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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

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「リング」〜“恐怖”の日米比較文化論

 このあいだ、「ザ・リング」が地上波放送になったので見ました。
 「リング」に関しては、まず原作を読み、「こぇ〜!!」と震えあがったところでTVでドラマ化され、これはあんまりこわくなかったんだけどいろいろと工夫が見られてそれはそれでおもしろく見て、映画はTVで見て「そうきたか!」と腰を抜かし……と、メディアが変わるたびにどうアレンジされるのかを楽しんできたわけですが、まさかハリウッドヴァージョンまで登場するとは…。

 最初に言っておくと、私はべつに“ホラー好き”ではありません。
 いや、どちらかというと「こわい話」には興味のあるほうなんですが、巷のホラーって「気持ちの悪いもの」や「視覚的にびっくりさせるもの」に終始するものが多いじゃないですか。あの手のホラーが好きじゃないんだと思う、きっと。
 視覚的な衝撃は、その瞬間はびっくりしてドキドキするけど、その作品を見終わったあとにまで恐怖が持続することはないですよね。その瞬間に完結する恐怖だから。
 でも、もっと人間の心理に根深く切り込んでくる恐怖っていうのは、視覚表現よりもむしろ人間がもっている本能的な恐怖感知能力や、想像力にスイッチを入れることによって、その人の中でどんどん増殖していくものだと思うんですよ。

 初めて「リング」の原作を読んだとき、「こんなにこわい話があるのか」というくらいこわかったのですが、まわりの人の話をきくと、「すごいこわい」という人と「何がこわいのかさっぱりわからない」という人とにきっぱり二分されるんですね。
 さらに興味深いのは、「リング」の謎解き編という位置づけで書かれた「らせん」のほうがこわいという人には、「リング」のこわさがわからない人が目立ったこと。
 私はもう断然「リング」のほうがこわかったですよ。
 だって謎が解明され、筋が通っちゃってる時点でもうこわくないんだもん。
 「らせん」はミステリ小説としてはおもしろいのかもしれないけれど、もはやホラーではない気がします(少なくとも私にとっては)。

 では「リング」のこわさはどんなこわさなのか?
 それはまさに前述した「人間の心理に根深く切り込んでくる恐怖」です。
 そこに書かれてるものそのものがこわいというよりは、それによって読者の中にある「これだけは見たくない」と無意識に思っている“恐怖を生み出すスイッチ”がオンになってしまうこわさです。だから、スイッチがオンにならない人にとってはなにがこわいのかわからないし、オンになってしまった人にとってはメチャクチャこわい。
 「どこがどうこわいのか教えて」と言われても、スイッチのツボは人それぞれ微妙に違うので、本当のこわさについては他人に説明しにくい。
 こういうたぐいの恐怖は、受け手側が自らの感受性によって勝手に恐怖の拡大解釈をしてくれるので、作者が意図した以上に大きな恐怖を与えることができます。
 私が最上のホラーだと思うのはこういうホラーです。

 じゃあ私が「リング」に感じた恐怖のスイッチはどこにあったのか?(以下、ネタバレありですので、ご了承のうえ、先にお進みください)
 いろいろ考えたんですが、一言でいうと「異質なものが境界線を越えてまじりあう恐怖」だと思います。
 まず、ビデオテープという無機的な文明の利器と、怨念という非文明的な理不尽なもののコラボレーションの妙。
 「恐怖」の源は「理屈でわりきれないもの」「筋の通らないもの」「科学や文明の力で制御できないもの」であり、私たちはその恐怖から逃れるために、恐怖を闇(理屈で制御できない世界)に封じこめ、光(秩序と理屈が支配する世界)の領域を拡大させてきたわけです。
 今や光の世界はほとんどの領域を占め、理不尽で非科学的なものが存在する世界は縮小傾向にありますが、それは同時にそういうものに対する免疫が昔よりも鈍くなってきているともいえます。
 光の領域に棲む私たちは、「こわい現象は闇の世界で起こること。こちら側の世界にいる限りはそういうものに出くわすことはない」と心のどこかで気を許しています。
 だからこそ、境界をやぶって闇が光の領域に侵入してくることへの恐怖感にはすさまじいものがあるのです。

 「ビデオテープに呪いがかけられる」というモチーフは、そういう現代人の弱点というか気のゆるみを非常にうまくついていると思いました。
 これがビデオテープじゃなくて、よくわかんないけど、古くから伝わる人形とか、とにかくいかにも闇の世界のアイテムといった感じのものに呪いがかけられたというならそれほどこわくなかったと思うんですよ。それは闇の世界のアイテムだけで完結していて、光の領域とは関係ないって安心できるからね。
 でもビデオテープなんて家の中にゴロゴロしてるし、ラベルのないテープがあるとふっと気軽に見ちゃうし、でも心のどこかで「何が写ってるかわかんないものを見るのってちょっとドキドキするな」という気持ちもたしかにあるし、そういう現代人のリアルな感覚を呪いに結びつけたというだけでも「リング」のコンセプトはすごいと思います。

