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古伊万里★新伊万里

劇作家・唐沢伊万里の身辺雑記です

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蝶々さん三昧

 ホームページのほうにこのあいだ観たオペラ「蝶々夫人」について書いたレビューをアップしたのですが、そのあとそれを読んだ柿右衛門@弟から「蝶々夫人関連サイト」を紹介され、読んでたらますますハマッてきてしまいました。
 というわけで、ホームページに書けなかった補足を少々。

 「蝶々夫人」が実話をもとにしているという話は有名ですが、もともとはアメリカ人作家が、日本滞在経験がある姉からきいた話をもとに書いた小説を、同じくアメリカ人劇作家が舞台化。この公演が大当たりしてイギリスでも上演され、たまたまそこでそれを観たイタリア人のプッチーニがすっかり気に入って速攻オペラ化の交渉に入ったと言われています。
 つまり、実話→小説→演劇→オペラと進化をとげたわけで、これをたどっていって、どこでどういう改訂&脚色がなされたかを検証していくと、いろいろなことがわかってそりゃあおもしろいんです。

 オペラだけをとってみても、初演が大失敗(一説によると売れすぎたプッチーニに恨みや妬みを持つ者がさくらを雇って舞台を荒しまくったらしい)したことで、その後何回か改訂が重ねられており、現行版と初演版はかなり違う内容になっています。

 その違いについて語ろうと思うと一昼夜かかりそうなんですが、とりあえず一番わかりやすいところで言うと、初演はもっと日本人が醜悪に描かれ、ピンカートンの日本人蔑視もさらに強烈だったそうです。
 私が「蝶々夫人」について漠然と持っていたイメージは、「日本(=東洋人)のことをバカにしている西洋人が、自分たちの論理で勝手に書いた作品」というものだったのですが、どうやらそんな単純な話ではなかったみたいです。
 たしかに日本人はグロテスクに書かれているものの、それは単に日本人を貶めようとしているというよりも、そういう日本人を露骨にバカにして無礼なふるまいをするアメリカ人の野蛮ぶりのほうが書きたかったようなのです。
 つまり、ヨーロッパ人からみた「アメリカ人批判」って感じ?

 たしかにこのピンカートンという男は人間としてひどすぎるし、オペラ歌手の役割としてもいかがなものかという扱いです。
 改訂版でこそ、最後に「私はこの罪(蝶々さんを捨てたこと)に一生苦しむだろう」と苦悩するシーンやその苦悩を歌うアリアが書きたされましたが、初演版では領事に「これでなんとかしろ」とばかりに手切れ金を渡して「時間が解決するだろう」と人ごとのように言って歌もうたわず去っていったそうで、まさに人間失格野郎です。
 さすがに「こんな役やだ」とブーイングがきたのか、「人間最悪ならせめて歌の見せ場をよこせ」と迫られたのかはわかりませんが、しかしこのとってつけた改訂によってピンカートンのイメージがアップしたかというと、それもまた微妙です。

 というのも、口では反省らしき言葉を言っていても、「蝶々さんに顔を合わせる勇気がなくて逃げ出す」という結果的にとる行動は変わらないので、中途半端に言い訳されても「じゃあ会って謝れよ」「そもそも謝って済む問題か」「口先だけじゃないの?」「もっと早く気がつけよ」「おまえが言うな!」などさまざまなつっこみを生じさせるきっかけになっちゃうっていうか、かえって観てるほうはカチンとくると思うんですよね。
 むしろ徹底的に悪びれない人物にして「え。そうなの。ずっと待ってたの? まじで? いや、困るよ。そんなこと言われたって。だってそれルール違反でしょ。最初から日本にいるときだけのゲームだってはっきり言ってあるはずなんだから。コマドリが巣をつくるまでに帰ってくる? えー、俺、そんなこと言ったっけ? まあ言ったとしてもリップサービスだよ。本気にするほうが悪い。とにかく俺のせいじゃないよ。ちゃんと彼女に事情を説明しなかった女衒のゴローが悪い。迷惑なんだよ。今さら子供とか出されても。いや。わかったよ。ひきとるよ。子供はひきとる。育てりゃいいんだろ。うちのやつに育てさせるから。だからもうこの件はこれで勘弁してよ」……って感じで開き直ってくれたほうがまだ人物像として理解できるし、ここまでくるとつっこむ気も失せるのではないでしょうか。たしかにこれはこれで筋は通ってるし。
 もっとも、ピンカートンのキャラはもともとそんなクレバーではなく、つっこみどころ満載の田舎くさい軽薄な男だからこの話が成り立ってるとも言えますが。
 ピンカートンがクールな遊び人だったら、蝶々さんの悲劇のニュアンスもぐっと変わっていたかもしれないですね。

