普段、字を読んでいるときも、その漢字が目に入るとドキッとするんですよ。
まあ、結局名前は弟が考えてつけたので、その名前は日の目をみることはなかったんですが、すごくはっきりしたイメージだったのでいまだにちょっと気になっています。
それだけならまだ一笑に付されるレベルの話だと思いますが、不思議な話はそのあとも続きます。
火曜日から陣痛が始まった義妹は、水曜日の早朝に病院に入りました。
朝8時半の時点で弟から「現在、子宮口4センチ。初産だし、順調にいって夕方頃になりそう」というメールがあったので、「今日は11時から1時までヘルパーさんが来るから、ヘルパーさんが帰ったらお昼食べてー、それから病院にかけつけるかな」とのんびり考えていました。
ところが、そこからの展開が予想外に早く、10時前には「もう破水した。昼過ぎには生まれるみたい」という続報が。
あわてて事業所に電話したらたまたまその日に来るヘルパーさんが出てくれて、事情を話したら「じゃあ開始時間を早めて今からすぐに行きますよ」と言ってくれました。
ヘルパーさんがうちに着いたのはそれから30分後。
お風呂入って掃除して布団干して洗濯して終わるのが12時半。
すぐにかけつければ間に合うかな。
…と思いきや、さらに展開が早まり、11時に「さっき分娩室に入った」という弟からのメールが…。
ぎゃー、間に合わねーよーーー!!!!
と動揺する私にヘルパーさんが「あとは私やっておくから行っていいわよ」と言ってくれて(本当は利用者不在で作業したらいけないんだけど父も残ってるしまあいいかってことで)、とりあえずお風呂だけ介助してもらって髪の毛乾かして着替えて家を出て、タクシーに飛び乗りました。
で、病院に到着したのが11時45分。
さすがにまだ生まれてないだろうと思ったら、5分ほど前に生まれたときいてびっくり。
しかし、もろもろ含めて結果的に生まれた直後に立ち会えたというのも奇跡的なタイミングではありました。
生まれたばかりの赤ちゃんを生で見るのはもちろん初めての経験。
月並みだけど、第一印象は「なんて……小さい……」でした。
まるで精巧なミニチュア細工のよう。
泣き声もかぼそく、弱々しく、世の中にこれほど壊れそうなものがあるのかという驚き。
が、同時に、生まれたての新生児にはたしかに侵しがたい神聖なオーラがありました。
普段はさらさらと流れていく時間が、ここでだけは息をとめて立ち止まっていくような…。
不意に「この感覚、なにかに似てる。べつの場面で経験したことがある」と思いました。
で、思い出しました。
それは3年前に経験した母の臨終の場面でした。
弱って声を発する力もすでになくなった母の姿と、まだ泣き声が声にならない赤ちゃんの姿がかぶりました。
あのときも時間がとまったようなはりつめた静寂に包まれていて、そこにいる人は誰も立ち入れない「結界」のようなものを感じました。
違った意味で、臨終の床の母にも侵しがたいオーラがありました。
もしかしたら、赤ちゃんも人の手に抱かれ、なじむようになるとこのオーラは消えてしまうのかもしれません。
人は一人で生まれ、一人で死んでいきます。
その両方の場面に続けて立ち会い、あらためて思いました。
最初の瞬間と最後の瞬間だけは誰も共有できないんだ。
まわりの人はその場に立ち会い、証人になることしかできない。
この世に生まれてくる命を寿ぎ、この世から消えていく命に敬意をはらう。
シンプルだけど最終的にそれしかできることがないのだ。
誕生と死の間は複雑でいろいろなものの影響を受けるけど、最初と最後は本当に、本当にシンプルなんだよね。
それにしてもこんな時間に生まれるなんて珍しい赤ちゃんだなー。
赤ちゃんってだいたい明け方に生まれるよね。
11時半っていきなり朝寝坊きわまりないな。
……とそこでまたはたと気づきました。
あれ??