 同様に、新しくてきれいなコテージのTVやビデオデッキの真下におぞましい惨劇の舞台となった井戸が存在していたという構図。これまた光と闇がぴったり寄り添った気持ちの悪さでゾクゾクします。
 さらに、最もゾッとしたのは、ビデオに写っている映像がカメラで撮られたものではなく、貞子の目に映ったものが念写されたものだということがわかるくだりです。
 そのこと自体は斬新なアイデアではないのですが、「まばたき」がテープに反映されていることで自分が貞子と同じ目線で映像を見てしまったこと、つまりビデオを見ることで知らないうちに貞子の身体生理と同化していたことがわかる……という部分がたまらなくこわかったです。
 これもまた、思わぬ不意打ちで異質な闇が境界線をこえて自分の領域になだれ込んでくる気持ち悪さに通じます。

 原作の話ばかりしてしまいましたが、ここから映画の話に入ります。
 原作では、「結局、ビデオを見て7日目に何が起こるのか」という点がいまひとつ不明瞭でした(死ぬということはわかるんだけど)。
 小説はそういうところはうまくぼかせるけど、映画となるとすべてを視覚化・聴覚化しなくてはなりませんから、ぼかしたままというわけにはいきません。
 そこで新しくつけくわえられたアイデアが、あの有名な「TVから這い出してくる貞子の図」です。
 まああれもまた「這い出してきたあとに何をするのか」ときかれたら、それはそれでいまいち不明瞭っちゃー不明瞭なんですが、這い出してきた瞬間のインパクトがあまりに強烈なので、そのあとはもうどうでもいいという気分になります。

 いやー、あのアイデアにはやられました。
 単に「こわい」というだけではなく、今まで説明してきた原作の「リング」の恐怖の本質を見事に視覚化していたからです。
 TVという光の世界のアイテムを前にして、私たちはその中でどんなにおそろしい闇の世界が繰り広げられていても、それが境界を越えてこちら側に流れ込んでくることはありえないと信じきっています。そこを破られたからこそ、急所を突かれたような恐怖に見舞われるわけです。
 正直、私は映画版の「リング」がそれほどよくできているとは思わないのですが(やはり原作の恐怖のほうが上だと思う)、でもあのアイデアをとりいれたというだけで「映画化の功績は充分あった」と思いました。
 つまり、あの“這いだし映像”が「リング」という作品の恐怖の本質を一瞬にして伝えてくれたわけで、「視覚ほど強力でわかりやすい武器はない」とこのときばかりは心底実感しました。

 さて、この映画版「リング」を見たアメリカの監督が、ビデオを見た3時間後にリメイクの権利を買ったという話は有名ですが、「ハリウッドでリメイク」という話を聞いたときから、「アメリカ人があの作品のどこにこわさを感じたのか」に興味津々でした。
 ハリウッド版を見た人の感想をきくと「予想以上に日本版をそのままなぞっていたのでつまらなかった」という意見が多かったのですが、いくら表面的に同じものをなぞっても、そこには絶対に日米の感覚の違いは出るはずで、むしろ真似をするほうがわずかな違いが際立ってそれがわかりやすいのではないかと予想していました。
 つまり、なぞるにあたって、「そうそう。ここは私もこわいと思ったの」というところはそのまま残すだろうし、「ここは何がこわいのか意味不明」というところはカットするかべつなエピソードに置き換えられるだろうし、その改変のあとを見ることで日米の恐怖観、あるいはユングの言うところの集合無意識(その民族全体が共通してもっている無意識)が浮き彫りになるかもしれないと思ったんですね。

 で、実際にTVで見てみて感じたこと。
 まず、これは多くの人が指摘していることですが、はっきり言って「こわくない」。
 身も蓋もない感想ですけど。
 もちろん、日本版をすでに見ている人は、次に誰がどうなるかすべて知っているわけだし、クライマックスの“あのシーン”もすでに承知していて「日本版とどこがどう違うのか比較してやろう」という小姑のような冷めた目で見ているわけですから、この評価はさしひいて考えなければいけません。そりゃあ最初に見たもののほうがこわいに決まってますからね。
 でも、それを差し引いても「やっぱりこわくないかも」と思った自分がいたのもたしかです。
 その理由は「クリアさ」ではないかと思いました。

