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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

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野田演出オペラ「マクベス」を観ました

 野田秀樹が初演出したオペラ「マクベス」の初日に行ってきました(新国立劇場)。
 マクベス夫人役のイアーノ・タマーは、病気のためゲオルギーナ・ルカーチに変更になりましたが、さらに今日になってマクベス役のカルロス・アルヴァレスも病気によって泉良平に変更になりました。
 ミュージカルなどと違って、アンダースタディの稽古はかなりきちっとされてはいるものの、やはり払い戻しもたくさん出たようで、全体的に空席が目立っていました。

 泉良平は、声がちっちゃくて、「やっぱり日本人、パワーないかも」と思いました。
 また、マクベス夫人のルカーチがやたらに野太い大声で吠えまくるので(ルックスはやや渡辺えり子似)、ますます「おい、マクベス。しっかりしろよ!」と叱咤したくなりました。
 もっとも、このお話自体、煮え切らない夫を妻が叱咤する話なのでそこは雰囲気出ていたといえば出ていたんですけど…。

 注目の野田演出ですが、とにかくすごい大がかりで、この視覚的効果だけでも充分一見の価値ありです。豪華な装置に大人数演出(総勢150名の群衆が使われます)にうっとり。
 最近、貧乏くさい芝居ばかり見ているので、久々にビジュアルだけでガッツリとカタルシスを味わうことができました。

 まず冒頭。魔女がマクベスに「王になる」と予言を与える場面の装置は一面黄色いお花畑でやけにメルヘンチック。そこへペスト流行時の中世ヨーロッパの「死の舞踏」を思わせるような外見(ひょろひょろした骸骨とカラスがドッキングしたような感じ)の魔女の大群がわらわらと現れる。
 このダンスシーンだけでかなり度肝を抜かれます。
 今回、野田が一番注目したのはこの「魔女」で、彼は魔女を「権力者によってふみにじられた戦場の死者」ととらえ、「だからこそ権力者を裁く権利がある存在」として描いたそうです。
 「魔女」が人間の姿をしていないというだけで、彼女たちの存在はぐっと戯画化されます。
 予言のシーンだけではなく、王座(血塗られた王座のイメージで真っ赤な椅子)を運んだり、夢遊病のマクベス夫人と一緒に舞台上を徘徊したり、王を殺したマクベスと一緒に血に染まった手を前につきだしながら出てきたり、かなり象徴的な存在として扱われていました。
 「エリザベート」のトートダンサーズみたいな感じか?
 と書くと気味が悪そうに思われるかもしれませんが、肉をまとわない骸骨だけという風貌が、どこかひょうひょうとしていて、こわいとか気持ち悪いとかいうよりも滑稽な感じを漂わせていたのが印象的でした。
 特に、1幕から2幕の間に、幕前でさながら幕間狂言のようなコントっぽい動きを見せるところなど、あまりにキュートで思わずなごんでしまいました。

 で、プロローグの予言のシーンが終わると、そのお花畑とわらわらと動いている魔女たちを載せたまま、その装置が一気に奈落までガーッとせり下がっていき、同時に後方から巨大な王冠と目玉をかたどった装置がゴーッと前方に張り出してくるんですよ。
 この大胆さにも驚きました(この常に見開かれている巨大な目玉は、おそらく殺人を犯してから眠れなくなった「マクベスは眠りを殺した」というセリフに呼応しているのでしょう)。
 この巨大な王冠も重要なモチーフで、ちょうど盆の上に作られているので、そのまま盆をまわすと王冠を裏から見たような形になり、この王冠の中が、魔女たちが大釜で気味の悪いものをぐつぐつ煮る場面の大釜になったりするんです。
 言葉で説明するのは難しいんですけど、とにかく視覚的にすごくインパクトがある演出で、しかも独特の美意識で統一されていて、なんともいえない魅力に溢れていました。

 というわけで、ドラマ性のあるストーリー、ヴェルディならではのドラマチックな音楽、わかりやすく楽しい演出…と3拍子揃っていて、オペラ初心者でもかなり楽しめる内容になっていましたが、どうも常に芝居のことを考えてしまう癖で、それだけでは没入できないのが悲しいところ。
 今回も前々から感じていた「マクベス」の筋運びや展開や設定についての疑問や腑に落ちない点が次々に思い出され、思い出すだけでなく「じゃあどういうふうにしたら納得できるドラマになるだろうか」とか考え始めたら舞台に集中できなくなってしまい、途中で何回も考えを頭から追い払いながら観る羽目になりました。