 とにかく、全体的に初演版のほうがよくも悪くも強烈で、異文化の対立や摩擦がくっきり出ていたみたいですね。
 それが改訂を重ねているうちに皆ちょっとずつものわかりのいい人になっていき、対立も薄くなっていったということみたいです。
 そう言われると初演版も観てみたくなっちゃいますよね。
 どんなんだろう。初演版。内館ドラマみたいなのかなー。

 船の入港を知らせる大砲の音を聞いて歓喜し、庭じゅうの花を刈り取って部屋にまき散らす蝶々さん。
 しかし、一晩たっても夫は訪ねてこない。
 花の残骸がその残酷な事実をまざまざと彼女に見せつける。
 花を見ているうちに蝶々さんの中で何かがキレる。
 やにわに花をわしづかみにした蝶々さん、鬼気せまる形相でむしゃむしゃと花にかぶりつき、

 「うふふ。見たくないから食べちゃう…」

 はい。すいません。「汚れた舌」を見ていた人にしかわからない内輪ネタでした。
 最近は、初演版の復活公演も時々あるらしいので、機会があったらぜひそちらも鑑賞しして「内館ワールドヴァージョン」を楽しみたいと思っております。

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整理整頓の極意

 私が苦手とする多くの事柄のなかで間違いなくベスト(ワースト?)3に入るだろうものに「掃除」があります。「掃除」っていうか、「整理整頓」ね。まあ、整頓されてない部屋は掃除もできないので同じことだけど。
 世の中には掃除ができないことや料理ができないことを「それがなにか?」って感じで開き直る人がいますが、私は男女を問わず家事能力の低い人に対し、不当なほど厳しい評価をくだす人間なので、自分が掃除できないことも許せない汚点なんです。そう思っているとは思われてないようですが。

 で、これでも今まで何度も克服しようと努力してきたんですが、掃除ってちゃんとやってないとペナルティーが蓄積されていく一方なので、常にマイナスからのスタートになる。ゼロから勝負しても自信がないのに、マイナスからとなったらもうお手上げ。のっけから戦意喪失です。
 でもここで開き直ったらおしまいです。私はオトナなので、「気合いでやる」とか根拠のない手段でつっぱしるのではなく、頭脳を使って考えてみました。
 もちろん、整理整頓掃除は体を使ってやるものですが、考えなしにただ闇雲に動いても体力はすぐに尽き、そのわりには見た目も変わらず、達成感も味わえないまま、敗北感だけをかみしめる結果になります。
 無尽蔵に気力・体力・清掃意欲があるわけではないので、あらかじめ「自分はなぜいつも掃除に失敗するのか」という敗因を冷静に分析したうえで、目標をさだめて効率的に動かなくてはなりません。
 やー、ここまで読むと私ってすごい掃除できそうですよね。理論だけなら。

 整理整頓が苦手な人が必ずといっていいほどできないことは、「1)ものを捨てる」「2)使ったものをすぐに元の位置に戻す」「3)ものを重ねて置かない」の3つです。
 掃除得意な人に言わせると「これだけのことをやっていれば自然にきれいになるはず」とのことですが、これだけのことが掃除嫌いの人間にとってはどんなにつらいことか…。
 2)と3)については、すでに散らかっていて、スペースがないことによって起こる現象なので、根本原因は1)に尽きるでしょう。
 ものを捨てられるかどうかは、その人の性格に起因しているので、これを変えるのは容易ではありません。それができれば苦労はしないってやつです。