 何がって、何もかも「クリア」なんですよ、ハリウッド版は。
 まず、日本版の貞子にあたるサマラ。
 貞子は顔も常に隠れてはっきり見えないし、存在感が希薄。しゃべるところもありません。なのに、サマラは顔も表情もはっきりわかるし、しゃべるシーンすらある。
 これねー、以前無謀にもホラーを書こうと思ってトライしたときの苦い思い出なんですが、いろいろこわい現象を起こしたあと、最後に話のオチをつけようと思って幽霊を登場させて謎解きをさせてしまったことがあるんです。
 そしたらこれがまわりに超不評で、「説明してくれたので事情はよくわかったが、幽霊が筋の通ったことをしゃべった時点でもうこわくない」と言われまして。
 ごもっともです。しゃべる幽霊、話のわかる幽霊はこわくないです、たしかに。
 前述した法則に従えば、闇の世界の存在は、なるべく光の世界の論理が通じない理不尽さをもっていなくてはならない。
 たとえば「呪い」にしても、呪われて当然の相手が呪われる話はそれほどこわくないが、「なぜそれがこっちにくる?!」という方向に無差別に向けられると俄然こわさがアップする。
 「リング」の貞子がこわいのは、その不幸な境遇にもかかわらず、いっこうに感情移入できないところにあるのです。というか、「貞子も気の毒よね。こうするしかなかったのよ」と観客が感情移入した時点で貞子の負け。見ている側に余裕が生まれるからね。観客は光の世界の論理で理解しようとしますから、対する貞子はあくまでもその理解を拒む「ご意見無用の存在」でなければならない。「話せばわかる幽霊」なんてこの世でもっともこわくないですから。
 そういう意味では、サマラの顔と声を見せただけで、観客は彼女を自分たちと同次元に位置づけてしまいますから、「得体のしれないこわさ」はかなり薄まってしまいます。
 ビデオを見終わったあとにかかってくる呪いの電話も同様。
 日本版は無言できれるんだけど、ハリウッド版は「あと7日」と言葉で伝えちゃうんですよ。いや、わかりやすくて親切なんだけど(笑)、具体的な言葉を発することで、もうすでに対象とコミュニケートできちゃうわけでしょ。それはあんまりこわくないんじゃないかなーと思うんですよね。

 そして問題のサマラがTVから出てくる場面。
 まあ、こっちも2回目なんで、出てくることはわかってるわけだし、「え、出るの?…出るの?…出ちゃうの?」という1回目のヒヤヒヤ感がないのは当たり前ですが、それにしても「タメ」がなさすぎです。
 日本版では、井戸から出てくる瞬間もすんごいタメがあって、いかにも長い時間(7日間)をかけてようやく這い出てきた感じだったけど、ハリウッド版は階段上ってきたみたいにちゃっちゃか出てきてそのままダーッと画面からとびだしてくる。こんなに超人的な力を持ってるならもっと早く出られるだろ!と思ってしまうくらい。
 ここまで人間離れしていると、今度は「得体がしれない」のを通り越して「ただのモンスター」としてしか認識できなくなり、まあ言ってみれば宇宙人とかエイリアンとか、もうまったく別次元の生物に思えてしまいます。
 日本版の貞子はそのへん妙に動きがリアルで、足が萎えてしまってまっすぐ歩けない感じとか、時々画面からフラ〜ッ、フラ〜ッとフレームアウトしつつ蛇行してこちらに迫ってくる感じとか、境界を越える瞬間の違和感とか、とにかくアナログな感じがメチャメチャこわいんですよ。まさしく異質なものがまじりあってる感じで。
 ハリウッド版は、「人間or非人間」「出るorでない」というデジタルな境目がはっきりしているんだけど、日本版は人間なのか人間でないのか、出るのか出ないのかはっきりしないところ(=おぼろな印象)がこわいんです。

 はっきりしすぎてこわくないという意味では、呪いのビデオ映像もそう。
 工夫しているのはわかるんだけど、ハリウッド版の映像は断片的ながらひとつひとつのイメージが明確で、いかにも編集しましたチック。
 一方、日本版の映像はなにが映ってるのかよくわからない曖昧な感じや、はっきりしないつなぎ目や、汚い画質や、時代のわからない雰囲気が「人の意識の中を覗いた映像」というリアリティーをかもしだしていて「なんかよくわからないこわさ」がある。
 ここでも、デジタルな印象のハリウッド版とアナログな印象の日本版という対照が…。
 
 やっぱりこれは「こわいもの」をどう位置づけるかという国民性の違いなんでしょうか。
 私は、アメリカ人の感性としては、「まじることへの恐怖」が日本人ほどないんじゃないかと思いました。
 矛盾するようですが、「まじることへの恐怖」は、「自分と異質なものとの間に親和性を求めてしまう性質」があるからこそ生まれるんじゃないかと思うんですね。「まじってしまいそうな自分を感じるからよけいこわい」というか…。
 アメリカ人の感覚をみていると、「異質なものは異質なもの」として、常に自分との間にビシッと揺るぎない境界線をひいてる感じなので、異質なものに対しては、「距離をおいてクールにつきあうか」「やっつけるか(あるいは支配するか)」「やられるか」の3つの選択肢しかないんじゃないかって気がする。
 となると、ホラーの場合、第1の選択肢はありえないから、残るのは「やるか、やられるか」というデジタルな戦いになりますよね。
 「こわいもの(変死した被害者の死に顔)をみてしまう」→「その恐怖に絶叫する(←ナオミ・ワッツ叫びすぎだよ…)」というじつにわかりやすいセット映像がアメリカでは絶対に必要なんだなーと、ハリウッド版を見てつくづくわかりました。
 日本のファンにしてみたら、そこにいくまでの過程が一番こわいところなんだけど、アメリカ人にしてみたら「これ」がないと「メインがなくて前菜ばっか食べさせられてる気分」になるのかも。