 腑に落ちない点は挙げ始めるとキリがないんですが、どうしてもひっかかるのが「マクベスは魔女に『王になる』という良い予言を与えられたのに、なぜわざわざ王殺害に走るのか」でした。
 予言っていうのは、なんにもしなくてもそういうふうになる運命にあるから予言なんですよね?
 だったら、何もする必要ないじゃん。
 悪い予言をされたというなら、それが実現しないようにじたばた運命に抗おうとするのはわかるけど。
 だって殺人ってすごいリスクでしょ。王が死んだからって必ず自分が次の王になれるという現実的な保証はないわけだし。
 下手に動いたらせっかくの良い運命が狂ってしまうとか考えなかったのかな。

 でも、人間が運命に逆らおうとすることで起きる悲劇を描いているわけだから、予言の成就をおとなしく待ってめでたしめでたしというだけではドラマにならない。
 マクベスが運命に逆らおうとして犯罪に手を染めるという部分ははずせないですよね。
 じゃあどうしたらいいのか?

 散々考えた結果、「私ならこう作る」という結論を出しました。
 まず、マクベスは「王になる」という予言を受けるが、その時点では自分が王になるような位置からはほど遠い場所にいるため、「まさか」と一笑に付す。
 が、信じられない逆転劇が次々に怒り、あれよあれよという間にマクベスは王になってしまう。しかもまったく手を汚さずに。
 マクベスは喜ぶが、いざ栄冠を手に入れると、今度はそれをどこまで守れるのかが心配になってくる。
 マクベスよりも心配しているのがマクベス夫人で、彼女はひそかに魔女を訪ね、もう一度未来を占ってもらう。
 が、今度は「次はバンクォーの子孫が王になる」という予言を与えられてしまう。
 あせった夫人は、マクベスに「バンクォーの子孫を根絶やしにしないと、今度は私たちが先王のような運命になってしまう」と訴える。
 最初はとりあわないマクベスだが、予言の力は身をもって知っているので心中は穏やかではない。
 夫人は、「今の私たちの力なら運命をも変えられるはず」と夫を叱咤し、だんだんその気になったマクベスは、ここで初めて運命に挑戦しようと決意する。

 こんな展開なら、良い予言が成就したことで、さらに人間の際限ない欲が刺激されて悲劇の方向へと進んでいってしまうという皮肉さが出るのではないでしょうか。
 もっと深読みすれば、マクベスが欲にかられて自滅するところまで計算に入れて良い予言をした魔女の残酷な遊びというとらえ方もできます。
 今のままだと、運命に逆らおうとする動機づけがいまひとつ弱い気がするんですよね。

 もうひとつ、すっきりしないのは、マクベスと一緒にビミョーな予言をされたバンクォーです。
 「マクベスほどではないがなかなか幸せになれる」とか、「王ではないが、王の父にはなれる」とか、どう受け止めていいのかよくわからない予言をされるのですが、結局バンクォーはマクベスの刺客によってソッコー殺されてしまうし(←これがなかなかの幸せか?)、息子も刺客の手は逃れたものの、王にはなれない。
 つまり、バンクォーに関しては予言は成就してないわけですよ。それでいいのか?>バンクォー

 さらにマクベスに殺された先王の息子(結局これがマクベス亡きあとの王になる)、唯一マクベスを殺せる資格があったマクダフという男が出てきますが、はっきり言ってこの人たち一つにまとめちゃったほうがすっきりするんじゃないですか?
 バンクォーの息子が予言通り次の国王になり、マクベスを殺せるのもバンクォーの息子っていうほうが話が1本に通じてわかりやすいと思うんですが。
 役割をいちいち分ける意味がよくわかんない。
 それとも、座付作家のつらさで、たくさんの役者に役を与えるために1つで済む役を複数に分けたんだろうか…。

 プログラムを見たら、マクベスって実在していたことを知ってびっくり。
 しかもけっこういい王様だったらしい(笑)。
 先王を殺して王位についたのは史実だけど、じつは先王のほうがあまりいい統治者ではなかったみたいです。
 まあ、もっとも歴史は強者を正当化していくものですから、実際のところはどうだかわかりませんけどね。


「マクベス」(戯曲)
シェイクスピアの原作戯曲。
翻訳は木下順二。

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「三婆」を観てきました

 ルテアトル銀座で「三婆」を観てきました。
 有吉佐和子の原作を昭和48年に東宝が舞台化。以後、何度も再演を重ね、商業演劇の金字塔と言われている傑作喜劇です。

 夫が妾の家で突然死。
 その事件をきっかけに、平穏な一人暮らしを楽しむ本妻(池内淳子)のもとに、60を過ぎてなお独身の夫の妹(大空眞弓)、さらに妾(沢田亜矢子)までもがころがりこんできて、ありえない組み合わせで同居する羽目になり……というお話。