 でもここであきらめては話が先に進まないので、私、考えてみました。
 「なぜ捨てるかどうかの判別作業にこんなに時間がかかるのか」
 で、わかったんです。

 自分が書いた文章を残してはいけない。 

 ということを。
 判別作業で最も時間をくうのは、「昔自分が書いた文章を発見したとき」です。
 当然、そこでまず読みふけってしまいます。
 「へえー。こんなこと思ってたんだ。私って」などと思いながら、「これを捨てるべきかとっておくべきか」を反芻します。
 まあ反芻した時点で負けというか、そのときの答えはあらかた決まっています。
 「ま、とりあえずとっておこう」
 こうして一度発掘した化石はまた元の位置に埋められ、次の発掘までそこに眠ることになります。

 もうおわかりですね。
 これは掃除のときにしか人目にふれることはない過去の遺物なのです。
 元通り埋められた化石は、次に掘り出されたとき、再び「ん? これ、なんだろう」と読み返されることになります。
 で、「へえー。こんなこと思ってたんだ。私って」などと思いながら以下同文…。
 早送りにしてみると、じつにバカバカしい図です。
 自分で書いたものを掘っては埋め、掘っては埋め、掘り出すたびに同じリアクションして、それに費やされる時間が掃除の中の大半を占めているわけですから。
 「なんだろう、これ」って忘れてるくらいのものなら捨てろよ>自分
 というつっこみは何百万回してるんですが、無駄でした。
 「そこに山があるから登る」と言った登山家がいましたが、「そこに文があるから読む」というのは自然の摂理。
 つまり、最初から自分の書いたものを残さなければいいんです。
 登山家も山がなければ登るまい。

 自分が書いたものでないもの、たとえば領収書のたぐいとか、写真とか、そういうものだったら少なくとも読みふけるという時間は生じないため、整理整頓にかかる時間とエネルギーはぐっと短縮できます。
 とはいうものの、私は日々文章を書くのが商売。
 自分の書いたものを全部捨てるわけにはいきません(それができたらどんなにすっきりすることか…)。
 でも、ものを整理するときに、「自分の書いた文章」を優先的に廃棄物の対象にするようにすれば、少しは事態の効率化を図れるかもしれません。
 ひとつ文章を捨てれば、それにまつわる次の発掘時の「ん? これ、なんだろう。へえー。こんなこと思ってたんだ。私って」、次の次の発掘時の「ん? これ、なんだろう。へえー。(以下同文)」、といった未来の長きにわたる無意味なリフレインを避けることができます。

 前置きが長くなりましたが、梅雨どきというのは風水上でも「陰」の気がたまりやすいときで、特に部屋をきれいにしなければいけない時期なのだそうです。
 そのため、この数年、私は梅雨どきに一番気合いを入れて整理整頓をするようにしているのですが、今年は上記のことを念頭におきつつ、整理整頓を始めてみました。
 ところが……なんか今年は違うんですね。
 捨てるのがそんなに苦じゃないの。
 ていうか、昔の自分の文章読んだら恥ずかしくて片端から捨てたくなった。
 なんでこんなものとっておいたんだろう……。

 中でもショックだったのは、小学校3年のときに書かれた作文です。
 タイトルは「私のお父さん」。まあ、小学生の作文テーマとしては王道ですね。
 私の父は音楽関係の教職関係が仕事です。
 なので、日曜には家で生徒さんのレッスンがあり、一番忙しい。
 他のうちの子供のように、日曜にはお父さんにどこかに遊びに連れていってもらったというような記憶はほとんどありません。
 作文ではまずそのことが書かれています。
 しかし問題はその次。
 私はそのような状況をさびしいなーと思いつつも、「でもね、パパのことも考えてあげなきゃ。パパもいろいろ大変だと思うの。だから私は平気!」みたいなことを語っているんですよ。