このセリフ、どこかで聞いたことがある。
…そうだ。私だ。
私もこのくらいの時間に生まれて母から何度もそう言われたんだった。
姪が生まれた時間は……11時38分か。
え……なんか私もかなり近い気が……。
気になってあとで自分の母子手帳を調べてみました。
思わず声をあげそうになりました。

やっぱり私にメッセージくれてたの、気のせいじゃなかったよね。
ちなみに、誕生日こそ違いますが、私も生まれた曜日は水曜日でした。
昨年、弟の結婚で義妹ができ、さらに今年は姪ができて、ここへきて一気に家族構成が変動していることに驚いています。
まあ、私が生まれたときの祖母の年齢が今の私の年齢だったことを考えれば、この年までまったく変動しなかったほうがどうかと思うんですが。
父も、喜寿を迎える年になって初孫ができるとは夢にも思わなかったようで、今まで「子供」に全然縁がなかった我が家にとって「赤ちゃん登場」は未知の世界でした。
女の子だということはもう随分前からわかっていたのですが、なぜか診断がつく前から私には女の子だというイメージしかありませんでした。
女の子だったらいいなーとか、そういう好みの問題ではなく、女の子であることはすでに決まっているという確信があったのです。
こういうとオカルトっぽいですが、まだ胎児の時代から、夢の中にも何度か登場したし、自分の名前のメッセージも送られてきました。
漢字一文字なんですが、それも「女の子だったらこの名前がいいかなー」という好みではなく、最初からその文字がバーンと焼き付けられたというか…。
普段、字を読んでいるときも、その漢字が目に入るとドキッとするんですよ。
まあ、結局名前は弟が考えてつけたので、その名前は日の目をみることはなかったんですが、すごくはっきりしたイメージだったのでいまだにちょっと気になっています。
それだけならまだ一笑に付されるレベルの話だと思いますが、不思議な話はそのあとも続きます。
火曜日から陣痛が始まった義妹は、水曜日の早朝に病院に入りました。
朝8時半の時点で弟から「現在、子宮口4センチ。初産だし、順調にいって夕方頃になりそう」というメールがあったので、「今日は11時から1時までヘルパーさんが来るから、ヘルパーさんが帰ったらお昼食べてー、それから病院にかけつけるかな」とのんびり考えていました。
ところが、そこからの展開が予想外に早く、10時前には「もう破水した。昼過ぎには生まれるみたい」という続報が。
あわてて事業所に電話したらたまたまその日に来るヘルパーさんが出てくれて、事情を話したら「じゃあ開始時間を早めて今からすぐに行きますよ」と言ってくれました。
ヘルパーさんがうちに着いたのはそれから30分後。
お風呂入って掃除して布団干して洗濯して終わるのが12時半。
すぐにかけつければ間に合うかな。
…と思いきや、さらに展開が早まり、11時に「さっき分娩室に入った」という弟からのメールが…。
ぎゃー、間に合わねーよーーー!!!!