 原作は、かなり陰湿な人間関係で、時代設定も古いらしいのですが、脚色では3人の老女の関係の妙を喜劇的に描いているうえに、時代設定を高度成長期に据えることにより、伸び盛りの日本全体の空気と衰えていく老人たちを対比しながら、老人問題や福祉問題に対する皮肉な視線までをも感じさせます。

 なんといっても秀逸なのは、3人の老女のキャラ設定です。
 きまじめでちょっと要領の悪いおっとりタイプの本妻、調子のいい妾、プライドが高く口うるさいうえにがめつい小姑。
 3人それぞれがソリが合わないのは当然なのですが、その中でもあるときは本妻と妾が、またあるときは本妻と小姑が、ときには妾と小姑が…というように、状況によって2人が結託して2対1になるという図式がおもしろい。
 「3」という数字が生み出す妙というか、たしかに3人って2対1になりやすいよなーとか、しかも一瞬のうちに2対1の組み合わせが入れ替わったりするんだよなーとか、そのへんの形勢の変化と利害の動き方が非常にリアリティーあってひきこまれました。
 
 キャラとしては、一番強烈な役柄が小姑、発散できる役柄が妾で、本妻はある意味一番常識人なのでおもしろみがないといえばないのですが、私はこの本妻に一番ドラマを感じました。
 本来、妾や小姑と同居する義理などないはずなのに、いすわられているうちに追い出そうとする自分のほうが悪者のような雰囲気になってしまうあたりなど、「そうそう。こういう海千山千の人たちにかかると、なにが常識なのかわけわかんなくなってきて、結局一番まっとうに生きてる人が損するんだよね」と思わず共感。
 さらに、いざ2人とも出ていくことが決まると、今度は「追い出される者2名対追い出す者1名」という図式になり、2名に妙な連帯感が生まれて自分が仲間はずれになったような孤独感を感じ、「私が悪かったわ。皆、ここにいてちょうだい」と口走り、2人にすがってしまうという心理も非常によくわかる。

 このシーンの本妻の姿からは、いろいろな感情が見えてきます。
 広い家に一人残されると考えたとたん、急にさびしくなったというのはまあわかるんですけど、それだけではなく、彼女にとって妾や小姑といがみあう日々は、案外楽しかったんじゃないかと思うんですよね。
 彼女の夫は生前から妾宅にいりびたりの生活をしていた。つまり、彼女は今までもずっと孤独だったわけで、さびしさは今に始まったことではないはずです。

 本妻という立場に守られてはきたが、常識やまっとうな考えや法律は彼女をどんどんさびしくさせていく。本音をぶつけられる相手もいない。そんな彼女にとって、世間から嘲笑される立場の妾や小姑との間にくりひろげられる人間くさい本音バトルはなんともいえず刺激的でスリリングだったと思うし、その中で、彼女自身楽になれた部分や活力を与えられた部分もいっぱいあったのではないでしょうか。
 それまでの彼女は、本当の意味での孤独を知らなかった。そういう価値観しか知らなかったからです。むきだしの感情でぶつかる手応えを知った今となっては、もう昔の自分には戻れない。だから2人を追い出すことができなかったのだと思います。

 しかし、その目覚めには大きな代償がついてきたのでした。
 最終幕。それから15年後の3人の姿が提示されます。
 小姑はますます乙女ババアっぷりを発揮し、現実をまったく見ようとしないマイペース状態。
 妾は痴呆(今は認知症というようですが)になり、妄想の世界をさまよっている。
 結局、最後までしっかりしている本妻が全員の面倒をみる羽目になるのです。かくして、貧乏クジひく人はどこまでもひくことになるんだなーと、ここでまた実感。

 福祉事務所の職員が、都バスのパスやら動物園の無料入園券を大量にもってきて去っていくラストもなんともいえず皮肉でした。
 彼女たちには、もはやバスに乗ってどこかへ行く気力も、動物園に行って楽しむ好奇心もない。
 それでも、職員は自分はお年寄りに良いことをしているとなんの疑いも感じることなく去っていき、選挙カーからは「福祉対策」「お年寄りが楽しく暮らせる明るい社会に」と連呼する声が空しく響いてくるのです。
 こんなふうに書くと、随分救いのない暗い話だと思われそうですが、実際はあくまでも喜劇的に演じられるため、後味の悪さはありません。