 監督の話では、「日本のホラーは語りきらないで終わっているところが(語りきってしまうアメリカに比べて)エキサイティング」とコメントしているので、「リング」を気に入って買った監督自身、「リング」の魅力はわかってるとは思うんですよ。
 アメリカの感覚とは違うこわさが表現されているのがおもしろいということも。
 ただ、これだけお金をかけてつくる以上、全世界のマーケットを意識しないわけにはいかないでしょうし、となると、やっぱり従来のアメリカ人のニーズからあまりかけ離れてしまうことはできないというジレンマがあり、その結果がどっちつかずになってしまったのかもしれません。

 いろいろネガティブなことを書いたけど、まっさらな目で見比べたら、脚本の運びとしてはハリウッド版のほうが整理されていたと思うし、展開もわかりやすかったし、役者の演技も人間性が感じられたと思うので、作品としてはハリウッド版のほうが練られていたのではないでしょうか。
 日本版は、シーンとシーンのつなぎが省略されすぎてて、原作を読んでいない人には意味不明の部分が多かったと思うし、そのぎこちない展開のせいか登場人物の人間性もあまり印象に残っていません。また、ハリウッド版は映像やエピソードをうまく使って説明的にならない工夫がされていたのに対し、日本版は動きに乏しく、説明が多い印象を受けました。
 でもこわいかどうかっていうとそれはまたべつの問題。
 ホラーってほんとに難しいですね。

 あと、日本版でけっこうポイントだった「最後に、子供を救うためにダビングしたビデオを自分の親に見せる」というラストね。
 TV版では、ここがすごく重視されていて、かなり早いうちにその解決方法がわかるんだけど、わかったからといって自分さえ助かればいいという選択肢はいかがなものか、と悩む主人公が、ずーーーっと最後までその葛藤をひきずり、最終的に自分なりの答えを見つけるのですが、映画版では「呪いから逃れる解決策」が最後の最後でわかり、わかった次の瞬間、「じゃあうちの親に見せよう。孫が助かるためなんだからいいわよね」って速攻で答えが出ちゃうんですよね(笑)。
 ところが、ハリウッド版ではその選択肢すら出てこないんですよ。最後に解決策がわかるというところは日本版と同じなんですが、そのあとビデオをダビングしている母親のそばで子供が「このビデオを見た人はどうなっちゃうの?」と冷静なつっこみをしておしまい。
 いや、このラストが悪いって言ってるわけじゃないんですけど、「自分の親に見せる」という人間の究極のエゴイズムを描いた原作の問題提起をあえてアメリカ側がカットしたという事実に興味をひかれます。
 倫理的に嫌悪感をもたれるとか、反発がくることが予想されるとか、そういう思惑があったんだろうか。とかいろいろ憶測が…。
 やっぱりこういう倫理的な問題に抵触してくると、宗教が出てくるでしょう、欧米の場合。
 でも今回は日本の話が元ネタなだけに宗教色はいっさい出てこなかった。
 だから宗教抜きでこういう問題は処理しきれなかったということなんでしょうかね。
 こういうカットされた部分にいろいろな思惑を感じ取るのも、それはそれで楽しいものです。


「ザ・リング」(DVD)
ハリウッドリメイク版「リング」。
ゴア・ヴァービンスキー監督。
出演はナオミ・ワッツ、マーティン・ヘンダースン他。



「リング」(DVD)
こちらは元祖国産「リング」。
中田秀夫監督。
出演は松嶋菜々子、真田広之他。



「リング」(本)
鈴木光司による原作文庫本。

拍手[3回]

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楽聖に死角あり

 先日、新国立劇場で「フィデリオ」というオペラを観てきました。
 「フィデリオ」は、ベートーヴェンが作った唯一のオペラですが、はっきり言ってあまり人気の演目ではありません。
 ベートーヴェンがこれ1作きりで二度とオペラを作らなかったことをみても、本人も「自分はあまりオペラには向いてない」と思ったのではないでしょうか。

 で、観た感想ですが………やっぱりこれ1作でやめておいてよかったかも。
 音楽がどうこうじゃないんです。
 ドラマがダメダメ。まったく魅力がない。なんでこんな話選んじゃったの?って感じ。
 そもそもベートーヴェンがこの作品を選んだ動機というのが、「『ドン・ジョバンニ』なんて不道徳なオペラが受けているのはけしからん。俺様がもっと崇高な題材でオペラかくあるべしというオペラを作ってやる」というものだけに、話は道徳的このうえないです。

 舞台は国事犯が大勢入れられているスペインの牢獄。
 もうこの舞台設定からしてメチャメチャ滅入ります。最初から最後まで牢獄っすから。
 で、そこの牢番・ロッコ(ハンス・チャマー)の娘・マルツェリーネ(水嶋育)が、門番のヤキーノ(吉田浩之)に口説かれているところから話は始まります。

 「ねえねえ、俺たちさー、いつ結婚する?」
 「はあ? 私、そんなこと約束した憶えないし!」
 「ガビ〜ン……」

 ヤキーノはまったく相手にされず。それもそのはず、今、マルツェリーネはフィデリオLOVEだから!
 フィデリオは、ロッコの仕事を最近手伝っているまじめな若者で、ロッコもフィデリオを息子のようにかわいがっている。
 そこへ父親のロッコと噂のフィデリオ登場。キャピキャピとフィデリオにつきまとうマルツェリーネ。ややひき気味ながらもそれを拒絶はしないフィデリオ。
 ロッコはもうすっかりフィデリオとマルツェリーネの結婚を心に決めている様子。しかしそんな父娘を見て複雑な心境のフィデリオ。
 なぜなら……

 彼は男装した女性だったからだ!