 なんていやなガキなんだ! おめえはよぉおお

 正直、これは絶対本心ではないと思います。本人が言うんだから間違いない。
 というのも、子供時代の私は、本好きの頭でっかちの少女で、本さえ与えておけば一昼夜放っておかれても平気なくらいまわりに無関心でいられたからです。
 よそのうちの子は遊びに連れていってもらってうらやましいな、なんて、そりゃあちょっとくらいは思ったかもしれないけど、そこまで真剣にうらやましいとは思わなかったし、ましてや父親の仕事の苦労を思いやったことなどあるはずもない。
 この作文はあきらかにフィクションです。
 自分を悲劇のヒロインにしたてあげ、なおかつ「こう書けば先生にうける」と思って色をつけたフシが見え見えです。

 私が思うに、このときの私の心境は「アタックNO.1」。
 「♪苦しくったって〜、悲しくったって〜」
 と、苦境に耐えるかわいそうな子供を演出してみせて、相手がそのけなげさに同情したところで、
 「だけど、涙がでちゃう。女の子だもん」
 と、ちょっぴり本音の弱音を吐いてみせる。
 子供時代の私の作文は、どれもそういう「やらせ」の匂いがします。
 といっても、すごく冷めていて、「ふん。大人なんてこういうふうに書いておけば喜ぶんでしょ」と計算しながら書いたというのとも違う。
 自分の作ったストーリーの中に入り込み、その中の論理でのみ書いているから、書いているときは本当にそう思ってると思ってるんですよ。
 そこがキモい。

 もちろん、この作文は速攻捨てました。あと絵日記も。
 ここまで古くなくても、中学時代、高校時代の作文も読んでていやな気分になりました。
 どれもこれも「おまえ、何様だよ!」と言いたくなるような内容で。
 まあ、今でもそんなに謙虚な文章書いてるとは思わないけど、今はリアルタイムだからいい。

 昔のあんたに説教されたくないんだよ!

 こうして自分の精神史(?)が目の前に繰り広げられると、「こんなものがこの世にある限り、私は死ぬに死ねない」とか思ってしまいます。
 作文の原本を卒業時に返却してくれた学校に心から感謝したいです。
 繰り返しますが、なぜ、今までこれを目にしても捨てる気分にならなかったのかが不思議。
 と思うと、昨日までの自分も敵のような気がしてきます。

 そんなわけで、今回の整理整頓は、けっこう私にしてははかどったほうだと思うのですが、捨てたものの量より、収納のために注文した文房具の量のほうが多いような気が……という問題については……明日考えましょう!

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「赤い疑惑」リメイクを見て

 百恵&友和主演ドラマの金字塔と言われる大映ドラマ「赤い疑惑」(以下、「赤い運命」「赤い絆」「赤い衝撃」など数々の“赤シリーズ”と呼ばれるドラマが生まれました。ちなみに「赤」とは「血のつながり」を意味し、親兄弟が錯綜する展開がひとつの定番でした)が30年ぶりにリメイクされたのを見ました。
 本来は連ドラでしたが、今回は2時間×3週で放送されました。
 山口百恵演じる大島幸子は石原さとみ。
 三浦友和演じる相良光夫は藤原竜也。
 宇津井健演じる幸子のお父さん(じつは伯父)は陣内孝則。
 八千草薫(後半からは渡辺美佐子)演じるお母さん(じつは他人)は田中好子。
 松村達雄演じるおじいちゃんは北村総一郎。
 岸恵子演じるパリの叔母さま(じつは生みの母)は高橋惠子。
 長門裕之演じる相良教授(じつは父親)は内藤剛志。

 たしかに石原さとみ、山口百恵に似てますね。
 特にポスターの写真はメイクや表情も似せて撮っているためか、びっくりするほど似ている。
 もともと古くさい(昭和チックな)顔だちなので、そういう意味でははまっているかも(上戸彩も百恵に似ているとよく言われるそうですが、こっちはもう少し年とってあか抜けた頃の顔に似てるかな。共通点はボッテリした厚い唇!)。