と動揺する私にヘルパーさんが「あとは私やっておくから行っていいわよ」と言ってくれて(本当は利用者不在で作業したらいけないんだけど父も残ってるしまあいいかってことで)、とりあえずお風呂だけ介助してもらって髪の毛乾かして着替えて家を出て、タクシーに飛び乗りました。
で、病院に到着したのが11時45分。
さすがにまだ生まれてないだろうと思ったら、5分ほど前に生まれたときいてびっくり。
しかし、もろもろ含めて結果的に生まれた直後に立ち会えたというのも奇跡的なタイミングではありました。
生まれたばかりの赤ちゃんを生で見るのはもちろん初めての経験。
月並みだけど、第一印象は「なんて……小さい……」でした。
まるで精巧なミニチュア細工のよう。
泣き声もかぼそく、弱々しく、世の中にこれほど壊れそうなものがあるのかという驚き。
が、同時に、生まれたての新生児にはたしかに侵しがたい神聖なオーラがありました。
普段はさらさらと流れていく時間が、ここでだけは息をとめて立ち止まっていくような…。
不意に「この感覚、なにかに似てる。べつの場面で経験したことがある」と思いました。
で、思い出しました。
それは3年前に経験した母の臨終の場面でした。
弱って声を発する力もすでになくなった母の姿と、まだ泣き声が声にならない赤ちゃんの姿がかぶりました。
あのときも時間がとまったようなはりつめた静寂に包まれていて、そこにいる人は誰も立ち入れない「結界」のようなものを感じました。
違った意味で、臨終の床の母にも侵しがたいオーラがありました。
もしかしたら、赤ちゃんも人の手に抱かれ、なじむようになるとこのオーラは消えてしまうのかもしれません。
人は一人で生まれ、一人で死んでいきます。
その両方の場面に続けて立ち会い、あらためて思いました。
最初の瞬間と最後の瞬間だけは誰も共有できないんだ。
まわりの人はその場に立ち会い、証人になることしかできない。
この世に生まれてくる命を寿ぎ、この世から消えていく命に敬意をはらう。
シンプルだけど最終的にそれしかできることがないのだ。
誕生と死の間は複雑でいろいろなものの影響を受けるけど、最初と最後は本当に、本当にシンプルなんだよね。
それにしてもこんな時間に生まれるなんて珍しい赤ちゃんだなー。
赤ちゃんってだいたい明け方に生まれるよね。
11時半っていきなり朝寝坊きわまりないな。
……とそこでまたはたと気づきました。
あれ??
このセリフ、どこかで聞いたことがある。
…そうだ。私だ。
私もこのくらいの時間に生まれて母から何度もそう言われたんだった。
姪が生まれた時間は……11時38分か。
え……なんか私もかなり近い気が……。
気になってあとで自分の母子手帳を調べてみました。
思わず声をあげそうになりました。
やっぱり私にメッセージくれてたの、気のせいじゃなかったよね。
ちなみに、誕生日こそ違いますが、私も生まれた曜日は水曜日でした。
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サイトリニューアルと春の公演告知
秋の公演が終わった疲れもとれないうちにもう春の公演の準備です。
その告知に合わせて、このたび自分のWEBサイトを大々的にリニューアルすることにしました。
節分の翌日(新しい年の始まり)にオープンする予定でしたが、数時間早くアップロードが済んでしまいましたのでお知らせします。
「唐沢伊万里 official web site」
自分のサイトを作ったのはネットを始めた1999年の夏至の日ですから、今から13年前のこと。
作成ソフトを買ってきて一から自分で作り「唐沢伊万里のデジタルテキスト見本市」というタイトルのサイトをたちあげました。
パソコンを買って、メールを始めたのが5月ですから、それから1ヶ月でサイトまで作ったのは我ながら「あっぱれ」だったと思います。
最初は、「エッセイ」やら「舞台レビュー」やら「友達との対談」やら「旅行記」やらいろいろな記事をアップしてたんですが、当時の作成ソフトですから更新もなかなか面倒。
記事が少ないうちはまだよかったんだけど、記事が増えるにつれて構造もだんだん複雑になっていって、ますます億劫に。
そうこうしているうちにブログとかツイッターとか簡単に更新できるものが登場してきて、身辺雑記的なことはそっちで充分間に合うようになり、サイトはすっかり存在意義をなくしてしまいました。
これではもったいない!
……ということで、思い切って作成ソフトを新しいものに買い変え、サイトの内容もまた一から作り直すことにしました。
13年前はまだ劇作の仕事もしていなかったし、サイトといっても個人の趣味的な色合いが強かったのですが、少しずつ作品も上演されるようになったし、サイトも広報宣伝的役割に大きくシフトしていったほうがよいのかもしれないという判断からです。
いやー、新しいソフトすごいです。
私はMACユーザーなのでソフトといっても選択肢はほぼ2つに限られ、当然値段の安い手軽なほうを選んだんですが、それでもびっくりするくらい機能が充実していて、昔より全然使いやすい!