 とはいうものの、最終幕については疑問がないわけではないです。
 この幕があるからこそ、ただの娯楽劇ではない社会派のお芝居になっているのだと思うし、時代性も反映されて作品に深みも与えているのだと思います。
 が、やはりそれまでの話のトーンと最終幕は異質な印象を受けることも否めないのです。

 それが証拠に、本妻が妾と小姑に「出ていかないでくれ」とすがり、2人が「あんたが心をいれかえるっていうなら出ていかなくもない」といい気になって本妻に恩着せがましいセリフを言って一件落着するという前幕の幕切では、ほとんどのお客が満足して「これでおしまい」だと思いこみ、席をたとうとしていました。
 「ただいまより10分間の休憩を…」というアナウンスが流れた瞬間、あちこちから「え、まだあるの?」という戸惑いの声が聞こえてきたのを見て、「ああ。やっぱりこの最終幕は微妙な位置づけかもな」とあらためて思いました。

 個人的には、最終幕をなくして、その分、本妻の気持ちが変わるまでの変化をもっとダイナミックに見せるように組み立てて、純粋に3人の女の人間関係の妙を見せる人間喜劇に徹したほうが客層のニーズには合っていたのではないかと思います。
 逆に、最終幕を成り立たせたいのなら、老人問題にかかわる伏線をそれまでにもっとちりばめておくべきでしょう。
 最終幕の前に大半のお客が満足してしまっていたのは、最終幕につながる「何か」が弱かったからだと思うのですがどうでしょうか。


「三婆」(小説)
有吉佐和子の原作本。

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「みんな昔は子供だった」の初回報告

 冬の連ドラがぼちぼちスタートしましたね。
 初回はとりあえずチェックするつもりなので、ビデオにとりためて現在少しずつ見ているところです。

 まず最初に見たのは「みんな昔は子供だった」(火10時/フジ)。
 舞台は、山の小さな分校。
 生徒は小学校4年生の龍平のみ。先生はある事情があって東京からこっちに移住してきたアイ子先生(国仲涼子)。
 2人は、大自然に囲まれながら、毎日まったりと分校ライフを楽しんでいる。

 そんなある日、彼らの平和な日常が壊される出来事が起こる。
 廃校の危機を迎えている分校を存続させるため、校長が都会から子供たちを体験入学させる「山村留学」を受け入れることに決めたのだ。
 東京からやってきた子供たちは、小学校3〜5年の男の子3名プラス女の子2名。それぞれワケありの様子で、ついてきた親も問題を抱えていそうなタマばかり。

 「こんな塾もないような山村でまともな勉強ができるのか?」とさっそく文句をつけてくる親あり。「若い女の先生は困る」とケチをつける親あり。
 中でも最悪なのが、山村留学を利用して「子捨て」にきた父親。
 父親が子供を置き去りにしたことに気づいた学校関係者は、子供を施設にひきわたそうとするが、アイ子はどうしてもそれを放置できず、その子に山村留学を続けさせようとする。

 地味な話だし、シチュエーションとしてはオーソドックスともいえる設定ですが、初回からひきつける手腕はさすがでした。
 脚本の水橋文美江は、フジのヤングシナリオ賞の最終選考に残ったことをきっかけにデビューした作家さんですが、個人的にいつも楽しみにしている人です。
 構成、人間の描き方、泣かせるツボ、セリフなど、どれをとっても弱いところがなく、しっかりまとめてくる手堅さがあることに加えて、なんともいえない柔らかな叙情性のようなものが漂うのが魅力です。
 ご主人の中江功氏(フジTVの演出家)と組むと、特にその叙情性がきわだちます(医療ミスに高校生が挑んでいく「太陽は沈まない」も、シリアスなテーマながら叙情性と温かさが感じられ、非常に質の高いドラマでした)。

 「ビギナー」みたいな都会の職業ものを書くこともありますが、本領を発揮するのは、やはり幻の酒造りに青春をかける「夏子の酒」とか、今回の話のように田舎を舞台にしたすっきりした清潔感のあるドラマでしょう。
 今回も水橋さんらしいやさしい描写がいくつもあって、ドラマづくりの勉強になる部分が多々ありました。
 一番「うまいな」と印象に残ったシーンをあげてみますと…。

 まず、冒頭。
 龍平が九九を暗誦するシーンから物語は始まります。
 龍平は、小3になるのにいまだに最後までスラスラと九九が言えません。
 アイ子先生は「あなたはやればできるはず」と励まし、「どうして途中でとまっちゃうかな」と残念そうに言うのですが、龍平は黙っているだけ。