 彼の本当の名前はレオノーレ(ガブリエーレ・フォンタナ)。
 夫のフロレスタンが国事犯としてここの地下牢に捕らわれていることを知ったレオノーレは、唯一地下牢の囚人と接触できるロッコになんとかとりいろうとしていたのだった。
 そのためには娘の恋心を利用することもかわいそうだがしかたがないと思うフィデリオ。
 ロッコはロッコで、フィデリオが自分に気に入られようとするのは、マルツェリーネと結婚したいがためだと思いこんでいる。
 フィデリオは、「あなたの役に立ちたい。地下牢の仕事を私にも手伝わせてください」とロッコに頼み、ロッコは「わかった。マルツェリーネとの結婚と地下牢へ入る許可を所長にとろう」と約束する。
 所長のドン・ピツァロ(ペテリス・エグリーティス)は、いってみれば時代劇の悪代官のような男。フロレスタンは彼の汚職を暴こうとしたために闇に葬られたのだ。
 今までわずかな食料しか与えず、生かさず殺さずで彼を放置していたピツァロだが、密告の手紙を受け取り、翌日大臣が「不当逮捕がないかどうかの視察」に来ると知ってあわてる。
 ロッコを呼びつけたピツァロは、「地下牢の男を明日までに殺せ」と命令するが、ロッコが断ったため、「殺すのは俺がやるからおまえは牢の中に墓穴を掘れ」という。
 ロッコは気が進まないながらも、「ぜひ手伝わせてほしい」というフィデリオを伴って地下牢に行く。
 そこにいたのは、まぎれもなく弱り切ったフロレスタン(トーマス・モーザー)だった。ロッコの仕事を手伝いながら、気もそぞろなフィデリオ。もちろん、フロレスタンは目の前の若者が自分の妻だとは知るよしもない。
 そしてついに登場した悪代官ピツァロがフロレスタンを手にかけようとした瞬間、「殺すのならまず彼の妻から殺しなさい」と彼の前に立ちふさがるフィデリオ。
 彼がフロレスタンの妻だと知って驚くピツァロとロッコ。
 さらにピツァロにピストルをむけるフィデリオ。
 一触即発の空気の中、大臣の到着を知らせる鐘の音が……。
 こうしてピツァロの悪事は暴かれ、フロレスタンは妻のもとへ戻ってめでたし、めでたし。

 とまあこんな話です。
 「なんでさっさとフロレスタン殺しとかないんだよ>ピツァロ」とか、「男でもきつい牢番の力仕事を女のレオノーレになぜこなすことができたんだ。へなちょこだったらロッコに認められることもないだろうし」とか、「フロレスタン、あんた太りすぎだよ。餓死寸前というよりは食べすぎで動けない状態にしか見えない!」とか、まあつっこみたいところはいろいろあるんですが、一番問題なのは、フィデリオがフロレスタンを救出するまでのドラマがなにもないことです。

 助けたのはあんたじゃなくて大臣だよ>フィデリオ。大臣が来ることがわかってるならあんた必要ないじゃん。せめてもうちょっと何か事件を起こしてピツァロの関心をべつの方向にそらして大臣が来るまでの時間稼ぎをするとかさ、なんかそれなりにやることあるだろう。悪いけどあんた、なにもしてないよ。
 なのに、フィナーレで「夫を救った妻はどんなに誉めたたえても誉めすぎることはない」……ってそんな英作文の構文みたいな合唱で臆面もなく夫婦愛を延々とたたえられても……と思ってしまったのは私だけではないはず。
 いいんですよ。夫婦愛、おおいにけっこう。
 道徳好きのベートーヴェンが「夫婦愛の美しさ」をたたえるオペラを作りたかったのはわかります。
 でもこれ、そんな次元にもなってない気が…。

 私がどうしてもひっかかるのは、マルツェリーネの存在です。
 彼女、結局騙されたわけですよね。なのに、そのレスポンスらしいものがほとんどないんですよ。
 最後にフィデリオが「女」で「国事犯の妻レオノーレ」だと聞いた瞬間、「え!」と驚くところはあるんですが、そこはすでにフィナーレの一部なので、次の瞬間にはもう納得して「夫を救った妻は…」って一緒に臆面もない合唱に加わっちゃってるんですよ。
 おいおい、マルちゃん、立ち直り早すぎだって!!
 せめて「私ったら勘違いしてたんだ……おバカさん。てへっ」くらいのリアクションしろよ。
 それにレオノーレ。のほほんとした顔しちゃって、あんた、彼女にそんなに悪いことしたと思ってないだろ!