至れり尽くせりとはまさにこのこと\(^o^)/
そんなわけで、まずは春の公演告知をバーーンッと出しました。
今回は書き下ろしではなく、7年前に名古屋で初演されたものの再演なのですが、時間がかなりたっているため、大幅に直しを入れました。
自分的にはかなりブラッシュアップされたと思っています。
秋の公演では専用ブログを作って稽古や本番の模様をアップしたりしたんですが、一人で続けるのはやっぱりかなり大変だったので、今度の公演はfacebookのイベントページを使って楽をすることにしました(^_^;)
アップツーデートな情報についてはこちらをご覧ください。
『ハーフムーン』イベントページ
今回は出演者も若手が多いので、彼らにも参加してもらってなるべく頻繁に更新できれば…と思っています。
世界一せつないヒーロー
ドラマ評の連載が終わってしまってから、めっきりドラマを見なくなりました。
見切るまでの時間がどんどん早くなり、1クール最後まで見通すのはせいぜい2〜3本(前は7〜8本は完走してました)。
完走するのはそれなりに興味をそそられたからですが、おもしろかったからといってレビューを書きたくなるかというとそういうわけでもなく、気がつけばずっとドラマの話は書いていません。
そんな中、久々にレビューを書きたいと思えるドラマがあったので、2011年最後の記事は終わったばかりのこのドラマについて書こうと思います。
秋クールの中で私が一番好きだったドラマ……それは40%を記録した『家政婦のミタ』でもなく、お金のかかった『南極大陸』でもなく、『妖怪人間ベム』でした。
ご存知の通り、原作は40年以上前に放送されていた子供向けアニメです。
子供向けといっても決してかわいらしいタッチではなく、絵柄といい、ストーリーといい、人によってはトラウマになるような怪奇趣味満載な内容でした。
海外アニメではないのに、舞台設定は無国籍な感じですし、キャラの顔立ちもバタくさいし、なんとも風変わりな作品でした。
私は当時、小学校にあがったばかりくらいの年齢だったので、話の内容は正直あまりよく憶えていませんし、主題歌中の「早く人間になりたい!」というセリフが流行していたことが印象に残っている程度です。
なので、これから書くレビューはあくまでもまっさらな目で見た実写版『妖怪人間ベム』についてであり、アニメとの比較などはできませんのでご了承ください。
このドラマの基本は、今まで数えきれないほど作られてきた「正義が悪をこらしめるヒーロー」系譜のお話です。
普段は人間(に近い)容貌をしているが、悪をこらしめるときには異形の姿に変身し、超人的な力を発揮する……という「変身もの」の要素とセットになっているのもお約束のパターンです。
にもかかわらず、他の類似ストーリーとは一線を画す斬新な設定がこのドラマにはいくつもあるのです。
ベム(亀梨和也)、ベラ(杏)、ベロ(鈴木福)の3人は、「人間になりきれなかった人造人間の未完成品」としてこの世に生を受けました。
「早く人間になりたい!」というセリフは、「完全体」になりたいという叫びであり、人間への強い憧れを表す求愛の言葉でもあります。
人間になる方法が必ずあるはずと信じ、時代を超えて放浪の旅を続けるベムたちですが、彼らにはとてもつらい秘密がありました。
それは「感情が激すると妖怪の姿に変わってしまうこと」です。
ここが一つ目のポイントです。
普通、「ヒーローの変身もの」は「悪を倒すための特殊能力」を発揮するために、「意図的」に変身しますが、彼らは「はからずも」変身してしまう。
人間になりたい彼らにとって「変身」はできればしたくない不本意なもの。特に人間が見ている前では。
なぜなら、その恐ろしい姿ゆえ、変身後は無条件で人間に拒否られてしまうからです。
助けた相手に感謝されるどころか、手のひらを返したように罵られ石を投げられるという残酷な運命。
体の傷は一瞬で治癒してしまう彼らですが、裏切られるたびに味わう心の痛みは澱のようにたまっていきす。
でも人間が大好きな彼らは、困っている人間を助けずにいられない。
助ける→嫌われる→逃げる
この繰り返しです。
また、「変身」のきっかけは「感情が激したとき」なので、「悪への怒り」だけでなく、「裏切られた悲しみ」「受け入れてもらえたときの喜び」すら「変身」の衝動につながってしまいます。
心置きなく変身できる場所は限られており、彼らは常に「変身」の衝動と戦い、自らの感情をストイックに抑えようとします。