 そのあと、ドラマは山村留学のエピソードになり、都会から子供たちを迎えるものの、そのうちの一人が親に捨てられた子供であることが判明します。
 アイ子は、事情があって出直すために東京を出てここに来たわけですが、村の人たちは「そうは言っても一生ここに住む覚悟はないだろう。いずれはここを出ていく人」という認識を捨てられない。
 そう言われるとアイ子も「そんなことない。私はここに骨を埋める覚悟だ」とは言い返せず、「村の問題に首をつっこんでえらそうに意見する資格なんて、こんな中途半端な立場の自分にはない」と多少引き気味になるわけです。

 なので、捨てられた子供が車で警察へ連れていかれるときも、「なんとかしたい」という歯がゆい思いを抱きながらも、黙って見送るしかなかった。
 が、その瞬間、一緒に並んで見送っていた龍平が、いきなり九九を暗誦し始めるんですよ。しかも大声で。
 一度もつかえることなく、初めて最後まで九九を言い切った龍平を驚いてみつめるアイ子──。

 さて、皆さんなら、ここでアイ子にどんなセリフを言わせますか?

 まあ、普通にさらっと考えたら、「龍平くん。すごいじゃない。やったね。だから先生言ったでしょ。龍平くん、やればできるって」と言いながら嬉しそうに龍平に抱きつく……とか、そんな感じでしょうか。アイ子先生はいつもやさしくマイペースなので。
 ところが、水橋さんの本ではそうこないんですね。

 アイ子は、九九を言い終わった龍平をしばらくみつめ、次の瞬間、怒ったように「やればできるのに、なんでやらないのよ!」と叫び、そのまま車の走り去った方向に向かってダーーーーッと走っていくんです。
 アイ子がきつい言葉で急に怒ったときは、無意識に想像していた反応と違ったので「え?」と思ったんですが、次に車のあとを夢中で追っていくアイ子の姿を見て納得しました。

 そうか。この言葉は自分に向けて投げつけたものだったんだ、と。
 やればできるはずなのに、気持ちのほんの少しの弱さからその壁をなかなか越えられなかった龍平に対するもどかしさと、同じようにいろいろな理由をつけて壁をつくっていた自分へのいらだちがリンクした瞬間、「やればできる」という自分自身が発していたキーワードで自分の呪縛を解いたわけです。

 「やればできるのに、なんでやらないのよ!」という言葉は、龍平に対するものであると同時に自分への言葉であり、冒頭の九九のシーンは、二人だけの分校生活の空気感を表すための描写であるのと同時に後のシーンの伏線にもなっている。
 こういうふうに、ひとつのセリフ、ひとつのエピソードを、その場の意味を伝えるためだけに使うのではなく、複数の役割を背負わせることによって、行間が生まれ、ドラマが立体的になっていくんですね。

 当たり前のようだけど、書く側になるとこれがなかなか難しい。
 ついつい、説明のためだけのセリフをダラダラと重ねてしまい、平面的な本になってしまうんですよ。

 今後は、東京でアイ子が経験した出来事とはなんなのか…という過去への興味と、龍平と東京からきた子供たちの間でどんな問題が起こるのか…という未来への興味が、ドラマを織りなす縦糸と横糸になっていくことでしょう。
 
 国仲涼子は、まさにイメージ通りのキャスティングで、明るい中にも一抹の「影」を感じさせるさじ加減が絶妙。
 達者な子役陣にも期待大。
 特に都会からきたモモという女の子を演じている伊藤沙莉は、たしか以前「14ヶ月」で、「中身は35歳だけど外見は10歳」というとんでもない難役を余裕で演じていた早熟の子役なので、今回はどんな芝居を見せてくれるのか楽しみです。

 龍平役の子は、一人だけ「田舎の子」という役回りにふさわしい面構え。誰かに似てるなーと思ったんだけど、時任三郎にちょっと似てる。
 父親役が時任三郎だったら笑えるけど、残念ながら全然似てない陣内孝則でした。
 陣内は、ちょっと前までものすごい中年太りしていてびっくりしたんですが、今回は逆に頬とか首とか骨が浮き出るくらい痩せちゃっててさらにびっくり。
 そんなに頻繁に伸縮して大丈夫なのか?


「みんな昔は子供だった」(DVD)
出演は国仲涼子他。
脚本は水橋文美江、永田優子。




「みんな昔は子供だった」(原作ノベライズ版)
シナリオを小説化したもの。

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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