 この作品、マルツェリーネが利用されてたと知った瞬間がどう考えても一番ドラマが動くポイントなのに、なにもリアクションがないばかりか、そもそもマルツェリーネは利用すらされてないんですよ。
 フィデリオがとりいったのはロッコのほうで、娘のマルツェリーネはいわばオプション。マルツェリーネの婿候補としてロッコにとりいっている振りをすればさらに信用は増すだろうという計算だったのでしょうが、せっかく男装してマルツェリーネに気に入られるというシチュエーションを作ったんだから、もっとそれを利用しようよ。
 だって、フィデリオの救出劇を描きたいなら、それを阻む存在として一番使えそうなのは誰が見てもこのマルツェリーネでしょう。
 たとえば、名前忘れたけど、赤穂浪士の一人で、吉良邸の絵図面を手に入れるために女を口説いてその気にさせて盗ませて、それがバレて女がショックうけて自害して、その罪の重さにうちのめされてもう浪士に戻れなくなる男がいましたよね。
 どうせやるならそこまでやりましょうよ、フィデリオも。
 以下、勝手に作った私家版「フィデリオ」です。

 牢獄に出入りするチャンスを得るため、マルツェリーネの愛情を利用しようとするフィデリオ。
 その甲斐あってようやく夫と再会。しかし、フィデリオがじつは女で、夫を助けるために自分を利用したのだということがわかった瞬間、マルツェリーネの愛は憎しみに変わる。
 夫婦愛のためなら他人の気持ちをふみにじってもいいの?!
 マルツェリーネの怒りは裏切りへと変化し、救出劇を阻む最大の障害となって立ちふさがる。
 そこでフィデリオはどう行動するか?
 たしかに夫を救出するためならなんでもしようとつき進んできた。でもその結果、「人を好きになる」というこの世で一番純粋で崇高な思いをふみにじった私は、なんと重い罪を犯してしまったのか。
 夫婦愛一筋でつき進んできたフィデリオに、そこでもうひとつべつのベクトルが加わります。1つの正義だけで進む話はおもしろくないですからね。
 初めて自分の罪に気づいて心から後悔し、マルツェリーネに謝罪するフィデリオ。
 「でもわかってほしい」と続けるフィデリオ。
 「あなたも人を真剣に愛したのなら、私の夫への気持ちも誰よりもわかるはず。どうか私たちを助けて」
 フィデリオの切々と訴える言葉に動揺し、揺れ動くマルツェリーネ。
 悩んだ末、フィデリオとフロレスタンを牢獄から逃がそうとするマルツェリーネ。
 しかし、追ってのピツァロがすぐそこに。
 ピツァロの拳銃がフロレスタンを狙い、フロレスタンをかばおうとするフィデリオをさらにかばったマルツェリーネが撃たれる。
 「マルツェリーネ!」
 思わずかけよるフィデリオ。
 「生きて……生きてよ、マルツェリーネ」
 「フィデリオ……大丈夫よ……痛くないわ。これでいいの。安らかだわ。そして雨は……花育て……る」

 「エポニーヌ!!」

 あれ?……すいません。途中から「レミゼ」になっちゃいました(笑)。
 とにかく、マルツェリーネが死ぬとこまでいかなくてもいいけど、裏切りはほしいところですね。

 もうひとつ、思ったのは、ロッコがピツァロの汚れ仕事を引き受けるところね。
 ロッコはいい人なんだと思うんですよ。
 それがなぜピツァロが不当な殺人を行うと知ってそれを幇助したのか。
 たとえば、ここでロッコがピツァロの出す特別報酬がほしくて手伝ったのだとしたらどうでしょう。
 1幕で、ロッコは娘とフィデリオの結婚について、「愛だけじゃダメ。結婚は生活なんだからお金も必要だよ」みたいなことを説くんですが、だとするとロッコは娘の嫁入り支度を整えてやるためにお金がほしいと思うかもしれない。
 そうなると、娘の幸せのためにひきうけた汚れ仕事が、じつは娘の愛するフィデリオの夫の墓を掘る仕事だった……という皮肉が出て、もっと悲劇性が増すのではないでしょうか。

 こういう細かい行動のひとつひとつに必然性をもたせることで、ドラマはどんどん緊張感を増していきます。
 なのに、この作品にはその「緊張感」がまったくありません。
 ただストーリーが並列しているだけ。
 なにもからんでないのです。
 いくら音楽がよくてもこれではちょっとね…。

 思うに、ベートーヴェンってドラマに対する酵素が不足していたんじゃないでしょうかね。
 オペラって音楽の才能だけじゃ書けないものだし、一般の交響曲や協奏曲を書くのとはまったく違う感性が要求されると思うのです。
 まあ、たとえはあんまりよくないかもしれないけど、小説と戯曲と両方得意な人があまりいないように、一般の音楽とオペラと両方得意な人って意外に少ないのかもしれないですね。
 たとえばヴェルディとかプッチーニとかはオペラの達人だけど一般の音楽ではそれほど実績を残していないし。シューベルトとかブラームスのオペラってのも聞いたことがない。
 ヴェルディは、オペラの台本を書く作家へのダメだしも相当厳しかったらしいので、きっとドラマ酵素の豊富な体質だったんでしょう。
 そうしてみると、両方いけたのってモーツァルトくらいか??
 楽聖といえども死角はあるのですね。