そういう意味では、「自分の意志で動くと周囲の人間が不幸になる」という呪縛から感情を封印した『家政婦のミタ』の三田さんと妖怪人間はとても似ています。
二つ目のポイントは、「人間を助けるために闘うその相手もまた人間である」ということ。
目の前にいる敵は、地球征服を企む巨大な秘密組織でもなく、ましてや同族の妖怪でもなく、さっきまで自分に優しく接してくれたごくありふれた人間たちです。
人間には、きっかけさえあれば簡単に悪にころび他人を傷つける「弱さ」があるということに気づく彼らですが、それでも人間になりたいという望みは断ちがたく、人間を愛するがゆえに道を踏み外す人間への「人間なのになぜ!」という怒りもいっそう増していきます。
以上の二点の理由から、相手を倒したあとに元の姿に戻る彼らの姿には毎回なんともいえない寂寥感が漂います。
悪をこらしめればこらしめるほど募っていく悲しみ、空しさ、やるせなさ。
これほどカタルシスのない後味の悪いヒーローがこれまでいたでしょうか?
最後に彼らは「人間を守るため」に「人間になれるチャンス」を永久に失う選択をします。
この選択は充分予測できるものだったし、妖怪人間である自分を受け入れてくれた初めての人間との別れがラストにくることも、終わってみれば「それしかないよな」と納得できる終わり方でした。
ただ、終わってからずっと消えなかったのは「彼らはなぜそこまでして人間になりたかったんだろう」という疑問でした。
人間でなくても受け入れてくれる人に出会えた。
自分を守ろうとしてくれた人に出会えた。
それだけじゃダメなのか…と。
そこで、ハッと気づいたのです。
「早く人間になりたい!」という言葉は、「人間」こそが完成形であり、人間未満の彼らは不完全であるという意味に一見思えますが、それは違うのかもしれないと。
そういうふうにミスリードしてるけどそれは逆で、純度の高いイノセントな存在である彼らこそが人間本来の姿であるというメッセージがそこにあるのではないかと。
彼らは疑似家族のように3人だけで放浪し、どこへ行っても居場所がみつけられません。
「人間になる」ということはコミュ二ティーに所属するということですが、それは不純で理不尽な要素にまみれていくということを意味します。
環境に支配され、力関係ができて、そこから邪な心が芽生える。
「性善説」を体現したかのような彼らの存在は、人間にとって「本来こうありたかった」と思わせてくれる存在なのではないでしょうか。
人間に近づきたいと願いつつ、寸止め状態をキープしながら永遠に葛藤し続ける道を選ぶってそういうことですよね。
最初は「人間になれなかったかわいそうな半端な存在」として描かれるのかと思って見始めたのですが、最後まで見たらすっかり視点が変わってしまいました。
それだけではありません。
妖怪人間の葛藤にここまで感情移入してしまうのは、彼らに現実世界に生きる自分たちのメタファも見いだせるからだと思います。
変身後の醜い姿は、誰もが持っている一番「ピュア」な部分。
そのピュアさはむきだしにすれば人を傷つけるかもしれない。
目の前にいる愛しい人が眉をひそめて去っていってしまうかもしれない。
孤立無援になってしまうかもしれない。
だから絶対に出してはいけない。
出さなければとりあえず安泰に生きていけるのだから。
それでも、出さずにはいられないときがある。
出さなければならないときがある。
たとえ孤独になっても…。
大きなものを失っても…。
そういう気持ちが「うーん、わかるよ。わかる」という人ならば、彼らの変身シーンは涙なしで見られないはずです。
彼らはずっと変身し続ける道を選びました。
「(変身)しないで」「人間になってください」と望む大切な人の声をふりきって。
人間に同化するのではなく、「私たちを拒絶しますか?」というリトマス試験紙であり続ける道を選んだ妖怪人間。
人間は心してその選択を受け入れなければならないでしょう。
話の内容もすばらしかったですが、「詩情」という言葉がぴったりな美しい世界観を作り上げたキャスト・スタッフの健闘にも拍手です。
あと数時間で今年も終わりです。
来年もレビューが書きたくなるドラマに出会えることを祈って…。
見切るまでの時間がどんどん早くなり、1クール最後まで見通すのはせいぜい2〜3本(前は7〜8本は完走してました)。