 ただ………どうなんでしょう、演技のほうは。
 山口百恵は本職歌手だから、べつにものすごい演技力とかいらないと思うんですよ。存在自体がすでにスーパースターだったし。
 でも石原さとみは一応女優なわけだし……うーん、けっこう見ていてつらいものがあったんですけど。あのかすれ声も、ハスキーというよりは変声期?って感じだし。
 それよりなにより愕然としたのは「歌」です。
 しつこいようだけど、山口百恵は歌手なのでいいんですよ。サービスショットとしてギターに合わせて歌うシーンがあるのは。
 でも石原さとみは…………正直、凍りました。
 「義経」の静御前が舞っているところでも「こ…この音程は……」とギョッとしましたが、こちらはまあ歌といっても邦楽ですし、一般人が歌うような曲じゃないのでまだ「もともとこういう歌なのかな」と納得できなくもありませんでした(←無理のある解釈)。
 だけど今回はねー、こちとら百恵が同じ歌うたってんのを聞いてんだよ。
 それなのに……それなのに……。
 ♪わす〜れな〜ぐさを〜、あなたに〜、あなたに〜
 って、

 お願い〜〜〜、やめてぇ〜〜〜!!!

 音程が気になって全然悲しい気分になんてなれねーよ。
 ていうか、変なところでブレス入れないでくれ。気持ち悪いから。
 べつにすごくうまく歌えなくてもいいんですよ。歌手じゃないから(←しつこい)。 
 でもこれはちょっと……痛い。痛すぎる。
 正直、白血病という設定よりも歌のほうが痛々しかったです、私は。
 本人もつらかったと思いますよ。私が石原さとみの家族ならいたたまれずに音声消して見てたと思います。
 どうして歌を入れなきゃいけなかったんでしょう。幸子が歌う必然性ってドラマの中にほとんどないし。
 山口百恵だったから入れたんでしょ。それならカットしてあげればいいのに。

 歌にこだわりすぎたので先に進みます。
 オリジナル版の演技にクリソツだったのは、陣内孝則と北村総一郎。
 これはかなりもとの演技に洗脳されてるなー。
 言い回しとか、泣きの入れ方とかチョー似てるんだもん。
 でもまあ、当時の大映ドラマの雰囲気をまるごと伝えるという意味では、演技もオリジナルをコピーしたほうが間違いないし、そのミョーな演技がかえってドラマの世界観にハマッていたんじゃないでしょうか。
 むしろ「あえてオリジナル版は見なかった」という藤原竜也や、中途半端に普通の演技をしていた内藤剛志は浮いていましたね。
 というか、リアルに演技すればするほど脚本の納得できないところが目立って恥ずかしくなってくるんですわ。
 陣内、目ェむきすぎだよ!(笑)と思いつつも、あの劇伴(30年たっても憶えている自分がいやだった)に負けないためにはこのくらいの顔筋力と暑苦しさが必要だよなーと納得しました。

 ま、役者の話はこんなところで。
 話したかったのは内容のほうです。
 最初、リメイクと聞いててっきり現代に置き換えるのかと思ったら、昭和52年の設定のままなんですね。
 たしかに「今どき、白血病なんて不治の病じゃない」という事実をはじめとして、現代に置き換えると無理のある設定はいっぱい出てくるので、「いっそこのままの時代でいこう」ということになったのかもしれませんが、それって今もう一度リメイクする必要があるんでしょうか。
 この当時の大映ドラマの雰囲気を「なつかし〜」と言いながら楽しみたいのなら昔のドラマを再放送すればいいんじゃないの?
 その当時は「その時代に生きる人」としての視点でああいうドラマを作ったからドラマに新鮮さやパワーがあったのであって、現代のキャスト&スタッフが同じものをなぞって作ってもそこには「懐古趣味」しか生じないんじゃないでしょうか。