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ひばりの叔母と呼ばれる幸せ

 美空ひばり母娘のドラマ「美空ひばり誕生物語─おでことおでこがぶつかって─」(5/29●TBS系)を見ました。

 まず最初に。
 「これはないだろ!」と思ったのが上戸彩の扱い。
 いや、べつに私は上戸のファンではありませんが、もしファンなら「詐欺だ!」と暴動を起こすかもしれません。
 番宣では、美空ひばり役を上戸が演じるということで、まあ実質は母役の泉ピン子が主役なんだろうなと思いつつも、上戸も泉と並ぶ主役の扱いだと誰もが思うようなアピールをしていたんです。
 それなのに……。
 蓋を開ければほとんどが美空ひばりが売れるまでの子供時代の話がメインで、ひばり役は延々と子役。
 結局、上戸が登場したのは、2時間半のドラマのうち2時間をまわってから。
 しかも、やったことといえば「おとうさん、今までごめんね」「おかあさん、今までありがとう。これからもずっと私のそばにいてね」と笑顔でしみじみと言って親をジーンとさせる場面だけ。
 え…………これ……だけですか?

 いや、そんな「いろいろあったね」と述懐する場面だけに出るって、それ年寄りの大物俳優ならわかるけど、人気絶頂の若手女優の使い方じゃないでしょ。
 これは主演じゃなくて「友情出演」といったほうがいいのでは?
 それともこれは単発ドラマじゃなくて、秋頃から上戸編が連ドラ化されるという壮大な計画があるのか?
 謎です……。

 次に気になったのは、キャストが見事に石井ふく子ファミリーで固められていたこと。
 出るわ、出るわ、「渡鬼役者」が。
 ひばりの母親役は五月(泉ピン子)だし、家で働いている青年は本間先生(植草克秀)だし、近所の肉屋のせきさんはタキさん(野村昭子)だし、劇場支配人はシュウちゃん(岡本信人)だし、ひばりの兄貴分の川田義男は宗方さん(井上順)だし、ひばりが通う学校の校長先生は勇(角野卓造)だし、おまけにタマコおばさん(森光子)まで登場する始末。

 森光子といえば、森光子や淡島千景などの大物俳優には、意味もなく(あまり本筋には関係のない)見せ場や長ゼリフが用意されているというのも違和感ありました。
 そういうのって商業演劇ならよくあることだけど(いわゆる儲け役というやつ。ちょっとだけ出てきて印象を残すように作る。この「ちょっとだけ」というところがミソです)、TVではあんまり見ませんよね。
 それとも、これまた秋頃に明治座あたりで「美空ひばり誕生物語」を上演する計画でもあるんだろうか。
 謎です……。

 さて、肝心の内容ですが、一言でいってバランスが悪い感じ。
 あまりにも子供の頃の話に偏りすぎです。
 美空ひばりのドラマというと、わりと亡くなってすぐくらいに「岸本加世子=美空ひばり&樹木希林=お母さん」というフジカラーな組み合わせでオンエアされたことがありまして、それは美空ひばりが亡くなるところまでやっていたので、かなり濃かったです。
 べつに有名人のドラマだからといって必ずしも死ぬまでを描かなくてはいけないとは思わないし、美空ひばりが一人前の歌手として認められるところまでで切るのもひとつの考え方だし、お母さんとの関係をメインに描くなら、お母さんが亡くなるところまでをドラマにする方法もありでしょう。
 でもこのドラマ、2時間半もあるわりには、起伏が全然ないんですよ。

 もちろん事件(エピソード)はあります。
 ひばりを歌手にするために奔走するお母さんの姿とか、それに反対するお父さんの姿とか、周囲の人の励ましとか無理解とか、それを乗り越えていく2人…という基本路線ははっきりしている。
 だけど、一番重要な母娘の関係の描き方がすごく表面的なんですよ。
 「一卵性母娘」と呼ばれるほど仲がよかったと言われていますが、どんなに仲の良い母娘でも、いや仲の良い母娘であればなおさら、反発もあっただろうし、外部の介入でギクシャクすることもあったと思います。
 まあ、普通に考えて、娘が母からの自立をはかろうとするようなエピソードは当然ありますよね。考え方の対立も一度もないってわけはないだろうし(もしそうならドラマにはなりません)、傷つけるような言葉を言って後悔してしまったこともあるでしょう。
 そういう紆余曲折を経て、ひばりにとって母親が、また母親にとってひばりがどんな存在だったのかを確認するまでの話にしなければドラマとして盛り上がらないと思うんですよね。

 今回のドラマに出てくる母娘は、終始一貫べったりとくっついていて、ひばりはすごく素直だし、お母さんもひばりのことしか考えていない。要するに2人で完結しちゃってるんですよ。
 この2人の世界を壊すような外圧も、なくはないけど中途半端です(あっという間に解決しちゃうので)。
 「お母さんも頑張りました」「ひばりも頑張りました」というだけで2時間半見せられてもドラマとしてはどうなんでしょうか。
 ひばりが結婚したいと言い出すとか、そのへんからですよね。お母さんの思い通りにならなくなってくるのは。なのに、その前で話が終わっちゃってるから、「え。これからでしょ。ドラマが始まるのは」という不消化感が残ってしまうのだと思います。
 美空ひばりが大歌手になったのは、私生活が決して幸せではなかったことも関係していると思うので、そこを描かずしてこの歌手の物語は語れないのではないでしょうか。