完走するのはそれなりに興味をそそられたからですが、おもしろかったからといってレビューを書きたくなるかというとそういうわけでもなく、気がつけばずっとドラマの話は書いていません。
そんな中、久々にレビューを書きたいと思えるドラマがあったので、2011年最後の記事は終わったばかりのこのドラマについて書こうと思います。
秋クールの中で私が一番好きだったドラマ……それは40%を記録した『家政婦のミタ』でもなく、お金のかかった『南極大陸』でもなく、『妖怪人間ベム』でした。
ご存知の通り、原作は40年以上前に放送されていた子供向けアニメです。
子供向けといっても決してかわいらしいタッチではなく、絵柄といい、ストーリーといい、人によってはトラウマになるような怪奇趣味満載な内容でした。
海外アニメではないのに、舞台設定は無国籍な感じですし、キャラの顔立ちもバタくさいし、なんとも風変わりな作品でした。
私は当時、小学校にあがったばかりくらいの年齢だったので、話の内容は正直あまりよく憶えていませんし、主題歌中の「早く人間になりたい!」というセリフが流行していたことが印象に残っている程度です。
なので、これから書くレビューはあくまでもまっさらな目で見た実写版『妖怪人間ベム』についてであり、アニメとの比較などはできませんのでご了承ください。
このドラマの基本は、今まで数えきれないほど作られてきた「正義が悪をこらしめるヒーロー」系譜のお話です。
普段は人間(に近い)容貌をしているが、悪をこらしめるときには異形の姿に変身し、超人的な力を発揮する……という「変身もの」の要素とセットになっているのもお約束のパターンです。
にもかかわらず、他の類似ストーリーとは一線を画す斬新な設定がこのドラマにはいくつもあるのです。
ベム(亀梨和也)、ベラ(杏)、ベロ(鈴木福)の3人は、「人間になりきれなかった人造人間の未完成品」としてこの世に生を受けました。
「早く人間になりたい!」というセリフは、「完全体」になりたいという叫びであり、人間への強い憧れを表す求愛の言葉でもあります。
人間になる方法が必ずあるはずと信じ、時代を超えて放浪の旅を続けるベムたちですが、彼らにはとてもつらい秘密がありました。
それは「感情が激すると妖怪の姿に変わってしまうこと」です。
ここが一つ目のポイントです。
普通、「ヒーローの変身もの」は「悪を倒すための特殊能力」を発揮するために、「意図的」に変身しますが、彼らは「はからずも」変身してしまう。
人間になりたい彼らにとって「変身」はできればしたくない不本意なもの。特に人間が見ている前では。
なぜなら、その恐ろしい姿ゆえ、変身後は無条件で人間に拒否られてしまうからです。
助けた相手に感謝されるどころか、手のひらを返したように罵られ石を投げられるという残酷な運命。
体の傷は一瞬で治癒してしまう彼らですが、裏切られるたびに味わう心の痛みは澱のようにたまっていきす。
でも人間が大好きな彼らは、困っている人間を助けずにいられない。
助ける→嫌われる→逃げる
この繰り返しです。
また、「変身」のきっかけは「感情が激したとき」なので、「悪への怒り」だけでなく、「裏切られた悲しみ」「受け入れてもらえたときの喜び」すら「変身」の衝動につながってしまいます。
心置きなく変身できる場所は限られており、彼らは常に「変身」の衝動と戦い、自らの感情をストイックに抑えようとします。
そういう意味では、「自分の意志で動くと周囲の人間が不幸になる」という呪縛から感情を封印した『家政婦のミタ』の三田さんと妖怪人間はとても似ています。
二つ目のポイントは、「人間を助けるために闘うその相手もまた人間である」ということ。
目の前にいる敵は、地球征服を企む巨大な秘密組織でもなく、ましてや同族の妖怪でもなく、さっきまで自分に優しく接してくれたごくありふれた人間たちです。
人間には、きっかけさえあれば簡単に悪にころび他人を傷つける「弱さ」があるということに気づく彼らですが、それでも人間になりたいという望みは断ちがたく、人間を愛するがゆえに道を踏み外す人間への「人間なのになぜ!」という怒りもいっそう増していきます。
以上の二点の理由から、相手を倒したあとに元の姿に戻る彼らの姿には毎回なんともいえない寂寥感が漂います。
悪をこらしめればこらしめるほど募っていく悲しみ、空しさ、やるせなさ。
これほどカタルシスのない後味の悪いヒーローがこれまでいたでしょうか?