 たとえば、韓国ドラマが大映ドラマに似ているというのはよく指摘されることですよね。個人的には「記憶喪失」とか「じつは兄妹」とかいうアイテムの使い方が似ているだけで皆が言うほど似てるとは思わないんですけど(あんな感情的なナレーションないし)、まあ百歩譲って「冬ソナ」などの韓国ドラマが大映ドラマを研究して作られたものだとしても、あれは現代に通用するドラマとしてきちんと作り直されてるじゃないですか。彷彿とさせるテイストがあっても、最終的には現代のドラマになってるんですよね。だからあれほどヒットしたんだと思うのです。好き嫌いはともかくとして。
 現代でリメイクする意味ってそういうことじゃないの?
 題材がいくら古き良き時代を描いたものでも、どこかに現代に生きる人たちの心を揺さぶるような「今の視点」がないとわざわざ作り直す意味ってないと思うんですけど。

 皆さん、「大映ドラマは突っ込んでみるからあれでいいんだよ」とおっしゃいますが、過去のドラマを「このころの大映ドラマってこうなんだよねー」と突っ込みながら見るのと、今のドラマを「大映ってこうなんだよねー」と突っ込んで見るのとでは意味が全然違います。
 今のドラマは、今のドラマとして見ますよ。
 オリジナルの「赤シリーズ」を知らない人にとってはそんなこと関係ないもん。
 ……と考えて、冷静に今回のドラマを見てみると、やっぱり「これはないだろう」という部分がどう贔屓目にみても多すぎるとあらためて思いました。

 まず、「不治の病で余命わずか」「好きな人が異母兄妹」というのが「赤い疑惑」を貫く2大障害なわけですが、この障害の使い方があまりにも雑。
 普通、こういう衝撃の事実を知ったときに人間はこういうリアクションをするだろうという部分がどれもこれも類型すぎてリアリティがないんです。
 ひらたく言うと、障害の設定が大きいわりには、それによって起こるドラマが凡庸。
 ちょっと考えればもっともっと細かいドラマがたくさんひきおこされると思うんだけど、一番単純な反応しか描かれないんですよね。
 だから障害が大袈裟なわりには、それほど悲壮感が伝わってこないんだと思います。
 障害には秘密がつきもので、秘密をうまく使うことによってドラマのサスペンスは何倍にもふくらみます。
 でも、見てると皆、秘密簡単にもらしすぎ!
 「言いたいけど言えない」という気持ちをずっとひっぱって苦しむとか、「本心を心に秘めてわざと逆のことを言う」とか、「好きだから意地悪を言ってしまう」とか、人間なら誰でもそのくらいのひねりはあるだろうに、「本当のことを言えと言われるとすぐに本当のことを言ってしまう」し、「本心そのまましゃべる」し、「好きな人には好きだと叫ぶ」……っていちいちそのまますぎだよ。
 もちろん、ひっぱってる秘密もあるんですが、秘密ってのはばれる瞬間が最大のドラマであり、その瞬間のお互いの駆け引きをどう描くかが作者の腕の見せどころでしょう。
 「秘密を隠しきれなくなる」→「ばれる」→「衝撃をうけて感情のぶつかりあいがある」→「でもあるきっかけでそれを乗り越える」という流れは同じでも、そのきっかけやエピソードの作り方でドラマに感情移入できるかどうかが決まるわけです。
 なのに、それがあまりにも工夫なさすぎなんですよ。

 べつに複雑な仕掛けをしろとか、しゃれたエピソードを作れとか、そんなことを言ってるわけじゃないんです。
 例をあげたほうがわかりやすいかな。
 たとえば…。
 病名を隠されていた幸子が、自分の本当の病名に感づいてしまい、「皆、私に嘘ばかりつく」と荒れまくるシーンがあります。
 幸子の母は、「もうこれ以上はごまかせない。私が幸子に本当の病名を言います」と決意して幸子のところへ行くが、幸子の顔を見るとどうしても本当のことが言えず、やっぱり嘘の病名を言ってしまい、ますます幸子を傷つける。
 「やっぱり私は本当の母親じゃないから」と無意識に感じていたコンプレックスが噴き出し、激しく自己嫌悪に陥った母は、いきなりお遍路さんの恰好をして秩父の札所をまわりにいく。
 そこまではいいんです。問題はそのあと。
 母親が告知に失敗したため、今度は父親が幸子に病名を告げる。
 案の定、生きる希望をなくして泣きわめく幸子。
 どうしたらいいのかわからず途方に暮れる父。
 そこへ巡礼から帰ってくる母。
 ……が、なんとこのとき、母はこともあろうにお遍路さんの恰好そのままで帰ってくるのです。
 で、さらにその恰好のまま幸子の部屋へ。
 幸子は「お母さん……その恰好は……」と驚き、次の瞬間「私のためにこんなことまで……ごめんなさい、お母さん。私、生きるわ。病気になんて負けない」とあッという間に自己完結して立ち直ってしまう。