 という物足りなさを残しつつも、ひとつだけ興味深い部分がありました。
 それは、ひばりの世話や売り込みにかまけて残りの3人の子供や家の事がおろそかになりがちだった母・喜美枝を助けた妹(=ひばりの叔母)・静子(京野ことみ)の存在です。
 静子は、若いうちから喜美枝の家に同居し、子供たちの世話に明け暮れているうちに婚期を逸してしまいます。
 今までひばり関連の話でこういう叔母さんがいたということは聞いたことがありませんが、この設定はあるいはフィクションかもしれません。
 たしかに、ひばりにつきっきりになる喜美枝に対して、正面から「他の子供たちのことも考えてあげてよ」と現実的な正論を言えるのは静子だけだし、歌手ひばりを誕生させるために影で犠牲になった家族として、マイナスの部分を背負っている静子は非常に重要な役回りです。
 しかし、静子はその役回りにしばしば不満を唱えながらも、ついに憎からず思っている人からのプロポーズすら断り、「この家に残りたい」と宣言するのです。
 その理由は、「私がいないとこの家は困るから」という建前的なものではなく、「私も美空ひばり誕生の物語に少しでもかかわりたいのかも……」というものでした。

 このセリフは、表面的な描写の多いこのドラマの中で唯一実感として心に残りました。
 というのも、江利チエミをモデルにした林真理子の小説「テネシーワルツ」にも同じような身内が登場するからです。
 それはチエミの異父姉で、最初は平凡な主婦として暮らしているのですが、あるきっかけで自分がチエミの姉だと知った彼女は、チエミと姉妹対面を果たします。
 それ以降、手伝いと称してチエミの家に入り浸るようになった彼女は、ついに夫や子供の家には帰らなくなってしまいます。
 チエミは大歌手だったので、姉といっても彼女の扱いは使用人同然で、彼女は幾度となくプライドを傷つけられ、「こんなところ、誰がいるものか」とチエミへの憎しみをたぎらせるのですが(でもチエミには悪気がなく、彼女は姉を信頼しきっている)、そう言いつつ、華やかな世界の一端に加われるという誘惑には勝てず、ついにチエミの嫁ぎ先にまで居座ります。
 静子のセリフをきいてこの姉を思い出しました。
 静子を「ひばりの犠牲者」とみるのは簡単ですが、本当はもっと複雑な思いでそばにい続けたんでしょうね。
 私としては、この静子をもっとフィーチャーしてほしかったのですが(そうすればドラマにさらに厚みが出たでしょう)、せっかくのおいしい役どころがあまり生かされることなく終わっていたのが残念でした。

 ちなみに、今回のドラマの一番のつっこみどころは、中村雅俊演じるひばりパパでした。
 ひばりとひばりママが地方巡業で留守のとき、ひばりの弟妹3人がいっぺんに肺炎にかかってしまうという事件が起こります。いっぺんにですよ。
 あわてて喜美枝に電話する静子。
 「お姉ちゃん。お願い。すぐに帰ってきて」
 電話を受けた喜美枝は、動揺しながらも「私がひばりのそばを離れるわけにはいかない」と悩みます。
 しかし、ひばりが「いつも私だけがお母さんを独占していて弟たちはかわいそう。私は一人で大丈夫だからすぐに帰ってあげて」とけなげに言ったもので、喜美枝も帰る決心を。
 そこへ現れたのはひばりパパ。「おまえの仕事はひばりについてやることだろう。家のことは心配しなくていいから。子供たちは俺がみる」と啖呵をきります。
 ずっとひばりを巡業に連れ出すことに反対していたはずのパパの温かい言葉に感動するひばり&ひばりママ。
 いいシーンです。

 ところがそのあと、枕を並べて肺炎の苦しさにあえいでいる子供3人の枕元に座り込んだひばりパパ、腕組みしたままなんと言ったと思います?

 「子供たちも大きくなったものだな」

 …………………はぁ?

 いや、そんなこと言ってる場合じゃないって!

 肺炎だよ、肺炎。
 頼むよー、とうちゃん。ここ、しみじみするシーンじゃないから!
 
 というわけで、最後に予言を。
 京野ことみは、近い将来、石井&橋田ファミリー入りするのではないでしょうか。
 舞台では、芸術座の「初蕾」でもすでにヒロインやってますしね。
 「渡鬼レギュラー入り」も近いでしょう。
 役どころは……そうですね。年格好から考えて、本間先生が勤める病院のナースで、長子があまりにも自由にさせすぎた本間先生と不倫疑惑が発覚。ていうのではどうでしょう。今回のドラマで植草にプロポーズされてたのはその伏線?
 いや、作風からいって不倫が成就することはなさそうだし、そうだとするとこの役柄ではあっという間に出番がなくなるかな……。
 皆さんのご希望は?


「テネシーワルツ」(本)
江利チエミをモデルにしたスター歌手と
その異父姉を巡る光と影の物語。
林真理子らしいビターな描写満載。

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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