最後に彼らは「人間を守るため」に「人間になれるチャンス」を永久に失う選択をします。
この選択は充分予測できるものだったし、妖怪人間である自分を受け入れてくれた初めての人間との別れがラストにくることも、終わってみれば「それしかないよな」と納得できる終わり方でした。
ただ、終わってからずっと消えなかったのは「彼らはなぜそこまでして人間になりたかったんだろう」という疑問でした。
人間でなくても受け入れてくれる人に出会えた。
自分を守ろうとしてくれた人に出会えた。
それだけじゃダメなのか…と。
そこで、ハッと気づいたのです。
「早く人間になりたい!」という言葉は、「人間」こそが完成形であり、人間未満の彼らは不完全であるという意味に一見思えますが、それは違うのかもしれないと。
そういうふうにミスリードしてるけどそれは逆で、純度の高いイノセントな存在である彼らこそが人間本来の姿であるというメッセージがそこにあるのではないかと。
彼らは疑似家族のように3人だけで放浪し、どこへ行っても居場所がみつけられません。
「人間になる」ということはコミュ二ティーに所属するということですが、それは不純で理不尽な要素にまみれていくということを意味します。
環境に支配され、力関係ができて、そこから邪な心が芽生える。
「性善説」を体現したかのような彼らの存在は、人間にとって「本来こうありたかった」と思わせてくれる存在なのではないでしょうか。
人間に近づきたいと願いつつ、寸止め状態をキープしながら永遠に葛藤し続ける道を選ぶってそういうことですよね。
最初は「人間になれなかったかわいそうな半端な存在」として描かれるのかと思って見始めたのですが、最後まで見たらすっかり視点が変わってしまいました。
それだけではありません。
妖怪人間の葛藤にここまで感情移入してしまうのは、彼らに現実世界に生きる自分たちのメタファも見いだせるからだと思います。
変身後の醜い姿は、誰もが持っている一番「ピュア」な部分。
そのピュアさはむきだしにすれば人を傷つけるかもしれない。
目の前にいる愛しい人が眉をひそめて去っていってしまうかもしれない。
孤立無援になってしまうかもしれない。
だから絶対に出してはいけない。
出さなければとりあえず安泰に生きていけるのだから。
それでも、出さずにはいられないときがある。
出さなければならないときがある。
たとえ孤独になっても…。
大きなものを失っても…。
そういう気持ちが「うーん、わかるよ。わかる」という人ならば、彼らの変身シーンは涙なしで見られないはずです。
彼らはずっと変身し続ける道を選びました。
「(変身)しないで」「人間になってください」と望む大切な人の声をふりきって。
人間に同化するのではなく、「私たちを拒絶しますか?」というリトマス試験紙であり続ける道を選んだ妖怪人間。
人間は心してその選択を受け入れなければならないでしょう。
話の内容もすばらしかったですが、「詩情」という言葉がぴったりな美しい世界観を作り上げたキャスト・スタッフの健闘にも拍手です。
あと数時間で今年も終わりです。
来年もレビューが書きたくなるドラマに出会えることを祈って…。
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著作
「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!
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