 どうなんでしょう。これ。
 そもそも、こういうこと(願掛けとか巡礼とか)って人に知られないようにやるものじゃないの?
 母親が自分のために巡礼に行ったことを知って幸子が感動して立ち直るという運びにするにしても、そのことは誰かべつの人の口から知られるようにすべきではないですか?
 たとえば、何も知らない幸子が、「私がこんなに苦しんでるときにお母さんは暢気に旅行になんて行って!」と非難するんだけど、母はじっと耐えて本当の行く先を言わない。
 でも、どこかから母が巡礼に行ったことがわかり(わかんないけど家の中からお札がみつかるとか)、そこで初めて母の思いの深さを知って「お母さん、ごめんなさい」と泣き崩れるとか…。
 そんなさー、これみよがしにお遍路ルックで「幸子、見なさい。私の姿を」みたいに登場されても困りますって。これじゃせっかくの美談も台無しです。

 これはほんの一例ですが、一事が万事そういう調子で、障害が多いようでいて、ストーリーの流れていく方向が一方向しかなくて、すべて答えが最初からひとつしかない感じなんですよね。思わぬ方向から邪魔が入るとかじゃなく、すべて想定範囲内。
 べつにものすごい悪役とか、ものすごい意地悪をする人とか出さなくても、その人を思うがゆえにその人の障害になるとかいうことだってあると思うんです。
 たとえば幸子と光夫がつきあうことにしても、家族全員が同じ意見っていうのはどうなんでしょう。家族全員幸子のことを思っているという点は同じなのに、「だからこうすべきだ」という「こうすべき」の部分が家族によって違うってことは当然あるんじゃないでしょうか。そういうものがまったくないまま全員が常に一致したまま6時間たってしまったのにはかなり違和感を感じました。

 それから、障害の大きさのわりに、そのレスポンス(波紋)が小さいというのは、最大の秘密「自分の親が本当の親じゃなかった」という部分でも感じました。
 陣内に対しては、「お父さんじゃないんだ」と訴える場面があり、数分後には「でもやっぱりお父さん」とか泣きながら抱きついて一件落着になってしまうんですが、この問題は当然「育ての母親」「生みの母親」「本当の父親」それぞれとの対決なしには語れないはず(母親2人に対しては特に)。
 なのに、母親との1対1の場面はいっさいなく、次の場面では「2人のお母さん、ありがとう」の一言でくくられておしまいになっている。2人の母にしたって幸子がいつ真実を知ったのか知りたいだろうし、真実を知ったときに自分から言いたい言葉もあっただろうに、出番なしかよ!とちょっとびっくりしました。
 母子の名乗りなんて、ここで泣かせなくていつ泣かせるんだよというくらい重要な見せ場だと思うんだけど、あっさり通過。幸子はいわば不倫の子供なわけで、そのことを知ったショックというのはないんでしょうか。本当の両親に対する思いというのは不自然なほど描かれていなかったのが意外でした。
 本来、陣内夫婦が自分の本当の親ではないと知ることと、本当の親が叔母と相良教授だと知ることは別の問題なので、これをいっぺんに知ってしまうのはネタバレとしてはもったいないような気がします(だからリアクションが描ききれなくなってしまうのでしょう)。
 まず前者の秘密がわかり、そのショックを乗り越えたところで今度は本当の親がわかるとか、母親が叔母だということはわかったけどその相手が誰なのかはなかなかわからないとか、もっと小出しにしたほうがその都度リアクションを書き込めていいんじゃないんでしょうかね。

 以下、その他でひっかかったことを少々。
その1)
陣内は放射線科医という設定だけど、幸子が手術するたびに手術室に入ってますよね。百歩譲って手術のチームには加わってないけど娘の手術なので見学に入ったのだとしても、外科医らしき人が全然見あたらないんですけど。他に出てくる医者って同じく放射線科医の相良教授と血液内科医の国広富之(役名忘れた)、それにぺえぺえの医大生の光夫しかいないんだよね。
いないといえば、あんなに長く入退院を繰り返しているのに、看護師が1回も姿を現さないのが不思議。なじみの看護師の1人くらいできてもよさそうだが。

その2)
最初に病名が出るとき「幸子は白血病……つまり血液のガンだ」と陣内が言うんですが、医者同士の会話でわざわざそんな言い換えするのかな。
もちろん、当時はまだなじみの薄い病名なんで視聴者がわかるように言い換えたんだとは思いますけど、この1回だけじゃなく、このあと「白血病」という名称がセリフに出るたびに必ずこの通訳をしてみせるのはさすがに滑稽だと思いました。
「幸子は白血病です」
「なに……白血病といったら……血液のガンじゃないか」
「そうです。白血病……血液のガンです」
「そんな……あの幸子が白血病……つまり血液のガンだというのか」
いや、いくらなんでもここまでくどくはないけど(笑)、でもこれに近い会話は随所にありました。
すべての人が「白血病、つまり血液のガン」と連呼しているので、最後は「もうこれだけ言い続けてるんだから皆いいかげんに学習しようよ」と辟易してきました。

その3)
幸子は高校3年生ですよね。3年になってからはほとんど入院生活で学校に行ってないにしても、友達が1回も登場しないというのは不自然じゃないでしょうか。
実際に親友を出すとかじゃなくても、千羽鶴が届くとか、お見舞いのカードが届くとか、なんかもう少し存在を匂わせてもいいんじゃないですかね。

その4)
パリのおばさまを沖縄のおばさまに変更したのはなぜ?
単に予算の関係?
私は「蘭をつくっているおばさま」という手の込んだ設定に変えたことで、その設定を生かした展開が新しく作られたのかと思ったんですが、普通に沖縄ロケがあった以外は特に関係なし。
幸子が亡くなったあと、悲しみを乗り越えて新しく開発した蘭の花に「サチコ」と名付けるとか、よくわかんないけど、その蘭の花でチャリティーをやって、収益金を白血病撲滅のための基金にするとか、そのくらいのオチはほしかったですね。

 細かい部分での疑問は挙げたらキリがないんでこのへんで。
 最後に。これはドラマのセオリーとは関係ないんだけど、倫理観や価値観みたいな部分で、現代人とかなりズレを感じる部分もありました。
 その当時は誰もが賛同する常識として言ってたんだろうけど、今見ると「その考えはおかしい」と言いたくなるような時代錯誤的な発言も目立ち……。
 新しく作り直すのなら、そういう部分にこそメスを入れるべきだったのでは?
 本当に感動できる部分はそういうところとはべつの部分にあると思いますが…。


「赤い疑惑<2005年版>」(DVD)
30年ぶりにリメイクされた「赤い疑惑」。
出演は石原さとみ、藤原竜也、高橋恵子、陣内孝則他。



「赤い疑惑<1975年版>」(DVD)
元祖の「赤い疑惑」。
出演は山口百恵、三浦友和、岸恵子、宇津井健他。



「赤い疑惑」(本)
ノベライズ版。

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プロフィール

HN:
伊万里
性別:
女性
職業:
劇作家・ライター
趣味:
旅行 骨董 庭仕事

著作



「RE>PLAY〜一度は観たい不滅の定番」

Webサイトで連載していた演劇評をまとめて出版したものです。
「演劇って、興味なくはないけど何を選んだらいいのかわからなくて」………ビギナーが感じがちなそんな敷居の高さを取り払うために書きました。
数多い名作の中から「再演されたことのある作品」に絞り、 唐沢がお勧めの25本について熱く語りたおします。ビギナーからオタクまで、全種適用OK!

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